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永遠に女性的なるもの

〜バロック的なる歌舞伎・その4


『あの有名な「ゲーテの「永遠に女性的なるもの」には、一般に行われている解釈のように、何と言うか・華やかな意味しかないのであろうか。そうではなくて、精神の ・従って・人類史のひとつの恒常的なカテゴリーを象徴的に示しているのではないだろうか。その語意の領域は、過去・現在・未来の女性の総和にしか及ばないのであろうか。いや、総体的現実のなかには、いかなる性別にもまた性の隠喩にもかかわりなく、こうした抽象的な閨房に入れられうる、女性以外の現実があることは疑いのないところである。』(エウヘーニ ー・ドールス:「女性的世界」・「バロック論」に所収・美術出版社)


1)表徴としての女形芸

別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎・その1・時代にいきどおる役者」において、歌舞伎400年の歴史のなかで・これが「節目」であったと思われる象徴的事件がふたつあったと書きました。そのうちのひとつの「節目」が、寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止です。これにより「写実の演劇であろうとした歌舞伎」は理念上死んだのです。この歴史認識は重要であると思います。

歌舞伎の女優の禁止を起草した幕府の役人は誰だか分かりません。しかし、その人物は恐るべき斬れ者の人物であったに違いありません。彼は人心の掌握にたけ、芸能分野にも相当に通じた老獪な人物であったでしょう。彼はかぶき者の演劇がその人間性追求の理想の実現のために何を一番必要としたのかを見抜いていたのです。それは「女優の起用」ということであったと思います。創成期の歌舞伎は女優を奪われたことでその写実の表現の根本を奪われたのです。

このことは別稿「女形の哀しみ〜歌舞伎の女形の宿命論」でも述べましたが、もう一度繰り返しておかねばなりません。女優の禁止以後の歌舞伎においても、目指すところは本質的には「写実」です。この点において歌舞伎は何も変わってはいません。しかし、歌舞伎の「表現の手法」は変わらざるを得ませんでした。この世には男と女しかいません。演劇が人生の写実を目指すならば、舞台には男がいて女がいるはずです。女は女優が演じるのがホントなのです。ところが、舞台で女を演じているのはホントは女ではない。ここで歌舞伎の写実が中頓挫する のです。

女優を奪われたことで、歌舞伎の表現は変質せざるを得ませんでした。なぜなら女形は最初から「代用品」であったからです。女ではないのに・女を自然に写実に表現しようとするのはどう考えても無理があります。彼らは「女」を表現するために独特の技法を編み出しました。身振り手振りを工夫して、「しな」を作ってみたり・内輪歩きをしてみたり、そういうことで「女」を表現しようとしました。あるいは、「身も心も女になり切ろう」とすることでそれを乗り越えようとしました。しかし、それは「概念としての写実」・「気分としての写実」には違いないのですが、現実にはやっぱり「反写実」なのです。

『いくつかの相矛盾する糸があるひとつの動作に結集された場合、そこから生まれる様式は常にバロックのカテゴリーに属する。バロック精神とは、通俗的な表現で分かりやすく言えば、自分が何をしたいのか分からないのである。賛成と反対とを同時に望んでいるのだ。』(エウヘーリー・ドールス:「女性の敗北と勝利」・「バロック論」に所収・美術出版社)

このドールスの言葉を思い返すならば、女形の表現の在り方はバロックそのものであることが理解できると思います。女形の本質が「写実」を目指しているにも係わらず、その表現手段の大事な部分が「反写実」なのです。その肝心なところで女形は引き裂かれているのです。「バロック的なる歌舞伎」を象徴するものこそ女形です。

フランスの哲学者ロラン・バルトは次のように言っています。

『女形は、女性そっくりの化粧をして・女性らしい情感をたたえ・女性を生き写しにした・工夫の限りを尽くして女性に化けた男性ではなくて、純粋な表徴体なのである。この表徴体の内部は秘密でもなく、またこっそり表徴されているのでもない。内部の男性はただ、不在化されているのである。俳優は女形の顔を作って、女性を演じているのではない。女性を複写(コピー)しているのではない。ただ単に女性を表徴するのである。もしも、マラルメが言ったように、表現体は「理念の所作」によって出来上がっているものであるならば、女形は歌舞伎にあっては女らしさの所作であって、女性の剽窃ではない。』(ロラン・バルト:「書かれた顔」 〜「象徴の帝国 」・ちくま学芸文庫)

「歌舞伎の女形は表徴である」というバルトの指摘はその通りだと思いますが、もう少し説明が必要かも知れません。バルトは「剽窃(あるいは模倣)」を貶める意図はないと思いますが、「剽窃」も表徴へのひとつの段階ではあるのです。女形はもともと女優の代用品として発しました。その初期において女形が女性の剽窃であったことは疑いのないことです。表徴の手掛かりが女性の模倣からしか得られないのは当然のことです。例えば初代芳沢あやめ(延宝元年・1673〜享保14年・1729)の芸談「あやめ草」に出てくる挿話は、自分自身に女性と同じ生活を強いることで「身も心も女になり切ろう」とした女形の苦労を偲ばせます。

「女方は楽屋にても女方といふ心を持つべし、弁当なども人の見ぬ方へ向いて用意すべし」

「女方は女房ある事を隠し、もし御内儀がと人のいふ時は顔を赤らむる心なくては勤めまらず」

「女方にて居ながら立役になったらば佳からうと言はるるは恥の恥なり」

「真の女が男には成らぬ事を合点すべし、真の女もハヤ此れでは済まぬとて男にならるべきや、その心にては女の情に疎きは筈なり」

「平生を女にて暮らざねば上手の女方とは言はれ難し」

女形の開山といわれる芳沢あやめの芸風は、「芸の体まったく女なり、あまへたるやうな口跡にて始終地芸ばかりにて所作などはせず」(「翁草」)と いうものでした。「所作などはせず」はあやめが様式的な演技に傾斜しなかったということを言っています。あやめは、写実の芸を得意とした初代坂田藤十郎の相手役でした。藤十郎は「女方は第一女に成済まし、第二仕内なり(演技よりまず女に成りきることだ)」と言ったそうです。(「古今役者大全」) あやめの芸は 藤十郎の要求に応えたものでした。

その後、藤十郎の死によって歌舞伎の写実劇としての方向性は衰退し、歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れることで様式化の方向に向かっていきます。このことを女形の視点から見てみると次のようなことが言えます。

藤十郎の写実劇のなかで・女に成りきることを要求された女形芸は、やはり何かしらの無理があったに違いないのです。それはあやめの 肉体的な天分もあったでしょうが、何よりも血の滲むような努力の賜物でした。あやめの天才を以ってして・ようやく「全く女」になったわけで、他の役者には望むべきもないことだったのです。藤十郎の写実の芝居もそれに応じたあやめの芸あって成り立ったわけであるし、あやめの芸も藤十郎の芝居あってのものであったと言えましょう。だから、藤十郎の死後に写実の芝居自体が立ち行かなくなるのです。

その後の歌舞伎の様式化の方向は、女形をいかに女のように見せかけるかを追及する方向に向かっていきます。これは女形だけの問題ではなく、歌舞伎全体に係わる問題でした。女形が様式化し・女らしさを表現するにつれて、男役もより一層男らしさを強調した様式化した演技をしなければバランスが取れなくなってきます。そうやって、歌舞伎全体の構造が様式化し・そのなかで女形の芸は自分のあるべき位置に収まっていくいくわけです。逆に言えば、歌舞伎自体がもはや女形という奇妙な存在なくして成り立たない演劇に変質してしまったということでもあります。だから、バルトの表現を借りるならば「歌舞伎の女形は女らしさの表徴と・女性の剽窃との間(はざま)で引き裂かれている」のです。

『(歌舞伎では)50歳の男優が恋にやつれた初々しい娘役を演じるのが見られるからと言って、それがとりわけ注目すべきことではない。歌舞伎においては、若さも女らしさも、人が忘我のうちにその内奥に合一しようとして追い求める自然の本質ではないのである。符号(コード)が洗練され、それが関連のある一切の複写から離れて有機体として精緻なものになるということ、これは表徴するものの微妙な重屈折のなかに一切の女性的現実を吸収するか消失させる結果となる、またはそうなることが当然となる。表徴されはするが、再現されはしない、この女性は観念なのである(自然の生き物なのではない)。』(ロラン・バルト:「象徴の帝国 」〜「書かれた顔」)

バルトの観察は女形に対する暖かい愛情に満ちています。その通り、老優の演じるお初(十九歳)が・あるいは八重垣姫(十七歳)が不思議に思えないのが歌舞伎です。これを現代の我々は「芸の力」と呼びます。それはもちろんそうなのですが、歌舞伎が役者の肉体年齢にあまり重きを置かない演劇であるのも事実なのです。しかし、その一方で役の実年齢に近い若手女形がお初や八重垣姫を演じると、我々は芸の巧拙は別にして・「この役はやはり本来こういう年相応の肉体を求めていた」のだと、ちょっと感動に近い・生々しいリアリティを覚えることが確かにあるのです。これがテレビ・映画に慣らされた新しい感じ方だとも思えません。やはりそう感じるのが正常(ノーマル)な感覚 なのだろうと思います。そうしてみると老優の芸の魔力に何だか騙されていたようにも思えてきますが、やはりそこに女形の芸における「写実」と「反写実」のズレが明確に見えてくるのです。 このズレを意識しておきたいと思います。このズレこそが女形がバロック的な存在であることの証です。

「写実」であるというのは見た目に女に見えることであり、「反写実」とは女に見せようとする様式・技巧です。この二つの要素は複雑に絡まっていて決して完全に相反するわけではないのですが、表現の方向としては違う方向を向いているのです。そのために見た目の容姿と・「女」を表現する技巧がギャップのように浮いて感じられることがあります。そのことが「歌舞伎の女形は気持ち悪い」という感覚につながることもあります。


2)剽窃の女形芸

このような剽窃に発した女形芸が歌舞伎のなかで独自の位置づけを得るための方法としては・いくつかの過程が考えられます。ひとつは「所作事(踊り)」での女形芸の追及があります。

初代水木辰之助(延宝元年・1773〜延享2年・1745)は容姿は見劣りしたようですが、所作事を得意として・若女方として大いに人気を得ました。所作という様式化の手段を利用して女性に近づいた方が、芝居のなかで写実の女性の生理に近づくよりもはるかに楽ということなのです。あやめは辰之助 のことを次のように批判しています。

「所作事は狂言の花なり。地(芸)は狂言の実なり。所作事に珍しからん事のみ思うて地を精出せねば、花ばかり見て実を結ばぬに斉しかるべし。辰之助など上手は上手なれども、この場の工夫なきように見える」(「あやめ草」)

あやめは辰之助が所作の様式的な部分に逃げていると感じたのでしょう。しかし、それ以降の女形芸はどんどんそちらの方に傾斜していくのです。歌舞伎が人形浄瑠璃を積極的に取り込んでいくのも、浄瑠璃の文学的・演劇的価値が優れていたことがもちろん大きな理由でしょうが、それだけなら歌舞伎は筋だけを拝借して人形ではなく・役者のための脚本に全面に書き直してもよかったはずです。しかし、歌舞伎はそれをしないで、人形浄瑠璃の音楽的骨格 もすべてそっくりそのまま拝借して・いわば「寄生」してしまったのです。それは女形が不得手とした会話劇(地狂言)を人形的な所作と音楽的な台詞でごまかして・女形にボロを出させないようにするためであったという見方も成り立つわけです。

歌舞伎のなかに女形の芸を位置つける二つめの方法は、女形の演技を様式化することです。内輪歩きという技法は、女形中興の祖とも言われる初代中村富十郎(享保4年・1719〜天明6年・1786)が編み出したものでした。当時の女性は男性と同じように外股で歩いていたもので、それ以前に歩き方には性別はあまりなかったのです。だから先行芸能の能・狂言でも女形は外股で歩きます。 内輪歩きというのは、内股をくっつけて歩いて・裾がはだけて脛が露出するのを防ぎ、また筒形の裾のなかでの歩行をしやすくする独特の工夫でした。(このことはほぼ同じ時期に細幅物の織物により着物の仕立てが今日に近い形に大きく変化したこととも大いに関連しています。)この富十郎の女形の内輪歩きを見て「美しい」と感じた女性たちがこぞって富十郎の身こなしを真似して内輪歩きが女性のなかに浸透していったわけです。つまり、富十郎は内輪歩きによって現実の女性を「写実」に写したのではなく、「女」の本質の何かを表徴的に提示したと言えるでしょう。

富十郎は芳沢あやめの三男でした。しかし、富十郎は「娘道成寺」を初演したことでも知られるように所作事の名手であり、評判記にも「女形はいふも更なり、立役の仕内とても武芸事・荒事・やつし事・位事(くらいごと)・和事、何ひとつあだ矢なきは親まさりの名人」と書かれるほどに芸域の広い役者でした。富十郎の女形芸は、皮肉なことに・父あやめが最も批判的であった所作事を素地としたものであったのです。あるいは、富十郎は父の血も滲むような修行を傍で見ながら・いろいろ感じるところがあったのかも知れません。

こうしたなかで、女形は「女そのもの」に成り切るのではなく・「女らしさ」を様式的に提示することにより、歌舞伎のなかでの位置を作り上げていくわけです。このことは男役(立役) の演技にも影響を与えます。女形をより真実に女らしく見せる虚構のために、男役もまた「より強く・男らしく見せる虚構」に努めるなければならなくなるのです。もちろん「男形」という言葉はありませんが、立役もいかつく・武張った様式的な動きをして「男らしさ」を強調することで・歌舞伎は 様式的なバランスを無意識のうちに取っているのです。男だけの芝居であるが故に、歌舞伎のなかでの性の境界線はより強く・明確に引かれなければならなくなります。


3)女形の哀しみ

1995年に「シェークスピアと歌舞伎」というシンポジウムで、歌舞伎の女形は女性差別だと言って騒ぎ出した英国の女性研究者がいたそうです。周囲がいろいろ言っても彼女は全然納得しない。しかし、シェークスピア研究家・演劇集団「円」の演出家として活躍している安西徹雄氏がボソッと言った発言で彼女は黙り込んでしまったそうです。安西氏はこんなことを言ったそうです。

『男性の俳優が女性を演じることなど、それほどの問題ではない。能や歌舞伎の役者は動植物はむろん石にもなる。だいたい俳優は人間である必要さえない。文楽では木と布と紙で作られた人形で十分ではないか。』

欧米のアクターズ・スタジオでは「君は風だ、風になれ」とか・木になれ、机になれ・椅子になれとか言って演技術を徹底的に叩き込まれるそうです。ミュージカル「コーラス・ライン」の「I feel nothing.(何も感じない)」というナンバーは、「風になれったって、どうすりゃいいのよォ」という・そうした俳優学校の訓練に苦しむ生徒の姿を描いています。俳優の肉体は素材・記号に過ぎない、たかが男が女になる位のことが何のことだい・・・そう言われりゃ、さすがの女性研究者もグウの音も出なかったでしょう。

「俳優の肉体は記号に過ぎない」というのは真(まこと)のことです。バルト流に女形は表徴であると言ってもいいのです。しかし、その英国の女性研究者がなかば感情的に指摘したことは、歌舞伎のある一面を正確に突いています。演劇が人生の真実をそのまま描く芸能であろうとするならば、女優の起用を拒否する歌舞伎という演劇が歪んでいるということは、やはりそれは間違いないのです。歪んでいるということはもちろん「悪い」とか「間違っている」ということではありません。それが歌舞伎のフォルムであるということです。「歌舞伎は歪んでいる ・歌舞伎はバロック的な演劇である」という認識から出発しないならば女形の表徴を議論してもその価値は見えてこないと思うし、彼女のような女権論者を説得できないと思います。

生物学的機能の違いではなく・社会において継続的に醸成された概念による性別を「ジェンダー」と言うそうです。例えば「男らしくしろ。/男のくせにメソメソするな。/男なら、もっとしっかりしろ。」とか「女らしくしなさい。/女のくせに出しゃばるな。/女なら、もっとおしとやかにしなさい。」という男女の概念です。その見地から見 ると、歌舞伎の女形の芸はまさにジェンダーによって成立しているのです。女形は「女らしく・か弱く・慎ましく・美しく」なければならないのです。そういう意味でフェミニストにとって女形は許せない存在でしょうが、しかし、考えてみれば女形はジェンダーの被害者なのかも知れません。女形は政治的に強制されたところで仕方なく生まれた「歪んだ存在」だからです。

こうした歴史的経緯からすると、「歌舞伎は歪んでいる・歌舞伎はバロック的な演劇である」という認識を逆手にとって、歌舞伎は「女形のエグ味」を認知させる方向に行ってもいいのにという気もします。

「女の真似をする女形は、女形芸術の墓穴を自ら掘ってるものだと思う。女形の範はあくまで能の鬘物のシテにあるので、世にも高貴な美女の仮面を通して、神秘的な、暗い男の声が響いて来、美しい唐織の衣装の袖から、武骨な男の手が剥き出しになっているべきなのだ。ということは、女形の真骨頂は仮面劇にあるのであって、歌舞伎の女形といえども、変成男子の神秘感を失ってはならないのだ。(中略)男が女に化けているという芝居のウソの前提を、観客がもっと強く意識するようになれば、女形の将来は捨てたものではなく、また、女形自身も舞台の上で女形であること自体に、堂々たる男性的威厳を発揮することに努めれば、世間の目も変わってくるだろう。」(三島由紀夫:「捨てきれぬ異常の美〜女形は亡びるかどうか」・昭和38年8月)

残念ながら歌舞伎の女形はそういう「開き直り」が完全には出来なかったのです。「女のように見えなければいけない」とどこかで思ってしまった。「写実・見たまま自然のままに演じるが良し」の概念に一旦染まってしまうと、役者にとっても・観客にとってもこれを振り払うことはなかなか難しいのです。女形は「女」を写実に表現するために「反写実」に生きなければなりませんでした。女形の芸の提示するものは「女」という概念(「表徴」と言ってもよい)ではあるが、「女そのもの」ではなかったのです。そこに「女形の引き裂かれた哀しみ」があります。そして同様に・それは「歌舞伎の哀しみ」でもあるのです。

(H17・6・12)

(参考文献)

武智鉄二:「身体行動論」・「女形」〜定本武智歌舞伎・第1巻

(後記)

別稿「女形〜歌舞伎におけるバロック的なるもの・その1」もご参考にしてください。





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