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吉之助の音楽ノート

R・シュトラウス:交響詩「死と変容」


ウィルヘルム・フルトヴェングラーは20世紀前半の優れた指揮者であったと同時に作曲家でもありました。そのフルトヴェングラーが同時代の作曲家リヒャルト・シュトラウスについて次のように語っています。

『私はリヒャルト・シュトラウスがロマン主義の最後の象徴だとは思っていません。彼はベルリー二同様に「バロック様式におけるヴィルトゥオーゾ」でした。つまり、彼の視野や表現的な意図はすべて外界にのみ向けられていました。そういう点から彼はロマンティックとは決して言えないと思います。(中略)ロマンティックな着想とはどういう意味でしょうか。ワーグナーのテクニカルな面で完璧な音楽やショパンのピアノ作品をロマンティックであるとは私には到底思えません。作曲家がロマン派であろうが・古典であろうが・現代音楽であろうが、各人にとっての音の本質を技術的に知り尽くすことが重要であったことは共通しています。そしてロマン主義に 異議を唱え・より客観的な法則である合理性を支持する人々は、その最も偉大な象徴であるヨハン・セバスチャン・バッハが多くの作品で、特に受難曲では音楽史上最高のロマン派であったことを忘れています。』(ウィルヘルム・フルトヴェングラー:アンリ・ジャントンによるインタビュー・1953年 8月26日)

ここでフルトヴェングラーが使用している「バロック・古典・ロマン」という用語の使用法は、「歌舞伎素人講釈」のバロック論において使用している定義とは異なっています。フルトヴェングラーの場合は古典とロマンを対立的に考える・いわゆる一般的な使用法です。にもかかわらず指摘している意味合いはだいたい同じです。ワーグナーやショパンは決してロマンティックとは言えず・バッハは最高のロマン派であるとフルトヴェングラーは言っています。(現在はバッハはバロック派とされていますが ・当時は古典派に分類されていました。)そしてシュトラウスを「ベルリー二同様・バロック様式におけるヴィルトゥオーゾ」と看破する辺りは慧眼と言うべきでしょう。

注意しておきたいことは・フルトヴェングラーはここで「外面的な華やかな音響効果」にバロック的な要素を見ているように思われますが、吉之助流に言えば・純粋な音響そのものに意味合い(思想性)を託し得るとするところに真にバロック的な要素があるのです。シュトラウスの場合はそれが音響的な華やかさになるのです。そこに「女性が金髪か銀髪か・食器が金製か銀製か・音楽で描いてみせる」と言ったシュトラウスの本質があると思います。

シュトラウスと同時代のドイツオーストリアに生き・作曲家に直接に接した人々の振るシュトラウス作品の演奏は、現在の指揮者たちが振るシュトラウスとは響きの質が若干異なるように 感じられます。代表的なのはフルトヴェングラーあるいはクレメンス・クラウスの振るシュトラウス、あるいは・もう少し時代を下った世代ではカール・ベーム、そしてヘルベルト・フォン・カラヤンの振るシュトラウスも同様ですが、彼らの振るシュトラウスは響きの色合いが少し淡くて・独特の透明さがあるように思われます。具体的には木管・特にオーボエ・クラリネットの響きの響きがよく抜ける さわやかさがあると感じられることです。これら木管楽器の響きは世紀末の音楽を考える時に非常に重要であると感じます。シュトラウスを同時代的に感じていた世代の指揮者の方が曲を古典的に捉えている感じがします。あくまで一般論ですが現代の指揮者たちが振ると色彩が重く濃厚に出て・ 響きの印象が重い方に引っ張られる傾向があるようです。何と言いますか・もう少し飛翔する感じが欲しいと思うことが多いのですね。しかし、逆に言うと現代においては曲を重い方向に引っ張る時代的な何ものかがあるのかも知れないとも思います。この点はいまだに引っ掛かっているところです。

このことはフルトヴェングラーが先ほどシュトラウスを「バロック様式におけるヴィルトゥオーゾ」と評したことと矛盾するように感じるかも知れませんが・そうではないのです。吉之助流に言えば・相対的な話ですが・バロック的要素の強いもの(下降する表現)は古典的な方向(上昇する表現)に引っ張った方がフォルムがしっかりして良いように思われます。逆に古典性の強いものはバロック的な方向に引っ張ることで表現が生きる場合が多いようです。そうすることで表現におけるバロックと古典の軋轢は高まるのです。(このことは別の機会に考えてみたいと思います。)そうした最も優れたシュトラウス表現のひとつがフルトヴェングラーの演奏ではないかと思います。

フルトヴェングラーの遺したシュトラウスの録音は多いとは言えませんが、そのどれもがシュトラウスの音楽の本質に肉薄したものです。50年代にEMIに遺したウィーン・フィルとの交響詩三曲 (「「死と変容」・「ドン・ファン」・「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」)のスタジオ録音は特に素晴らしいものです。「死と変容」はそのなかでも傑出した録音だと思います。表現に自在さがあって・表現したいことをやり尽くして・しかもそれが枠にぴったりと納まっているような古典的な趣があります。

R・シュトラウス:管弦楽曲集(フルトヴェングラー/ウィーン・フィル)

「死と変容」は死の床に伏す病人の心の葛藤と・最後に訪れる浄化を描いたものです。「変容(浄化)Verklaerung」とは死の恐怖からの開放あるいは魂の救済のことです。いかにもバロック的なテーマであります。


(吉之助の好きな演奏)

フルトヴェングラーの録音については触れましたので、もうひとつ、シュトラウスはカラヤンを抜きにしては語れません。カラヤンのシュトラウスもどれも素晴らしいもので、実際、「英雄の生涯」・「ツァラトストラはかく語りき」などシュトラウスの交響詩を現代のポピュラーなレパートリーにしたのはカラヤンの功績と言ってよろしいでしょう。吉之助にとっては84年のベルリン・フィルとの来日公演で 聴いた「ドン・ファン」の素晴らしさは今でも耳に残っています。

カラヤンの「死と変容」の録音は多いのですが、ここではベルリン・フィルとの84年11月のライヴ映像(テレモンディアル)及び72年のスタジオ録音(独グラモフォン)を挙げておきます。実に旋律の息の長い・精神的に深い演奏であると思います。

*R.シュトラウス:交響詩「死と浄化」/変容/4つの最後の歌(カラヤン/ベルリン・フィル, 1972年録音)

*R.シ ュトラウス:交響詩「死と変容」 / メタモルフォーゼン [DVD] (1984年収録)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1984年11月25日フィルハーモニー・ホールでのコンサート・ライヴ映像

 


 

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