(TOP)           (戻る)

村上春樹・または黙阿弥的世界・その2

〜「ねじまき鳥クロニクル」

*本稿は「村上春樹・または黙阿弥的世界」の続編です。


1)年代記のこと

「20世紀最大の奇蹟の人」とも呼ばれ・数々の予言で知られるエドガー・ケイシー(1877〜1945)は・その当たったとされる予言も含めて・数多い記録を残しましたが、そのなかでケイシーは自分は未来の映像を見ているのではなく・意識の世界のあるところに保管されている「アカシア年代記」(Der Akasha-Cronik)という記録を読みに行って・そのなかの事柄をそのまま伝えているにすぎないということを語っています。「アカシア年代記」というのはドイツの神智学者ルドルフ・シュタイナーが語って有名になった概念ですが、宇宙の誕生から終焉まで(つまり過去から未来まで)がデータバンクのように記されたもので・すべての物事は年代記が記する通りに動 くと・古くから言い伝えられているものです。 ちなみに年代記(クロニクル)は一般に編年体で書かれた歴史書のことを言いますが、まあイメージとして・その起源から終末までの出来事を時の流れに沿って記した記録と考えてよろしいでしょう。「アカシア年代記」などと言うとオカルトのようであり・未来はすべてあらかじめ決められているのかと思うかも知れませんが、そうではありません。これについてはA・W・ゴムが言うことがまったく正しいと思います。

『神々は未来を知っているが、定めることはない。神々は次回のスコットランド対イングランドのサッカー試合でどちらが勝つか知っている。だからと言って、勝敗が選手たちの技術と気力と体調と、そして幾分かはツキ次第で決まってくるという事情に何ら変わりはない。』(A・W・ゴム:「アリストテレスと悲劇の人間像」(1962))

まあそれはともかく・もの書きが文章を書く時に各人それぞれ書き進めのスタイルがありますが、ひとつのスタイルとして頭のなかにある設計図(それはちょうどクロニクルのようなものです)に沿って、書くというより書き写す・あるいは編集するという状態になることもあるものです。小説を書くのに熱気あるいは勢いが必要なことも確かにあります。しかし、小説のタイプによってはそうではなくて・むしろその佇まいが大事になることがあります。形式あるいは様式という言葉を使っても良いのですが、それだと何だか枠型(パターン)のようなイメージになりそうなので、ここではやはり佇まいということにしておきます。佇まいということは長い期間をかけて熟成される長編小説の場合に特に大事なことです。作品が長大になればなるほど構造は読者から見えにくくなってきますから、その時に作品の流れを維持するものが佇まいなのです。長編小説を執筆する時、推敲の段階で文章はいろいろ形を変え、時に筋が大幅に入れ替わること があります。しかし、作者は頭のなかに保管されているクロニクルに常に立ち戻って書き進めていきますから決して作品の内容はぶれることはありません。その時に作品の流れを整えるのが佇まいの感覚です。ですから 「小説は筋(ストーリー)がすべてだ」とお考えの方は読み手の立場では多いと思いますが、書き手にとっては実はそうではないのです。出版された時にたまたまそういう筋で固定していたというだけのことです。別の筋を用いても同じ内容 の作品がいくつも書ける・書き手にとっては両者に大した違いはない・そういうものなのです。

2)「ねじまき鳥クロニクル」について

『「ねじまき鳥クロニクル」という作品は僕の作家としてのキャリアの中では、ひとつの転換点として機能していると思う。つまりこの作品を書く前と、この作品を書いたあととでは、僕の作家としてのあり方がずいぶん違っているということだ。「ねじまき鳥クロニクル」以降の僕の作品が、都会的なソフィスティケーションや軽みを徐々に失う方向に向かっていったのは確かだ。そのかわり「何かと関わり合っていく」という意志のようなものが、登場人物の中に少しづつ見受けられるようになっていく。』(「ねじまき鳥クロニクル」作者解題)

村上春樹は「ねじまき鳥クロニクル」が作家としてのキャリアの中での転換点であると自ら位置付けています 。吉之助は村上春樹の作品を「ねじまき鳥クロ二クル」以外にまだ読んでませんが、作者の言う「転換点」が第3部執筆にあったことは、これは作品を読めば吉之助にもはっきり分かります。この作品が第1部・第2部で完結していたならば作者にその転換は訪れなかったと断言できます。それほど第1部・第2部と第3部の印象はかけ離れています。そこで本稿では作者がなぜ「ねじまき鳥クロニクル」第3部を書かねばならなかったかを考えてみます。吉之助は同時代文学批評はしないと言っているのに批評めいて恐縮ですが、吉之助はねじまき鳥が何の象徴か・井戸は何を意味するかなど精神分析的な解釈に興味はないのです。そういうことは読む人によってそれぞれ意味が変って良いものですから。本稿では作品の主題を論じるのではなく・作者に第3部を 書かせた心情の在り処を考えたいのです。そのために内容に多少立ち入ることになるでしょう。まず作者解題をもとに「ねじまき鳥クロニクル」の成立過程を簡単に追います。

・第2部まで全体がほぼ出来上がった状況で、まず第1部を文芸誌「新潮」に1992年10号から93年8月号まで10回の連載。その間に第2部の推敲が進められて、第2部とまとめて新潮社から単行本が刊行されたのが1994年8月。作者は最初の一行を書き始めてからここまでに3年を要したと書いています。
・第3部は作者の回想によれば1993年末頃から書き始められ、完成稿が上がったのが1995年4月頃。1995年8月に新潮社から第3部刊行。

作者によれば「ねじまき鳥クロニクル」はもともと第1部と第2部で完成したはずのもので、第3部は当初の構想のなかになかったものでした。ところが第2部まで出来上がり・原稿を寝かせて・手直しを施しているうちに、作者のなかに第3部を執筆しなければならないものが涌いてきたということです。ところで第3部が発表された後、第3部 について「突拍子のない結末」であるととまどう声や、第1・2部とのつながりの悪さを指摘する感想が巷間少なからずあったようです。評論家吉本隆明は「消費のなかの芸」のなかで「第三巻は全体的な印象で言えば親切極まりない解決篇ということである・親切すぎて蛇足に近いと思われた」という ようなことを書いています。確かに第3部は文体からして調子が前半と異なるところがあり・そのような印象を持つのも分からないこともありません。しかし、それは第1・2部と第3部をまとめて 全体で連続したひとつの作品として見ようとするからそう感じるのです。作者自身は次のようなことを書いています。

『いずれにせよ長期的に見れば「ねじまき鳥クロニクル」第1部・第2部と第3部とのあいだに1年あまりのタイムラグがあったという事実は、読者にはだんだん忘れられていくだろう。新しい読者には、それは最初から「3部でひとつ」という切れ目のない読み方をされていくだろう。僕としてはそれでまったく構わないと思う。』(作者解題)

「3部でひとつ」で読んでもらって構わないと作者は言います。これは「製品にお気付きの点あれば全面的に責任を持ちます」と言っているようなもので、まあ作者の読者に対する優しさみたいなものです。しかし、うがってみれば・これは作者のズルさかも知れませんねえ。エンタテイメントとして楽しんで読む分には全然問題はありませんが、作者と対峙する真剣な読み方をする場合には1年あまりのタイムラグという事実を踏まえないと本作の印象はかなり様相が変化すると思えます。 そこのところは作者としては隠しておきたいのかも知れません。

吉之助は第2部を読み終わった後で・しばらく時間を置いて、「ねじまき鳥クロニクル」は第1部・第2部で完結したというイメージで・まず作品のことを考えてみることにしました。 作品のなかで仕掛けられた謎の大半が未解決のままで放置されているようです。これは吉之助にはとても奇妙な感覚でしたが、謎を謎のままに残すというエンディングがどうも村上春樹好みのスタイルのようです。それでは 作品が閉じた(終結した)形がどこに見えるかと言えば、なるほど登場人物のうち・加納クレタと笠原メイが主人公に別れを告げに来たことで結末の段取りは確かに取られているのです。「さようなら、頑張ってね。応援してるからね」という感じで周囲の人物が離れていくのです。そうやって主人公はひとり取り残される。ひとりぼっちになった主人公は周囲の状況を改めて見回します。夏の日のプールの水面に浮かびながら・主人公は「結局この問題は自分自身の手で解決していかねばならないんだなあ」ということを考えるのが第2部のエンディングです。ただし、この時点で主人公は闘争への決意というところまで行っていないようです。「クミ子を取り戻すことは自分自身が闘うことでしかなされないのだなあ」ということが自分のなかで次第に自覚されてきたという状態です。このような形で小説が終わるのは吉之助も詰めが甘い感じを多少持たないわけではないですが、まあこれは多分好みの問題に過ぎないので しょう。別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」のなかで触れましたが、主人公は漠然と「 このままでは自分ではいけない」と感じており・変りたいと感じてはいるのだが・何をしたらいいのか彼には依然として分からないという第2部のエンディングは確かに村上春樹的な小説の閉じ方なのです。ただし「ねじまき鳥クロニクル」の場合には満州国とノモンハンに絡む間宮中尉の回想という非常に重苦しい筋が交錯するので、読み手に圧し掛かる感覚が作品全体を通じて強く漂っています。状況がひたひたと主人公の足元に忍び寄り・主人公をがんじがらめにする印象が作品の基調としてあります。これは正体の知れぬ圧倒的な悪意・底なしの憎悪のようなものです。 その重苦しい印象は最後まで残ったままです。主人公はその悪意の存在を確かに感じ取っています。しかし、第2部のエンディングの時点ではその正体は依然として分からないままで あり、主人公はそれに反抗する決意をまだ剥き出しにしていません。主人公がやがてその結論に至るであろうことはほのめかされていますが、それ以上ではないようです。

ところが第3部では主人公が正体の知れぬ圧倒的な悪意に対し着々と戦いの準備を進める強い意志が冒頭から感じられます。その方法で敵に勝てるのかどうか分からぬが、とにかく主人公は闘う決意を明確に見せており、自分なりに敵を追い詰める段取りを淡々と進めています。これが「ねじまき鳥クロニクル」第1部・第2部と第3部の印象を決定的に分けるものです。ですから筋(ストーリー)的には連続しており・続編の体裁は取っていますが、吉之助には第3部はほとんど別の作品と考えた方が良いくらいであると見えます。要するに第1部・第2部と第3部の間にははっきりと大きな断層があるのです。これが1年あまりのタイムラグが作品にもたらしたものです。「3部でひとつで読んでもらって構わない」と作者が言うのは・別の筋でも同じ作品が書けるという書き手の立場から見れば 第1部・第2部も第3部も質的に同じ位置に置かれるからそんなものなのであるし、作者としてはそれが正直な気持ちであると思います。しかし、書き手の核心に触れるためには第3部はストーリーが 不連続な別の作品であると考えた方がやはり良いように思います。

3)「ねじまき鳥クロニクル」第3部のこと

第1部・第2部で仕掛けられたプロットの大半が未解決のままに置かれていることは先に触れました。なぜ妻のクミ子は突然家を出て行ったのか、義兄の綿谷ノボルはその失踪にどこまで係わっているのか、主人公はどのようにしてクミ子を取り戻すつもりなのかなどという謎です。これらの謎の解明の糸口として第3部を書き始めるのは続編である以上当然のことです。しかし、これらの謎に決着を付けることが作者に第3部の執筆をさせた直接の動機ではないのです。作者が第3部を書かせたものは全然別のところにあり、それが作者を内側から突き動かして第3部を書かせたと思えます。吉之助は第3部の小説のスタイルが前半とまるで違ったものになっていることにちょっと驚きました。吉之助は前半の第1部・第2部までだと評価を保留したい感じを多少持ったのですが、第3部を読んで・村上春樹の作家としての技量はやはり卓越したものだと確信せざるを得ませんでした。

第3部は主人公が義兄の綿谷ノボルと対決し・クミ子を取り戻すための闘いを主筋としますが、間宮中尉と笠原メイの手紙が継続的に並べられ・これで三本の筋が並行して進む形となっています。 さらにナツメグの父親の南京の動物園の虐殺のエピソードがありますが、これはまあ間宮中尉のエピソードの補完と考えて良いでしょう。間宮中尉の手紙は満州国から終戦後にシベリア抑留とな り帰国するまでの回想が綴られており・事象としてはもちろん過去になります。しかし、間宮中尉が手紙をしたためた時点からみれば主人公の時系列にまったく沿っています。一方の笠原メイの手紙はまったく天真爛漫に自分の感じたことを書き綴って おり・主人公の闘争とまるで関係ありません。しかし、これも笠原メイが手紙をしたためた時点から見れば主人公の時系列と並行しているのです。これらの手紙は主人公の思考行動と関係ないところで書かれています。しかし、何となく呼び合い・互いに引き合い・繫がっている不思議な感覚があるのです。そして バラバラなのに何となく連動しているような感じがあります。間宮中尉の手紙の内容はやりきれない絶望のなかで書かれたとても重苦しいものですが、笠原メイの手紙を読むとその重苦しさから読み手はちょと和らげられます。こうして 読み手は主人公とともに闘いへの新たな段階を一歩進めることができる。そのような形で三本の筋が並行して作品が進みます。つまり三人は離れてそれぞれバラバラに生きているのですが、何となくひとりぼっちではなく・繫がっている感覚があるのです。この繫がっている感覚が最後の最後に外界との交信を拒否して閉じこもっていたクミ子を感応させ・突如クミ子を行動させることになります。クロニクル(年代記)というのは編年体で記されたものを 指すということは本稿冒頭で触れた通りです。同じ年に起こった事象は全然別個の事件であっても同じ位置に記すのがクロニクルです。それらを時系列に並べてみた時に バラバラのパーツが繫がってモザイク的に浮き上がって見えてくるものから歴史というものを考えさせるのがクロニクルの役割です。第3部はそのようなクロニクル的な構造を取っているのです。これは第1部・第2部には あまり意識されていなかった構造です。このことが文章の主格の変化に明確に現れます。第1部・第2部では「僕」という一人称で筋がほぼ展開するわけですが、第3部では章ごとに主格がコロコロと変り・ 時に誰が主体であるかが分からなくなってきます。実は主体の境目を曖昧にするのが作者の仕掛けなのです。そして最後に大きな破局(カタストロフ)が来ます。第3部の最後で主人公は水のない井戸から壁抜けし・綿谷ノボルとの闘いの行動を起こすのですが、ここでそれまでの構造がすべて溶解して・ひとつになってしまいます。このような仕掛けは意図してその通りに出来るような容易なものでは決してありません。

4)「憤り」をどう持ち続けるか

破局(カタストロフ)と言うと第3部最後に暗闇のなかで主人公は義兄・綿谷ノボルを殺し・クミ子を取り戻すことができた・これは勝利ではないのかと反論する方がいるかも知れません。確かに小説的にはそれで決着が付いているように見えますが、吉之助にはこれはとても勝利には思えませんねえ。現実だか幻想だか分からないところで主人公は憎しみの対象である義兄を怒りを込めて野球のバットで叩き殺 します。そのことで主人公は何かの一線を越えてしまった・つまり主人公は暴力を振るった・殺人をしちゃったわけです。この事実にその後の主人公は向き合わなければなりません。主人公はその罪を背負わなければならないのです。聞くところでは作者は当初の構想として・義兄殺害後の主人公が水の湧き出した井戸のなかでおぼれ死ぬ結末を考えていたとのことです。選択肢としてその結末は当然あり得ることです。実際の小説の結末はクミ子が義兄を殺し・その罪で収監されることになっていますから、クミ子が主人公の罪を代わって背負う形になっています。このため主人公の背負うべき罪悪感が希薄になったきらいはありますが、主人公の何かに感応してクミ子が 自ら闘って失踪の状況から脱出したという結末はその後のふたりの未来に何かしら希望を暗示しているようです。まあこの方が作品としては確かにオチが良ろしいかも知れません。

ところで本稿では作者が第3部を書かせたものは第1部・第2部の謎の解明から引き出されたものではないということを検討しているわけです。これは火山が噴火して噴煙やら溶岩などを俊出させて一旦活動が納まった後、しばらくして別の離れた場所が隆起して地割れが起こりそこから噴火が始まるというようなものです。どちらの噴火も同じマグマ溜りから起きているのですが、外からはまったく別の噴火と見える し、事実そうなのです。吉之助がこの場所から別の噴火が起こると感じるのは、第2部「予言する鳥編」の3章で主人公に対して失踪した妻クミコを捜すのはあきらめて離婚しろと迫る義兄・綿谷ノボルに対して主人公が次のようにはっきり言い返す場面です。

『いいですか、僕はあなたが本当はどういう人間かよく知っています。あなたは僕のことをゴミや石ころのようなものだと言う。そしてその気になれば僕のことを叩きつぶすくらい朝飯前だと思っている。でも物事はそれほど簡単ではない。僕はあなたにとっては、あなたの価値観から見れば、たしかにゴミや石ころのようなものかも知れない。でも僕はあなたが思っているほど愚かじゃない。僕はあなたのつるつるとしたテレビ向き、世間向きの仮面の下にあるもののことを、良く知っている。そこにある秘密を知っている。その気になれば僕はそれを暴くことができる。白日のもとに晒すこともできます。そうするには時間はかかるかもしれないけれど、僕にはそれができる。僕は詰まらない人間かも知れないが、少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします。そのことはちゃんと覚えておいたほうがいいですよ。』(「ねじまき鳥クロニクル」第2部・3)

後で主人公は「僕の言ったことはほとんどがはったりだった・僕は綿谷ノボルの秘密なんて何も知らなかった」と白状しています。それにも係わらず主人公がそのような言葉を義兄 にぶつけたということは、もちろん「コンチクショウ」という感情が言わせているのです。この感情が第3部の火種に違いありません。 第1部・第2部のなかではこの感情は義兄に対する主人公の得体の知れない不快感として描かれており、明確に憎しみ・敵意として描かれているわけではありません。しかし、この不快感は間宮中尉の満州での体験談と重なって第1部・第2部全体に重く暗く圧し掛かっており、それが次第に主人公を追い詰めていきます。この不快感に対して主人公が「叩くならば叩きかえす」という反応をするのが第3部ということです。「叩くならば叩きかえす」という行動に出ることで主人公はある一線を越えるのです。ここに作者の論理展開のワープがあります。作者は「ねじまき鳥クロニクル」が自らの作家としてのキャリアの中での転換点となったと言っていますが、そうならば・作者がそう考えた転機とは「叩くならば叩きかえす」という論理展開に違いありません。

ところで「叩くならば叩きかえす」という反応は単純かつ純粋な自己防御反応であって、自分に向かってくる相手の手を無意識に振り払うようなものです。それは自分に向かってくる敵意・憎しみの対象を意識してはいます。しかし、彼にとってみればそれは彼が欲して取る敵意ではなくて、相手が向かってくるから 無意識に防御的に取る敵意なのです。だから自分が悪いのじゃない・相手が叩くからだという言い訳は立ちますが、叩いてしまえばそれは行為として同じ次元に落ちてしまいます。結局、主人公は現実だか幻想だか分からないところで義兄を野球のバットで叩き殺すのですが、ここで 主人公の立場が問われるところです。実は作者は妻クミ子失踪の筋に間宮中尉の満州での体験談を絶え間なくクロニクル的に重ねていくことで、憎しみの方向を義兄・綿谷ノボルにストレートに向かないように工夫してい ます。よくよく読めば綿谷ノボルがどれほどの悪なのか・そんな具体的なことはどこにも書いてありません。ただ間宮中尉の回想に出てくる皮剥ぎボリスのイメージが鳴り響いて・それが勝手に綿谷ノボルに重なっていくだけです。小説の筋としては義兄の殺害として決着が付いているようですが、それさえも現実か幻想だかよく分かりません。ですから主人公の敵意・憎しみはある明確な対象に向かって放たれる個人的な敵意・憎しみではなく、これは作品全体としてはもっと漠然として大きい全人類的な敵意・憎しみなのです。そのなかで「叩きかえしてやりたい」という気持ちが主人公に実に強く出ています。しかし、ホントに「叩き返して」良いかというのはこれはまた別の話です。

ところでここまで敵意・憎しみと言う言葉を使いましたが、これは対象と方向が明確な場合に使われる言葉で・小説の場合にはそうなるのはストーリー上仕方がないことですが、吉之助 としては本当はここでは「憤(いきどお)り」という言葉を使いたいところです。持って行き場のない怒り・身の置き場のないような憤懣が「憤り」です。第3部で主人公が感じている感情はホントは「憤り」という言葉で表現するのがもっともふさわしいものです。それは時代や場所を越えて、自分が理由もなく虐げられていることへの怒り、自分があるべき状態で正しく納まっていないことへの憤懣です。これ以後このモティ−フが村上作品を大きく転換させることになると思います。「最後の最後になっても自分はどうして良いかやっぱり分からない」だけではなく、村上作品の主人公はそのような閉鎖された状態に次第に「憤り」を感じるようになっていくでしょう。

このことは先日(2009年2月15日)でのエルサレム賞受賞での作者のスピーチによく表れています。「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」という言葉です。文学的な表現ですが、これは「僕は詰まらない人間かも知れないが、少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という主人公の感情と同じじところから出ています。ですから「ねじまき鳥クロニクル」以降 の作家村上春樹は「叩くならば叩きかえしてやる」という憤りを描く方向に進んでいくようにも思います。繰り返しますが、「叩きかえしてやりたい」と思うことと 、ホントに叩き返すことはまったく別の次元の話です。「憤り」をどう持ち続けるかということが大事なのです。

吉之助がこのようなことを考えるのは、本年(平成21年)ベストセラー本「1Q84」の続編(第3巻)が来年夏ごろの出版を目指して目下作者が執筆中であるからです。「1Q84」については出版直後から第3巻執筆を予想する声が 巷にかなりあって(ひとつにはそれは「ねじまき鳥クロニクル」という先例があったからですが)、その理由として「1Q84」全2巻に散りばめられた伏線の多くが 回収されぬまま放置されているということがしばしば挙げられています。まあ続編の筋の想像 は読者の知的お楽しみのひとつですから・それはご自由になされば良いことですが、吉之助が思いますのは「1Q84」全2巻の解決されないままの伏線の延長線上に第3巻が すんなりと立つはずはなかろうと思います。またあってはならぬと思います。もちろん続編は前編の伏線を使って書き出されるでしょう。しかし、延長線を引くことが続編の動機であるはずはありません。作品というのは必ずしもそのような流れの上で順序立てて出来るものではないのです。内側 に膨れ上がった熱いものが外殻の弱いところから裂けて出てくるもの・そのようにイメージした方が良い場合があるのです。

「1Q84」はそれぞれの巻が24章で成り立っており・天吾と青豆というふたりの主人公の章が交互に来るという構成を取っていますが、これはバッハの「平均律クラーヴィア曲集」全2巻で長調と短調のフーガが交互に並べられて 各巻24曲となる構成を模している そうです。いわば構成のなかに「完全」をイメージしているわけです。だから作者は全2巻で作品は完結という構想で書いており、作者のなかで環は閉じられているはずなのです。その「完全な構成」を第3巻を書いて自ら壊そうというのですから、これは作者は相当の覚悟をしなければそれを書けぬはずであるし、またそうでなければ困るのです。それは伏線の回収・謎の解決などという形で出る ものではないと思いますねえ。まあ「ねじまき鳥クロニクル」第3部を見れば、「1Q84」第3巻でも作者はそのような期待に応えてくるものと思います。

5)世界はもともと歪んでいる

ところで本サイトは「歌舞伎素人講釈」ですから・何でも歌舞伎にこじつけることで本稿を終わることにします。別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」で触れましたが、村上春樹の主人公も・黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分はこれではいけない」と感じており・変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのかが彼は全然分かっていない。ところがそこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとって非常に悪い方向に巻き込まれていきます。「何でこうなっちゃうの」とボヤきながら、突然開き直るような形で主人公は決断するのです。このような突発的な事態はなぜ起こるのでしょうか。星占いも 四柱推命学もバイオリズムも最悪の日なのか。思い出せばそんな日も思い浮かばないことはないですがねえ。

村上春樹関連の評論を読んでいて「日常性からの逸脱」という言葉を目にしました。また「パラレル・ワールド」という言葉も見かけました。要するに「平凡な日常を流されるままに何となく生きてきた主人公がフトしたことで別世界のなかに入り込み・・」という感覚だと言いたいのだろうと思います。まあそういう読み方も確かにあると思いますが、吉之助は日常と異なる「非日常」が別に存在するというのではなく、「この世界はもともと歪んでおり、しかも一定ではなく絶えず揺れており、或る瞬間においては世界はまったく別の様相に見える」というのが村上ワールドであると思いますが、そうではないですかねえ。吉之助は黙阿弥も同じだと思います。黙阿弥の「十六夜清心・百本杭」で 清心は何をやってもドジばかり・人を誤って殺してしまうわ・死のうとして川に飛び込んでも死ねないわ。その清心が短刀を腹に構えたまま、「・・・しかし、待てよ。人間わずか五十年、首尾よくいって十年か二十年が関の山。つづれを纏う身の上でも金さえあれば出きる楽しみ」と言います。ここで世界がぐううーっと大きく転換します。世界はまったく違う様相を呈してきます。世界は何も変っていない。しかし、主人公の内面の何かが変り始め たのです。だから世界が変って見える。そういうことだと思いますねえ。いつぞや別稿「桜姫・断章」で映画監督ロッセリーニの言葉を引用しました。

『人生におけるあらゆる経験には転機というものがある。それは経験あるいはその人生の終わりではなく、あくまで転機だ。私の作品の結末はどれも転機だ。そしてそこからまた始まる。しかし、何が始まるかは私にも分からない。』

「ねじまき鳥クロニクル」は第1部・第2部までであると、主人公は「変だなあ・なんだか自分の周囲の光景が変っているなあ」という状況で終わっているようです。まあこれが村上春樹的小説の閉じ方の通常パターンなのだろうと思います。多分この作者はとてもシャイなのですね。しかし、「ねじまき鳥クロニクル」第3部では「・・・しかし、待てよ」が確かにあると思います。ここにはっきりと転換点が見えます。これは黙阿弥的転換ではないでしょうかね。作者の内的変化が作品の表面に尖がるようにはっきりと現れ始めた・吉之助にはそのように感じられるのです。

*余談になりますが、「この世界はもともと歪んでおり一定ではなく絶えず揺れており・ある瞬間において世界はまったく別の様相に見える」ということは「たそがれの味」で解釈しても良ろしいと思います。別稿「たそがれの味〜鏡花をかぶき的心情で読む」をご参照ください。村上春樹は日本的な色合いが少ない作家と言われているようですが、探せばこのように日本的な要素はあるのではないでしょうかねえ。

(H21・11・22)

*続編「村上春樹・または黙阿弥的世界・その3」もご覧ください。


 

 

   (TOP)        (戻る)