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切り取られた風景

〜「菅原伝授手習鑑・寺子屋」


1)見取り上演の意味

別稿「何とて松のつれなかるらん」において、「菅原伝授手習鑑」は私にとっては「四段目・寺子屋」で終っていると書きました。五段構成の時代浄瑠璃は大序に始まり五段目に至るまで、ある時代設定(世界)の枠と制約のなかにドラマが描かれています。また、江戸時代においてはお上の検閲も気にしなければなりませんから、その作品の真実(本音)がしばしば設定のなかに意図的に隠されることも多いようです。そうしたものは、むしろ、切り取られた芝居・見取り上演の時に明らかになるということも少なくありません。

この「寺子屋」の場合であれば、一子・小太郎を若君・菅秀才の身替りに殺した松王夫婦は「もはやこの世に生きてはいられまい」と私には思われるのに、通しで見れば「五段目・大内の場」に松王がのこのこ出てきたりします。「 そうか、松王は生きていたのか」と安心される方もおられるかも知れません。忠義・正義の者は救われるべし・・・そうかも知れません。しかし、何となくあの「寺子屋」で感じた・救いようのない哀しみ、あれは何だったのという気がしなくはないでしょうか。

「菅原」の五段目はもはや歌舞伎でも文楽でも上演されませんから置いておくとしましても、通し上演で「初段切・筆法伝授」を見れば、武部源蔵にとって師匠である菅丞相はほとんど「神」というべき存在であり、したがって 源蔵が丞相を絶対に裏切る・見棄てることなどできない人物であることは明らかです。しかし、だからと言って「忠義」という美名のもとに他人の子供を斬ることが許されるということは絶対にないはずです。

同じことが源蔵のもとに我が子を送り込んだ松王にも言えましょう。「初段中・加茂堤」を見れば三つ子の兄弟にとって丞相は烏帽子親であること・恩義ある身であることは明らかです。 しかも丞相は後には「天神さま」になる神聖なる御身でもある。しかし、「ご主人大事」という大義のために我が子を犠牲に差し出すことは「忠義」を是とする江戸時代であっても本当にやろうとすれば・さすがに躊躇される行為ではなかったでしょうか。しかし、松王のこの行為は「封建美談」として喧伝されていきます。

「菅原」が通し上演において源蔵の・あるいは松王の、やむにやまれぬ状況が詳細に描かれれば描かれるほど、なるほど筋は分かりやすくなるわけですが、その筋が通されることで彼らの 非人間的行為の「正当性・必然性」がそれだけ強化されると言えなくもありません。しかし、その「正当性・必然性」が問題なのです。一体誰のための「正当性」なのか、いったい何のための「必然性」なのか、そのことが作品において問われなければなりません。

だが「寺子屋」だけを見取りで上演する場合は、源蔵や松王の置かれた状況は十分に描かれないままにドラマはいきなり核心に入って行きます。「寺入り」からの上演の方が丁寧であるという意見もあるようですが、「寺子屋」のようなドラマの場合には必ずしもそうと も言えません。冒頭をカットして「源蔵戻り」からの方が、一気に緊張が盛り上がって密度が高くなるという見方もあるかも知れません。

こうして「寺子屋」の場だけを切り取って見れば、「身替り」という非人間的惨劇が否応なしにあらわになってきます。家に戻るなり誰を殺そうかと生徒たちの顔を見る教師、「若君には替えられぬ」とは何事かとは思われませんか。そんな教師が「せまじきものは宮仕え」などと言っても信じられません。忠義とは言え、我が子を主人の身替りにする親も親だとは思いませんか。「持つべきものは子でござる」と今更泣いてみても、じたばたしないで死んだ小太郎は偉いと思うが、親はどうにも許す気にはなれません。

そう感じる人がいても不思議ではないでしょう。折口信夫でさえも「義理と忠義をふりたててはいるが、源蔵は根本的に無反省で許し難い人物である」(「手習鑑雑談」)と書いております。その気持ちは大切です。そこにこそ「寺子屋」を考える手掛かりがあるのですから。言うまでもなく、源蔵も松王もその批判を受ける覚悟は もちろん出来ているのです。それでもなお彼らは「身替り」の行為を行なわねばならなかった。そして彼らはその報いを受ける覚悟もあったと思います。そこに「寺子屋」のドラマの真実が あるのです。(別稿「失われた故郷への想い」「せまじきものは宮仕え」をご参照ください。)

そうしたドラマの真実(本音)が、切り取った芝居・「見取り上演」ならばこそ明確に見えてくることもあるのです。見取り上演は「いいとこ取り」みたいに言われることがありますが、何が何でも「通し上演」がいいわけでは ありません。もしかしたら、おざなりに筋を通すだけの通し上演よりも、見取り上演になるのが必然かも知れないのです。作者は初めから見取り上演を見越して浄瑠璃を作っていたということも、もしかしたらあるのかも知れません。


2)「寺子屋」は墓碑である

ここで突然話題が変わりますが、お付き合いください。ショスタコービッチはソ連(現ロシア)の生んだ大作曲家でありますが、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を初めとして、その「形式主義」をソ連当局から絶えず批判されてきました。ご承知の通り、スターリン独裁下の言論統制は凄まじく、それこそ何十万人もの人が粛清の対象にされました。芸術に対しても政治がその内容に強引に介入してきました。それでもショスタコービッチは粛清されることなく、ソヴィエト音楽界の最高峰としての位置を保ってきましたが、彼は決して自分の信念を曲げることなく作曲を続けました。

ショスタコービッチは死後に公開された証言のなかで『死を前にしての恐怖は、恐らくもっとも強い感情であろう。私はときどき、それ以上に深刻な経験は他にないと思うことがある』と言っていますが、さらに作曲という行為を通じて、『私は以前より死を恐れなくなった、もっと正確に言うなら、私は避けられない死について考えることに慣れ、まさしく死を避けられないものとして受け入れるようになった』とも言っています。その気持ちを持ち続けてショスタコービッチは作曲を続けたのです。ショスタコービッチは『私の交響曲は墓碑である』とも言っています。

『私の交響曲の大多数は墓碑である。わが国にはあまりにも多くの人々がいずことも知れぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。私の多くの友人の場合もそうである。彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである。』(ヴォルコフ編:「ショスタコービッチの証言」)

ショスタコービッチが書いた第14交響曲(1969年初演・「死者の歌」という標題が付けられている)は、 初演の時に評論家によって絶賛されて、この交響曲は「死は全能である」という思想の表現であり終楽章では慰安を見出して「死というのは始まりに過ぎない 」ということを表現していると批評家たちに評されました。ショスタコービッチはこの批評に反発して、次のように言っています。

『だが、それは始まりではなくて、正真正銘の終わりであり、この先には何もない、何も起こらないのである。真実を直視しなければならないと私は考えている。』(前掲書)

ショスタコービッチは、その反例としてチャイコフスキーの歌劇「スペードの女王」(原作はプーシキンの有名な小説です)を挙げています。主人公ゲルマンが死んだ後の音楽には「愛するリーザのイメージ」が優しい慰めの旋律で表現されて るのです。

『これは一体なんと言うことだろうか。屍体は屍体であり、リーザはこの際なんの関係もない。屍体にしてみれば、その上に誰のイメージがひるがえろうが、もはやどうでもいいことなのだ。しかし、チャイコフスキーはここで慰めを与えたいという誘惑に負けてしまい、もっとも素晴らしい世界のなかで、すべてのものは最良のものへと向かう、と言う。それなら屍体のうえになにかがひるがえることだろう。リーザのイメージか、旗でも?これはチャイコフスキーの勇気に乏しい行為である。』(前掲書)

さらにショスタコービッチは、ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」において、主人公ボリスの死の後の同じような光景で『何の必要もないのに音楽が長調に変わる』と批判しています。

ここで話題を「寺子屋」に戻します。「寺子屋」幕切れにおいて、松王夫婦・源蔵夫婦が身替りに死んだ小太郎を野辺送りする「いろは送り」のことです。「いろは送り」の部分は、戦前の歌舞伎の「寺子屋」上演では登場人物の割り台詞で処理することが多かったのですが、原作尊重主義の流れから、今では「いろは送り」を床に語らせて役者はそれを背景に焼香をするのが普通になっています。

「いろは送り」の文章は、瑣末的な言葉の修飾だけで文学的価値はないという意見もあるようです。それはその通りかも知れませんが、 純粋文学ではなくて・三味線を伴った音曲である義太夫節の場合はその批判は必ずしも当たらないでしょう。あの世で・丞相のもとで小太郎は「いのは」の手習いをするのであろうな、などと感じたりするのもまた良かろうなどと思うのです。

また「いろは送り」の浄瑠璃には意外なことに明るいリズミカルな旋律が付けられています。これも沈滞する幕切れのムードを意図的に高揚させて、死者への鎮魂・供養の気持ちを表現するものなのだろうと思います。ちょうど 説経「さんせう太夫」で山椒太夫の処刑に「ひと引きひいては千僧供養(せんぞうくよう)、ふた引きひいては万僧供養(まんぞうくよう)」と囃すように。(別稿「哀われみていたはるという声」をご参照ください。)延享3年(1746)の初演での島太夫の「いろは送り」は大評判で、町中の三つ子までが口真似して、見物が涙をぬぐうために鼻紙の相場が高くなったと「浪花其末葉」にあります。

しかし、文楽の「寺子屋」の舞台を初めて見た時に吉之助は驚いてしまいました。というよりも唖然としてしまいました。文楽の「寺子屋」ではこの「いろは送り」の場面では、千代が息子・小太郎のことを想ってすすり泣き、母親としての悲しみをまるで踊りのように振りで表現するのです。文楽で の「いろは送り」は千代の見せ場なのです。

しかし、このような「いろは送り」は作品の主題にふさわしくないと吉之助は思いました。千代が悲しげに足拍子を使って踊れば踊るほど、小太郎の死の厳粛さの上に「親の嘆き」が上塗りされていくように思われました。この場合にはあえて「身勝手な親の嘆きの押し付け」とでも申し上げましょうか。 吉之助はこの場面では小太郎の死の意味は直視されねばならないと思います。小太郎の屍体の上に「忠義」の旗がひるがえることも・「 母親の愛」のイメージが広がることも必要ないと思います。松王夫婦の悲しい心情はその白装束姿だけで十二分に表現されているというのに。

ご異論もありましょうが、「寺子屋」の幕切れに関しては、小太郎の冥福を祈って登場人物が静かに焼香をする・現行の歌舞伎の幕切れの方が情味があって、文楽の幕切れよりも 吉之助ははるかに好ましく思っています。吉之助の場合は演出に関しては「文楽か歌舞伎か」ということになると、どちらかと言えば文楽に重きを置く方の人間ですが、この件に関してはどうもいけません。まあ、これは好みの問題でもありますから ・「これでなければ」というものではありませんが、ちょっと考える材料にもなろうかと書きしたためてみました。

(後記)本稿の続編「千代について〜推理「忠臣蔵」事件」もご参照ください。)

(参考文献)

ソロモン・ ヴォルコフ編:「ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)

折口信夫:「手習鑑雑談」 (かぶき讃 (中公文庫)に収録されています。)

(H15・3・30)


 

 

 

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