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作品分析:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」

熊谷直実を中心に


○一枝切らば指一本切るべし

制札には弁慶の筆で『此花江南所無也(こうなんのしよむなり)一枝折盗(せつたう)の輩(ともがら)に於ては天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし』と書いてあります。大序・堀川御所の場において、義経は直実にこの制札を渡し、次のように言っています。

「熊谷は搦手の経盛敦盛固めたる須磨の陣所へ打向ひ若木の桜を汝が陣屋、義経花に心をこめ武蔵坊弁慶に筆を取らせし高札『此花江南所無也(こうなんのしよむなり)一枝折盗(せつたう)の輩(ともがら)に於ては天永紅葉の例に任せ、一枝を伐らば一指を剪るべし』この禁制の心をさとし若木の桜を守護せんもの、熊谷ならで他になし、その旨きっと心得よ」

義経は「この禁制の心をさとし若木の桜を守護せんもの、熊谷ならで他になし」と言っています。なぜ「熊谷ならで他にはない」のか。義経は黙して語りません。

しかし直実には「若木の桜を守護せんもの」は自分しかいないことが分かっているのです。直実は義経が掛けた謎に自分で答えを出します。その解答が明らかになるのがこの「熊谷陣屋」なのです。


相模は障子押開き、「日も早西に傾きしに夫の帰りの遅さよ」と、

もう日暮れも近いのに・夫の帰りはどうしてこうも遅いのか、と相模は直実の帰りを今か今かと待っています。我が子小次郎の初陣の様子も気になります。藤の 局の話では、こともあろうに直実が大恩ある藤の局の子・敦盛を討ち取ったと言うし、その真相を聞かぬうちはどうにも心が落ち着かない・・・という相模の苛立ちがここに表現されています。


待つ間程なく熊谷次郎直実。花の盛りの敦盛を討って無常を悟りしか、さすがに猛き武士も、物の哀れを今ぞ知る

直実は敦盛(じつは我が子小次郎)の霊を弔いに廟に参ってきたわけです。息子の墓の前で夕暮れまで佇んで、直実は何をずっと考えていたのでしょうか。恐らくは、若くして死なねばならなかった小次郎のはかない運命、大恩ある人の為とは言え・可愛い息子を殺さなければならなかった我が身の 無情の運命でありましょう。さらに直実の討ったのはあくまで敦盛ということになっていますから・直実は息子の死を公然と嘆くわけにはいかない・このことが直実をさらに苦しめています。暗澹たる無常への諦観の情を胸に秘めながら、直実は歩を進めるのです。

既にこの時点において、直実は出家を決意しているのです。しかし、この秘密はまだ観客には明らかにされてはいません。ここでは観客はまだ直実は討った敦盛のことで無常を感じているものだろうと思っています。


妻の相模を尻目にかけて座に直れば、

ふと見れば、東国の国許に残してきたはずの女房が来ています。息子のことが心配ではるばるこの地まで来たのであろうが、しかし、その息子はすでにこの世にはいません。 「陣中へは便りも無用」と言っていたのですから、陣屋まできてしまった女房を直実は叱り付けてもいいはずなのですが、直実にはそれができないのです。女房への憐憫の情がこみ上げて来て、思わず直実は思わず「尻目にかけて」しまうということになります。

熊谷は妻の相模に弱いのではないかと思われるかも知れませんが、それは当然。かつて直実が若き日に佐竹次郎と名乗り宮中を守る武士であった時に・そこで出会って許されない恋をした相手が相模であります。つまり直実にとっては相模は大事な大事な恋女房です。しかもふたりの馴れ初めの経緯こそが、息子を身替りに斬るという決断の発端であるとすれば、熊谷は相模をまともに見ることはできなかったのです。


ムウ詮議とは何事ならん

これから主人・義経の首実検を控えている直実にとっては、女房相模の登場はまず予想外でありました。さらに詮議の筋があると言って・梶原が奥の間に来ているという、直実にとってはこれも予想外のことではありましたが、 それよりもまず目の前の女房をなんとかせねばなりません。それでなければ、直実は大仕事に掛かれないのです。

目の前の女房が気になっている直実には、梶原が来ている理由にまではすぐに頭が回りません。「ムウ詮議、トハ何事ならん」という風に、ちょっと考える間あって、軍次に梶原をもてなすことを指示します。もちろん軍次を目付けとして梶原に陣屋内をウロウロされないようにするためです。


もし討死したらわりゃ何とする

この直実の科白は相模を叱りつけて言っているのではありません。もし真相を知った時に相模がどんな気持ちになるだろうかと考えると、直実は女房を哀れむ気持ちで一杯になってしまうのです。

直実は剛毅な武士でありながら、女房に真相を打ち明けて頭ごなしに得心させることがどうしてもできないのです。それで遠まわしに「もし討死したらわりゃ何とする」とか「もし急所なら悲しいか」などと言って女房の顔色をさぐって見るようなことをします。いかにも気の弱い人情型の人物なのです。だから、「わりゃ何とする」は強く押さずに、却って叱る熊谷の方でオドオドしながら相模を不安げに見やるといった感じでしょうか。(これについては別稿「団十郎の熊谷を想像する」をご参照ください。)


小次郎をむりに引立て小脇にひんだき、わが陣屋へ連れ帰り某はその軍に搦手の大将、無官の太夫敦盛の首討ったり

「取ったり」を勇壮に声張り上げて言うやり方もありますが、実は討ったのは我が子の首であるのですから・直実にとってはまさに断腸の事実なのでして、こ のことはその肚で憂いを利かせながら・低く沈痛に言うべきであります。


イヤナウ藤の御方。戦場の儀は是非なしと御諦め下さるべし。

この科白は直実が藤の局に言っているというよりは、相模に言って聞かせていると考えるべきでしょう。お前も武士の妻なのだから・このことは十分覚悟しておくことだぞ、と暗に諭すような気持ちで言う科白だと思います。


「敦盛卿を討ったる次第、物語らん」と座を構へ

ここから熊谷の物語りが始まります。これは仰々しく座を構えて華やかに戦講談をやるわけではないので・本当は密かに「打ち明け話」をしようというようなものでしょう。一方で、この打ち明け話は藤の 局に聞かせているのではなくて、むしろ相模に聞かせるつもりでやるのだ、ということも昔から言われています。

また、ここでの会話は奥の間にいる梶原・あるいは義経に聞かれている(聞かせるつもりでやる)ということも意識しておかねばなりません。首実験直前の義経の科白に「軍中にて暇を願ふ汝が心底いぶかしく密かに来りて最前より、始終の様子は奥にて聞く」とあります。また、首実検の後に飛び出す梶原の科白に「かくあらんと思ひしゆえ。石屋めを詮議に事よせ窺ふところ、義経熊谷心を合せ敦盛を助けし段々。鎌倉へ注進」とあります。つまり、この場での会話・直実の物語りもすべては義経にも梶原にも聞かれていたのです。

この直実の物語りが皮肉であるのは、結局、この場で直実が物語ったことは嘘であったということです。討ったのは敦盛ではなくて、実は我が子小次郎でありました。直実にとっては後に控えている首実検で義経に対して息子の首を敦盛だと言わせることが肝心なことなのです。それでなければ息子の死はすべて無駄になってしまいます。だから、とにかくこの場を切り抜けて・首実検の場にまで漕ぎ着けなければなりません。それだけが目下のところの直実の大問題です。

そのためには、この場にいる藤の局と相模をまず得心させ、奥の間にいる義経と梶原をも得心させねばなりません。それはこの芝居を見ている観客も得心させねばならないということでもあります。直実の物語はまずはそのための「大博打」なのです。

さらには傍らに藤の局の気持ちを気遣って泣いている女房がいます。その女房の姿を見ていると、直実はまた自分の語っていることの嘘がつらくなってくるのです。自分が討ったと言っているのは敦盛ではなく・我が子なのだということを直実は叫びたくても叫べないのです。だから、直実は相模を見やりつつ嘘の物語りをするわけですが、ある意味では「自分に言い聞かせている」というところもあるのではないでしょうか。

直実がこの物語りを、藤の局に聞かせるか、傍らにいる相模に聞かせるか、さらに奥にいる義経・梶原に聞かせるかの気の配り様によって、それぞれの演者の解釈の色が出るところです。


御顔をよく見奉れば、鉄漿(かね)黒々と細眉に年はいざよふわが子の年ばい。定めて二親ましまさん。その御歎きはいかばかりと、子を持ったる身の思ひのあまり、上帯取って引立て塵打払ひ早落ち給ヘ・・・(中略)・・・ 涙は胸にせき上げし、まっこの通りにわが子の小次郎、敵に組まれて命や捨てん。

熊谷の語る物語はそのまま「平家物語」の有名な場面を再現するものですが、ここでは嘘の物語です。しかし、 「我が子の年ばい」・「子を持ったる身の」・「我が子小次郎」の部分においては、嘘の物語りに事寄せながら実は直実は息子を打ったあの場面の真実を無意識になぞっているのです。淡々とした語りのなかに直実の万感の想いが秘められていると考えるべきでしょう。


御涙をうかめ給ひ父は波濤へ赴き給ひ、心に掛かるは母人の御事。

「心にかかるは母人の御事」、この科白を須磨の浦での小次郎が言ったに違いありません。 この部分で、直実の脳裏にあの場面がよぎる、そして思わず傍らで泣いている相模を見やるという感じで言って欲しいなと思います。


蓋を取れば「ヤアその首は」とかけ寄る女房。引寄せて息の根とめ、御台はわが子と心も空、立寄り給へば首を覆ひ、「アヽコレ申し、実検に供へし後は、お目にかけるこの首。イヤサコレお騒ぎあるな」と熊谷が諌めにさすがはしたなう、寄るも寄られず悲しさのちゞに砕くる物思ひ。

歌舞伎においては制札の見得の非常に重要な場面であります。文楽においても駆け寄ろうとする藤の方を制札を持って遮りますが、歌舞伎のようにそこに すべての感情を集中して・万感の思いを形に象徴させるというわけではないようです。ここでの歌舞伎の工夫はなかなかのものだと思います。


「敦盛卿は院の御胤。此花江南の所無は、即ち南面の嫩一枝をきらば一指を切るべし。花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」と言上す。

制札の謎の解答を提示する・この直実の科白は大事です。ここで大将義経に「この首は敦盛に相違ない」と言わせなければ直実の行為はすべて無駄になってしまいます。息子の死が無駄になってしまうのです。だから直実は必死です。「御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」には、直実の必死の思いが込められています。

もちろん直実には自分の行為が正しいという確信があります。しかし、直実にも一分の迷いがないわけではない。もしかしたら自分の判断は誤ったのではないかという疑いがないわけではない。もちろん絶対にそうであって欲しくないわけです。だからこそ直実は義経にすがる思いで「御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」と叫ぶわけです。この科白はこの芝居の最重要の科白ですから、力強く派手であってもいいところです。この直実の必死の思いに大将義経はどう応えるかというのが次の問題です。


「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、アよくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」

義経は直実の必死の思いを大きな気持ちでゆったりと受け止めなければなりません。もちろん義経はすべてを察しています。直実の討ったのが小次郎であることももちろん察しています。首実検はただそれを確認しているだけ なのです。「アよくも討ったりな」において、義経が直実の忠誠と義心に心から感嘆していることを示さねばなりません。さらに「ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」において、義経の涙を さりげなく感じさせなければなりません。


「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」

義経の科白を受けて直実が言う科白です。大仕事を仕遂げた直実の安堵がそこに感じられるような気がします。義経の承認を受けたからには、そこにある首は間違いなく 「敦盛の首」なのです。小次郎の首では決してないのです。

同時に「仕事」を終えた直実には、あとは出家の支度をする道しか残ってはいません。「敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」という科白は、首実検の前の直実にはとても言える科白ではありません。仕事を終えた直実だから こそ言える科白なのです。直実は心境としては既にして出家の心境になっています。我が子の首に対面したければならない妻に対する憐憫の情も涙が混じった生なものではなくて、もう少し淡々として澄んだものになっていると思います。


○「申し藤の方様。お歎きあった敦盛様のこの首」

相模は「この首」を藤の局に向かって言うのではなく、我が子の首を抱いて俯き見て・涙ながらに自分に言い聞かせるように言うのがよろしいでしょう。


「アヽイヤ イヤイヤこの内には何にもない何にもない。ヲヽマ何にもないぞ。ハアこれでちっと虫が納った。イヤナウ直実。貴殿への御礼はこれこの制札。一枝を切らば一子を切ってヘッエ忝い」

鎧櫃のなかには敦盛が潜んでいるわけです。義経は敦盛の身を弥陀六に託し、敦盛はどこかでひっそりと余生を過ごすというわけです。「平家物語」の世界からは消えてしまいますが、争いもない平和な世界のなかに消えていくので しょう。


「わが子の死んだも忠義と聞けばもう諦めてゐながらも、源平と別れしなか、どうしてまあ敦盛様と小次郎と取換へやうが」「ハテ最前も話した通り、手負と偽り、無理に小脇にひんばさみ連帰ったが敦盛卿。又平山を追駆け出でたを呼返して、首討ったのが小次郎さ。知れた事を」

既に状況から明らかになっているとは言え、ここにおいて「須磨浦・組討の場」が実は虚構であったこと・そのタネ明かしが直実の口からはっきりと示されます。劇中の登場人物ばかりか・観客までもが直実に騙されていたことになります。まさに直実は確信犯であったのです。


○ハヽ恐れながら先達て願ひ上げし暇の一件、かくの通り」と兜を取れば、切払うたる有髪の僧

歌舞伎では兜を取った直実の頭は坊主頭ですが、本文ではこの通りに「有髪の僧」であります。さらに、本文では直実は上帯を引っぽどき鎧をぬげば、袈裟白無垢 」となっています。この時点では直実は出家を決意したばかりで正式の僧ではないわけです。この後で直実は黒谷の法然のもとへ赴き、そこで教えを受け て正式の僧(蓮生法師)になるわけです。

しかし、舞台での視覚的インパクトでは坊主頭で僧形の方が効果的なのは確かです。


「ホヽさもありなん。それ武士の高名誉を望むも子孫に伝へん家の面目。その伝ふべき子を先立て軍に立たん望みは、ホウもっとも。」

家来に身替りと申し付けておいて「ホウもっとも」はないだろうと憤る人もいるかも知れませんが、義経は心で泣いていると思います。武士の名誉は家の名誉です。それを子孫に伝えていくからこそ武士は勇ましく戦えるのです。その名誉を伝えるべき子を先立てた悲しみを義経が理解していないはずはありません。逆に言えば、この義経の言葉があるからこそ熊谷は出家に立てるということでもあります。(この件では別稿「義経は無慈悲な主人なのか」をご参照ください。)

淡々とした口調のなかに義経の情が込められなければなりません。涙が過ぎては大将の格が損なわれます。しかし、そこに涙が感じなければ義経は冷徹な男になってしまいます。まことに この科白は表現が難しいと思います。


○「十六年も一昔。ア夢であったなア」とほろりとこぼす涙の露。

この科白は万感迫った直実が思わず洩らす独り言のようなものです。歌舞伎ではこの科白を幕切れの花道引っ込みの最後の場面に持って行って、この芝居の一番有名な科白にしてい るのです。 が、本文を見るとこれはホントに何気ないひと言なのです。この何気ないひと言から名場面を作り出した歌舞伎のセンスに注目したいと思います。

なお「ほろりとこぼす」の語りの「と」の音は三味線のチンという憂いの音にぴったりはまっていなくてはならぬものだそうです。


○柊(ひいらぎ)に置く初雪の日影に融ける風情なり。

いい表現ですなあ。これまで直実がどれほどの辛苦をしてきたか・そして出家した今、荷を降ろしたようにそれまでの無常の人生が偲ばれて、思わずほろりと涙する、その心情がよく現れております。

「柊に置く」はホロリとした風情で語ります。


○「コレ コレコレ義経殿。もし又敦盛生返り、平家の残党かり集め、恩を仇にて返さばいかに」「ヲヽヲ、ヲヽホそれこそ義経や、兄頼朝が助かりて、仇を報いしその如く、天運次第恨みをうけん」「

ここにおいて「一谷嫩軍記・三段目」は時代物らしいエンディングに入っていきます。かつて平冶の乱で父義朝が負けた後、幼い頼朝・義経の兄弟が殺されそうになったのが救われたのは、池の禅尼や平重盛らの助命嘆願によるものでした。その頼朝・義経の兄弟が平家をまさに滅ぼそうとしています。今また義経によって救われた敦盛がもし源氏追討に立つならば如何に・・それが討ちては討たれ討たれてはまた討つ・源平のならいではないのか、という弥陀六の問いを義経はやんわりと受け流します。もしそのようなことがあるとするならば義経はその運命を甘んじて受ける覚悟はあることでしょう。

しかし、我が子を斬って身替りにして出家した直実のことを思えば、敦盛が再び戦に立つなどということなどもはや有り得ない のは言うまでもありません。 義経もまた兄に疎まれて平泉の地に死する運命を背負っています。観客はそのことを知っているのです。


○「実にその時はこの熊谷。浮世を捨てて不随者と源平両家に由縁はなし。互ひに争ふ修羅道の、苦患を助くる回向の役」

ここにおいて直実(出家して蓮生法師)の将来の役割が示されます。直実は息子の弔いをするためにだけ出家するわけではありません。直実には、源平の戦いで亡くなった数多い人々の回向が任されているのです。この直実の運命を見通していたからこそ、義経は直実に身替りを命じたに違いありません。 (これについては別稿「回向者としての熊谷直実」をご参照ください。)

事実、敦盛と直実の物語は「平家物語」のなかで最も悲しくも美しい挿話として人々の心のなかに生きています。ここにおいて小次郎の身替り(偽史)が「平家物語」の敦盛と直実の物語(正史)に置き換わることになります。これが 並木宗輔の仕掛けた時代物の壮大なトリックなのです。


君にも益々御安泰。お暇申す」と夫婦づれ、石屋は藤のお局を伴ひ出づる陣屋ののき。「御縁があらば」と女子同志「命があらば」と男同志

この文句で分かりますように、直実は相模を引き連れ、弥陀六は藤の方を連れてそれぞれ左右に去っていきます。中央に義経が立ち、引っ張り (絵面)の形で幕にするのが、本来の「熊谷陣屋」の幕切れです。登場人物のすべてにスポットが等しく当り、いわばオペラの五重唱のような重厚な幕切れで終るわけです。

しかし、直実の心理にスポットを当てていくならば、歌舞伎(九代目団十郎型)のように直実がひとりで幕外で花道を引っ込むやり方も演劇的に十分な必然がある のです。 (歌舞伎の直実の花道の引っ込みについては別稿「熊谷の引っ込みの意味」をご参照ください。)


(参考文献)

豊竹山城少掾芸談・山口廣一:「文楽の鑑賞・熊谷陣屋の段」





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