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舞台の芸は消えていく・されども・・・・

〜過去の映像を見ることの意義


1)時代を越えた鑑賞の意味

舞台の芸は一期一会のものです。その芸は見た瞬間には消えてしまいます。しかし、その形の良さ・間合いの素晴らしさ・あるいはニュアンスの絶妙さは観客のこころのなかにしっかりと残像として残ります。そして、ある時にフッと蘇ってくるものです。ああ、あの時はこうだったなあ、と。本来、舞台や音楽のような芸能は芸能者(芸術家)と観客との交感のなかで高まっていくものであ り、その場限りで消えていくべき性質のものです。

しかし、科学技術の進歩によってレコード・あるいはビデオなどにより、そうした芸術の記録・再生が可能になりました。このことは舞台芸術の在り方を大きく変えてしまいました。

クラシック音楽においては既にレコード(CD)という存在が音楽を楽しむという行為のなかで非常に大きい意味を占めています。もちろん今でも生の演奏会の意味がなくなってしまったわけではありません。こういう時代であるからこそ、生の演奏会の重要性はますます増しているということ が言えます。

すでにクラシック音楽では過去100年近くの厖大な音源の蓄積により、さまざまな過去の名演奏家と現代の演奏家の演奏・解釈を比較して、同列において楽しむことが可能ですし、そういう楽しみ方が 当然になっています。レコード(CD)・ビデオなしの音楽生活などもはやあり得ません。

例えば、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。伝説の名指揮者二キシュの機械吹き込みによる演奏はちょっと音質が悪いので別格にしても、吉之助はフルトヴェングラーあるいはトスカニーニの古いSP録音を大事にしていますし、 吉之助が実際に聞いた演奏家たち・カラヤン・べーム・バーンスタインといった既に亡くなってしまった指揮者のLP録音は宝物です。そして、現在活躍している演奏家たち・アバド・ガーディナー・あるいはラトルといった指揮者のデジタル録音もまた楽しみです。それぞれの演奏にそれぞれの個性による味があり、またその時代特有の香りがするものです。

もちろんその演奏・解釈の好き嫌い、あるいは優劣ということも、聴き手個人の好みや考え方によってそれは当然あり得ますし、名演奏家の演奏を並べてランク付けをしてみるのも個人の贅沢な楽しみとしてはあり得ま す。(それでどうということはありませんがね。)

レコード鑑賞というのは決して良いことだけではありません。まず、その人の音楽の聴き方がどうでもいい些細なことにこだわるような・微視的な聴き方にさせるということがあります。あら捜しみたいな聴き方になってしまうこと もあります。「この演奏はこうあるべき・この演奏が最高だ」というイメージにこりかたまって、それ以外の解釈の可能性を受け付けなくなってしまう人も実に多く見かけます。こういう人は自分が最高と思い込んでいるものをなぞっているだけに過ぎません。一番困るのは、あとでいくらでも聴き直しが出来るという気持ちがどこかにあるのか・その場ですべてを味わい尽くそうという真剣な気分になかなかなれなくなったということでしょうか。その昔は一枚のレコードをそれこそ擦り切れるほどに聴き込んだものでしたが。

しかし、過去の名演奏の音源を意識して聴くことは、やはり素晴らしい体験です。そこから「時代を超えた」普遍的な何ものかが聞こえてくるからかも知れません。


2)新しい歌舞伎鑑賞の可能性

歌舞伎においては、まだまだビデオの活用はあくまでも資料・参考であり、鑑賞の主流にはなっていません。歌舞伎のような舞台芸術で「生(なま)信仰」が強いのは当然ですし、これからも劇場での鑑賞が主体であるべきです。恐らく歌舞伎ビデオの商業化などは採算的にも難しいでしょうから、これからも歌舞伎でビデオ鑑賞が主流になることはないでしょう。しかし、過去の名優の舞台を見ることは現代においては益々その重要性が増してくると考えています。

幸い昭和40年代くらいからは比較的良質(画質のことですが)の舞台映像が豊富に残されていますし、最近は衛星放送などでそうした映像が発掘されて放送されることが多いので、これからは歌舞伎の映像鑑賞のあり方も少しづつ変化していくでしょう。昔を懐かしむだけの鑑賞ではもったいない・むしろ、昔を知らない若い人たちにこそ古い映像を意識してご覧いただきたいのです。

もちろん舞台の芸というのは一日として同じものはなく、映像として残されたものが本当に「これがベストの芸だ」と言えるものなのかどうかは、つねに考えて見なければなりません。映像に遺されたことの幸運と不運も考えて見なければなりません。伝承芸能の場合は過去の芸を「時代を越えて」同列に比較して出来てしまうことも若干の問題を含んではいます。何でも古いものがいいわけでもないのですが、そこにやはり「尊敬の念」がないと見えるものも見えてこないでしょう。

歌舞伎は「伝承芸能」ですから、つねに過去を振り返ることが求められます。本サイトではつねづね書いていますが、過去の偉大な芸を夢見て・憧れるということは「退歩」なのではなくて、伝承芸能の場合にはもっとも「創造的な」行為なのです。多少の問題は承知の上で、そういう態度で過去の名優たちの舞台を見れば、その映像が与えてくれるものは非常に大きいと思うのです。


この「歌舞伎舞台の記憶」について

本コーナーでは吉之助が見た歌舞伎の舞台、あるいは過去の歌舞伎・文楽の舞台ビデオ映像(時には音源)を見ながら、感じたこと・考えたことなどをしたためたいと思っています。 吉之助がその舞台を実際に見たものも・見ていないものもありますが、これを時の流れを越えて同列に並べて見直してみたいというものです。また、時に生で見た舞台の印象(最新のものも含めて)も記してみたいと思っています。そのどれもが本コーナーでは時系列を越えて等しく材料になるということです。

本サイト「歌舞伎素人講釈」では、劇評はしない方針です。もちろん吉之助がここでやっていることは批評行為です。が、しかし、 吉之助がここで書きたいと思うのは「舞台の良し悪し・芸の優劣」ではありません。伝統を考える・芸を考える、その材料として触発されるものがあれば、これは何でも取り上げたいというのが本サイトの方針です。

したがって、「歌舞伎舞台の記憶」も劇評ではありません。いわば過去の名優たちの舞台・あるいは現在の舞台から得たことを随筆風に書き散らすものです。時に作品論になったり、民俗論・あるいは芸道論になったりするかもしれません。

*なお本サイトで言及している映像及び音声資料に関するダビングの依頼・お問い合わせなどは、ご遠慮いただきたくお願いします。

(H14・2・3)


 

 

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