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「をむなもしてみんとて」
   
〜歌舞伎の女形を考えるヒント


1)女歌について

本稿は女形芸に関する雑談ですが・最初は芸ごととは関係がありません。すんなり女形の芸ということに展開していくものかどうか、まあ、お読みください。

先日、テレビを見ていたら自然ドキュメンタリーの番組をやっていました。野生動物(虎だったか何か覚えていないが・それは大したことでない)のオスがメスに対して求愛行為をしているのです。オスは一生懸命に声を上げて自分をアピールします。ところがメスの方は知らぬ振り(?)です。さらにオスが近づいてメスに叫びます。するとメスの方は逆に威嚇するように突っかかっていくのですな。さらに健気にオスが近づいて尚もメスに求愛するのですが、メスはそれに応じず・ついにオスに噛み付いてしまって・オスは一目散に逃げてしまいました。ちょっと可哀想でありました。この場合はオスがメスの「お眼鏡にかなわなかった」のかも知れませんが、動物学的に言うと・このようにメスがオスの求愛行為に素直に応 じず・逆に威嚇して撥ね付けたりするのは、種族保存のためにより強い個体(オス)を求める自然の本能であるそうです。しかし、見ようによっては「ワタシはそんな簡単になびくような安いオンナじゃないんだからね・馬鹿にすんじゃないワヨ」という感じにも見えますねえ。フロイト的に見れば・そこに処女性を喪失することの恐怖みたいなものがあるようにも思えます。まあ、野生動物にフロイト分析もあったものではありませんが。(笑)

そんなことを思いましたのは、折口信夫が昔の和歌の・男歌と女歌はとても違ったものだったということを言っているのを思い出したからです。この折口の発言は昭和8年1月の座談会「女歌について」に出てくるものです。これを吉之助なりの理解で書きますと次のようになります。大昔の祭りにおいては賓客(まれびと)を饗応(もてなす)する場合に、その役を村の処女が勤めるのです。まず男からそのなかでの一番の女を選びます。何によって選ぶ かというと、歌で以って掛け合う。それに女が歌で答える。その掛け合いに負ければ女はその男の言うことを聞かねばなりません。(この辺りは別稿「悪態の演劇性」で触れた「そしり」と「もどき」の関係にも当てはまるように思います。)

好きな男が仕掛けてくるならば・なびいてしまえばいいじゃないかと思いますが、そう簡単にはいかないのです。それでは「女がすたる」のです。昔の貞操観念は神様に対するもので・人間に対するものではなかったと折口は言っています。「みさを」という語は古くは神様に「見てくれ」と言うという意味なのです。だから祭りのような公の場において神に対して自分の気持ちを見せるということになれば、簡単にそれを失ってしまうと不真面目・不信仰ということになってしまうから、とにかく儀式では負けないように努める。どうしても勝とうとする。それで昔の女は歌の練習を一生懸命したのだそうです。そうやって女の歌の技巧は発達してきたわけです。

(H18・3・8)


2)女歌の実のなさ

折口信夫の「女歌」論をもう少し続けます。つまり、女歌の本義というのは・男たちが歌で言い寄ってくる・これを歌で以ってびしびしと払いのけるというところにあったのです。言い換えると女の歌には本当のところ「実」がない・男の歌には「実」がある、折口はそう言っています。これは女歌が嘘事であるとか・価値がないと言っているのではありませんので・怒らないでさらに折口の言うことを聞きましょう。

このことを折口は幾つかの歌を挙げて説明しています。例えば藤原広嗣が娘子(おとめ)に与えた歌「この花の一よのうちに、百くさのことぞこもれる、おほろかにすな」。貴人というのは歌の短冊をじかに渡すことは しないものだそうで、この場合は広嗣は桜の枝に短冊をつけて娘に手渡したものでしょう。その時に、この花のようにという心持もこめて・「いい加減にみてくれるな」と言っているので すから・これは真面目な歌なのです。ところがこの花をもらった娘は「この花の一よのうちは、百くさの言(こと)もちかねて、折らえけらずや」と返しています。「この花の一よ」はひとつひとつの花房です。この枝の花房にひとつひとつにいろんな女の思い出が籠っているから、それで支えられなくて・そのために折られたんでしょう」というのです。今ではクラシックな雰囲気に見えて分かりにくいのですが、「同じようなこと他の女にも言ってるんでしょ」みたいに茶化して突っ返している歌なわけです。男の歌をこういう風に突っ返す女が偉い・美人だということになるわけです。

あるいは文屋康秀が三河の国司の第三等官に赴任する時に・一緒に見物に行かれませんかと小野小町を誘った歌。当時の地方は都に比べれば寂しいところですが、地方の官吏という 職業は結構その土地で儲けて・いい暮らしができたようです。それで都の女官連中は誘われると(つまりは女房になれと言うことですが)ホイホイ付いていったものらしい のです。ところがこれに対する小町の歌は「わびぬれば、身をうき草の根をたえて、誘う水あらば、行なむとぞ思う」とあります。「私はつらい境遇にあるから・行きたいとは思いますけど ね・ ・・おあいにくさま・私は行きませんよ」という歌なのです。後世の人が読むと・真面目な返答に思うかも知れませんが、そうではなくて・気を持たせておいて最後は突っぱねているわけです。

『ともかくそういう風の世の中だから、女は男にまともに答えておってはいけない。とうぜんその結果、女というものは非常にプライドが高い。平安朝の女の一番の資格はプライド が第一である。「心おごり」という言葉がありますが、それなのです。これのない女は上流の婦人としての資格がない。女というものは、男の言う通りすぐ従うというのは女の値打ちではない。昔のおんなは、そういう風に男をはね返す練習ばかりしておった。』(折口信夫・座談会「女歌について」・昭和8年1月)

折口信夫は今の感覚で見ると非常にまじめだと思われている歌が案外不真面目だということを言っています。このような「じらし」・「茶化し」・「気をもたせる」・「からかう」という ところがあって、男の心情(実)を込めた歌を決してまともに受け取らないのです。それが昔の女歌であったのです。

(H18・3・11)


3)控えの戦略

ところで女手=ひらがなは平安期に成立したものですが、その名前通り女性が作り出したものなのでしょうか。実はそうではないようです。「女手」とは「男手」と対をなす言葉です。万葉仮名を楷書や行書でしるしたのが男手、草書に崩せば草仮名、それが流れるように・もはや漢字の崩しと思えないほどに字形を変えてしまったのが女手・すなわちひらがなです。女手の女とは曲線的でたおやかな字形や書きぶり の比喩なのです。一方、公の文字である漢字は男・中国の比喩ともなります。漢字・特に楷書の漢字を真名(まな)・あるいは真字(しんじ)とも呼びますが、日本でできた文字の方 を仮名・つまり仮りの文字と呼んで卑下しています。これは大陸(中国)を真なるもの男なるおのとして立て・自ら(日本)を仮りのもの女なるものとして控える ・それでいて日本は中国とは違うんだよというところは内心にしっかり持つということが、日本の文化戦略であったのです。

紀貫之が「土佐日記」をひらがなで書いたのはご存知の通りです。その冒頭は「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」。これは筆者が女性であるという虚構をして・貫之が名前を隠してひらがなで書いたものとされています。しかし、この文の「をんなもし」は女文字 (=ひらがな)という意味であるとの解釈もあるようです。つまり「をむなもしてみんとて」とは「女文字してみんとて」で、この場合「し」の字は重ねられていると読めるわけです。貫之はもちろん漢文を自由に書けたわけですが、自分の気持ちを漢文で表現しようとするとうまく書けないという焦燥感がつねにあったのかも知れません。それで貫之は日記をひらがなで書こうとしたということのようです。つまり、これは貫之なりのしたたかな文化戦略でもあったのです。(以上は・芸術新潮・平成18年2月・特集「ひらがなの謎を解く」での石川九楊/小松英雄両先生の考察を参考にさせていただいています。)

しかし女手(ひらがな)が女性によって作られたものでないとしても、平安期に紫式部や清少納言らによる女性文学のピーク期があり・ほぼ同じ時期に女手(ひらがな)が成立するということは、やはり無関係でないように思われます。これは折口信夫が「女歌」論で指摘するところの・女歌の「実のなさ」にも関連します。「じらし」・「茶化し」・「気をもたせる」・「からかう」という技巧によって男の心情(実)を込めた歌を決してまともに受け取らないのが女歌でありました。つまり、技巧すなわち・「実のなさ」を前面に押し出すことで自分を表に出すことを控えるわけです。そうすることで本心を赤裸々に吐露することを避けるのです。それが「たをやめぶり」のひとつのあり方でもありました。

(H18・3・14)


4)女形の文化戦略

これはあくまで吉之助の仮説ですが・平安期においてピークを迎えた女性文学はその後衰退していきます。これ以後、優れた女性作家は明治になるまで輩出してきません。これは恐らくその後の女性の社会的地位の変化ということに関連があるのですが、その後の日本文学というものが「実」・すなわちシリアスな方向に大きく傾いていくこと が原因しているとも考えられます。これは「平家物語」や「増鏡」のような歴史物語を想像してみれば分かります。このことは別稿「和事芸の起源」でも触れましたが、物語りのなかの「誣(し)い」的な要素が少なくなって・文学が全体的に真面目な 実の方向に次第に傾いていくということです。つまりは男のものになってきたと考えられます。

その一方で、芸能においては女性が活躍する場面がまず平安末期の白拍子においてあり・ちょっと時代は飛びますが出雲のお国というのも出てきます。とすれば女歌の実のなさという要素は、むしろ芸能の方に受け継がれているという気が するのです。以上の仮説は女性文学の内容とはまったく関係がないもので、「実のなさ」というレトリックに対する連想から来るものです。

ひとつには冒頭で記したような賓客(まれびと)を饗応する歌の掛け合いというのは演劇における掛け合い(例えば悪態における「そしり」と「もどき」)と似たようなものですから、その「実のなさ」ということ自体に演劇性があるのです。歌舞伎の創始は出雲のお国であり・女歌舞伎から出発したことはご承知の通りです。「実のなさ」というのは芸能を面白くする要素でもありますから、当然・彼女たちの技芸の大きな要素となったことでしょう。

しかし、芸能において「実のなさ」が真にクローズアップされるのは実は幕府によって女優が禁止され・野郎歌舞伎になってからのことです。「実のなさ」こそが野郎の女役者(実のないところの女役者)すなわち歌舞伎の女形の必須の条件になった・そのように思われます。この時に紀貫之の「をんなもしてみんとて」という文化戦略が再び大きな意味を持ってくるのです。「をんなをしてみんとてするなり」が女形の戦略となるのです。

歌舞伎の女形もまた技巧・すなわち「実のなさ」を前面に押し出すことで自分を表に出すことを控えます。それが男という実体を観客に曝すことをせず・虚構の女を作り出す・野郎の女形のひとつの作戦でもありました。所作事(舞踊)が初期の女形の専売とされたこともこ のことが強く関連しています。所作事とは写実の芸ではない・つまり実がないものですから、これは女形の行うべきものである・立役が行う実の芸ではないと初期にはされたものでしょう。さらに歌舞伎のなかで女形の位置が確立した後にあっては・女形の芸は「実のなさ」を逆手に取る形で発展していきます。 女形の発生以後のことは「バロック的なる歌舞伎・その4・永遠に女性的なるもの」の女形論で考察をしましたので、そちらをご参照ください。

このように考えると日本古来の女芸の「実のなさ」というレトリックのなかに歌舞伎の女形の芸を位置付けることができ ると思います。突然変異的な存在である歌舞伎の女形のなかに も伝統的な古典的な要素があるということを考える手掛かりがここにあるということです。

(H18・3・18)

渡辺保:女形の運命 (岩波現代文庫)


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写真・岡本隆史c、協力・松竹、2013年5月、歌舞伎座、京鹿子娘二人道成寺

 

 

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