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吉之助の音楽ノート

ショパン:バラード第4番 ヘ短調・作品52


もともとショパンの音楽は吉之助のお気に入りではあるのですが、そのなかで吉之助がもっとも好きな作品のひとつは、マズルカ嬰へ短調・作品59−3です。ショパンが亡くなる4年ほど前の作曲になるこの作品は旋律が冒頭から感情が激しくうねり・回転するようです。激しく上下する旋律には落としどころがなく、高まった感情は解決されるところが見付かりません。中間部は少し沈静していきますけれども、再び感情が高ぶっていきます。聴いていてこの曲がどのように終結するのか・途中ではちょっと想像が付きません。ひょっとするとこの曲はバーンと大音響で尻切れトンボに終わるのか、この曲にはそんな終結以外に終わる方法はないかのようにも思えます。ところがショパンはとても予測が出来ない畏るべき終結部を用意するのですねえ。こんな激しい曲本体にこんな静かで厳かな終結部があり得るのかと思うほどです。吉之助が音楽聞き始めの頃の話ですが、この終結部の旋律は覚えているのに・曲の出だしがなかなか思い出せなかったことがありました。それくらい曲本体と終結部との旋律は次元がかけ離れていて、論理的な連関がすんなりと見出せません。しかし、これはもちろん木に竹を接いだということではありません。これはこれ以外にはあり得ない終結部なのです。まことに天才の技だとしか言いようがありません。

*ウラディミール・ホロヴィッツによるマズルカ嬰へ短調・作品59−3をお聴きください。

ご存知の通りグレン・グールドはショパンの作品を決して弾こうとせず、ショパンの音楽について否定的な発言を繰り返していました。その発言のひとつに「ショパンは奇態指数(quirk quotient)が高い」というものがあります。奇態指数というのはグールドの造語で、予測がつかない転調・休止・アクセントなどのことを言っているそうです。

『メンデルスゾーンは奇態指数がたいへん低い。ところがショパンは逆に予測不可能性を実践しました。彼の音楽で最良のものは、その効果を存分に発揮するために、調性のある楽曲形式において従来期待されるもののひとつ、ないしはいくつもを裏切ります。その結果、ショパンは終止を迂回したり、ソプラノ声部で通常考えられないような極端な跳躍をしたりすると、たとえ意地悪に感じられても、どうしてもこんな質問が出てきます。「ところで、たった今、彼は何をしたんだ?」と。』(1970年・番組のなかでのグールドの発言〜グレン・グールド発言集)

奇態指数高値の代表例として吉之助は、マズルカ嬰へ短調・作品59−3の終結部を強力に推したいところです。もっともここではショパンは聴き手を驚かせるのではなく、逆にこれは強制的に沈静させる・湖の深いところに連れて行かれるような感じではあるのですが。それにしてもグールドはショパンを毛嫌いせずに弾いてくれればよかったのにと、つくづく思いますねえ。もしかしたらグールドはショパンとあまりに気質が近過ぎたのかも知れぬなあと思います。

ところで別稿「イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル」のなかで、吉之助がショパンのマズルカ・作品6−2の自筆譜を見たことに触れましたが、そのなかで『ショパンの場合は旋律の展開の必然は感性から生じるものなので、時期や環境をちょっと違えて作曲したならその旋律はまったく別の経路を辿ったかも知れぬというようなことが考えられる』ということを書いたわけです。旋律というのはある種の流れですから、その流れに乗っていると「ここで音が上がるね・ここで止まるね・ここで繰り返すね」という感じで何となく先の展開が読めることがあります。それは旋律の出来が良いとか悪いとかではなく、旋律は論理性を持つということです。しかし、ショパンの場合は時折り旋律が聴き手の予想を覆す驚くべき展開をすることがあります。これがつまりグールドの言うところの「ショパンは奇態指数が高い」ということの意味です。

しかし、「ショパンの場合は旋律の展開の必然は論理ではなく、感性から生じる」などと書くと、何だかショパンの音楽の展開は閃きと思いつきの瞬間芸に頼っているように思うかも知れませんが・そうではなくて、あくまでもそれは「必然」なのですから、ショパンはここではこの展開でなければならぬというものを流れで感じ取っているとしか言い様がありません。時期や環境が違えばそのイメージは 確かにまったく別の経路を辿ったかも知れませんが、そういう場合は全然別の作品にそれを仕上げればよろしいのです。そして、その連関は自分ひとりだけが知っていればよろしいのです。ひとりの作家・あるいは作曲家の作品を追っていると、芸術家は結局、一生を通じてひとつのイメージを追っており、その作品群はどれもそのひとつのイメージの周囲を旋回しているのだなあと感じることがあります。まあ大抵の場合はそのような感じで次々と作品を仕上げていくことになるのだと思います。完璧な作品を作ろうとしてひとつの作品だけにこだわってばかりでは仕事が出来ません。自分自身が発展していくために、作品を次から次へと振り捨てていくことが必要になるのです。だから、以前に書いた作品を再び持ち出してきて・これを書き直す・別バージョンを書くことになるとならば、そこによほどの重い事情がなければなりませんね。

ショパンについて長々とこういうことを書いたのは、「ショパンの最高傑作のひとつとされるバラード第4番ヘ短調・作品52の終結部に幻の別バージョンが存在した!」という設定の小説、イタリアの作家であるロベルト・コトロネーオの「ショパン 炎のバラード」(1995年・原題は「プレスト・ロン・フォーコ」、これは「情熱の炎を込めて迅速に」という意味のイタリア語の音楽用語)を読んだからです。作家ウンベルト・エーコも賞賛したという・その作品をとても面白く読みました。確かに音楽の造詣が深くないとこの本は読みにくいかもしれません。それと原文のせいだと思いますが、段落の切れ目が少なくて・昨今の改行だらけのスカスカの文章に慣れてしまった方は、文章が読みにくいと感じるかも知れませんねえ。しかし、これは吉之助の文章も同じでして、文章を書く人でないと分からないかも知れませんが、文章にはそれ自体が持つ重さというものがありますから・段落はその塊が切れたと思うところでしか切れないのです。だからコトロネーオの文章を読んでいると、主人公の想念のなかに深く入り込んでいる感じになります 。

ロベルト・コトロネーオ:「ショパン 炎のバラード」(集英社)

この小説の主人公の老ピアニスト「私」のモデルがアルトゥーロ・べネディッティ・ミケランジェリであるということは、多分確かなことでしょう。しかし、とりあえずそのことは考えないで置きたいと思います。また作中にはクラウディオ・アラウやウラディミール・ホロヴィッツなどのピアニストが実名が登場します。とりわけ「私」のアラウへの評価が高いことも注目されますが、これもちょっと置いておきます。この小説の核心は、ショパンが死の7年前(1942年)に書き上げたバラード第4番へ短調作品52を 、その死の直前(1949年)に突然思い立ってこの曲の終結部を書き直して、「プレスト・ロン・フォーコ」と記して、その手稿をジョルジュ・サンドの娘ソランジュに捧げたという大胆な仮定がされていることです。小説は、ショパンのバラード第4番の幻の別バージョンの手稿がどのような数奇な経過を経て「私」の手に渡ったかというミステリーです。そして「私」はこれを私だけのものとして再び封印してしまうのです。

まずバラード第4番へ短調・作品52ですが、これもマズルカ嬰へ短調・作品59−3に負けず劣らず奇態指数が高いものです。この作品は技巧水準もさることながら・構成を緊密にまとめるのがこれはとても難儀な曲だと思います。この曲をショパンの好きな曲に挙げる方は、ピアノを相当にやってらっしゃる方だろうと思いますねえ。構成的には冒頭部の旋律が何回か形を変えながら回想されるような形式で、うまくやらないとダラダラして散漫な感じに聞こえそうな気がします。ここでも終結は予測できず、このままずっと音楽が続きそうな感じがあります。しかし、突如として怒涛のような終結部がこの流れを断ち切ります。このコントラストが凄くて奇態指数は最高潮に達しますが、 しかし、冒頭部の第一主題の旋律なども吉之助の感じるところでは結構奇態指数が高いものです。弾きようによっては甘ったるくロマンティックに聴こえそうな旋律ですが、どこか情緒不安定で・心そこにあらずのような旋律です。静かに奏でるような旋律ですが、その奥底に鬼気迫る粘着質的な情念を感じます。吉之助はポツポツと歩むような第一主題の半音階の音符にどうしても引っ掛かります。ここの音符にこだわって欲しいと思うのですねえ。

吉之助が知りたいのは、もしショパンがバラード第4番の終結部を書き直したとして、書き直さねばならない必然を作品のなかに見出せるだろうかということでした。必然があるならば、それは作品の欠陥・あるいはヒビみたいなものであろうと、とりあえず仮定します。それはつまり奇態指数の問題になるわけです。現行バージョンの終結部があまりに奇態指数が高すぎるから穏やかなものに付け替えるのか、あるいはさらにもっと奇態指数の高いものに付け替えるかということです。表記が「プレスト・ロン・フォーコ」なのだから、これは後者であることは確かですが、作者コトロネーオは選りに選ってどうしてバラード第4番をショパンの書き直しの曲に選んだのか、この曲のどこに書き直しの必然があるとするのかということです。そんなことを考えながら、バラード第4番をいろいろなピアニストの演奏で聴き込んでいくのはなかなか面白いことです。しかし、吉之助の乏しい想像力ではそこまではとても及びませんね。この傑作の終結部を奇態指数がもっと高いものに付け替えられるとすれば、これはもうホントに想像を絶する恐ろしいことです。そういうことがショパンの想念のなかに起こったとするならば、これはただならぬことです。つまり、この小説のなかではショパンのなかで、そしてこの楽譜に係わったふたりの無名のピアニスト、「私」のなかにおいても、そういう恐ろしいことが起こったということになっているわけです。まずはショパンと、ジョルジュ・サンド、そしてその娘ソランジュとの関係から、これを想像してみなくてはなりません。小説のなかではクラウディオ・アラウが「私」に24の前奏曲に取り組むことをすすめると、「私」はバラードの方を好んでいると答えて・婉曲に断ります。これに対してアラウがこう言います。

「あなたがバラードを。けれども私ならば、むしろ、夜想曲の方が好きですね。(中略)あなたがお好きなバラードは第4番のヘ短調に違いありませんね。そしてその理由ならば、申し上げても構いません。つまり、今のところは、あなたは乱暴に弾いていらっしゃいますからね。」

アラウの言葉を聞いて「私」は呆然としてしまいます。「私」はその鋭い感性のなかで別バージョンの必然性の何かを嗅ぎ取っていたのかも知れません。アラウは「私」の乱暴な弾き方のなかに、それに対する苛立ちを聴いて取ったということです。それにしても、幻の終結部「プレスト・ロン・フォーコ」とはどんなものであったか。ここは文字であるからこそ、そのミステリーの面白さが掻きたてられるということです。音楽に興味のある方はこの小説を是非読んでみてください。

バラード第4番には素晴らしい演奏がいくつもありますが、吉之助が聴いたなかで吉之助が最も惹かれるのはホロヴィッツですねえ。それとリヒテル、アラウの演奏も素晴らしいです。ミケランジェリのものは探したけれど見付かりませんでした。ミケランジェリのバラードは第1番の録音は有名ですけれど、第4番の録音はあるのですかねえ。小説の「私」は3回録音したとあるのですが。現役のピアニストでは、まだこの曲を弾いたことがないと思いますが、是非ポゴレリッチで聴いてみたいものです。

(H23・2・7)

*ウラディミール・ホロヴィッツによるバラード第4番の演奏です。


 

 

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