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古典性とバロック性

*本稿は吉之助の音楽ノート「モーツアルト:歌劇「フィガロの結婚」としてもお読みいただけます。


○古典性とバロック性・その1:「フィガロの結婚」の幕切れのこと

先日(平成18年11月4日)の公開講座で・古典劇の「許しの構図」の理解のためにモーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」の最後の場面をご覧いただきました。「許しの構図」については別の機会 (別稿「今の世に在って言ってはならないことは・過去の架空の出来事に仕立ててしまえば良い」を参照ください)に触れることにし まして、 本稿ではこれに関連した別件について記します。歌劇「フィガロの結婚」はアルマヴィーヴァ伯爵が夫人に謝って・騒動も納まり・めでたしめでたしで幕となるのですが、最終曲は一転してプレスト(早いテンポ)で 軽快に締められます。主要な登場人物が全員で揃って歌う歌詞は次のようなものです。

『苦しみと気紛れと、狂気のこの日を、ただ愛だけが満足と陽気さで、終わらせることができるのだ。花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。爆竹に火をつけよう。楽しい行進曲に合わせて、みんなでお祝いをしに行こう。』

この場面ですが、公開講座でお見せする映像を選ぶために・何種類か手持ちのビデオを見比べたのですが、最終的に ジャン・ピエール・ポネル演出のユニテル映画版(カール・ベーム指揮ウィーン・フィル・1975年製作 )の映像を選びました。このポネル演出は楽譜を実に深く読み込んだ演出で すが・映画版ですから生の舞台ではとても実現できない工夫があります。例えば内心の心情を切々と吐露するような歌詞では歌手が口を閉じたままでも歌が朗々と響きます。つまり歌がアフレコなので、口を開けて歌う必要がないのです。これなどまさに映画ならではの演出です。

ポネル演出は特に最終場面が印象に残るものでした。最後の合唱場面で登場人物たちが一斉にパッと四方に散って・あちこちらを駆け回ります。ある者は恋人を追い駆けたり・ある者はそれを笑ってみたり・ある者は 思わぬ人とばったり出会ってアラうっかり・・であったりします。こうして楽しい笑いの渦のなかでオペラは幕になるわけです。これはダ・ポンテの歌詞にもよく合 っていますし・モーツアルトの躍動する音楽に人物の動きがぴったりです。登場人物が生き生きと跳ね回るようです。ポネルの映像はよく モーツアルトの音楽を読んでいるなあとつくづく感心してしまいます。

ところが、吉之助の手持ちの他の「フィガロ」の舞台ライヴ版のビデオでは・そこのところが違っていました。舞台ライヴ版ではどの映像もカップルたちがそれぞれに手を取り合って・舞台に横一列に並び・じっと立って歌を歌ったままで幕になるのです。これは考えて見れば当然のことで、歌手たちがめまぐるしくバタバタ走り回りながらでは・フィナーレの早いパッセージはとても歌えない し・これでは歌がよく聴こえないと言うことです。だから歌手たちはじっと立って歌を歌うわけです。しかし、ポネルの映画版の素晴らしい映像を知ってしまいますと 、これら舞台ライヴ版の映像はモーツアルトの音楽の表現する生き生きした感覚と・舞台面の人物たちがじっと静止して重たい感覚に何だかギャップを感じてしまうのです。この点が古典性とバロック性を考える材料になると思いました。

(H18・11・18)


○古典性とバロック性・その2:その過剰性

「フィガロの結婚」のフィナーレの合唱の歌詞は、当時のオペラの幕切れのお定まりのパターンを踏まえたものです。ハッピーエンドですべて が丸く収まる・典型的な古典的な幕切れだと言えます。そう考えると・舞台で恋人たちがそれぞれ手を取り合って・一列に並んで歌う幕切れは、古典性を表現するにふさわしいものだと言えるでしょう。そのどこにギャップがあるのかと思うかも知れません。

しかし、ポネル演出の映像はモーツアルトの音楽に潜む「過剰性」を気付かせてくれました。その「過剰性」とは、モーツアルトが音楽のなかに盛り込もうとしたところの・何かしら激しいもののことです。それがめまぐるしく駆け回る音階とリズムになって現われているのです。そこには何かしら古典性とは異なるバロック的な感覚があり ます。それをポネルはあちこちを駆け回る恋人たちの姿で表現しました。この感覚を基準にして見ると、恋人たちがそれぞれ手を取り合って・一列に並んで歌う古典的な幕切れは無難ではあるけれど・視覚的に何かしら重くて面白くない舞台面 のようにも感じられるのです。そう考えると感覚的な違いが多少お分かりいただけるでしょうが、それでもまだ「ギャップ」という言葉を使うほどの違いがあるのかともお思いでしょう。そこのところをもう少し考えて見ます。

ピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」では・「後宮よりの逃走」初演(1782年・ウィーン)を聴いた皇帝フランツ・ヨゼフがモーツアルトにこう言う場面がありました。「このオペラは良い。なかなか良いぞ。しかし、このオペラは音符が多すぎる。人間が一日に耳に入れることが出来る音符の数には限界がある。モーツアルト、このことを覚えておくように。」と皇帝は言うのです。モーツアルトはこれを聞いて口をあんぐり、というわけです。笑える場面であります。

上記は戯曲の話ですが、しかし、皇帝がそれに近い感想を漏らしたのは事実のようです。モーツアルトの音楽は音符が多過ぎるというのは、当時も良く言われていたことでした。まして「フィガロ」のフィナーレはまさに音符が駆け回っています。モーツアルトの音楽の「過剰性」、それは王侯貴族たち・つまり当時の音楽の庇護者たちを何となく苛立たせ・落ち着かなくさせるものがあったのかも知れません。皇帝もそれを感じたに違いありません。結局、その音楽の過剰性が天才モーツアルトの音楽家としての生活を不安定なものにして(モーツアルトは王侯貴族たちの庇護を十分に得られなかったために貧乏した のです)・これが若くして彼が亡くなる遠因にもなったのです。

(H18・11・21)


○古典性とバロック性・その3:そのバロック性

モーツアルトの「過剰性」とは音符が多いということではありません。音符が多いのは表面に現われた現象であって、過剰性とはその音楽の内面に隠れている感情のことです。モーツアルトは革命前の時代(アンシャンレジーム期)に生き ながら、迫り来る革命の息吹きを敏感に感じ取っていました。そこから湧き出る熱さがモーツアルトの音楽を過剰にしているのです。

「フィガロ」について言えば・原作はボーマルシェの戯曲ですが・その反体制的な内容から各国で上演禁止になっていたものでした。これをオペラ化しようと言うアイデア自体が不穏極まることです。当然「フィガロ」のオペラ化は危惧されました。「フィガロ」の上演許可を取るためにダ・ポンテがオーストリア王室にどれだけ奔走工作したかは彼の手記に詳しく 記されています。原作から反体制的な・不埒な要素を抜き取り・他愛ないラブ・コメデイに仕立てましたと言うのが、ダ・ポンテの言い分です。しかし、それは表向きのこと。実はモーツアルトの音楽の過剰さのなかに迫り来る革命の熱さが沸々と感じられる のです。フランス革命勃発(バスティーユ陥落)は1798年のこと、つまり、「フィガロ」初演から12年後のことです。

もちろんモーツアルトは旧体制(アンシャンレジーム)期の作曲家です。モーツアルトは1791年に亡くなるわけですから・革命思想の直接的な洗礼は受けていません。そこが後進のベートーヴェンとは決定的に違うところです。モーツアルトを新体制の作曲家と言うわけには行きません。むしろモーツアルトは音楽のフォルムとしては当時の古典的なスタイルを踏襲しています。モーツアルトのオペラの登場人物たちも類型的に留まっていて・人格の複雑さという点ではまだ 平面的と言うところがあります。それでもその音楽を聴けば・そこに形式の蓋を底から押し上げようとする力が確かに働いているようです。それが例えばモーツアルトの「過剰性」・音符の多さになって現われているのです。

現代のオペラハウスで恒常的に上演されるレパートリーを見ますと、そこにはっきりとひとつの区切りがあることが分ります。現在のオペラの主要なレパートリーは概ねモーツアルト以降です。もちろんそれ以前の作品も上演されますが、いわゆる定番ではないのです。オペラはモーツアルト以前と以後にはっきり分かれます。このことは 歴史的に言えば・フランス革命がヨーロッパ史に及ぼした影響に起因するわけですが、現象的にはモーツアルトがその境界線上にまたがった形で立つわけです。これを発展させる形で新体制の思想を明確な形で主張することになるのがベートーヴェンであることは言うまでもありません。

「フィガロの結婚」フィナーレの合唱のことに戻りますと、この部分はフォルム的には旧体制好みのロココ的な優雅さを持ちながら・ 古典的な形式を踏まえています。しかし、音楽の内面から見ますと・そこに登場人物たちの生き生きと弾ける生(なま)な心情がその音楽の「過剰性・バロック性」から見て取れるのです。それがめまぐるしく駆け回る音階とリズムになって現われています。それがポネルがあちこち駆け回る恋人たちの映像によって表現したものなのです。

(H18・11・26)


○古典性とバロック性・その4:バロック的な要素

ご注意いただきたいのは、本稿で使用している「古典性・バロック性」という概念は 音楽史で一般的に使われる「バロック楽派、古典楽派」という分類と全く異なると言うことです。これは「歌舞伎素人講釈」で提唱している「心情からのバロック論」での概念です 。吉之助は、フォルムを古典性とバロック性との間の揺れ動きのなかで考えています。

フォルム的にはバロック的な要素は、古典性の持つ形式感・安定感を破壊する衝動として働きます。モーツアルトの場合には、それはひとつには音符の多さなどに現われる「過剰性」です。しかし、モーツアルトは「音楽はどんな場合でも美しくなければな りません」と手紙に書いています。モーツアルトの過剰性は、ある面から見れば・抑制の利いた古典的形式美のなかに収められています。ここが大事なところですが、古典性・バロック性と言うものは相対的な感覚でして、ひとつの尺度を以って「この作品は古典度2・この作品はバロック度3」などと計るものではないのです。見方によって、 同じ作品が古典的にも・バロック的にも見えてくるわけです。

ところで、本年11月にパリ・シャトレ座来日公演で、ラモーのオペラ・バレ「レ・パラダン(遍歴騎士)」(1760年初演)が上演されまして話題となりました。ウィリアム・クリスティ指揮のレザール・フロリサンと歌手たちによる演奏 と歌唱も見事なもので したが、ステージ上で繰り広げられる現代的・かつリズミカルなヒップ・ポップ・ダンスと、ステージ背後の巨大なスクリーンに映し出されるCG(コンピュータ・グラフィックス)による動物や人間とのコラボレーションで、ファンタスティックでエレガントなバロック空間を現出させました。(これは言葉で表現するより 見るに如かずですので、このサイトに動画があります から・その魅力を是非ご覧下さい。)「オペラ・ファンタスティーク」というのがこの公演の宣伝文句で す。(注:「オペラ・バレ」とはフランスで発達したバレエを中心とした音楽劇の形態で、フランス風オペラとも言います。)

舞台を見ると分りますが、ラモーが生きていた時代のロココ趣味のフランス宮廷風俗と全然異なる現代的な風俗衣装、ヒップ・ポップ・ダンスなどが舞台上で何とも興味深い調和を生んでいます。どうしてこんなにピッタリ合うのか。これはラモーの音楽とのキッチュな対照が生み出す面白さであるとも言えますが、見方を変えますとラモーの音楽が内包 するバロック的な要素を演出振り付け(ジョゼ・モンタルヴォ/ドミニク・エルヴュによる)が視覚的に形象化していると見ることもできるのです。

(H18・12・2)


○古典性とバロック性・その5:音楽(聴覚)と舞台(視覚)の関係

「レ・パラダン(遍歴騎士)」(初演:1760年)はラモーが76歳の時の作品です。モーツアルトの「フィガロの結婚」は1786年初演でモーツアルト30歳 の時の作品です。時代としては四半世紀くらいしか離れていないわけですが、「レ・パラダン」は典型的なバロック・オペラのスタイルです。

バロック音楽と言うのは、例えば「パッヘルベルのカノン」を思い出していただければよろしいですが、最初の旋律が流れて・次にそれに対位法的に同じ旋律が引き出されて機械的に複雑化していく・この形式に象徴されるように、旋律自体に律動性・発展性があまりないように感じられます。 こういう形式が現代の我々には様式的・古典的に感じられるのです。このことは「歌舞伎素人講釈・別室」でお分かりの通り・吉之助が圧倒的にロマン派嗜好 のせいもありますが、ロマン派の観点からすると・そう見えるわけです。

しかし、バロック・オペラの旋律は登場人物の気分に合わせて、嬉しい時は嬉しそうに・悲しい時は悲しそうに旋律が書かれていて、その意味では旋律はひたすら美しく・その表現は直截的です。部分々々の感情は音楽により極大化されていて、言い換えれば・部分々々が分裂してバラバラであるとも言えます。そこがまさにバロック的な要素です。その様式的な旋律のなかに閉じ込められた「心情」も思いやる必要があるでしょう。一方で当時のバロック・オペラの舞台面は文献的なもので想像するしかありませんが、今日の感覚から見れば様式的かつ簡素な舞台装置とパターン化された拙い感じの振りであったと 想像されます。舞台面が音楽のバロック性を緩和して・これによりバロック・オペラは全体の古典的なまとまりを保ったのであろうと推察できます。

ところが、現代においてバロック・オペラを上演する場合には、奇妙なことですが、今日的な感覚では音楽の方が様式的・古典的に感じられてしまいますから、逆に舞台面をバロック的に展開させないと、全体が活性化できないという現象が起きるわけです。恐らく当時の舞台をそのまま文献通りに再現して上演したとすると、現代人にはその舞台は退屈に感じられてしまう かも知れません。

シャトレ座の「レ・パラダン」上演でのヒップ・ポップやモダン・ダンスですが、そのダンスは登場人物の歌詞の内容とまったく関係のない即興的なダンスですが、 これが不思議とラモーの音楽に似合うのです。このことはバロック音楽が思想(コンテンツ)を持っていると言うよりも、むしろ気分(エモーション・もちろん心情と言ってもよろしい)であるということから来るので す。モダン・ダンスがラモーの音楽が内包するバロック性を形象化させるのです。振り付けのドミニク・エルヴュによれば、ダンサーに対して歌の内容に沿って「恋の歓喜」とか「裏切り」と言うテーマを与え、音楽に合わせてダンサーに即興的に踊ってもらう ・それをベースにして調整を加えながら・振りを組み立てていったそうです。やはりそのキーポイントは「気分」なのです。

以上のモーツアルトとラモーのふたつの例でも分かるように、オペラに於ける音楽(聴覚)と舞台(視覚)の関係は必ずしも内容に則したパラレルなものではなく、 全体の活性化の為にアンビバレントな関係が必要な場合もあるのです。しかも、そういう場合に・思わぬ新鮮な発見があったりします。音楽(聴覚)と舞台(視覚)は時にお互いのバロック性を緩和して古典的に納めることもあり、時にはバロック性を引き立てもするわけです。これは非常に興味深い現象だと思いますね。

(H18・12・6)





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