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江戸歌舞伎旧跡散策・その10

鼠小僧次郎吉のお墓

*江戸歌舞伎旧跡散策・その9:向島・三囲神社と長命寺の続きです。


1)鼠小僧は義賊なのか

時代劇で有名な泥棒・鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)は実在した人物で、寛政9年(1797)の生まれ。大名屋敷ばかりを狙って盗みに入り、鼠のような身の軽さで、盗みに入った屋敷は100ヶ所あまり、盗んだ金は3,000両とも云われています。(ただし諸説あり) 後に捕縛され、天保3年(1832)8月19日に市中引きまわしの上で獄門の判決が下されました。処刑は小塚原刑場にて行なわれました。鼠小僧は、貧しい人達にそれを施したと噂された事から庶民に大いに人気があって、後世に「義賊」として伝説化されました。 しかし、実際のところ、盗んだ金はほとんど賭博と酒・女に使ってしまったとの事で、鼠小僧が「義賊」だというのはまったくの嘘であるそうです。

当時は天保の改革の真っ最中で、華美な祭礼や贅沢は厳しく取り締まられ、庶民の不満が溜まっていました。そんな雰囲気であるところで、大名屋敷ばかり狙った鼠小僧の噂話に、庶民は溜飲を下げたことでしょう。別稿「安政地震と白浪狂言」でも触れましたが、幕末期に泥棒を主人公にした白浪狂言が流行したのも、「金持ちどもみな自業自得なるぞ、これぞ下々安穏の平均だァ」と快哉を叫ぶ気持ちが庶民の心のどこかにあったからです。単独犯で・決して人を傷付けないと云う鼠小僧の犯行スタイルも、庶民の気に入るところであったようです。鼠小僧が「義賊」だと云うのも、そんなところから生まれた都市伝説であったのでしょう。

2)小塚原回向院の鼠小僧の墓

ところで鼠小僧のお墓とされるものが東京には二つあります。ひとつは両国回向院にあって、もうひとつは小塚原回向院にあります。多分両国のお墓の方がよく知られていると思いますが、調べてみると、二つのお墓の関係は以下のようなものです。

鼠小僧の処刑は、天保3年(1832)8月19日に小塚原刑場で行なわれ、晒し首にされました。この時に信奉者の何者かに首が奪われてしまったため、胴だけがここ小塚原回向院(荒川区南千住5丁目)に葬られました。だから正確に云うと「胴塚」ということです。昔の墓は別の区画に在りましたが、現在の小塚原回向院では、歴史的人物(吉田松陰や橋本左内なども含めて)の墓は区画整理して史跡エリアの一画へまとめて移してあります。

写真上は、小塚原回向院正面。JR南千住駅南口からすぐ近くです。
写真下の、右手が史跡エリアの区画になります。(左の方は一般区画。) 史跡エリアには、安政大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内のお墓がある他、鼠小僧のお墓もそこにあります

写真下が鼠小僧のお墓です。戒名は「源達信士」。参拝者がお守りにするために墓石を削っていくらしく、後ろには丸くなってしまった先代の墓石が置かれています。現在の墓石は数代目であるようですが、正確なところは分かりません。

なお江戸期には罪人の墓を作ることが正式に許されなかったと聞きますが、遺骸が打ち捨てられたままであったのを不憫に思った住職が常行堂を創建したのが始まりだそうで、その後、小塚原回向院となって刑死者を葬りました。

なお現在の小塚原刑場跡地に、小塚原回向院から分院した延命寺(荒川区南千住二丁目)があります。ここに罪人を供養するために寛保元年(1741)に造営された首切り地蔵が安置されています。鼠小僧もこの場所で処刑されたわけです。

写真上は、延命寺の首切り地蔵。

*写真は令和3年10月28日、吉之助の撮影です。

3)両国回向院の鼠小僧の墓

両国にある回向院(墨田区両国2丁目)は、浄土宗のお寺。明暦の大火(明暦3年・1657)で市中に多くの犠牲者を出したため、幕府の命によりこれを葬った万人塚がその始まりであるそうです。その成り立ちから、後の安政地震・近くは関東大震災の犠牲者など、水死者・焼死者・刑死者など横死者の無念仏も埋葬しました。さらに遊女・水子・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。

下の写真は、両国の回向院の表門。JR両国駅から歩いて数分。

両国回向院の鼠小僧の墓は、供養墓です。戒名は「教覚速善居士」。芝居や講談での人気にあやかって、幕末にはすでに供養墓があったようです。現在の供養墓は、大正15年15日に建立されたものです。なお墓に刻まれた鼠小僧の命日が、どういう訳だか「天保2年8月18日」と史実と微妙に相違しているのも、意図的なものか・興味深いと云えば興味深い。

写真上の、鼠小僧の供養墓の前にある小さな供養墓が「お前立」と呼ばれるもので、多くの参拝者が本墓の代わりに・これを削って欠片をお守りにしてもらうために置かれているものです。こちらのお前立は多分数十代目になるものでしょうね。

ところで黙阿弥の「四千両小判梅葉」(しせんりょうこばんのうめのは、明治18年(1885)11月、東京。千歳座)の二幕目のなかの、富蔵と藤十郎の会話のなかに、鼠小僧のお墓の話しが出てきます。

富蔵:「いくらふざけた真似をしても、一人旅で三百両持って行くのも余計だが、鼠小僧を信仰で難儀な者と見る時は、幾らか恵んで置いたなら、十日で付きの回るのも二十日と延びてこの娑婆に居られることもあろうかと、曲がった心の盗人も身の用心をしています。」
藤十:「隠徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)と同じ悪事をしながらも、善根(ぜんごん)をした証拠にゃあ、未だに残る回向院の鼠小僧の墓の前に、線香などの絶えねえのは隠徳をした報いだろう。」
富蔵:「その代わりにゃあ石塔の、欠片(かけ)を袂に入れて行くと、無尽が当たる呪(まじな)いだと石になつても打っかかれ、痛い思いをしにゃあならねえ。」

隠徳とは、人に隠れてする善行のことです。ここでは鼠小僧が盗んだ金を貧しい人達に施したことを指しています。無尽とは無尽講のことで、みんなで金を出しあってクジを引いて当たった人がその金を全部貰えます。

このことからも明治初期の鼠小僧人気と、お墓の欠片をお守りにする信仰が世間にすっかり定着していたことが分りますね。

なお歌舞伎の鼠小僧物で現在目にするものは意外と少ないですが、黙阿弥の「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんはるのしんがた、安政4年・1857・江戸市村座)や、真山青果の「鼠小僧次郎吉」(昭和4年・1929・本郷座)、近くは平成15年歌舞伎座で十八代目勘三郎により初演された「野田版 鼠小僧」(野田秀樹作・演出)などがあります。

*写真は令和4年3月11日、吉之助の撮影です。

*江戸歌舞伎旧跡散策・その11:隅田川百本杭跡もご覧ください。

(R4・3・16)


 

 

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