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兄弟の絆(きずな)〜「盛綱陣屋」をかぶき的心情で読む・その2

〜「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」

*本稿は「盛綱陣屋をかぶき的心情で読む・その1:京鎌倉の運定め」の続編になっています。


1)首実検を考える

歌舞伎で首実検のある作品と言えば、「寺子屋」・「熊谷陣屋」・「盛綱陣屋」の三つです。このうち「寺子屋」では松王の息子小太郎が菅秀才の身替わりとなり、「熊谷陣屋」では直実の息子小次郎が敦盛の身替わりとなります。どちらの場合も後で身替わりが発覚したとか・菅秀才あるいは敦盛が見つかって捕われたという話はありませんから、身替わりは立派にお役に立ったわけです。身替わりという行為の是非論は置くとしても、それならば犠牲になった小太郎も小次郎も浮かばれるというものです。

一方、「盛綱陣屋」の場合はちょっと様相が異なります。実検される首は佐々木高綱の偽首です。しかし、高綱には影武者が何人もいるらしいというのは有名な話で、疑い深い時政がこれを簡単に信用することはあり得ません。そこで息子小四郎が父の死を嘆くふりをして死んでみせることで・その首が高綱の首に違いないという傍証をするのです。手の込んだ策ではありますが、自分の息子を犠牲にするという高価な代償を払う割りには・あまり頭の良い策とは思えません。第一、高綱は息子の命を軽んじている・人間の命の尊厳を何と考えているのかと思えませんか。その後に高綱が正体を現してしまえば、それで効果は失われてしまうのです。息子の死を無駄にしないためには、高綱は時政を討ち・京方を最終的な勝利に導かねばなりません。

しかし、その後の京方・鎌倉方の戦いはどのように展開するでしょうか。九段「高綱隠れ家」では、「盛綱陣屋」の後ほどなくして・高綱が死んだと油断した時政軍が高綱軍に奇襲を仕掛けられ大敗を喫したことが語られます。しかし、時政は逃げおおせて・討たれてはいません。実検された首は偽であったことがこれで明らかとなり、この時点で小四郎の犠牲の効果は失われたことになります。盛綱はすぐさま主人時政への申し訳に腹を切っています。(このことは続編「鎌倉三代記」において語られています。)また、戦いは最終的に鎌倉方の勝利(つまり史実としては徳川方の勝利)で終わったのです。つまり、高綱は小四郎の犠牲を生かせなかった・無駄にしたということになります。

これが「寺子屋」や「熊谷陣屋」と違って・「盛綱陣屋」の小四郎の死を虚しいものにしています。続編「鎌倉三代記」でも高綱は変幻自在の勇者でとてもカッコいいのですが・実は汚点があって、それが小四郎の件です。偽首の傍証にするために・ただそれだけのために息子を敵陣に送り込んで切腹させるなどということが(それが事実ならですが)、武将である以前に・人間として許される行為なのかを考えてみる必要があるのです。

吉之助は、高綱がそんな非人間的な行為を取ることはあり得ないと考えます。近松半二が観客が共感できない人物を主人公に据えることは決してないと思うのです。そこで丸本の前後をざっと読んでみますと、「小四郎は父の偽首の傍証となるために・わざと捕われの身となり・敵陣に送り込まれたのである」ということを言っているのは首実検の後での盛綱の台詞だけのように思います。盛綱の言うことはこういうことです。

『彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀(はかりごと)。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。』

つまり、これは盛綱の推測に過ぎぬのです。もちろん最終的に小四郎が「偽首を高綱の首だとする傍証として死んだ」ことは間違いありません。しかし、問題は本当に・その奇策のために・小四郎は父親に言い含められて・小三郎との戦いにわざと負け・意図的に捕われの身となって敵陣に入り込んだのであるかということです。一般にはそのように解釈されています。しかし、吉之助は盛綱・高綱兄弟の行動が納得できる解釈を考えたいと思います。本稿ではそのことを考えてみます。

吉之助は「盛綱陣屋」のドラマを次のように解釈します。盛綱の息子小三郎と・高綱の息子小四郎はともに十三歳の初陣です。互いに奮戦しますが、武運つたなく小四郎が負け、捕われの身になってしまいます。これは双方にとって予想外のことでした。鎌倉方は当然、人質の小四郎を材料に政治取引をして・あわよくば高綱を寝返らせようと仕掛けてくるでしょう。こうなると高綱は非常に苦しい立場に置かれることになります。京方からすれば・非情なようですが・小四郎は戦死してくれた方が良かったのです。そこで悩みに悩み・苦しみに苦しんだあげくに・高綱はある結論に達するのです。それは盛綱が思案のあげくに出した結論と同じです。それは「小四郎はやはり生かせておくわけにはいかない」というものです。しかし、小四郎に「自害せよ」というサインをどのようにして送るかが問題です。また息子の死を無駄にしたくないのも父親としては当然です。そこで高綱が苦肉の策として考え出したのがあの偽首です。

盛綱が首桶を開けた瞬間、小四郎はそこに「汝、自害せよ」との父のサインと最後まで京方で闘おうとする父の意志を読み取ります。小四郎は自らの腹に刀を突き立てます。まさに「教えも教え覚えも覚えし親子が才知」です。こうまでして高綱は京方の武将として戦い抜くことを決意し・息子もまた父の意志を理解し・父の意志を貫徹させようとしているのかと、盛綱は深く感じ入るのです。もとより盛綱がずっと心に掛けていたことは、弟高綱が子の情に迷い・武将として未練な行為に走らぬかということでした。そこに佐々木兄弟の武士としてのアイデンティティー・家の名誉が掛っていたからです。命を捨てた小四郎の行為は高綱親子の決意の固さ・絆の深さを示すものです。敵方の大将である盛綱にとって「この首は偽でござる・この盛綱その手は喰わぬ」とせせら笑うことなどいと容易いことです。しかし、それでは盛綱が高綱に求め・もちろん自分にも課してきたものを否定することになるのです。まさにその瞬間に盛綱は「京方だ・鎌倉方だというもののために、俺たち兄弟は戦っているのではない」という心境にワープするのです。この盛綱の心理については別稿「京鎌倉の運定め」をご参照ください。)

こう考えれば偽首を使う高綱と・それに応えて偽証をする盛綱の心情を理解することができます。「盛綱は頭は良いけれど情に弱い・優柔不断の人物である。その兄盛綱の性格の弱さに付け込んで・高綱親子が仕組んだ計略が偽首である。甥っ子の健気な行為に感動した盛綱は、偽首を偽だと言うことができなくなってしまった」などとこの芝居を解釈することほど詰まらないことはありません。それでは偽証する盛綱が自分の読みに絡め取られて・自分の掘った穴に自分が落ちた・まるで馬鹿になってしまいます。また高綱は小ざかしい奇策のために・息子の命を虫けらのように扱い・兄をも愚弄し・結果的に息子の死を生かせなかった・愚かしい父親ということになってしまいます。だから吉之助は、そういう読み方をしないのです。

それでは盛綱は何を根拠に「そこを計って一子小四郎をうまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組」などと言うのでしょうか。答えは簡単。小三郎との勝負にわざと負けたのだと言うことにして・死に行く小四郎に花を持たせたのです。「小四郎、お前は小三郎との勝負に負けて生け捕られたのじゃない。計略があってわざとそうされたんだろ。なっ、そうだろ」と言うことにしたのです。そこに盛綱の厚い情けがあると思います。

「近江源氏先陣館」の続編である「鎌倉三代記」を見ると、その第二段において浪々の身となった盛綱の息子小三郎が父の遺刀を手にして現れ、高綱に勝負を挑もうとします。首実検の偽首が発覚した後、盛綱は即座に切腹・お家は没収となったことがここで明らかになります。高綱はこれを聞いて・はらはらと涙を流し、次のように言います。

「さてさて健気に生まれついたよな。誠や鷹は雛鳥より、諸鳥を狙う兆しあり。 鎌倉の百万騎に舌ぶるいさす高綱を幼な心に討ち取らんと思い込んだる魂の手強さ、さすがは親の子なりけり。ホウ頼もしし出かしたり。我ゆえに切腹せしその切っ先を見るにつけ、天晴れ兄が存命にてその立派さを見るならば、いかばかり悦ばん。(中略)コリャよう物を合点せよ。血筋の甥が事なれば不敏さと言い、殊にはまた兄盛綱への恩返しに、ただ今我首その方にくれたけれど、日本六十余州と釣りがえの佐々木が一命、われが望みは叶わぬ叶わぬ。明晩にても母を伴ひ、身が屋敷へ密かに参れ。功を立てさす思案もあろう。」

高綱は「盛綱陣屋」の場において和田兵衛が鎌倉方から奪い去った源氏の白旗を・小三郎が高綱館に潜入して再び奪い返したことにして・小三郎に渡し、「これを功にして家を再興せよ」と告げるのです。こうして佐々木の家は小三郎によって再興されることになります。(これは真田信幸により真田の家が存続する史実に照応します。)

話を「盛綱陣屋」に戻すと、高綱は京方の大将として戦う意志を曲げるつもりはなく・その忠心に一遍の曇りもないことを兄盛綱は認めると確信しており、それを認めるならば盛綱は偽首を高綱のものであると言い切ってくれると信じているのです。それは弟が兄を欺き陥れるということなのでしょうか。かぶき的心情で見れば、これはまさに兄弟の絆(きずな)を確認しようとする行為に他ならないのです。

兄は弟の訴えに応えた・ならば弟は兄の行為にまた報いなければなりません。「鎌倉三代記」二段目で小三郎に対する高綱は小三郎に対して (つまり切腹した兄盛綱に対して)報いねばならないはずです。かぶき的心情からすればそうなります。一番ストレートな対応は高綱は小三郎に潔く討たれてやることです。しかし、それでは京方は窮地に陥ることになりますから・いずれは討たれてやるにしても今は叶わない。そこで高綱は小三郎に源氏の白旗を渡し・これを功にして家を再興せよと言うのです。このように高綱には兄盛綱を策によって陥れようなどという意図は全くないのです。もちろん盛綱 の方にも偽首によって「弟に謀られた」などという意識があるはずがありません。


2)兄弟の心情のドラマ

以上のことから、「盛綱陣屋」のドラマは人質になった小四郎を介して・盛綱はこの場にはいない高綱との心の対話をしていると読むことができます。つまり、舞台での動きから・登場しない高綱の心理をパラレルに読むことができるのです。

「盛綱陣屋」前半での和田兵衛上使・中盤での母篝火が密かに陣屋を訪れるのは、高綱の動揺とその悩み苦しむ心情を硬軟交えて描いていると見ることができます。和田兵衛の来訪は外交辞令・表向きのやり取りです。真正面から人質を返してくれと言われて相手がすんなり「ハイ」というはずはありませんが、このやり取りがなければ先には進めません。これはそのまま高綱の武将としての強がりと・その置かれた苦境を示していると見ることができます。陣屋を密かに訪れた篝火の愁嘆に高綱の父親としての悲嘆・苦しみをそのまま重ねてみることができます。前後しますが・盛綱が小四郎の処置に深く悩み、「思案の扇からりと捨て」・ついに「小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論に至るのも、まったく同様の過程において高綱も思い悩み・苦しみ・そして同じ結論に至ったと考えることができます。

小四郎が母の声を聞いて取り乱し・わなわな振るえ「母様の声聞いてから一倍命が惜しうなった、どうぞ助けてお情ぢゃ堪忍して下さりませ」と叫ぶのはまことに哀れです。ここで小四郎が見せる弱さは芝居でも何でもありません。そのような弱さも見せる小四郎が「まさにこの時」という時に見事に切腹を敢行することこそ健気で胸を打つと思います。

このように首実検までの段取りは、盛綱の心理と・舞台に登場しない高綱の心理が通奏低音になって、片方が押せば・片方が引き・そして一方が押し返すという形でパラレルに進行すると見ることができます。そのパラレルな関係が首実検の場に至って破綻転調します。小四郎が突然切腹し、盛綱の予期しない方向にドラマが一気に動きます。

「盛綱が引明る首桶の二目とも見もわかず」小四郎は腹を切ります。ここで「ふた目も見もわかず」とあるのは、小四郎もまたその首を見る時間があったと解すべきです。この場に至って小四郎は沈着冷静に父からのサインを読み取ろうとしています。首が父高綱のものであるならば・もはや小四郎に生きる望みがあろうはずはありません。逆に首が偽首ならば・父は生きているということです・影武者を立ててどこかで機会を狙っているということです。それは同時に父から自分へ新たな任務が与えられたということを意味するのです。そのサインを確認して小四郎は自からの腹に刀を突きたてるのです。驚いた盛綱が「何故の切腹、仔細を言え」と叫ぶので、小四郎は腹に刀を腹に突き立てた苦しみのなかで次のように言います。

「何故死ぬとは伯父様とも覚えませぬ、卑怯未練も父様に逢たさ、父を先立てて何まだまだと生き恥をさらさん、親子一所に討死して、武士の自害の手本を見せる」

ここが小四郎がかぶき的心情を見せるクライマックスですが・盛綱は小四郎の姿のなかに弟高綱を重ねて見ています。小四郎の行動は高綱のかぶき的心情でもあるのです。「父が為に命を捨つる幼少の小四郎があんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志」と盛綱は言っています。盛綱は小四郎のためにだけ偽証したのではなく、それはあくまで「弟高綱への志」なのです。かぶき的心情はこれを受けるに値すると信じられる人物にだけぶつけられるものです。かぶき的心情をぶつける者は命を掛けて・その心情に殉じなければなりません。また、かぶき的心情をぶつけられた者もまた「お前は俺の問いに答える資格のある者だ」と見込まれたわけですから、命を掛けてそれに応えなければならないのです。それをしないのは「男がすたる」のです。

この件については別稿「特別講義・かぶき的心情」で触れました。これは「かぶき的心情の表出パターンの (C)にあたるものです。すなわち自らの思いの強さによって・相手の考えを変えようとする・そのために命を捨てるという行為です。そのかぶき的心情の強さは自分にまったく私心のないこと・損得勘定がないこと・自分の心情の純粋なことが大前提になっています。「自身のアイデンティティー」の強さがまずあって、「・・だから相手は自分を受け入れるはず(べき)だ」という論理展開になります。これは極めて能動的なかぶき的行為なのです。

これは近松半二作品に多いパターンです。例えば「伊賀越道中双六・沼津」での平作です。生き別れの息子十兵衛の目の前で死んでみせて・目指す仇(かたき)の行方を無理矢理白状させるように見えますが、実はこれも同じくかぶき的心情の行為です。(別稿「理を非に曲げても言わせてみしょう」をご参照ください。)平作のかぶき的心情に応える十兵衛も・かぶき的心情で応えねばなりません。果たして第九段「伏見」において、十兵衛はわざと志津馬の手にかかって討たれることになります。そして志津馬に股五郎一行の道筋を話し、妹お米のことを頼んで絶命します。かぶき的心情に応えることはこのような結果をもたらすのです。

「盛綱陣屋」も「沼津」も作為的な筋立てに見えるかも知れませんが、そうではありません。そこまでして彼らが守ろうとしているものは何か。ある義理を切り捨ててでも・なおも彼らが守ろうとしているものは何か。そのところを考えてみれば「盛綱陣屋」・「沼津」のドラマが理解できると思います。


3)篝火と小四郎のこと

もう少し「盛綱陣屋」の周辺を検討していきます。第9段「高綱隠れ家」では次のような高綱夫婦の会話があります。篝火が息子の死を夫に語っています。

(篝火)「イエイエこれがなんぼ叱らしゃんしても、これが泣かずに居るらりょうか。いかに男のこうけぢゃとて、お前ばかりの子かいな、私がためにも子ぢゃわいな。まだ年端もいかぬもの、孝行せいと惨たらしい、父御の詞を子心に、大事々々と忘れもせず、立派にあったその時の、姿が今に目先に見え、何とこれが忘れやう、わしゃ忘れぬ得忘れぬ」
(高綱)「ヤイ声が高い静かに泣け、我とても肉縁の倅、不憫になうて何とせう、傍でありあり見たその方よりも、見ずに案づる我が心、どのようにあらうと思ふ、骨は砕かれ身は刻まれ、肝のたばねへ焼き金を刺されるようにあったわい」

以上の夫婦の会話から・小四郎が父の策略のためにわざと負けて敵陣に送り込まれたのではないと断言できませんが、そうであるとも読めないと思います。偽首のサインを息子に送ったことで・自責の念に駆られて苦しむ親の悩み・苦しみがここに見えます。もし高綱の命により小四郎が敵陣に送り込まれ・奇策を見事に遂行したのならば(それが正しいのならば)、この場でやはり高綱は息子に「でかしおりました」とはっきり言って褒めてやらねば親として許されないと思います。

ところで吉之助が想像するのは、「盛綱陣屋」の場においては母篝火も夫の意図を知らされていなかったと思えることです。この「高綱隠れ家」の場には時政の影武者が登場しますが・これを高綱が見破り「偽時政をわざと助けて・京方の情勢をわざと知らせて返したは、誠の時政を城内へ誘い出さん我が智謀」と言うと、篝火は初めて悟る夫の心・サテはと感じ入って手を打ち「あっぱれ我が夫稀代の計略」と言っています。一事が万事がこの調子なのです。「鎌倉三代記・入墨の段」においても・藤三郎に身を変えた高綱に「こちの人」とすがり付こうとして「コレコレわしゃそんなもんじゃない」と言われています。実はこれが藤三郎が入墨されて・時政に近づく策略になっているのですが、ここでも篝火には真相が知らされていません。夫の行動をハラハラして見ていながら・肝心なことは何も知らされていないのです。もちろん敵を欺くならば・まず身内からというのは鉄則ですが、何となく篝火というのは哀しい女性であります。(吉之助は上使和田兵衛も高綱の意図を知らされていなかったと読みたいですが、あれほどの武将ですから・最後の場面で盛綱同様に高綱の意図を読んだに違いありません。)

実は歌舞伎ではカットされますが、首実検で盛綱が小四郎を「褒めてやった」後に、かなり長い篝火の述懐の台詞があります。

「篝火いとどかきくれて、子を褒められる親の身の、悦ぶは常なれど、生きて高名手柄して、今の仰に預らば何ぼう嬉しかるべきに、年相応より利発なが生まれ付いたこの子の因果。いかに武士の習いじゃとて、斯う斯うして自害せいと、教ゆる親の胴欲さ、可愛や初陣の初から、死に行く事合点して、『俺や侍の子じゃによって、討死するは嬉しけれど、死んだら父様や母様に、つい逢う事がなるまいかと、そればっかりが』と云ひさして、泣顔見せず勇んで行きしその立派さ。遖れ弓矢打物迄誰に劣らぬ物覚え、腹切る事まで是程に、器用になくば何事ぞ。コレのう小四郎、小四郎と手負いの耳に口さし寄せ今伯父様のおっしゃった事聞き取りゃったか、そなたの命捨てたので高綱殿の忠義が立つと褒美のお詞、それを未来の引導に迷はずと仏になってたも」

この後に小四郎の「そんならわしが死ぬるので、父様の軍が勝になるか、エヽ忝い」という台詞が続きます。この篝火の台詞もどちらにも読めますが、「武士というものは死を恐れず・まさかの時には未練を見せず命を捨てるもの」と親が教えたものと吉之助は解釈したいと思います。つまり、これは両親の躾(しつけ)・普段の教えの賜物なのです。武士の子供というのは大変なものだなと思いますね。

近松半二の文章はどちらでも取れるように意図的にボカして書くか・場合によっては矛盾しかねないことを意図的に書いて・観客を混乱させるようなところがしばしばあります。その辺りが半二の特長というか・欠点というか・半二作品が難解になる原因です。しかし、吉之助が篝火も和田兵衛も高綱の真意を知らされないまま盛綱陣屋に赴いていると想像するのは、首実検に至るまでの心理的駆け引きのなかで・この二人がごく自然な・無垢な役割を背負っていると考える方が構図的にスッキリすると思うからです。その方がこの芝居での盛綱・高綱兄弟の心の対話構図がスッキリ見えてきます。そう見ることで首実検の転調の悲劇の流れがはっきり見えるのです。物事は何事でもシンプルに捉える方がよろしいと思うわけです。

(後記)

別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」もご参考にして下さい。

(H17・8・21)



 

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