(TOP)     (戻る)

大顔合わせの「合腹」

平成27年6月歌舞伎座:「新薄雪物語・園部館」

九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(幸崎伊賀守)、 十五代目片岡仁左衛門(園部兵衛)、二代目中村魁春(梅の方)


1)「三人笑い」のこと

その昔から「新薄雪物語」は役者が揃わないと出せないとか・タイトルの「薄」が客足が鈍いに通じて興行が嫌うとか云われて上演頻度はそう多くなかったものですが、この数十年くらいは上演が増えたと言えないまでも・コンスタントに適当な間隔で取り上げられており、これは結構なことだと思います。「新薄雪」は義太夫狂言の通し狂言として見どころが多くて面白く・芸の伝承のためにも大事な作品です。特にここ数十年でも立役陣がこれほど充実したことはなかったと思える平成のこの時期に「新薄雪」を出す意味は大きいと思います。果たして期待通りに充実した舞台に仕上がりました。特に今回の「園部館」(「合腹」あるいは「三人笑い」と通称される)は幸四郎(幸崎伊賀守)・仁左衛門(園部兵衛)・魁春(梅の方)と大顔合わせで、まさに平成歌舞伎の特筆すべきシーンを示したと思います。

まず今回の成果として幸四郎の幸崎伊賀守の好演を挙げておきます。「合腹」の場は、普通の身替り物では子供が犠牲になるものですが・ここでは親が犠牲になるという特異なもので、しかもふたりの父親が片方が謎かけして・片方がこれを解き・双方が陰腹を切って笑い合うという・これまた皮肉な設定です。伊賀守・兵衛共にあざといほど技巧的な役で、これを魅せるには腕が要ります。こうした役は感情のリアルさを追求するだけでは駄目で、細部の感情表現を作為的に彫り上げていかないと、観客の共感は得られません。まさに技巧的であるがゆえのリアルさが必要なのです。

幸四郎は時代物のアンビバレントな・引き裂かれた感情表現において元々秀でた役者ではありますが、特にこの二・三年はその演技が滑らかさを増して・自然な写実の表現から引き裂かれた時代の表現への移行が実にスムーズに自在になりました。表現の振幅がとても大きい。たとえば園部館に現われた左衛門に気付いた梅の方を「奥方、お待ちなされ、左衛門は某が手にかけ、首はこの首桶に。なんの左衛門が来るものぞ」と制するところから、「狼狽幽霊早や消えろ、なくなれ帰れ」と左衛門に向けて絶叫する箇所まで、台詞の緩急・息遣いのなかに伊賀守の事を貫徹しようとする必死さ・子を思う親の心情が交錯して、まさに血を吐くような「凄まじい」という評言がぴったりの演技です。この幸四郎の伊賀守はここ二・三年の幸四郎の舞台のなかでも特筆すべき出来であると思います。

ところでクライマックスの「三人笑い」のことですが、この場面について「ふたりの父親が子供の心配やら・世間の柵やら、そのような現世の苦悩から解放されて自由になった人間の喜びを思って笑う」という読み方があるようです。この解釈は「二人を取替へ預つたその夜より、今日までの心苦しさ。笑ひといふものとんと忘れた。伊賀殿もさぞあらん。ア心がかりの子供は落す、かやうに覚悟極めたる今の心安さ」という兵衛の台詞から来ているのでしょう。そういう解釈もあるかと思いますが、吉之助が幸四郎の伊賀守・仁左衛門の兵衛の笑いから感じ取るものは、それとまったく正反対のものです。

まず忘れてはならないことは、ふたりの父親(伊賀守・兵衛)はこの「三人笑い」の場面で笑いながらそこで死ぬわけではないということです。この後、彼らは六波羅殿へ出仕し・子供たちをうっかり取り逃がしたことを報告し(実は親たちが逃がしたのですが)・六波羅殿の裁断を仰がねばな りません。親たちが最後に仕掛ける大勝負がまだ残っています。だから兵衛は「かように覚悟極めたる・・」と言うのです。人間性を解放されて心地良くて笑っているわけではないのです。「覚悟極めたる今の心安さ」と兵衛が言うのは、兵衛がこれからの大勝負に向けて・陰腹を切っている彼らがともすればその場にへたりこみそうになるほどの苦痛のなかで・自らを鼓舞するために笑うということに他ならないと吉之助は思いますね。(この稿つづく)

(H27・6・30)


2)陰腹という行為

幸崎伊賀守・園部兵衛は詮議のため互いの家にお預けとなった子供(左衛門と薄雪姫)を逃す決断をするわけですが、これはもちろん子の可愛さ故ということもありますが、決してそれだけではありません。子の可愛さ故だと決め込むと、ドラマの本質を読み間違えてしまいます。大事なことは、彼らが子供たちの無実を信じているということです。そうでなければ、伊賀守も兵衛も子供のために腹を切るなどということを決してしなかったでしょう。子供たちに言われのない謀反の罪を着せられたことに対し伊賀守も兵衛も心の底から怒っています。彼らはそれが秋月大膳の仕組んだ罠であることを見抜いています。大膳の権力は圧倒的であり、現状の彼らにはこれに対抗する術がない。しかし、彼らはそのことを決して承服しないし、断固戦う決意なのです。

伊賀守・兵衛はお預けとなったお互いの子供を逃しますが、「園部館」の場において彼らは陰腹を切った後、「うっかりミスで子供が逃げてしまいました・この責任はすべて当主である自分にあります・その申し訳に自分は腹を切ります」と六波羅殿に虚偽の報告に行こうとしています。この行為はどういうことを意味しているでしょうか。まず伊賀守・兵衛が意図的にお互いの子供をどこかへ逃したということは誰も目にも明らかであって、これはお上の指図に背いた不届き千万の行為です。だからお上としては「 不届き者・厳罰に処してくれるぞ」と怒りたいところですが、目の前の伊賀守も兵衛も既に腹を切っていて顔面蒼白・まさに死にかかっている。それで お上はウッと言葉に詰まってしまって何も言えなくなるのです。死にかかっている二人はお上に対してひたすらに恐れ入り・切腹して恭順を示しているように見せていますが、その態度は反抗の意志が歴然としています。顔に書いてあることは「自分たちの子供に謀反を疑いを着せたお上の判断を我々は絶対に受け入れないぞ・俺たちが死んでもこの決着は子供たちがきっと付けてくれるぞ。文句があるか」なのです。これは家の名誉を掛けた戦いです。

六波羅殿に赴く時に伊賀守・兵衛が陰腹を切らず・これをお上の判断に任せれば、お上は「不届き者」と怒っても・即切腹という処置まではしなかったかも知れません。二人は死ななくて済んだ可能性があります。しかし、それでは彼らが「 我が子が謀反したというお上の判断を我々は断固受け入れない」という態度を満天下に示す機会が失われることになります。幸崎・園部両家の潔白を主張し、彼らの戦う意志を表明するために、有無を言わさず腹を切って見せて「文句があるか」と態度で見せねばなりません。これは陰腹という形の戦闘的行為なのです。

後の「正宗内(鍛冶場)」を見れば、親たちの犠牲行為が実を結んだことが分かります。左衛門は大膳の陰謀の逃れぬ証拠をついに掴みます。そして左衛門は六波羅へ訴え出て・親の敵を討つことになります。左衛門は見事に親の仇を討ったのです。(この稿つづく)

(H27・7・4)


3)意地の行為

文楽では「園部館」の三人笑いを語る時、大夫は腹帯のなかに栗のイガを懐中している気持ちで語れと云われます。腹陰とは腹に刀を突き立てた後・横に大きく引き切るまではせずそこで止めて・傷口をさらしできつく巻いて出血を止め・意図的に死ぬ時期を遅らせることを云います。「園部館」でのように大声で笑おうとすれば腹に力が入りますから、傷口が開いて出血して激痛がします。腹の筋肉を緩めれば、傷付いた内臓が動きますからこれも良くない。だから腹の筋肉が揺れるほど大声で笑う行為は陰腹を切っている人間には至難なことです。というよりも命が危険です。それでもなお伊賀守・兵衛の二人が大笑いしようとする気持ちはどういうものでしょうか。

この後に二人は六波羅殿に赴き・自分たちの子供に謀反の罪を着せたお上の判断に対して断固承服しない意思を態度で示させねばなりません。この為彼らは陰腹を切るわけですが、彼らは六波羅殿で死ぬタイミングを慎重に計っています。「うっかりミスで子供が逃げてしまいました」と報告すれば、当然大膳たちは大声をあげて怒り出すに違いない。大膳たちが怒り出したところで、バッともろ肌を脱いで腹を切ったところを見せる。「文句があるか」ということです。「謀反の疑いのある子供を逃がしたということは幸崎・園部両家に謀反の意志があること明白」と詰め寄りたいところだが、両家の当主がその失態の責任を取って既に死ぬ寸前である。これで大膳たちは唖然として何も言えなくなるのです。逆に言いますと、この大勝負まで彼らは死ぬわけにいかぬのです。伊賀守・兵衛は出血と痛みで気が遠くなるし・動けなくなってしまいそうになるのを、気力を振り絞って耐えねばならないということです。

陰腹を切った伊賀守・兵衛に襲い掛かってくる痛み・死の影というものは、一体どういう意味を持つものでしょうか。それは幸崎・園部両家の平穏な生活を奪おうとするものです。彼らは家族・一族(家来たちも含む)の平穏な生活を守るために日々を真面目にお勤めしているわけで、何ら言い掛かりを付けられるような負い目はない。正しい暮らしをしている者たちは平穏な生活を送る権利がある。その権利を理不尽に奪おうとするものに対して、当主たる伊賀守・兵衛は憤っているのです。

具体的に言えば「新薄雪」においては幸崎・園部両家の平穏な生活を奪うものとは天下を我が物と企む大膳一派の陰謀であることは明らかですが、現代において「新薄雪」のドラマを読むならば、これをもっと広義に捉えるべきです。真面目に暮らす彼らの平穏な生活を奪おうとするあらゆる理不尽な要素に対して、彼らは怒り・これに対し 徹底的に抵抗する意思を示しているのです。「手習鑑」であっても「忠臣蔵」であっても、結局これが主人公たちの行動の原動力となっているものです。襲い掛かってくる痛み・死の影は、伊賀守・兵衛にとって、彼らを嘲笑い・破滅の淵に追い込もうとするものです。しかし、彼らは六波羅殿での大勝負まで死ぬことも・気を失うことも許されません。彼らはそのような崖っぷちに自らを追い込むことで、「コン畜生。負けるものか」という気力だけで立ち・これ に断固抵抗する意思を示しているのです。

ですから「園部館」の三人笑いの件で伊賀守・兵衛が陰腹を切って笑って見せるのは、彼らが人生の苦悩・すべての柵(しがらみ)から解放されて真の自由人になって心の底から笑うなんてこと ではないと吉之助は思うのです。そのような解釈が間違いとも思いませんが、これでは柔(やわ)いと思います。吉之助の解釈はまったく逆で、この段において彼らは人生の苦悩・すべての柵を背負って がんじがらめで・ともすれば気が遠くなりそうな痛みのなかで・自分を鼓舞しようとして笑うのです。「コン畜生。負けるものか」ということです。兵衛が「かやうに覚悟極めたる今の心安さ」と言うのは、このことです。これは石川五右衛門が釜茹での煮えたぎる熱湯のなかで「いい湯加減だぜ」と言って笑ってみせるのとまったく同じです。そこに彼らの意地が現れているのです。(この稿つづく)

(H27・7・11)


)梅の方の笑いについて

それにしても「園部館」の三人笑いの場面を見ていると、男というものはつくづく社会的動物であるなあと感じますねえ。いや女が社会的でないと言っているのではありません。しかし、男と云うのは職務とか世間体とか、見栄である場合もありますが、意識行動が「あるべき姿」に縛られていることが少なくありません。それは窮屈なこともあるのだけれど、それがあるから男はシャンとすると云うところもあります。それが彼らを男らしくさせるのです。伊賀守・兵衛が陰腹を切って笑って見せるところに、武士であり・家長であり・父である彼らの沽券が関わっています。もちろん彼らだって死にたいはずはない。それは悲しいことでもあるのだけれど、まさに彼らの「あるべき姿」が実現されること・つまり最高に生きるということなのだから目出度いとも言えるわけです。だから彼らは梅の方に笑って送ってくれと言うのです。

梅の方は女であるから、男ほどには社会的な要素に縛られていません。男がこだわる職務とか世間体とか、そういう社会的要素の虚の部分(詰らない部分)を女は比較的客観的に・冷静に見ることができます。梅の方としては「何て情けない・もっと別の対処の仕方があるのじゃないのか・・」と泣きたくもなるのです。しかし、そういう詰らないものにこだわることが男を男にするということも、梅の方はちゃんと分かっているのです。三人笑いはそのような場面です。ここで梅の方が笑ってくれなければ、夫である兵衛も・伊賀守も心安く死ぬことはできないでしょう。「園部館」の幕切れで彼らを最後に男にするのは梅の方です。 正確に言うならば、舞台を見る観客の感動を正しく倫理的なものにしてくれるのが梅の方です。

確かに兵衛は「二人を取替へ預つたその夜より、今日までの心苦しさ。笑ひといふものとんと忘れた。伊賀殿もさぞあらん。ア心がかりの子供は落す、かやうに覚悟極めたる今の心安さ」と言っています。しかし、これは字面通りに読むわけにはいきません。吉之助が三人笑いの場面に見るのは、世間の柵やら親の苦悩やら・そういう煩悩から解放された人間解放の喜びではありません。吉之助が感じることは、どこまで行っても親は親、まさに死なんとするこの最後の場においても親は親、それは哀しく切ないことであるけれども、有難く美しいことであるなあということですね。「新薄雪」のドラマにおいては、この親たちの気持ちが大膳一味の天下奪取の陰謀を打ち砕くことになるのです。

今回(平成27年6月歌舞伎座)の幸四郎(伊賀守)・仁左衛門(兵衛)・魁春(梅の方)の三人笑いは、この技巧的な論理によって裏打ちされた登場人物たちの心情を技巧によってリアルに実感させて見事なものでした。この舞台を平成歌舞伎の到達点であるとして過言ではありません。

(H27・7・25)



 

  (TOP)     (戻る)