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役者の全盛期ということ
       〜歌舞伎の古い映像を見ることの意味


1)役者の全盛期ということ

パフォーマンス芸術において「誰其の全盛期は○○年頃であった」などと云うことを聞くことがあります。スポーツ選手の場合であれば、これは体力と密接な関連がありますから、ホームランを連発していた選手が打球の飛距離に突然伸びがなくなって・今までだとスタンド入りしたはずの当たりがフェンス手前に落ちてしまって・体力の限界を感じて引退するなんて話がありますから、スポーツ選手に全盛期みたいなものがあるというのは、確かに分からないことはありません。大ベテランが難しい球をうまく救い上げて「芸術的なホームラン」などと言われることがあっても、技術・巧さだけでは全盛期という言われ方は必ずしもされ ません。スポーツの場合はやはり人気とか記録がそのバロメーターになると思います。

パフォーマンス芸術の世界でもバレエなどでは、今まで売りにしていた華麗な跳躍が満足できるレベルで出来なくなったということで名ダンサーが引退するということがあ ります。これも体力と大いに関係があるということですから理解はできます。しかし、なかにはかなり高齢でも現役で活動を続けられるジャンルがあって、例えば指揮者やピアニストなどがそういうジャンルです。例外もありますが、大抵の場合死ぬまで現役という方が多いようです。テンポが遅くなる・表現の斬れが悪くなるということが 多少あったとしても、別の意味で経験の積み重ねから来る表現の深みというものが増してきます。これは何にも替え難いものものです。これがあるから芸術というのはたまりません。何度も聴いた同じ曲を 同じ演奏家で、また聴きたくなるのです。歌舞伎役者の場合もそうですね。このようなパフォーマンス芸術家に全盛期というものはないと思うわけです。それなのに世間で は誰其の全盛期などと安直に言われていない でしょうか。体力的にピークの時期というのは当然あるでしょう。しかし、それがパフォーマンス芸術家のベストの時期であるとは限らないのです。

パフォーマンス芸術家の道程というのは果てしないものです。誰でも日々深化(進化)を心掛けているものです。昨日よりもっと良い芸を勤めたいと思うものです。だから吉之助は「パフォーマンス芸術家には全盛期などというのはない」と考えていますが、そうでないと考える方もいるのかも知れません。それで誰其の全盛期は○○年頃であるというような話がよく出て来るのでしょう。まあ人それぞれのことですから・別に否定はしませんけれどね。しかし、吉之助の場合は、原則 として「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」という考え方に変わりがありません。 これがパフォーマンス芸術を鑑賞する時の心構えであると思っています。

二十世紀前半の最も重要な指揮者であるフルトヴェングラーあるいはトスカニーニについては、その演奏を生で聴いた方々の証言として、共に「その全盛期は1920年代から30年代前半」などと云うことを本で読むことが多いわけです。しかし、1920年代から30年代前半というのは実に都合が良ろしい年代でして、 40年以降はともかく、彼らの20年〜30年代の録音というのは数えるほどしか遺されておらず、あっても音質が非常に貧しいのです。つまり、真相を確かめ様がないのです。「実際に聴いた人がそう言うならば・多分そうなんだろうなあ」という 程度のものです。(この辺、吉之助にとっての九代目団十郎や五代目菊五郎に似たところあり。)吉之助もこの時代の彼らの録音を手当たり次第に集めて貧しい音質のなかから「全盛期の響き」を聴き取ろうとしてきました。まあそうやって聴こうとする態度は大事なことではあります。そこから教えられたところも 多々あると思います。

吉之助が音楽を本格的に聴き始めた時代にカラヤンと並んで重要な指揮者はカール・ベームでした。60年代のベームは、やや早めのテンポで・リズムを明確に力強く刻むノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の芸風でありました。しかし、ベームは70年代に入ると急激にテンポが遅くなり始めました。1975年に久しぶりにベームが来日した時にはずいぶん期待をしたものですが、表現が緩んだ感じに聴こえて、吉之助もその演奏を聴きながら「ホントのベームの実力はこんなものじゃない」とか・「もう5年早く来て欲しかった」とか 心のなかでブツクサ言いながら聴いたものでした。そんなわけで・ベームには当時とてもガッカリさせられた思い出が吉之助にはありますが、当時のベームのそれらの録音を改めて聞き直せば、テンポはもちろん遅いけれども・リズムはしっかり打ち込まれて・旋律の息が深い・これは実に立派な演奏なのです。やっぱりベームは良かったと改めて思います。あの時にガッカリしたのは、あれは何だったのでしょうかね。

カラヤンについては歳取ったというようなネガティヴな印象を抱いたことはほとんどないですが、晩年(80年代)においては、それ以前のキリッと鋼鉄のように引き締まった緊張感のある表現とは かなり変化してきて、オケの自発性を優先させる感じが明らかに強くなってきました。しかし、それは以前とはまた違った独特のゆったりとした余裕・というか懐の深さを感じさせて、それはまた魅力的なもの だったのです。

このようにひとりの演奏家の演奏スタイルの変遷をずっと追っておくと、そこにその演奏家の生き様のようなものが浮かび上がってきます。それが世にベームの芸術・カラヤンの芸術と云われるようなものです。さらに聴き込んでいけば、ベームもカラヤンも共に同じ時代を生き・同じ時代の空気を吸って切磋琢磨してきたのだと云うことも実感できます。1979年カラヤンはベーム85歳の誕生祝賀式典においてスピーチを行ない、ヘリゲルの「弓道における禅の精神」を引用して・貴方(ベーム)は指揮に於いてこの極意を実践したと称えました。そこにふたりの偉大な指揮者の時代を同じくした要素を見ることができます。

『私が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。このことは肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない。では、どちらでもあり・どちらでもないとすれば、どうなるのか。弓と矢と的とおのれのずべてが融けあうと、もはやこれらを分離することは出来ない。そして、分離しようとする欲求すらなくなる。だから、私が弓を構えると、すべての事柄がクリアで、面白いほどシンプルになる。』(オイゲン・へリゲル:「「弓道における禅の精神」)

オイゲン・ヘリゲル:日本の弓術 (岩波文庫)

吉之助が同時代リアルタイムで追ってきたベーム・カラヤンの例を挙げました。クラシック音楽は音源としてほとんど百年に近いアーカイヴを膨大に持っており、いろんな演奏家の・いろんな年代の録音を同等の位置付けで 並べて聴くことが出来ます。ですから吉之助には「どの時代の演奏も・その時代のものとしてベストを記録しているのであって・それぞれにその良さがあり・それらを互いに比較 して優劣を付けることは意味がない」という聴き方が、完全に身に付いています。しかし、ひとりの演奏家の芸術を時間の流れのなかで総括する場合においては、先に述べた通り、吉之助は「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」というベクトル線上で聴くようにしています。これはとても大事なことです。歌舞伎役者の舞台を見る場合でも同じことだと思います。

(H23・9・4)


2)その人の最新のものが良いものであると考える

「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」というのはもちろん心構えということです。しかし、単なる建前ではなく、 これは「芸というものは果てしがなく・決して完成はない」ということに対する理念的な対処法なのです。現実には 誰にだって好不調の波があります。病気・事故あるいは年齢から来る体力の衰えとかどうしようもない問題が絡みます。それでも果てしない完成を目指し続けることに意味があるわけで、これにお付き合いする観客(聴衆)もまたそうです。

「誰其の娘道成寺の舞台は一度見たから、それでもう十分」という方もいらっしゃると思います。それはその人の考え方ですからそれで結構ですが、吉之助の場合は再演してくれるならば・必ず何かが加わっていると思いますから、機会があるならば是非見たいと思います。もちろん役者も歳取っていけば当然失われるものがあるでしょう。しかし、それに代わる何かを期待して・また見てみたいと思います。何かを失わないと、代わりのもの・もっと高次なものは得られないということもあるのです。

世阿弥は「花伝書」のなかで「花」ということを言っています 。世阿弥の花は独特な理念です。一般に芸の「花」と言えば・華やかで輝かしい生命の頂点のようなイメージがあると思います。「華」の字で書かれることもあるくらいです。だから 時分の花というと、若さゆえの花という風についイメージしてしまいがちです。しかし、花と言うものは咲いたらいずれは萎(しぼ)んでしまうものです。だから花と言う時には、そこに儚(はかな)さ・移ろいということも 、実はイメージされているのです。花と隣り合わせに 常に死があるのです。老優が演じる若衆に若手役者では絶対に出せない怪しい色香を感じてハッと驚くことがあるのは、芸というものの本質に儚さというものがあり、それがどこかで花のイメージと通じ合うからです。 だから二十代には二十代の・七十代には七十代の、それぞれの時分の花があるものだと思います。

二代目鴈治郎が亡くなったのは昭和58年(1983)のことですが、東京での最後の舞台はその前年11月歌舞伎座での「新口村」での忠兵衛であったと思います。この時の鴈治郎はかなり体力が落ちて弱々しく、寄り添っている梅川(扇雀=現籐十郎)が実は忠兵衛の身体をしっかり支えており、そうしないとよろけてしまいそうな危うい感じでありました。当時の劇評には「お金を取る からにはこのような老醜さらした状態で舞台に出るべきではない」というようなコメントが沢山出ました。随分心ないことを書くものだなあと思いました。あの時の鴈治郎は誰の目から見ても「東京での舞台は多分これが最後になるのだろう」ということが明らかであったからです。結果論で言うのではなく、そういう忠兵衛であったと思います。忠兵衛は父親をひとめ見たくて・自分の不孝を詫びたくて新口村へ逃げるわけですが、実はおめおめと父親に見せる顔などないわけです。ホントは会えた 道理じゃないのだけれども会いたい、しかし、会ってはいけないということを忠兵衛は感じているのです。そういう気持ちがヒシヒシ伝わってくる忠兵衛でありました。吉之助のなかでの最高の忠兵衛は依然として鴈治郎であり、鴈治郎の最後の舞台でそのイメージが崩れることはまったくなかったのです。そのようなことは役者と観客の馴れ合いのなかで言えることじゃないかという方がいそうです。けれどパフォーマンス芸術家と観客 (ファン)の関係というのは本来そういうものじゃないのでしょうかね。芸というものは、長いスパンのなかで捉えていかないと決して見えて来ないものが確かにあるのです。

(H23・9・10)


3)自分が七十代になった時にはああ成りたいと思うことは意味がある

六代目歌右衛門が亡くなったのは平成13年(2001)3月のことでしたが、歌右衛門は最晩年は舞台に立つことがありませんでしたから、吉之助にとっては歌右衛門の舞台を生(なま)で見たのは平成7年4月歌舞伎座での「沓手鳥孤城落月」での淀君が最後となりました。この時の歌右衛門は前月から体調が悪くて「一ヶ月の舞台が勤められないで休演するかも知れないがご容赦いただきたい」旨のコメントが初日前に出るという異例の事態でした。こうなると吉之助も落ち着かなくなって、恐らくこれが最後の淀君になるだろうという覚悟をして初日の舞台に駆け付けました。「糒蔵」の場は歌右衛門の体力消耗を防ぐということで・なるべく淀君が動かなくて済む段取りが取られました。いろんな意味で淀君と歌右衛門が重なってくる舞台でしたが、身体が多少動かなくたっても・台詞が多少聴きにくかったとしても、それ以上にビンビン伝わってくるものがありました。情念と言っても良いし、気迫と言っても良いでしょうか。そこに淀君の生き様があり、歌右衛門の生き様が見えました。

この時の劇評にも「お金を取るからにはこのような老醜さらした状態で舞台に出るべきではない」というような心ないコメントが沢山出ましたねえ。身体が満足に動かなくなったと言って自ら身を引いてしまう役者もいます。一方で身体が十分に動かなくなっても、それでもなお舞台に立とうとする役者もいます。そこにそれぞれの役者の生き様が示されています。そこに良いも悪いもありません。片方が潔くて、片方が未練であるなどと誰が決め付けることができましょうか。結局、芸というのはその人の生き様であって、鑑賞する側もその人の生き様においてこれに対峙するということになるのです。もちろん実際にはいろいろな条件が重なって、そのような高いレベルの対峙に至らないことがほとんどではあるでしょう。しかし、例え単純にミーハー・ファンというようなレベルであっても、例え私は大好きなこの役者の舞台なら何であっても許すという感じであっても、見続けていれば、ある時に演じる側と観る側の生き様がピッタリと重なる瞬間が必ず来るのです。そういう瞬間がいつ訪れるのかは誰にも分かりませんが、観続けてさえいれば、そういう瞬間に必ず出会う時があるのです。その瞬間に、芸というものとはどういうものか、芸というものが観る者に何を指し示すのかが、はっきりと分かります。

「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」ということは、PCのファイルを常に更新し・新しいものに書き換えていく行為にも似ています。「最新のものが常に良いのか?書き換えてもっと悪いものになってしまうことはないのか?」と云う疑問を持つ方がいそうですねえ。そう思うのならば書き換えなければ良いのです。しかし、書き換えて何かがもっと良くなると思うから、そのことの価値を認めるから書き換えるのではないでしょうか。なるほど書き換えて実際には期待通りの結果にならないこともしばしばあるでしょう。しかし、それは結果としてたまたまそうなっただけの話です。そのリスクを恐れて 挑戦することをしないのならば、生きてることの甲斐がないと言うべきですね。パフォーマンス芸術には常に肉体・あるいは年齢の問題が付きまといます。歳を取れば、若い時のように身体は自由に動きません。顔に皺も出来ます。しかし、二十代には二十代の・七十代には七十代の、それぞれの時分の花があるのです。ファイルを常に書き換え続けねばならないのは、パフォーマンス芸術の宿命です。二十代の役者が七十代の役者のやることを同じように真似しようとしても駄目で、七十代の役者が自分が二十代の時にやれたことを再びやろうとしてもこれも無駄なことです。しかし、二十代の役者が自分が七十代になった時にはああ成りたいと思い続けていくことは、絶対に意味があることなのです。パフォーマンス芸術を見続けていく(聴き続けていく)と云う行為は、鑑賞する者も演者同様、そのことの意味を追い続けるということに他なりません。

(H23・9・25)


4)どんな映像でも・演者の・その時点のベストの芸が遺されている

ところで初代吉右衛門には「寺子屋」(昭和25年・御園座)・「熊谷陣屋」(昭和25年・東京劇場)・「盛綱陣屋」(昭和28年歌舞伎座)と三つの舞台映像が遺されています。先日(8月)の早稲田大学演劇博物館での初代吉右衛門展のイべントとして、これらの映像が上映される機会がありました。そこで気になったことですが、「これらの映像は初代晩年(初代は68歳で昭和29年9月に没)の映像であって初代のベストの演技が記録されていない」というような事を仰る方がいらっしゃるようなので申し上げたいのですが、そのような了見でこれらの貴重な映像を見るのは如何なものかな・・と吉之助は思うのです。初代吉右衛門に限ったことではないですが、どんな映像でも・その時の演者の・その時点のベストの芸が遺されているのです。そう思って見なければ決してご利益はないということを言いたいですね。これが伝統芸能の古い映像を見る時の根本的な態度なのです。

映画「盛綱陣屋」は三つの映像のなかでは最も高齢期の初代吉右衛門を記録したものです。初代は明治19年の生まれですから、この時に66歳ということです。現在とは平均寿命が違うとは言え、今の感覚からすると66歳はずいぶん若いのですが(ちなみに六代目菊五郎は昭和24年没で享年63歳でした。)、映画「盛綱陣屋」では当時の初代吉右衛門の脚の具合が悪かった為、段取りを変えたところがあります。そのような箇所があるにしても「・・だから初代のベストが記録されていない」などと云うことは決して言ってはならないことです。そのような手順の変更などどうでも良いことです。それよりもホントに見るべきところをしっかり見てもらいたいものです。例えば微妙に向かって「聞き分けてたべ母人」という時の間合いの良さ、首実検の後で小四郎に向かって「でかした、でかした」という長台詞のリズム感などです。しかし、間合いの良さとかリズム感とか書きましたが・ホントに大事なところは実はそういうところではなく、そういうものが如何にも義太夫狂言臭い時代の重い表現ではなく、写実の表現として、実に軽やかにシャープに・しかし確実に繰り出されることです。このような初代吉右衛門の演技を、盛綱でなくても・他の時代物でも良いですが、現代の歌舞伎役者の舞台で見ることができますか?ということです。吉之助が映画「盛綱陣屋」で見て欲しいと思うところは、そういうところなのです。

映画「寺子屋」では「でかした源蔵、よく討った」で初代吉右衛門は松王が右手を大きく挙げて形を決めることをしません。「あれは晩年のことで初代は右腕が上がらなかったから」と仰る方がいるようですが、それは事実とちょっと違うのではないでしょうか。後年の「盛綱陣屋」では初代は「でかした、でかした」のところでパッと右手で扇を高く掲げていますけどねえ。初代吉右衛門の松王が右手を大きく挙げて形を決めないのは、意図があってわざとそうしなかったのだと吉之助は思います。映画「寺子屋」の他の部分を見ますと、例えば後半・「・・源蔵殿、お許しくだされ」で泣く場面・普通はここは大落としと云って・懐紙を目に当てて身体全体を大きく震わせて大泣きしてみせるわけですが、初代は懐紙でちょっと目頭を押さえる程度なのです。ですから、こういうところで・これ見よがしな臭い演技をしないのが初代吉右衛門の芸風だということが、三つの舞台映像から見えてくることだと思います。(「熊谷陣屋」については別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」をご覧下さい。)

この印象は、小宮豊隆:「中村吉右衛門論」あるいは小島政二郎:「初代中村吉右衛門」などの本に綴られている証言とぴったり符号します。だから吉之助が映画から受けた印象は正しかったし、小宮豊隆・小島政二郎の書いたこともまた正しかったということが明らかなのです。(詳しくは別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」をご参照ください。)

初代吉右衛門は子供芝居(当時はちんこ芝居とも呼ばれた・いわゆる首振り芝居)で人気を取って後に大歌舞伎に入った役者でした。だから子供時代に義太夫で糸に乗せる演技を身に付けて後に義太夫狂言の名手となったという ようなことを仰る方がいますが、これがとんでもない思い込みであることは、遺された舞台映像を見れば明らか なのです。初代吉右衛門は熊谷や清正など英雄豪傑を得意とした・だからスケールが大きい重厚で押しの効く役者だ・それが義太夫狂言だ・・・そういう思い込みで映像を見ると、見えるものも見えないことになります。

幼い頃の吉右衛門のエピソードに次のようなものがあります。幼少の辰次郎(吉右衛門の本名)を芝居に親しませるために、父・三代目歌六は弟子の十郎を辰次郎の遊び相手につけました。十郎と毎日お芝居ごっこをしながら、辰次郎は芝居のコツを身に付けて行きます。ある時、辰次郎は十郎にこう聞いたといいます。「十郎、お前と芝居をしているとこんなに面白いのに、どうしてお父っつあんのしている芝居を見てると、あんなに詰まらないのだろう。」

十郎はびっくりして、「そりゃあ、坊ちゃん、私たちのしているのは遊びだからですよ。」と答えました。「あんなの、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。アタイに芝居をさせようと思ったら、あんな人形の真似をさせないで十郎が芝居を買いておくれよ。十郎の芝居は、生きた人間が出て、我々と同じような事を言ったりして面白いよ。」十郎は困っただろうと思います。「そんな芝居は歌舞伎のように長続きなんかしないんですよ。すぐ飽きられてしまうんですよ。」辰次郎はしばらく考えてこう言いました。「・・・そうかな、アタイには分からない。」

『「そうかな、アタイには分からない」、この幼い一言が吉右衛門の一生につきまとって離れなかった、彼の一生を決定する大事なキー・ポイントだった。』・・小島政二郎はそのように書いています。このエピソードから、初代吉右衛門でちんこ芝居の首振りで義太夫狂言の演技のコツを身に付けて名優になったなんてことが想像できますか?初代吉右衛門が身に付けたとするならば、それは糸に乗って人形みたいにギックリバッタリすることの反義的な意味ではないでしょうか。 この感覚は大正の自然主義リアリズムと符号するものです。そのような流れの果てに初代吉右衛門の晩年の 演技があるのです。晩年の映像が教えることはそういうことです。

ですから・もう一度繰り返しますが、どんな映像でも(録音でも)・その時の演者の・その時点のベストの芸が遺されていると思わなければいけないのです。そう思って見なければ、映像は決してあなたに芸の奥義を語りかけることはないでしょう。これが伝統芸能の古い映像を見る時の根本的な態度なのです。

(H23・10・3)


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