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ヘルベルト・フォン・カラヤンの演奏

本稿はカラヤンの演奏について随想的に記すものです。順番は年代別ではなく、思いつくまま順不同です。関連する音源で正規リリースがされているものは記載しますが、吉之助の聴いた実演の思い出が含まれますので音源が存在しないもの、放送録音があっても正規リリースがされていないものがあります。 文章は適宜付け加えていきます。

(リンクをクリックすれば該当曲目に飛びます。)
ベートーヴェン:交響曲第7番・イ長調(1977年11月15日)

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(1960年12月29日)(追加)
マーラー:交響曲第6番・イ短調・「悲劇的」(1979年10月17日)

R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」(1984年10月25日)
チャイコフスキー:交響曲第6番・ロ短調・「悲愴」(1984年8月27日)


○ベートーヴェン:交響曲第7番 ・イ長調(1977年11月15日、東京・普門館、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

この演奏会が吉之助が聴いたカラヤン/ベルリン・フィルの最初の生(なま)体験でした。言うまでもなく独墺系の指揮者であるカラヤンにとってベートーヴェンは最も重要な作曲家です。交響曲第7番はカラヤンが特に得意としたものですし、数えたわけではないですが9曲のなかでも恐らく演奏回数が最も多いのではないでしょうか。77年の来日公演でのベートーヴェン・チクルスで吉之助がこの日を選んだのは、もちろん交響曲第7番がプログラムにあったからです。(もうひとつ選んだのは18日の第9番の演奏会でした。)その意味でも吉之助には忘れられない演奏会ですが、もうひとつ忘れられないのはこの演奏会でちょっとしたアクシデントがあったからです。

吉之助の席は一階の前から5列目くらいのちょっと右側あたりで・カラヤンの指揮がよく見えました。曲が開始されてすぐに名手ローター・コッホの吹くオーボエが音をひっくり返したのです。吉之助はビックリしましたが、実はオーボエというのはとても繊細な楽器で・このような トラブルが時々起こるのです。曲が始まって30秒もたっていなかったので・吉之助はカラヤンがオケを止めるかと思って・息を詰めてカラヤンを見ていましたが、カラヤンは指揮棒を止めませんでした。まるでオーボエの トラブルが耳に入ってない如く・カラヤンの指揮棒は眼を閉じたまま・正確にリズムを刻んでいました。オケは見事に立ち直って、終楽章は素晴らしいものになりました。

当日の演奏会は東京FMで放送されて・吉之助は録音を所持していますが、このようなアクシデントがあったので・吉之助はこれをずっと奥にしまったままで聴かないでいたのですが、二十数年ぶりくらいで久しぶりに録音を聴いてみました。この録音を聴くと、オーボエの音がひっくり返った瞬間にオケ全体(この場面であると弦セクション全体)が一瞬ブンッと小さく揺れるのです。オーボエ奏者は頭のなかが真っ白になっていて・自分がどこを吹いているのか分からなくなっています。オケ全体が方向を見失っているオーボエの音を支えようとするかの如くにオケの響きがオーボエを包み込み、「こちらだ、こちらの方向だ」とオーボエの音を導くように、まさにひとつの生命体であるかのように・あるべき音・あるべきリズムの方向へ向かってオケ全体が態勢を立て直していきます。そしてオーボエが正しい位置に納まると・何事もなかったかのようにオケは音楽を続けていきます。それはほんの一瞬の出来事なのです。この時吉之助の脳裏に、身体をピクリともさせずに・正確にリズムを刻んでいたカラヤンの姿がありありと蘇りました。「これはもの凄いオケだ・・」と吉之助は心底驚嘆しました。これはほとんど自律修正機能とでも言うべき能力なのです。当日の吉之助はオーボエの音がひっくり返ってビックリしていたので、こういうことに気が付かなかったのです。二十数年ぶりに録音を聴き直してこのことを痛感しました。

これはオケ全員が耳を澄ませて・互いの音をよく聴き合っているからこそ起こる魔術です。現場に居合わせた吉之助の記憶ではカラヤンはまったく何もしませんでした。ただ正確にタクトを振り続けただけのことです。オケは自分で態勢を立て直したのです。しかし、やはりカラヤンが何もしなかったことにホントの秘密があるのかも知れません。カラヤンがアクシデントに反応して・眉をほんのちょっとピクリとでもさせていれば、結果は全然違っていたかも知れません。このようなことは当日の情景を思い出すからそのように聴こえるのかも知れません。録音だけで聴く方が同じことを感知されるかどうかは分かりませんけれど、「その場に居合わせた者にしか分からないことがある」などと月並みなことは言いたくないですねえ。吉之助の脳裏にはあの時のカラヤンの指揮棒の動きが今でもありありと残っています。

ライヴ・イン・東京1977 ベートーヴェン交響曲全集 IV (1977年11月15日ライヴ)


○マーラー:交響曲第6番・イ短調・「悲劇的」(1979年10月17日、東京・普門館、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

昨今のデジタル録音というのは確かに優秀かも知れませんが、録音プロデューサーにダイナミック・レンジが大きければ良いというような固定観念が強いのじゃないかと疑いたくなることがありますね。例えばブルックナーなど聞くと大体冒頭の弦のトレモロが小さ過ぎて聴こえない。それで音量を大きくすると、今度は全奏の場面で音が大き過ぎて・慌ててアンプの音量を絞りに席を立たねばならない。そのようなバランスが良くない録音が多くて困ります。録音であると消え入るようなピアニシモも・天地が轟くフォルティッシモも操作で簡単に作れるわけです。しかし、昨今の生(なま)の演奏会で「これほどのピアニシモが・・・」と驚嘆することはほとんどないように思います。まっ一応のピアニッシモです 。

カラヤン/ベルリン・フィルと言えば70年代の最高の組み合わせでしたが、その最も特徴的なものはピアニッシモ、それもPが五つくらい付く最弱音のピアニッシモでありました。吉之助が思い出すのは、79年の来日公演でのマーラーの交響曲第6番の第3楽章中間部での弦の「絶え入る」とはこういうのを云うのかと思うような・耳を澄ませないと聴けない・繊細極まるピアニッシモです。これが録音ならば別に驚きはしませんが、これを眼前で展開されると、ホントに大人数のオーケストラから出ている音なのかと目の前で起こっていることがにわかに信じられぬ思いでした。これも席は正面の7列目くらいのところでしたが、吉之助はあっけに取られて、コンサートマスターのミッシェル・シュヴァルべの手元を眺めてました。これは弦に弓を触れるか触れないかという微妙なレヴェルで弾くのだそうです。あの時のシュヴァルべの弓から毛が一本切れて垂れ下がっていたなあ・・そんなツマラぬことまで思い出します。あのような超絶的なピアニッシモは、現在のベルリン・フィルではもはや聴けません。

ところでこの演奏会でもアクシデントがあったのを思い出します。それはまさにこの第3楽章の時でした。突然頭上で・パリーンとグラスが割れるような鋭い音が響いたのです。後に聞くところでは、あれは天井の照明が破裂した事故だったそうです。それでは破片はどうなったのかと心配になりますが、吉之助の上には降りませんでしたけどね。しかし、あの鋭い音は耳に長く残って・その後の演奏を聞くのに困りました。終楽章はダイナミックでとても素晴らしかったのですけどねえ。そう云えば、この時のカラヤンもピクリともしませんでしたね。

*この時の演奏会の録音は残されておらぬようなので、ほぼ同じ時期のスタジオ録音を挙げておきます。
マーラー:交響曲第6番<悲劇的>(1975〜77年スタジオ録音)


○R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」(1984年10月21日、東京・東京文化会館、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

オーケストラの響きも時代を経て・団員が入れ替わっていけば自然と変化していくということは間違いありませんが、それにもかかわらず「このオケの響き」と云う厳然たるイメージが存在するということも確かなようです。ベルリン・フィルの響きというのは、重低音の効いた渋い暗めの響きというイメージが吉之助にはあります。例えばフルトヴェングラーが戦後初めてベルリン・フィルを指揮した時の「運命」交響曲の演奏(1947年5月25日、DG録音)の冒頭部の響きです。それはどことなく湿り気を帯びた暗い情念を秘めた・しかし鋼のような強さを持った、これこそドイツ魂そのものだと心底感じる響きなのです。カラヤンはそのようなベルリン・フィルの響きを色彩的で透明度の高いインターナショナルな響きに作り変えたと、カラヤン生前はそんなことがよく言われたものでした。今でも巷間そういうイメージは依然として残っているように思いますが、それは多分間違いなのです。そういうことは表層のちょっとした印象の違いなのであって(あるいは録音で残っているカラヤンとフルトヴェングラーとのレパートリーの違いから来る思い込みということもあるでしょう、しかしフルトヴェングラーだってフランス音楽など実際に結構振っているのですが)、カラヤンはベルリン・フィルのドイツ的な響きの本質を何も変えはしなかったということを、吉之助は確信しています。そういうことを実演で心底感じたのは、1984年東京文化会館でのR.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の時でした。

この時期カラヤンはベルリン・フィルに女性クラリネット奏者を起用するという問題(いわゆるザビーネ・マイヤー事件、それだけがオケとの確執の原因ではないですが)などでオーケストラと折り合いが悪く、その面当てかどうかは分かりませんが、録音はもちろん・演奏会でもベルリン・フィルでなくウィーン・フィルを起用することが多かったわけです。その為84年の来日も果たして行なわれるかという心配もあって、実際、カラヤンがフルメンバーでベルリン・フィルと対したのはこの来日公演が久しぶりのことであったようです。そのせいもあってか1984年来日公演はプログラムの第1曲:モーツアルトのディヴェルティメント第15番などはもしかしたらアンサンブル的には若干粗い面があったかなとは思いました。しかし、第2曲目のR.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の方はこれはまさに火が付いたような演奏になりました。何と言いますかねえ、互いにおのれの実力を見せ付けてやろうとしているような演奏でした。「俺がいなけりゃあんたは駄目なんだよ・俺が必要だろ・ほら見てみろ・どうだ俺が必要なのが分かったか・・」と互いにやっているような演奏で、その熱いこと・熱いこと。吉之助は、この時にカラヤン/ベルリン・フィルの響きは確かにフルトヴェングラーの伝統を継ぐドイツのオケの響きだということを心底思い知りました。情念がこもった暗く ・ずっしりと重い鋼の塊のような響きなのです。長い曲でもないのに「ドン・ファン」が終わった後の吉之助はグッタリして、この後にレスピーギの交響詩「ローマの松」があったのですが、出来ればこれで演奏会終わって上野の森をひとり散歩しながら余韻に浸っていられればどんな幸せだろうか・・・などと思ったものでした。もちろん帰りはしなかったですけどね。(レスピーギももちろん良かったですよ。「アッピア街道の松」での重量感はもう・・・。)

これ以後の吉之助の聴き方は、カラヤン/ベルリン・フィルのドイツ的なるものを意識する方向に明らかに変わったと自分でも思います。「ドイツ的なるもの」という概念は、明確に説明することが難しいものです。「日本的なるもの」を説明するのも難しいには違いないですが・こちらはちょっと置いておきますが、戦後ドイツの音楽批評界の大御所ヨアヒム・カイザーがフルトヴェングラーについて書いた文章のなかで非常に気になる箇所がありました。

『それにしても気付かされるのは、「ドイツの」という形容詞が今では高度の抽象概念との関連で使われることがなくなったということである。ドイツ軍、ドイツ兵は今でもある。必要ならドイツの戦後文学を挙げても良いし、ドイツ哲学とさえ言えるかも知れない。だが「ドイツ精神」とか「ドイツの心」とか「ドイツ的深遠さ」という語は禁句である。少なくともある年齢以上の人々の大部分にとっては。』(ヨアヒム・カイザー:「非政治的と考えられていた人の政治的伝記」・1980年カイザーのミュンヘンでの講演より〜「フルトヴェングラーを讃えて―巨匠の今日的意味」に所収・音楽之友社)

カイザーが語る戦後のドイツ人の精神状況は前ナチス時代の心の傷が絡むので分析は容易ではないですが、講演においてカイザーが言いたいことは、「ドイツ精神」とか「ドイツの心」とか「ドイツ的深遠さ」という語が禁句である 戦後ドイツにおいても音楽では尚それを感じ取ることは出来た・・・それがフルトヴェングラーであった・・ということでした。これについては、更にこう付け加えることも出来ると思います。カイザーも同意してくれるに違いないと思いますが、吉之助にとってはフルトヴェングラー以後も尚それを感じ取ることは出来た・・それがカラヤンであった・・なのです。

*この時の演奏会の録音は残されておらぬようですが、この2日前の大阪ザ・シンフォニー・ホールでの同じプログラムでの演奏が映像で残されています。これも良い演奏です。
ライヴ・イン・大阪 1984 (1984年10月19日ライヴ)


○チャイコフスキー:交響曲第6番・ロ短調・「悲愴」(1984年8月27日、ザルツブルク祝祭大劇場、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ご承知の通りカラヤンは同じ曲を何度も録音しました。そのなかでもチャイコフスキーの「悲愴」を7回も正規録音したということからしても、確かにカラヤンは「悲愴」という曲が好きだったと思います。曲としての出来もさることながら、色彩感・ダイナミクスも大きいし、オーケストラの表現能力を試すものとしてこれほど聴き応えのする曲も多くありません。もっともカラヤンの場合は、その長い録音歴にも係わらず、若い時の演奏と晩年の演奏でテンポや解釈が極端に異なるという例があまりないようです。もちろん色合いや印象がその時代のカラヤンを特徴付けており、だからどの時代の演奏もそれぞれの魅力を備えているわけですが、「これがカラヤンの演奏とは信じられない」と驚くほどの極端な印象の変化はないようです。逆に言えば、そういうことがある種の安心感になっているということもあると思います。「悲愴」 の場合でも、ベルリン・フィルとの1939年(カラヤン31歳)の第1回録音にしても、この若さにして既に完璧なオケの掌握力を示しており・その解釈に青臭いところなど微塵もありません。そこから約50年後の7回目(84年)のカラヤンの「悲愴」までの軌跡をスッキリと見通すことさえ十分に可能です。しかし、入手できるライヴ録音などいろいろ聴いていくと、意外に感じられる演奏もあるにはあります。1984年8月27日ザルツブルクでのウィーン・フィルとの「悲愴」ライヴはその最たるものです。

カラヤンはどちらかと言えば理性のコントロールを効かせて・感情の揺れを顕わにすることを恥じるようなところがありました。しかし、この84年の「悲愴」ではその理性の箍(たが)がちょっとはずれた感じで・テンポの揺れが実に大きく、ずいぶんと様相が異なる演奏になっているのです。例えば第1楽章の展開部に入る直前、ファゴットがゆっくり下降する音型からオケの全奏に入る一瞬の間合い(音のタメ)など、普段のカラヤンの倍の長さです。いつものカラヤンの間(ま)で聴いていると一瞬オケが止まったように錯覚されて「アッ!」と驚いてしまいます。そこに漆黒の闇が覗きます。第4楽章では旋律の息が沈痛で重く沈みこんでいくように感じられ、そこに死が蠢いていることが感じられます。吉之助もずいぶんとカラヤンの録音は聴いてきたつもりですが、これほどカラヤンが感情ののめり込みを聴かせることは珍しいことで、吉之助にとってこの演奏は最も忘れ難いもののひとつです。聞くところではある演奏会でカラヤンの娘さんが「悲愴」を聴いて「パパが死んじゃう」と言ってワンワン泣きじゃくったことがあったそうですが、それは多分この日の演奏であっただろうと推察します。同じくらい吉之助にとってもショッキングな演奏でありました。

何がカラヤンをそのような深刻な心境にさせたのかということは推察しても仕方がないことです。ただし、この時期はザビーネ・マイヤー事件の件でカラヤンとベルリン・フィルとの関係が最悪であった時期で両者がまったく共演しない、代わりにウィーン・フィルとの共演が続いていたという時期でしたから、そのような解決策が見えない状況がカラヤンの心理に重い影響を与えていただろうとは思います。ちなみに27日のザルツブルクでの演奏から3日後のルツェルンでの同じくウィーン・フィルとの「悲愴」の放送録音も残っています。この日の「悲愴」では冷静さが 多少戻ってきているとは云え、まだ平衡感覚の揺れが残っているようで・第2楽章のワルツの重さなどとても印象深いところがあります。

*この時の放送録音は正規の形ではリリースされていませんので、代わりに1984年1月に録音されたウィーン・フィルとのスタジオ録音を挙げておきます。これはいつものカラヤンらしく抑制が効いた演奏です。ベルリン・フィル だけの録音がずいぶん続いていたので、久方ぶりのウィーン・フィルとの録音での共演を当時新鮮に感じたものでした。
チャイコフスキー : 交響曲第6番ロ短調<悲愴>(ウィーン・フィルとの84年1月録音)


○ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(1960年12月20日、ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団、ビルギット・ニルソン、ジョン・ヴィッカース、ハンス・ホッター他)

記録によると、カラヤンは1960年12月17日・20日・22日と、翌年1月3日・5日の5回、ミラノ・スカラ座でベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」を振りました。これは同じ時期のウィーン国立歌劇場でのプロジェクト、ニルソン、ヴィッカース、ホッターなど主要歌手陣を含め、ほぼそのままミラノに持ち込んだものです。当時、瑤子夫人と世界一周の旅行中であった三島は、途中ミラノに立ち寄って、「フィデリオ」の演奏をスカラ座で聴きました。三島がミラノでカラヤンを聴いたのは恐らくたまたまのことだったでしょうが、カラヤンの演奏は三島に強いインスピレーションを与えたようです。

三島由紀夫は小説「獣の戯れ」についての「作家の言葉」(1961年6月)のなかで、「今年の1月、ミラノのスカラ座で「フィデリオ」を見た時、カラヤン指揮の第2幕のあの長い間奏曲の、壮大と甘美に深く心を打たれ、興奮冷めやらぬまま明かしたその晩に、突然この小説 (獣の戯れ)の構想が隅々まで心のに浮かび上がった」 と記しています。三島が聴いたのは、1月5日のことでした。文中にある長い間奏曲とは、もちろんレオノーレ序曲第3番のことです。別の文章「わが小説〜獣の戯れ」(1961年11月)のなかでも、三島は「カラヤンの棒は音楽をはっきり目に見せる」と評し、「私はあんなに官能的なベートーヴェンを聴いたことがない」と記しています。

この時の録音を聴くと、演奏は当時のカラヤンらしく、テンポが速めの、キリッと引き締まった筋肉質な演奏で、「官能的」という感想がすぐ浮かんで来ませんが、これを「官能的」と聴いたところが三島の感性なのです。三島の感想は、舞台の視覚的な印象と、オペラ全体から見たレオノーレ序曲第3番の位置付けから読み込まないと、三島が感じた「官能的」な印象の根拠が見えて来ません。この点については、機会を改めていずれ書くことにします。(別稿「三島由紀夫:「獣の戯れ」と歌劇「フィデリオ」を参照ください。)

それにしてもウィーン国立歌劇場のドイツ的な渋い暗めの音色とは異なり、ミラノ・スカラ座管弦楽団の演奏は直截的な音の塊がぶつかって来る 無骨な強さが際立っていて、明るい陽射しに照らされたように、音楽の構造がよりくっきりと見えて来ます。その分、カラヤンの意図がより明確に出ているようです。もちろん歌手は粒ぞろいですから、悪かろうはずはありません。

*カラヤンがスカラ座で振った「フィデリオ」の録音は、1960年12月17日と20日の録音が遺されていますが、残念ながら三島が聴いた1月5日当夜の録音はないようです。
ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(カラヤン指揮ミラノ・スカラ座、1960年12月20日の録音です。)


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