(TOP)     (戻る)

江戸歌舞伎旧跡散策・その6

永代橋と「名月八幡祭」

江戸歌舞伎旧跡散策・その6:於岩稲荷と「四谷怪談」の続きです。


永代橋が隅田川に架けられたのは、元禄11年(1698)8月のことであったそうです。場所はそれまで大渡し(深川の渡し)があったところで、現在の永代橋よりも100Mほど上流にありました。「永代橋」という名前は、当時は江戸対岸にあった中州「永代島」(現在の江東区富岡)に因むそうです。

上は歌川広重による浮世絵、江戸時代の永代橋と、向こうに見えるのが佃島。日本橋側から眺めた構図です。

上の写真は、江東区佐賀町側から永代橋を見る。(現在の地図と古地図を対照出来るとても便利なMAPがあります。こちらご覧ください。)運河は埋め立てられて、海岸線も江戸の昔とはまったく変わってしまっています。

写真下は江東区佐賀町側から見る現在の永代橋で、手前に流れるのが大川(隅田川)です。正面に日本橋川(昔は新堀川と呼びました)の河口と豊海橋が見えます。現在の永代橋は日本橋川の左岸に掛かっていますが、昔の永代橋は100Mほど隅田川上流に位置したので、日本橋川の右岸の方に掛かっていたわけです。上の古地図で確認してみてください。

 

昔の永代橋が100Mほど隅田川上流に位置していたことが分かる名残りのひとつが、江東区佐賀町1丁目にある「赤穂義士休息の地碑」です。永代通りから佐賀町河岸通りを100Mほど入ったマンションの入り口にその石碑があります。この辺りが昔の永代橋の入り口だったようです。元禄15年(1702)12月14日に本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入り本懐を遂げた赤穂義士が引き上げる途中、ちょうど永代橋の入り口にあった乳熊(ちくま)味噌店に立ち寄って甘酒の歓待を受けて、暫しここで休息した後、永代橋を渡って品川泉岳寺へ向かったということです。店主竹口作兵衛木浄は宝井其角の門下で、四十士のひとり大高源吾と俳諧の友であったそうです。

永代橋で一度大きな落橋事故が起きたことがありました。それは文化4年(1807)8月19日(旧暦)の深川富岡八幡宮の祭礼(深川祭)の時のことで、しばらく祭りを中断していたのが12年ぶりの祭礼だと云うことで、多くの群衆が押し寄せて橋を渡ろうとした為に、群衆の重みに橋が耐えきれず、中央やや東寄りの部分が落ちたそうです。ところが落橋に気が付かない後ろの方の群衆がどんどん前に進むので、押された人々が雪崩をうつように次々と転落して、死者・行方不明者が14百名を超えるという大惨事となってしまいました。この永代橋の落橋事件は、歌舞伎の「名月八幡祭」(池田大伍作・大正7年8月歌舞伎座初演)の幕切れに取り入れられて、縮屋新助の芸者美代吉殺しのまっ最中に、人々が「永代が落ちたぞ」と叫んで逃げ惑う、あの宵に起きた事件だと云うことに芝居ではなっています。(なお美代吉殺しの実説は、文政3年(1820)3月に起きた深川の芸者殺しですから永代橋とは関係ありません。)

写真下は永代橋の袂の遊歩道から佃・新川方面を望む。ところで「名月八幡祭」で縮屋新助が世話になった魚惣の家は、多分この近くではないでしょうかね。新助が美代吉の乗った舟が去った方向を見やりながら「・・・あそこが佃、あそこが築地、あそこが鉄砲洲、いい景色でございますなあ」と呟きます。高いビルが壁みたいに立ち並んで・江戸の昔とは景色はすっかり変わっていましたが、現在でも眺望が開けて・なかなかの景色ではありますね。

*写真は令和元年12月吉之助の撮影です。

(R2・5・17)



  

  (TOP)        (戻る)