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大津・石山寺〜「源氏物語」のふるさと


石山寺は、滋賀県大津市にある東寺真言宗のお寺です。「石山寺縁起絵巻」に拠れば、聖武天皇の発願により、天平19年(747)に良弁僧正(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがその始まりとされているそうです。良弁僧正は、歌舞伎ファンにとって「良弁杉由来」(二月堂)の主人公としておなじみの御方です。

平安期には貴族の間で石山寺詣が盛んでした。「枕草子」・「蜻蛉日記」・「更級日記」などの平安女流文学に石山寺の名が登場します。「源氏物語」の作者紫式部は、石山寺参籠(さんろう)の折に物語の着想を得たそうです。伝承に拠れば、寛弘元年(1004)、紫式部は時の中宮の新しい物語を読みたいと云う要請によって石山寺に籠って思案をしていたところ、八月15日の名月の晩、琵琶湖の湖面に映える月の明かりを見て、須磨の地に流された貴公子が月を眺めて都を懐かしむ場面を着想し、「今宵は十五夜なりけり」と書き始めたのが、「源氏物語」の最初であるそうです。当寺本堂には紫式部が籠った「源氏の間」が保存されています。

「源氏物語」ほど日本人の心に大きな影響を与え続けてきた古典文学はないと断言して良いくらいですが、歌舞伎に「源氏」から直接的に取材した演目が少ないのは、とても不思議なことですね。それは戦後の作家・舟橋聖一の脚色による、いわゆる「舟橋源氏」(昭和26年 3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)と以後の一連の「源氏」新作物しかないのです。

江戸時代の歌舞伎の「源氏」物は、「源氏」は「源氏」でもその翻案になる、幕末の柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の劇化くらいしかありませんでした。(初期の近松門左衛門に「今源氏六十帖」などの作品がないわけではないが、これらも主筋として御家騒動物で、あくまで文献上残っているというのみ。)これは恐らく光源氏という主人公が、絶世の美男子・稀代のモテ男というだけでない奥深さ・捉え難さを持っており、舞台上で表現するのが至難であったということを示しているのでしょう。(別稿「源氏物語と歌舞伎」をご参照ください。)

石山寺は、京阪石山坂本線・石山寺駅から徒歩で10分ほどのところにあります。石山寺は紅葉が見事なお寺です。秋には約2千本の紅葉で真っ赤に染まり、最盛期の11月中はライトアップが行われます。吉之助が訪れたのは12月初旬でしたが、それでもまだ紅葉がだいぶ残っていました。写真上は石山寺駅から瀬田川沿いに石山寺への道。写真下は石山寺山門。

下の写真、本堂への階段を上がると正面に「源氏の間」があります。薄暗い小部屋のなかに紫式部らしい人形が見えます。ここが天皇や皇族、貴族、高僧など身分の高い人々が使用する部屋であったそうです。だから皇后の女房である式部がこの部屋を使うのは特別待遇なのですが、そのことからも新しい物語を創ると云うのが如何に特別な任務であったかが察せられます。

ところで謡曲に石山寺を舞台として、紫式部も登場する作品「源氏供養」があります。能楽が成立した中世期には、紫式部は「妄語」(偽りの言葉)によって虚構の物語を書いた罪によって地獄に落ちて今も苦しんでいる、そのような「源氏物語」に惑わされる読者もまた罪深い、それならばそんな罪深い「源氏物語」や紫式部を供養してやろう、それが物語の読者を救うことにもなるだろうと云う考え方がありました。これを「源氏供養」と云って、法会では法華経二十八品を各人が一品ずつ写経して供養したそうです。

謡曲「源氏供養」の粗筋:安居院(あごい)の法印が石山寺へ参詣の途中、里女(前シテ)に呼び止められます。「源氏物語」について問答した後、 女は自らが生前に書いた「源氏物語」の供養を怠ったために成仏できず、今なお苦しんでいると明かし、法印に供養を頼んで姿を消します。法印は女が紫式部の霊であると悟り、光源氏と式部の菩提を弔おうとします。そこへ紫式部の霊(後シテ)が在りし日の姿で現れて舞を舞い、「源氏物語」の巻名を織り込みながら、世の無常を詠嘆し、光源氏の回向を行ない、やがて消えてゆきます。法印は紫式部が石山観音の仮の姿であったと悟ります。 「源氏物語」とは、この世が夢であることを人々に知らしめるための物語であったのでした。

古浄瑠璃には謡曲「源氏供養」を下敷きにしたらしい「石山寺開帳」・「源氏六十帖」などがあります。初期の歌舞伎にもこの流れにある作品が散見されますが、弘毅殿と藤壺の嫉妬の争いを歌舞伎の御家騒動パターンに絡めた程度のものらしく、江戸期の歌舞伎のなかで「源氏物」が大きなジャンルを形成するには至りませんでした。

*写真は令和元年12月8日、吉之助の撮影です。

 (R2・5・23)



  

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