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五段目の「闇」

〜「仮名手本忠臣蔵・五段目」


1)猿之助の歌舞伎ゼミナール

昭和58年(1983)6月7−20日、ヨーロッパで歌舞伎公演を行なった猿之助は、イタリア・ボローニャで歌舞伎ゼミナールを開催し、西洋の演劇を志す青年たちを対象に歌舞伎のエッセンスを講義しました。猿之助の海外でのこうした啓蒙活動は高く評価されるべきだと思います。当時、この時のドキュメンタリーがテレビでも放映されたので 吉之助も見ました。映像は手元に残っていませんので記憶で書いておりますが、ゼミナールは以下のように行なわれました。

ゼミナールに参加したのは世界各地の演劇グループでしたが、猿之助は彼らに次のような問題を出しました。固有名詞を省略して「忠臣蔵」五段目の粗筋を説明し、それぞれのグループに自分たちの演劇様式でこの芝居を解釈して自由に演じてみよう、というのです。数日の準備があって、彼らがそれぞれの衣装・セットを用意して「五段目」を演じました。比較演劇の面白い試みと言えましょう。

細かいことは覚えていませんが、そのなかで特に面白いと思いましたのはイタリアのコメディア・デラルテ(中世イタリアの伝統的な仮面劇)のグループの演じた「五段目」でした。様式的なゆっくりしたパントマイムの動きで勘平が定九郎の死体を探り財布をつかんで逃げ出すまでが演じられます。どこか滑稽でユーモラスな動きを感じさせるのはコメディア・デラルテの様式の特徴です。これはそんなものかと思って見てましたが、その後ろに黒づくめの衣装で大きく手を広げて邪悪な笑みを浮かべる「闇の精」(あるいは「森の精」なのか)がいます。そしてその脇にムンクの名画「叫び」のような恐怖の表情を浮かべるフクロウの姿、この殺人の唯一の目撃者か。これは非常に面白いと思って見ました。

その後に「模範解答」という訳でもないでしょうが、猿之助が「五段目」を演じました。これは音羽屋型の勘平でした。ところで、この音羽屋型ですが実に綿密に手順が決められておりその通りに演じれば「歌舞伎」になってしまうというようなものですが、これはもちろん「様式」ではありません。すべて心理の動きの裏付けを持った「写実」の段取りなのです。ゼミナールの受講者たちはたぶん「歌舞伎は様式の演劇だ」という先入観を持って見ていたでしょうが、この猿之助の「五段目」を見てどう感じたでしょうか。「歌舞伎はリアルだ」と感じてくれたでしょうか。


2)金が敵じゃいとしぼや

さて本稿では「五段目の闇」を考えようというのです。まったくこの芝居はやりきれません。勘平は猪と間違えて定九郎を鉄砲で撃ち、介抱しようとして財布を見つけてしまい、本人にはその意志がなかったとしても、結果的には「人を殺して金を奪って」破滅します。後(六段目)で勘平が殺した相手(定九郎)は舅与市兵衛を殺した犯人と判明して、最後は「勘平は義父の仇を討ったのだ」ということになりますが勘平は定九郎を仇と知って殺したわけではないので説得力は薄いと思います。まさに勘平は金のためにまるで魅入られるように悪事を犯します。まったく「お先真っ暗でやりきれない芝居」なのがこの「五段目」なのです。

あのコメディア・デラルテのグループが演じた「五段目」には、「闇の力・闇の恐怖」がありました。彼らはそれを明確に視覚化して見せてくれました。「誰も見ていない・誰も知らない」、という意識がその者を否応なしに悪の領域に引きずりこんでいく、闇の力・闇の恐怖です。勘平はあれよあれよという間にまるで「闇の精」に操られるように悪の誘惑に引きずり込まれます。そして観客はその勘平の転落を見ているだけで止めることはできないのです。

勘平がこのように悪の誘惑に引きずられていくのに、作者は周到な準備をしています。「三段目」足利家裏門の場において、勘平はお軽と逢引していたために、主人判官の大事に居合わせず、あわてて駆けつけた時には屋敷の門は閉ざされ内へ入れず右往左往することになります。「もはやこれまで」と勘平は刀をもって自害しようとしますがお軽に止められ、思い直してお軽の実家・山崎の与市兵衛宅に身を寄せることにします。しかし勘平はいつかは由良助の許しをもらって仇討ちの仲間に入れてもらおうという望みを持ちつづけています。不忠の汚名をすすぎ、由良助の許しをもらうにはひとつの功を立てなければなりません。勘平は討ち入りの資金を調達することで仇討ちの仲間に入れてもらおうとしていたのです。勘平はあせっていたのです。

別稿「仲蔵の定九郎の型はなぜ残ったのか」で、「五段目」において定九郎と勘平は対比されていると書きました。今の歌舞伎ではカットされていますが、定九郎は与市兵衛に止めを刺しながら「オオいとしや、痛かろけれど俺に恨みはないぞや。金がありゃこそ殺せ。金がなけりゃコレなんのいの。(「こんなことはしない」の意)金が敵じゃいとしぼや。南無阿弥陀。南無阿弥陀。」と言います。まったく自分本位のどうしようもない科白です。しかしこれは「五・六段目」の核心となる科白なのです。

このあと本文では勘平は猪と誤って定九郎を撃ち殺してしまい、「ヤアこりゃ人じゃ南無三宝。仕損じたりと思へど暗き真の闇。誰人なるぞと問われもせず。まだ息あらんと抱き起こせば手に当たる金財布。つかんでみれば四五十両。天の与えと押戴き。猪より先へ逸散に飛ぶが如くに急ぎける。」となります。

本文を読んだだけでは財布をつかんだ時の勘平の心理の綾は十分には分かりません。勘平は罪の意識に一瞬おののいたのでしょうか。これは無言の演技のうちに勘平が表現しなければならないところですが、本文だけだと金をつかむなり、勘平は魔がさしたように思われます。勘平が定九郎の死体から財布をつかんで逃げ出す時の気持ちも言葉に表せば、定九郎の科白と似たようなものかも知れません。「この闇だ、誰にも分かりゃしない、金がなけりゃコレなんのいの、天の恵みだ、これで仇討ちの仲間に加われる」、こうして勘平は悪の世界に墜ちていくのです。

山城少掾が本文を読んで発見したのは、「六段目」の本文には「金」という言葉が四十七回出てくるということでした。作者の意図は「赤穂義士四十七士」にかけてのことば遊びなのかも知れませんが、あるいはそれだけではないかも知れません。ある者は自分の生活のために、ある者は家族の生活のために、「金」のおかげで脱落していったのかも知れません。そして心ならずも「不義士」の汚名を着せられたのです。作者はもしかしたら「赤穂義士」の美名にかくれてひっそりと散った不義士たちのこと・義士たちの生活を支えてきた人たちのことを考えて「金」を墓碑銘のつもりで四十七回読み込んだのかも知れません。2年近くも、成功する当てもない目的のためにすべてを耐え忍ぶ、そんなことは並の人間にできることではないのでしょう。そしてそのためにはやっぱり「金が要る」のでした。

「五段目」においてもこのテーマは同じなのです。定九郎の科白「金があるからこうなるんだ。金がなけりゃこんなこんなことにはならなかったんだ。みんなお金が悪いんだ。」というのは、まったく勘平にも当てはまる科白なのです。

(追記)定九郎が金を数えて「五十両・・・」と言う時に、定九郎は五十両の金包みの封を「切るのか・切らないのか」が論議になることがあります。「六段目」本文で「金は封のまま差し戻さる」とあるので「切らない」のが正しいのだとか、あれは後で勘平が封したのだとか。それはともかく、五段目の真の闇のなかで金がチャリンチャリンと音を立てるのは実に印象的であると思います。したがって 吉之助は「封を切る」方を選びたいと思います。

(H13・7・1)





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