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「三人吉三」の三すくみ〜「世直しもの」としての「三人吉三」

〜「三人吉三廓初買」


1)「三人吉三」と「三国志」

「三人吉三」の初演されたのは安政7年(=万延元年・1860)のことですが、この年は庚申(かえのさる)にあたります。庚申の宵に生まれた子供は盗癖があるという古い迷信があるそうで、それで三人組の盗賊の芝居を黙阿弥が書いたのです。これはどういうことかと言うと、盗癖があるのを昔の人は「手が長い」と言いましたが、「手が長いのは猿」・「三猿(見ざる言わざる聞かざる)」・「三つ巴」・「三人の盗賊」という発想だそうです。「稲瀬川庚申塚(大川端)の場」で、「たとえにも言う手の長い、今年は庚申年に・・・」とあります。

「庚申塚の場」では、ふとしたことからお互い噂でしか知らなかった和尚・お坊・お嬢の三人の吉三郎が血杯を交わして義兄弟の約を結びます。これは「三国志演義」における、劉備・張飛・関羽の三人が義兄弟の契りを交わす・有名な「桃園の誓い」を踏まえたものです。和尚の科白には次のようにあります。

「聞きゃァ隣は水滸伝、顔の揃った豪傑にしょせん及ばぬ事ながら、こっちも一番三国志、桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて兄弟の、義を結ぶとはありがてえ」

この科白は安政7年(=万延元年・1860)正月市村座での初演時に隣の中村座では「水滸伝」を題材にした「金瓶梅曽我丸賜」が上演されていたので、これを当て込んだのです。しかしこれは三人の吉三郎が義兄弟の契りを交わすから「三国志」を当てたということだけではありません。ご存知の通り「三国志」は魏・呉・蜀の三国が互いに牽制をし合いながら覇権への抗争をつづける物語ですが、「庚申塚」での三人の吉三郎での出会いにも三者対立の構図が見出されます。「庚申塚」の場での科白を見てみましょう。

(お嬢)「互いに名を売るの身の上に、引くに引かれぬこの場の勝負。」}(お坊)「まだ彼岸にもならねえに、蛇が見込んだ青蛙。」
(お嬢)「取る取らないは命づく。」
(お坊)「腹が裂けても、飲まにゃァ、おかねえ。」
(お嬢)「そんならこれをここへ賭け」
(お坊)「虫拳ならぬ」
(両人)「この場の勝負。」

「虫拳」と言いますのは、この頃に流行した「拳」の一種で、蛙は蛇を恐れ・蛇は蛞蝓を恐れ、蛞蝓は蛙を恐れるという「三すくみ」により成り立つものです。親指を蛙・人差し指を蛇・小指を蛞蝓に見立てて勝負をします。ここでお坊は自分を蛇と言い、お嬢を蛙に見立てています。ここでお坊吉三とお嬢吉三は勝負を付けようとしているわけですが、ここで「虫拳」という言葉が出たからには観客は当然、蛞蝓の登場を予測することになります。それが和尚吉三なのです。

実はこの場では観客には分からないことですが、お嬢は和尚の妹・おとせから金を奪って川へ突き落としていますから和尚の敵であり、和尚は安森家から庚申丸を盗んだ盗賊である伝吉の息子で・お坊は没落した安森家の息子ですから、お坊にとっては和尚は敵ということなのです。つまり、「庚申塚の場」だけを見ていれば、お嬢とお坊の争いに・和尚が割って入った「留め男」という構図でありますが、「三人吉三」の芝居全体から改めて見てみれば、三人の吉三郎の関係は「三すくみ」の状態であるということなのです。「虫拳」という言葉によってこの三人吉三の隠された関係が観客に暗示されています。

この三人吉三の「三すくみ」の関係は芝居を見ていくうちに観客には次第に分かってきます。だとすれば、あの「庚申塚」の誓いは何であったのでしょうか、もしかしたら三人吉三は再び対立し争う関係に戻るのではないのか・・・芝居を見ながら観客はそのような不安を感じるのではないでしょうか。「高麗寺前」でお坊が和尚の父・伝吉を殺してしまった時、この不安は頂点に達します。ついに盟約は破られた・・・観客はそのように感じるのではないでしょうか。この不安を引きづったまま、芝居は「吉祥院」へ流れ込んでいきます。

この自分たちが因果の糸に絡められた「三すくみ」関係に置かれていたことは、「吉祥院」で初めて当人たちに意識されることなのです。観客の不安はこの「三すくみ」の関係が三人の前に明らかになった時、血の盟約は破られ・三人は殺しあうのではないかということでした。しかし、和尚は父伝吉の因果の業を告白し・お嬢とお坊を許します。お嬢・お坊は和尚の提案(おとせ・十三郎の身替り)を受け入れます。三人が因果の糸を自ら断ち切ることによって初めて「三人吉三」の血の盟約は完成したということが言えるのかも知れません。(このことは別稿「生も暗く死も暗い」をご参照ください。)

大事なことは、血の盟約を守るために和尚は二人を許したのではなく、二人を許してもつれにもつれた因果の糸を和尚が自分の意志で断ち切ったからこそ義兄弟の血の盟約は完成したということなのです。このことは因果の糸が切れた途端に、三人が探し求めていた庚申丸と百両がポロリと出てきたことでも分かるでしょう。(このことは別稿「お宝の権威喪失」をご参照ください。)


2)「世直しもの」としての「三人吉三」

つまりその時点では本人たちは気が付いていなかったけれども、「庚申塚での義兄弟の誓い」は、因果の糸の「三すくみ」によって縛られて実は「発効」していなかった、あるいは「天からまだ承認されていなかった」ということではないでしょうか。その誓いが本当に「発効」するのは、まさに芝居の大詰めにおいてなのです。しかし、親の因果の糸は切れたけれども、今度は現世において自分たちがしたことの業を三人の吉三郎は清算せねばならないのです。結局、義兄弟の誓いは「三人が共に刺し違えて死ぬ」という結末によって遂行されるのです。だとすれば、「三人吉三」という芝居全体から見直してみると「庚申塚での誓い」は「三国志」を気取って格好いいけれども、暗い因果に縛られた世界に咲いた仇花に過ぎないという見方ができるかも知れません。

一方で別の見方もできるでしょう。芝居はお定まりの「因果応報」・「勧善懲悪」のパターンで締められているけれども、この芝居のなかで「庚申塚での義兄弟の誓い」の場面は哀しくも・妖しい光を放ちながら輝いて見えます。盗賊が義兄弟の契りを交わすという場面ですから、格好良く見えても所詮は裏世界の話です。一般庶民にとっては決してお勧めではありません。しかし盗賊というのは自らの意志で自分の周囲の状況を変えようという意識・意欲のある人物ではあります。「自分にはそこまではできない・あんなことはできない」と思いながら、そういう人間に対して羨望の気持ちが若干ないわけではない。(ご注意:やっていることの是非論は差し置いての話です。)

別稿「小団次の西洋」において、白浪狂言は「世直しもの」であると申し上げました。この視点がないと幕末での白浪狂言の爆発的流行は理解ができないと思います。但し書きせねばなりませんが、安政7年(=万延元年・1860)の「三人吉三」の興行自体は不入りでした。安政の大獄による社会不安が影響したものと言われています。しかし、黙阿弥自身は「三人吉三廓初買」を会心の作として・本作を第一に考えていた、ということは良く知られていることです。だとすれば、四代目小団次と黙阿弥が仕掛けた「世直しもの」としての「三人吉三」を考えてみなければならないと思います。

「庚申塚での義兄弟の誓い」は、この芝居のなかでの唯一の人工的な・観念的な共同体です。あとは親子・兄弟とか主従とか、因縁・因果で縛られた縛られた自然発生的共同体です。「三人吉三」とは、和尚の意気に感じ入って、三人の吉三郎が血杯をすすって兄弟の誓いを交わした人工的な家族です。

「三人吉三」の盟約は、因果の糸に縛られて一時はそれが破綻するかと心配はされましたが、最終的には立派に果たされました。三人の固い意志が因果の縛りを打ち破った、とも言えます。和尚の告白でお坊が怒って和尚に斬りかかっていれば、和尚はこれも因果だと・それを受けたでしょうが、血の盟約は果たされなかったことになります。和尚がどうしても父・伝吉を殺したお坊を許せなければ、お坊はそれを甘んじてうけたでしょうが、血の盟約は果たされなかったことになります。お嬢がおとせの百両を奪わなければドラマは展開しなかったはずですが、和尚がお嬢を許さなければ、それをお嬢は甘んじて受けたでしょうが、血の盟約は果たされなかったことになります。もしそうならば、ここで心配されていた「三すくみ」状態が吉祥院で現出したことになりましょう。しかし、結果的には、三人が自分の意志で因果の糸を断ち切ったからこそ、真の意味において「盟約は成った」のです。

天保から安政にかけての幕末は、天災に人災、まさにありとあらゆる災厄が巻き起こり、民衆の生活はの秩序は大きく乱れました。ペリーの黒船来航・日米和親条約・安政の大地震、そして安政の大獄。このように明日が見えない・無力感・閉塞感のなかで、何をどう変えるのかは明確には意識していないけれども、「変えなければならない・変わりたい・だけど変われない」気持ち・憤懣だけは民衆の心のなかに次第に高まっていきます。

因果応報の理だけは固くこれを信じ・これを死ぬまで処世の方便・信条としていた黙阿弥にしてみれば、「世の中を変える方法」はひとつしかなかったでしょう。それは「因果の律を自分の意志で断ち切ること」なのです。それだけが自分に考えられることでした。恐らく、そのような考え方は四代目小団次にとっても同様であったと思います。

「義兄弟の誓い」を理想的な人間関係である、と黙阿弥・小団次が思っていたかどうかは分かりません。所詮は泥棒もの・白浪もののことですから、そこまでは思っていないのではないでしょうか。しかし、「自分たちを取り巻いている現状の因果の律を自分の意志で断ち切ること」ができれば、新しい人間関係・社会が現出するという可能性・希望は、黙阿弥も小団次も間違いなく持っていたと思います。それこそが黙阿弥・小団次が「三人吉三」に込めた・庶民としてのささやかな確信・メッセージであったのかなと思うのです。

(追記)

「三人吉三」のシリーズは、1)「生は暗く死も暗い」、2)「お宝の権威喪失」、3) 「三人吉三の三すくみ」、4)「因果の律を恩愛で断ち切る」の4本から成っています。

(H14・6・2)





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