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吉之助流「歌舞伎の見方」講座:

第1講:「希望は過去にしかない」


1)昔の役者はうまかったのである

八代目坂東三津五郎が父親である先代(七代目三津五郎)についてこんな思い出話をしています。

『(芝居の世界で)いま生きてる奴で一人もろくなのはいないと言うんです。「ああいうのをお手本にしちゃいけませんよ。お手本にするなら九代目団十郎ですよ」と言うんで僕はハタッと弱っちゃったんです。見ない人をお手本じゃね。「いまのお客が手を叩いているのはいけないんですよ。あんなものに手を叩いているのをいいと思っちゃいけませんよ」と言われて、一体、芸って何だろうかと苦しんだんですよ。』(坂東三津五郎・武智鉄二「芸十夜」)

「今の役者を手本にするな」とは、そんなに今の役者は駄目なのでしょうか。そんなに昔の役者はよかったのでしょうか。昔が良かったとしても、そもそも「見たことのない(昔の)人を手本にせよ」とは一体どういうことでしょうか、知らないのを真似しろと言っても一体どうしろというのでしょうか、などといろいろな考えが頭を巡ります。

しかし歌舞伎や文楽など伝統芸能を考える時に、「昔はもっと良かった・昔はもっと凄いものがあった」と信じることは非常に大切なことであると私は思うのです。見たことのない昔の役者、本か写真か話でしか知らないあの名優、あの伝説の役者の芸とはどんなものだったのか、その舞台はどれほどに素晴らしかったのか、それを想像し夢みて憧れる、あの役者の域に少しでも近づきたい、その芸の秘密を知りたい・・・こういう気持ちこそが伝統を考え・受け継ぐ者を純化すると私は思います。

先人たちの芸の秘密を知ろうと思うと、芸談やエピソード・劇評などを探して読むか先輩の話を聞くか、あるいは今の役者の舞台を見ながらそのなかに手掛かりを探して、自分のなかで先人の芸のイメージを少しづつ育てていく以外には手がありません。これはなかなか手間と時間がかかることで、しかも期待した成果が必ず得られるとは限りません。そうしたことが整理され体系化された本でもあればいいのにと思いますが、残念ながら芸とか伝統とかいうものはそうやってお手軽に体得できるものではないようです。

「今の役者はなってない、昔の誰々は良かった」というのは観劇の年期の入ったご老人がよく漏らす科白です。今はだいぶ少なくなりましたが私の歌舞伎見始めの頃は「菊吉爺」というのがまだたくさんおりました。六代目菊五郎や初代吉右衛門の舞台を見て育った人たちです。たとえば、「保名」で六代目菊五郎が踊ると、髪の毛が額にじつにいい間合いではらりと落ちる。「菊吉爺」はこれを挙げて、「今の役者も同じようにはするがね、あれは落としてるんで、菊五郎のように落ちるんじゃない」と言い張ります。

さてこれを聞いて、「さて『落ちる』と『落とす』の違いはどこから来るのか、菊五郎の保名はどこがいいのか」と思って考えるか、「何を年寄りが言ってるのか、今は今のやり方があるさ」と思って無視するか、というのがまず歌舞伎を見ていく心構えについての大きな岐路だと思います。「どうやら昔の舞台はもっと素晴らしかったらしい・昔の役者はもっとうまかったらしい」、こう信じることがまず大事だと思います。

武智鉄二氏が「歌舞伎再検討公演」(いわゆる「武智歌舞伎」)を行なったのは昭和24年から27年頃の話ですが、武智氏の述懐によればその時の扇雀(三代目鴈治郎)・延二郎(三代目延若)など御曹司は最初は下手でどうしようもなかったといいます。一方で大部屋出身の役者というのは、もともと芝居が好きでこの世界に入ってきた人たちなので器用で教えたことはすぐ出来たそうです。ところがそういう器用な人たちは「この役はこうでなければならない」、「ここはこういう声を出さなければこの役にならない」という肝心な時に反応しない。逆に御曹司の方はこれは最初はどうなるかと思っていると、苦労しながらでも遂にはものにするといいます。「これは家庭教育の問題ーつまり家庭環境が歌舞伎になっているということだ」と武智氏は言っています。

「この役はこういう風に、こういう声で演じないとこの役にならない」という時に、「どうしてそんなやり方でやらなきゃならないんだ、俺はもっと効果の上がるやり方ができるよ」と思っていると、ついに歌舞伎にならなくて終わってしまうということなのです。扇雀のような御曹司は、なかなか出来なくて苦労しても、「ここはこうでなければならない」という言葉、型とか口伝といわれるものを信じてひたすらついて来る、そうすれば必ず歌舞伎になるということです。

「昔はよかった」という考えが歌舞伎を駄目にするという人もいます。「六代目や九代目もタイムマシンで現代に連れてきて踊らせたとして、それが本当に現代の観客に受けるかどうかは疑問だ」という人もいます。お考えはそれぞれですから否定はいたしませんが、失礼ながら、そのようなお考えでは現代の歌舞伎の舞台を見て古来から伝わる「日本の伝統・日本のこころ・芸のこころ」を感じとることは難しいだろうと思います。


2)希望は過去にしかない

誤解していただきたくないですが、「昔の舞台はよかった、昔の役者は凄かった」ということは「今の舞台が良くない・見る価値がない」ということでは全くありません。そういう意味で「昔はよかった」と言うなら、そういう否定的な考えでは今の舞台に古来の幻想を再現させることも、夢見ることもできない、と言わねばなりません。今の舞台を否定しまうことは今に生きる我々の時代を否定することではないでしょうか、そんなつまらないことはありません。我々の成すべきことは、今を否定することではなく、今を更なる高みに引き上げることではないでしょうか。

そのためには、すくなくとも歌舞伎・浄瑠璃のような伝承芸能の場合には、演じる時にも見る時にも、規範は過去に置かねばなりません。「希望は過去にしかない」と認識すること、それは「絶望」を意味するのではなく、逆に伝承芸能の場合においては、もっとも前向きで・創造的な信念なのです。

さきほどの八代目三津五郎の思い出話ですが、七代目三津五郎は六代目菊五郎とよくコンビで踊りましたが、六代目は気分が乗らないと舞台を捨ててしまうことがよくありました。そんな時でも七代目は平気でしっかりと踊る、このことをなぜかと尋ねたそうです。七代目は「菊五郎はお客さんを相手にしているから、そうなんだろう」と言います。それでは七代目は何を相手に踊っているのか。答えはこうでした。

『あたしゃネ、死んだ人に見てもらっているんだよ。うちの親父(十三代目勘弥)、堀越のおじさん(九代目団十郎)、成駒屋のおじさん(四代目芝翫)、寺島のおじさん(五代目菊五郎)、この人たちが後ろで見ていると思ったら、怠けるなんてできませんよ。』(「芸十夜」)

過ぎ去った先人の芸への尊敬と憧れとそれに少しでも近づこうとする気持ちが、伝統芸能を受け継ぐ者の気持ちを高めるのです。(これは演じる者だけでなく、見る者にとっても同じであると思います。)

たまにテレビで勘九郎親子とか橋之助親子とか御曹司の稽古風景が流れることがあります。普通の子供と違って歌舞伎の家に生まれたばっかりに、遊びたくても遊べない・うまく出来ないと叱られる、などと悩みはあるだろうと思いますが、「お父さんのようにうまくなりたい」・「お爺ちゃんのような役者になりたい」という気持ちがある限り、あの子たちはきっと立派な歌舞伎役者になります。

最後に、第1講の結論ですが「今の舞台を見ながら、その舞台に見たことのない過去の幻想と憧れを重ね合わせて見る」ことをお勧めしたいと思います。必ず舞台が違った感じで見えてくるはずです。

(参考文献)

八代目坂東三津五郎・武智鉄二:「芸十夜」

(H13・1・10)



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