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宿命の母子

*本稿は別稿「引き裂かれた状況」の関連記事です。


写真はギュスターヴ・モローの「オルフェウスの首を抱えるトラキアの娘」(1866年・油絵)の一部です。オルフェウスはギリシア神話に登場する竪琴の名手です。オルフェウスは愛する妻 エウリディ−チェを失った後・女性をかたくなに近づけることをしませんでしたが、そのために彼に恋 して言い寄ってくる女たちに恨まれて八つ裂きにされ、首と竪琴は河に投げ込まれてしまいました。モローの絵は、美しい娘がオルフェウスの首を引き上げて・ 竪琴の上に載せて抱きかかえる情景を描いています。

長編「失われた時を求めて」を著した作家マルセル・プルーストはこのモローの絵に深く感動して「ちょうど墓に詣でるように、まるでオルフェウスの首を抱える女のように、この絵の前にたたずむのである」と記しています。

生首を抱える・このシーンは陰惨でグロテスクな場面であるはずなのですが、不思議とそういう感じがしてきません。官能的・かつ静かで澄み切った情感があります。 どこかなつかしい感じさえします。 それに、このトラキアの娘の表情にはオルフェウスの母親みたいな情感が漂っておりますね。深い悲しみと同時に、求めていたものがやっと我が手に戻ってきたというような安堵感のようなものを感じます。

ところで、歌舞伎で見られる我が子の遺骸を抱きしめる母親の姿にも、この絵の情感と通じるものがあるように思われます。左 の写真は「熊谷陣屋」で我が子小次郎の首を見て嘆く相模(六代目歌右衛門)です。もうひとつ、下の写真・「伽羅先代萩」において殺された我が子千松の遺骸を見て嘆く政岡(六代目歌右衛門)を挙げておきます。

もしこれが歌舞伎の様式的な舞台でないとすれば、本物ならばどちらも見るに耐えぬ悲惨な場面でありましょう。しかし、歌舞伎での・この場面は母親の深い悲しみが際立っていると同時に、 それは立女形の「華やかな」見せ場でもあるのです。

思えば小次郎も千松も、いつかは主君の身替りになって死なねばならない「宿命を背負った子」でありました。彼らは「死ぬために生まれた」と言ってもいいです。残酷なようですが、それが彼らの宿命です。そして、彼らを産んだ母親もま た「宿命の母」なのです。

「千松、よう死んでくれた、出かしたナ」と、「死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ」 という、そのふたつの思いが政岡の心のなかに爆発的に湧き上がり・錯綜します。そのどちらもが政岡の思いなのです。

果てしない苦しみからやっと解放されて・普通の親子の関係になれたと思える瞬間、その瞬間のためだけに「宿命の母子」はひたすらに生きてきたのでありましょうか。

(H16・5・12)


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