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「サド侯爵夫人」を様式で読む

平成24年3月世田谷パブリックシアター:「サド侯爵夫人」

蒼井優(ルネ)、白石加代子(モントルイユ夫人)、麻美れい(サン・フォン)、神野美鈴(シミアーヌ)他 

野村萬齋演出


客「それでも世間ぢゃ君の脚本を歌舞伎くさいと云ってるぜ」 
主人「それはそうさ。書いているうちに、僕は時々看客席へ行って坐っている自分に気づいておどろくんだ」  
客「因果なものだね」
主人「因果なものさ」
(三島由紀夫:贅沢問答〜演劇の本質:昭和26年12月)

1)女形起用の痕跡

三島由紀夫の「サド侯爵夫人」は昭和35年(1965)11月・紀伊国屋ホールにおいて丹阿弥谷津子(ルネ)、南美江(モントルイユ夫人)で初演されました。この芝居は女優ばかりで・男優は出て来ませんが、当初三島は女形を登場させることを考えたようです。三島は次のように書いています。

『サドを、舞台に出さぬとなれば、他の男は、もちろん出て来てはならぬ。サドが男性の代表であるべき芝居に、他の男が出て来ては、サドの典型性が薄れるからである。しかし女ばかりの芝居では、声質が単調になりがちで、(これは宝塚の舞台を、考えればすぐ分かる)、殊にセリフ本位の芝居の場合は、それが心配になり、構想中、老貴婦人の役を出して、女形で、やらせる、とも考えたが新劇における女形演技の無伝統を思うと、それも怖くなってやめてしまい、結局女だけの登場人物で通すことにした。』(三島由紀夫:「『サド侯爵夫人』について」・昭和40年11月・劇団NLTプログラム)

最初は吉之助も「なるほどそういうアイデアもあったんだね」という程度のことしか考えなかったのですが、後に堂本正樹氏の回想を読んで、これは「サド侯爵夫人」を考える時に案外核心の部分かも知れぬなあと思いました。女形起用というプランは三島の頭のなかだけにあって具体性がなかったということではなく、どうやら三島はそのつもりで原稿を書き始めたようです。三島は「君にこの役を任せる」と言って指名までしていたのです。

『「サド侯爵夫人」は三島の構想も初期から聞いていた。もっとも最初はモントルイユをバレエの意地悪な姉のように、女形でやる意図だったので、北見治一を予定していた。北見も年賀状にそのことを書き、「今からソワソワしています」と予防線を張っていたものだ。しかし戯曲が出来上がるとモントルイユが世間の常識の象徴となり、夫人ルネと対立する大きな存在となったので、女形のプランは白紙に戻され、南美江が演じた。結果的にはこれは大成功で、南一代の当たり役となったが、北見はたまらなかっただろう。どう納得させたか。私も芝居の現場が長いから、他人事ながら心配になった。』(堂本正樹:「回想 回転扉の三島由紀夫 」)

堂本正樹:回想 回転扉の三島由紀夫 (文春新書)

三島は「サド侯爵夫人」に女形(というより本当は女装した男優と言った方が適当かも知れません)を出すつもりで芝居を書き始めたが、途中で いろいろ理由があってそのプランを捨てた、そして書き直したということです。三島が女形の役にする予定であったのはモントルイユ夫人(主人公ルネの母親)であったと堂本氏が証言しています。当初はモントルイユをさほど重要な役に考えていなかったが、想定外に大きな役になってしまってプランを変えたということだろうと思います。そこで吉之助が想像することは、それならば女形を起用するつもりで書き始めた時の痕跡が作品のなかに何かしら残っているはずだということです。もちろんプラン変更により作品中のモントルイユの位置付けは大きく変わったでしょうが、それでもモントルイユという役どころだけではなく、作品の骨格に及ぶ痕跡・あるいは影響がどこかに残っているだろうと考えます。(吉之助がそう考える理由は後で述べます。)吉之助には、これで「サド侯爵夫人」の評論が歌舞伎の視点で書けるという目論見がありました。まあこういう評論を書けるのは吉之助しかおりますまい。

しかし、実際に「サド侯爵夫人」を舞台でいくつか見てみると、新劇スタイルで統一された舞台では当然ながらその痕跡はなかなか見出し難いものでした。ルネと母親であるモントルイユの対立構図が鮮やかですから、そこから歪んだものが見えてこないのです。もちろん「痕跡」のことは吉之助の個人的な関心事に過ぎないわけで、舞台成果とは関係のないことです。女優さんは良くやっていたと思います。優雅な言葉の応酬のなかでは歪んだものも美しく見えたということかも知れません。

「サド侯爵夫人」に女形が使われた事例はないわけではありません。吉之助は残念ながら見ていませんが、玉三郎が昭和58年(1983)にルネを・平成2年(1990)にサン・フォンを演じた例があります。しかし、ルネやサン・フォンでは女形起用の必然が見えない気がして、いまいち興味がそそられませんねえ。吉之助が切符を買わなかったのは多分そのせいでしょう。昨年( 2011)蜷川幸雄演出で全員男優で演じられた「サド侯爵夫人」の舞台も見ていませんが、全員男優で演じることで作品の何かが焙り出されるようなものがあるのか、この発想は疑問に思います。それならば並演された「わが友ヒットラー」の方は全員女優でやって欲しかったですね。いずれにせよ吉之助としては、モントルイユを起点に「サド侯爵夫人」を様式的観点から読みたいわけで、その点では特に示唆があるとも思えません。よってこれらの舞台は吉之助の考察対象にならないわけです。(もっともこれも舞台成果とは関係ない話です。)

ところが、今回(平成24年3月)世田谷パブリック・シアターでの「サド侯爵夫人」では、やはりモントルイユが元々女形の役になるはずであったのだなあということが、すんなり感覚的に納得させられた気がしました。それはモントルイユを演じた白石加代子が良かったということを言っているのではなく、もちろん良かったのですが・そういうことではなく、ルネを演じた蒼井優も含めて・劇全体のなかで感覚的に納得させられた気がしました。これでお蔵入りしていた吉之助の「サド侯爵夫人」論が書けると思いました。以下観劇随想としてそのことを考察していきます。

まず言っておかねばならぬのは、今回の「サド侯爵夫人」の舞台は三島の指定通りに全員女優で演じられました。しかし、舞台を見て感じたことは、各役者の台詞様式、と云うかテンポ・抑揚を含めた調子が、バラバラな印象があることです。普通の舞台であると、それがいわゆる新劇口調であっても・全体に何となく統一感があるものですが、この舞台にはそれがありません。もちろんこれは 各人の台詞の技量レベルの問題とも考えられますが、良く言えば各人それぞれに自分の個性に沿ったスタイルで台詞をしゃべっているということかも知れません。演出の野村萬齋は様式感覚ということに人一倍鋭敏な狂言師です。このような台詞のバラバラ感覚に萬齋が無頓着だとは到底思えません。そう考えると萬齋演出は役者を巧みに配置してこの台詞の様式バラバラの舞台を意図的に作ったことになりますが、もしそうならばこの配置は大したものだと言わざるを得ません。様式バラバラ感から、合わせ絵のようにまったく別の全体印象が浮かび上がってくるのです。

白石加代子が言語明瞭にして・リズム明確な台詞をしゃべる技量を持つのは周知のことです。しかし、この役者陣の中に入るとそこに違和感がある、と云うか浮いている感じとなり、様式性がとても強い台詞廻しに感じられるものになるということです。白石加代子のそれは歌舞伎の女形の台詞廻しとはちょっと異なるものですが、ある種の様式感覚を想起させることは言うまでもありません。実際、そのことで劇のなかでのモントルイユの位置が非常に重くなります。ルネとモントルイユという通常の対立構図を越えて、モントルイユが劇の中心に居座る印象になって来ます。この点に留意したいと思います。

これは蒼井優のルネがモントルイユに対抗する重みに欠ける・だから対立構造が崩れているということを言いたいのではありません。むしろ逆で、萬齋演出は蒼井優のルネに軽やかさを求めていたと感じます。蒼井優の台詞廻しは舞台女優としては確かにまだまだで、言葉の明瞭さに欠け・台詞が流れて迫ってこない感じがありますが、それはそれ。吉之助は狂乱場面のオフィーリアを思い出しました。オフィーリアの台詞は彼女の心情を映し出しているのだけれど、その言葉は上滑りして空ろであって・決して 真実に響いてこないのです。同じような感じが蒼井優のルネにあります。蒼井優のルネは、モントルイユとの対立というこれまでの位置付けから(もちろん意図的に)スルリと抜け落ちてしまったように吉之助には思われました。こう書くと萬齋が蒼井優の拙さを逆利用したように受け取られると困るので・彼女の弁護の為に付け加えますが、蒼井優のルネは可憐で・第3幕幕切れはなかなか頑張っていたと褒めておきたいと思います。

麻美れいのサン・フォンの台詞はさすがに舞台慣れして巧いものですが、いささかリラックスし過ぎの感があって、台詞は流麗と云うよりサラサラ流れるように思われました。もうひとつ第2幕自分の官能体験を語る場面などで 机に横たわったりする演技が過剰に解説的に感じます。(本来ここは台詞だけで説明すべき箇所であると考えられます。)しかし、これも意図的なものに思われました。サン・フォンは劇のなかでサド侯爵の弁護人的役割を負っていますが、サド侯爵は決して正義であるわけではないからです。サン・フォンの台詞は悪魔的であっても、決して真実めかして響いてはならぬわけです。神野美鈴のシミアーヌの台詞はいわゆる自然主義演劇の様式で、その意味で違和感がないものです。これも劇のなかでシミアーヌが担う世間的な常識感覚を考えれば納得がいきます。以上主要四人の役者のなかの演技様式がバラバラで・そこにドラマの乖離感覚が見えるということを指摘しておきたいと思います。(この稿つづく)

(H24・3・25)


2)「ものまね演技」の伝統

三島が「サド侯爵夫人」のなかに女形を入れようかと思案したのは、ひとつには三島本人が言っているように劇の声質の問題(女ばかりでの芝居では声質が単調になりがちである)ということがありますが、それだけのことではなく、実はもっと大きな問題がその背景にあるのです。それは新劇を日本芸能の伝統に位置付けようとする意図、あるいはそこまで行かなくとも、本来伝統芸能の否定・反抗から出発したはずの新劇も日本芸能の伝統の上に実は乗っているということを指摘してやろうという意図でした。そのことを踏まえないと三島の魂胆が見えてきません。

『日本の新劇が、伝統演劇に反抗して、まず赤毛芝居から発足したのは、周知の事実であって、それは必然的に、「赤毛ものまね演技」の発達を、招来し、中世のものまね演技の伝統を、無意識に、背景をしつつ、しかもそのパロディーと批評の要素は、完全に、払拭して、ひたすら莫迦正直に、大まじめに、西洋人の言語、動作をまねることに、熱中したのであった。(中略)曲がりなりにもその演技は、何十年の歴史を経て、多少見るべき成果を示し、(中略)刀をさせばまるで格好のつかない新劇俳優が、ただひとつ育成継承してきた様式的演技が、「翻訳劇演技」というものなのである。私がそれを様式的というのは、もともとリアリズムの要求から発しながら、いつしか様式に固定していくという、日本芸能独特の過程を、翻訳劇演技も辿りつつある、と、考えるからである。(中略)私はこれほど輝かしき「ものまね演技」の伝統をほうっておくのは勿体ないと考えて、それを、十二分に利用するために、「フランスものまね芝居」を書いたわけであるが・・・』(三島由紀夫:「『サド侯爵夫人』について」・昭和40年11月・劇団NLTプログラム)

ですから「サド侯爵夫人」での女形起用という三島の構想は、唐突に、劇の声質の単調さの解決策として出てきたものではなかったのです。それは日本芸能の「ものまね演技」の伝統の上に新劇も実は乗っているという三島の演劇史観の象徴として出て来たものでした。なぜならば女形というものは、能狂言にも・歌舞伎にも出てくる、それは世界の演劇のなかでもほとんど日本にしか残っていない特殊な演劇形態であるからです。「サド侯爵夫人」のなかの女形は、新劇から浮き上がってくる過去の伝統の亡霊であると考えられます。「ものまね演技」の伝統、それは新劇が否定し・振り払おうとして、振り払い切れないで、気が付いてみればそれは自分に取り憑いて・自分のなかの本質に居座ってしまった亡霊なのです。三島はそのような亡霊を女形で象徴しようとしたと想像します。新劇が旧劇(歌舞伎)に対して、高らかに「新劇」を名乗った旗印は何よりもまず女優の起用ということでした。それは劇中でモントルイユが背負っているアンシャンレジーム(旧体制)の道徳とも重なることは言うまでもありません。

結果的に三島が「サド侯爵夫人」での女形起用を断念した理由については、その初期構想が明らかでない以上、推測の域を出ません。三島本人は「新劇における女形演技の無伝統を思うと・それも怖くなってやめてしまい・・」と書いています。堂本氏は「モントルイユがルネと対立する予想以上に大きな役になってしまったから」と書いています。恐らくそんなところなのでしょう。仮に完成台本で歌舞伎から女形を呼んでモントルイユを演らせ(ただし吉之助が望むなら玉三郎のような女形ではなくて・もっとエグイ感じの女形ですが)・新劇のルネと対立させるということを考えた場合、これは結構成果が大きいのではないかと想像しますが、三島の思うところがあまりに露骨に出てしまって、新劇の人たちが鼻白むことになってしまいます。これではまずい。三島としては、新劇の人たちは「サド侯爵夫人」で、これまでの通りの「もの真似演技」を、ひたすら莫迦正直に・大まじめに演ってくれれば良い、そして三島本人だけが客席でそれを見ながらニヤニヤ笑っていれば良い、その程度のことで十分なのです。それで三島は女形起用を取りやめたという風に推測します。そのように三島が考え直したとすれば、恐らく「サド侯爵夫人」は三島本人が当初思っていた以上に良く出来た、快心の作であったということを示していると思います。

ですからある意味において「サド侯爵夫人」は三島の新劇批評なのです。逆に言うならば、三島の歌舞伎批評にも成り得るのです。歌舞伎批評家である吉之助が「歌舞伎素人講釈」で「サド侯爵夫人」を取り上げる意図 もそこにあります。上記に引用した文章だけでなく、「サド侯爵夫人」についてのいくつかの文章のなかで、三島はその意図を明らかにしています。それにしても「サド侯爵夫人」が三島の新劇批評であるということを、当の新劇畑の人たちはどのくらい意識しているのでしょうかねえ。しかし、吉之助が目にする限り「サド侯爵夫人」を伝統芸能の視点から論じた評論を見たことがありません。三島が鏡を突きつけて「あなた方(新劇)の顔はこんな風だよ」と言っているのだから、あまり良い気持ちはせぬのは分かりますが、初演から半世紀近くなっているのですから・そろそろ冷静になって、自分の顔を見直してみるのも良いかと思いますね。それは「サド侯爵夫人」を全員男で演ってみるという試みとは、ちょっと違うと思います。(この稿つづく)

(H24・3・31)


3)ロゴスとパトスの相克

「サド侯爵夫人」に限りませんが、三島戯曲の観念的・修飾過剰な台詞が鼻に付いて・作り物めいて苦手だという方は、新劇ファンでも少なくないと思います。まあ言いたいことは分からぬではないですが、三島本人からすれば・自分の芝居というのは最初からそのように意図して書いているのだから、新劇ファンがそう感じるのは三島の目論見通りなのです。そんな不満を言って目を三角にする新劇ファンを見ると、三島は「・・してやったり」とひそかに喜んだかも知れません。

『当たり前のことを当たり前にいっていたのでは(いつまでたっても「おはよう、兄さん、いい天気ですね」式会話だけを、芝居のセリフと思っていたのでは)決して芝居イコール台詞などという定理は確立されない。では、なぜ芝居イコール台詞なのであるか?それは、われわれが西洋の芝居をとり入れた最初の瞬間からいつか直面ねせばならぬ最大の問題だったのである。芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいうまでもないが、その相克はかしゃくないセリフの決闘によってしか、そしてセリフ自体の演技的表現力によってしか、決して全き表現を得ることがない。その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もっともらしい理屈をくっつけて来たにすぎない。・・・とまあ、いってみれば、またけんかになるが・・・』(三島由紀夫:「サド侯爵夫人の再演」・昭和41年10月・毎日新聞)

もともと新劇が旧劇(歌舞伎)の批判から出発したことは周知の通りです。その理念は自然主義(写実・リアリズム)というところにありました。『新劇は写実や情緒でごまかして、もっともらしい理屈をくっつけて来たにすぎない』の部分ですが、写実はもともと新劇の標榜した理念であるから当然ですが、もうひとつの情緒とは何かということです。その情緒こそ、実は旧劇から引っ張って来た要素です。例えば「せまじきものは宮仕えじゃなあ〜あ」、「十六年はひと昔、夢だ・ああ夢だ〜あ」という詠嘆に引き伸ばす歌舞伎の台詞術です。別稿「初代の芸の継承」で触れた・なかにし礼氏の言を引くならば「七五調で詠嘆すれば子供を殺してもセーフ」 ということです。情緒に浸ってそこに反省も批判もないということです。新劇は、その臭さを嫌って・歌舞伎を表面上は真似していないように見えますが、実は「感情を込める」という名目で「情緒に浸って詠嘆する」というところを取り込んだのです。それは例えば「思い入れ」という形で表情や仕草などに無意識的に出ます。なぜならば、それが「・・・らしさ」という効果をお手軽に与えてくれるからです。ここで西洋赤毛芝居の新劇が日本のものまね演技の伝統に乗って来ることになります。(別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」をご参照ください。)皮肉なことに、これが新劇を様式の方へ引っ張る要素に働いたのです。ミイラ取りがミイラになっちゃったわけです。

『日本で純粋な対話劇が発達しなかったのには、さまざまな理由が考えられるが(中略)、主客の対立を惹き起こすものこそ言葉であり、言葉のロゴスを介して、感情的対立は、理論的思想的対立になり、そこにはじめて劇的客観性を生じて、これがさらに、観客の主観との対立緊張を生むことになる。(中略)しかるに、日本に移入された西欧劇(いわゆる新劇)は、その戯曲的解釈において、その演出方法において、その演技術において、必ずしも、こうした西欧的伝統を継承するものではなく、表面はわが伝統演劇と厳しく対立したように見えながら、その実、セリフの文学性、論理性、朗誦性、抽象性等々をことごとく没却して(中略)それだけそれが見事な変種であるかというと、そうとばかりは言えぬ。セリフ自体をでなく、セリフの行間のニュアンスを固執する日本伝統演劇の演技術や演出術が、そこかしこに無意識に顔を出している。』(三島由紀夫:豪華版のための補跋・昭和42年8月・「サド侯爵夫人」限定版)

三島が「サド侯爵夫人」について触れたエッセイ数編のなかで、形を変えて同じことを何度も・しつこいほど触れていることは、とても興味深いと思います。だとすれば新劇は、「芝居におけるロゴスとパトスの相克」という三島が投げかけた問題に対して、何らかの反応をせねばならないなあと思いますが、吉之助が目にする限り「サド侯爵夫人」を伝統芸能の視点から論じた評論を見たことがないのです。新劇は三島の投げかけを平然と無視しているかのように思えます。

ちなみに三島は歌舞伎作品を8本書きました。まず最初が柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)、「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)でした。そこから約10年の空白があって、最後に書いたのが「椿説弓張月」(昭和44年11月)です。新劇である「サド侯爵夫人」(昭和35年11月)は、その空白の時期の作品ということになります。(別稿「三島由紀夫の歌舞伎観」をご参照ください。)吉之助には「サド侯爵夫人」は三島のなかに生まれるべくして生まれた作品だったように思われます。

ですから「サド侯爵夫人」というのは、新劇に対して・歌舞伎に対して、ふたつの方向に向けられた三島の批評であったわけですが、とりあえず新劇は「芝居におけるロゴスとパトスの相克」ということについてどのような回答を見出したであろうか、吉之助はそこのところが気になります。(この稿つづく)

(H24・4・6)


4)ロゴスとパトスの相克・その2

『芝居におけるロゴスとパトスの相克が西洋演劇の根本にあることはいうまでもないが、その相克はかしゃくないセリフの決闘によってしか、そしてセリフ自体の演技的表現力によってしか、決して全き表現を得ることがない。その本質的部分を、いままでの日本の新劇は、みんな写実や情緒でごまかして、もっともらしい理屈をくっつけて来たにすぎない。・・・とまあ、いってみれば、またけんかになるが・・・』(三島由紀夫:「サド侯爵夫人の再演」・昭和41年10月・毎日新聞)

つまり三島は「サド侯爵夫人」において、ルネとモントルイユという母娘の対話という形式のなかでロゴスとパトスの相克の構図を見せようとしたということです。その相克はかしゃくない台詞の決闘によってしか、そして台詞自体の演技的表現力によってしか、決して全き表現を得ることがない。そのような逃げられない劇的 状況を設定したうえで、台詞による演技的表現を新劇に求めたのです。

ここまでの認識は概ね納得されると思いますが、ここからが吉之助の疑問です。それでは「ロゴスとパトスの相克はかしゃくない台詞の決闘によってしか、決して全き表現を得ることがない」という三島の文章は、ロゴスとパトスは対立しており・それは劇中ではルネとモントルイユという母娘の対決(ふたりの台詞の決闘)という二元構図によって示されるということになるのであろうか?ということです。新劇では、劇中でルネとモントルイユという母娘は概念的に対立しており、物語を書く者(サド侯爵)とその物語のなかに閉じ込められてしまった者(ルネ)という構図を重ね合わせながら、最後にはルネは夫からも・母親からも自立すると読まれることが多いと思います。それは解釈として十分あり得るもので、吉之助はそれを間違いだと言うのではありません。しかし、三島が固執するところの「ロゴスとパトスの相克」を、新劇は母と娘の対立構図に視覚的に当てはめて、それで良しとしているようにも思われるわけです。そのため「ロゴスとパトスの相克」ということは、結果的に全うされていないように感じられるのです。二元構図の読み方は、ある意味において新劇の様式感覚と相通じるものがあると吉之助は考えています。これが吉之助が新劇の「サド侯爵夫人」にずっと感じていた疑問で した。もちろん昭和35年(1965)11月の初演は大好評であったわけですし、その後も本作は繰り返し上演されて三島新劇の代表作としての評価を確立していることも事実です。しかし、吉之助の疑問にも根拠がないわけではありません。

『「サド侯爵夫人」における女の優雅、倦怠、性の現実性、貞節は「わが友ヒットラー」における男の逞しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていずれもがジョルジュ・バタイユのいわゆる「エロスの不可能性」へ向かって、無意識的に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北していくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡(うち)に埋没する。それが人間の宿命なのだ。私が劇の本質と考えるものも、これ以外にはない。』(三島由紀夫:「一対の作品〜「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」・昭和44年5月・劇団浪漫劇場プログラム)

三島の文章の「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・」のところが、吉之助はとても引っ掛かります。ルネが獄中にいる夫にあれほど尽くしていながら、サドが自由の身になると何故途端に別かれてしまうのか。それがルネの夫からの・あるいは母親からの自立・解放であるならば、それはルネの意思的な決断であるのですからハッピーなことで、それならば「サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・」という三島の表現にならないのじゃないかと思うわけです。母と娘の対立構図では、それは見えて来ません。「ルネは自ら悲劇を拒み・・」とはどういうことか。

そういうわけで「サド侯爵夫人」の結末にずっと引っ掛かっていたのですが、今回(平成24年3月)世田谷パブリック・シアターでの「サド侯爵夫人」で、その疑問がホロリと解けた気がしました。改めて吉之助が感じたことは、やはりルネとモントルイユを対立構図に置かないのが三島の当初構想であったのだなあということです。もちろん当初と違ってモントルイユがずっと重い役に仕上がった為、ふたつの役のバランスが当初と異なったものになってしまったことは当然ですが、その対立構図が崩れたところに・三島の当初構想の「痕跡」が見えるということです。今回の舞台では、ルネ(蒼井優)とモントルイユ(白石加代子)の対立構図が崩れて・ルネの印象の軽やかさが前面に出ていること、その両者のバランスの妙が予想外の劇効果を挙げていることに感心させられました。以下そのことを考えて行きます。(この稿つづく)

(H24・4・15)


5) モントルイユとルネ

「サド侯爵夫人」においてルネの母親モントルイユは、フランス革命前のアンシャンレジーム(旧体制)の法・社会・道徳を代表していると考えられます。一方、劇中に登場しないサド侯爵は、アンシャンレジームの既成概念 に反抗し・これを破壊しようとする側であると考えられます。ただし、これはサドが正義であるということを意味しません。現代においてもサドの行為は不道徳であり、場面によっては犯罪に違いありません。腐り切った既成の枠組みを破壊しる気概においてのみ・来るべき革命の空気と相通じるものがあるということに過ぎないのですが、まあそれはともかくサドが既成の法・社会・道徳に反抗していることは間違いありません。

ところで新劇は旧劇(歌舞伎)の否定から始まったということは前に述べた通りです。歌舞伎を糾弾する理由として・まず最初に挙がるのは、女形のことであることは間違いありません。自然主義演劇の立場からすれば、女形こそ否定すべき前時代(江戸)の生き残り・旧弊の象徴と云うべきもので した。当初三島はモントルイユを女形(正確には女装した男優)に演じさせることで、世間体を気にして・ルネの周りを オロオロしながら小言を並べる旧道徳の戯画(カリカチュア)的母親を考えていたと思われます。女装した新劇男優には台詞術の不安が付きまといます。もともと女ばかりの芝居のトーンの単調さを防ぐための色付けを期待した役で、そう大きな役にするつもりはなかったのでしょう。しかし、執筆が進んでルネとの対話が予想外に増えて・役が重くなってしまうと、下手をすれば男が目に付いて、劇が不自然な印象に見えて来かねません。それで三島はやむなく女形の起用を断念したと吉之助は想像します。それにしても、男声のモントルイユというのは、そこに立っただけで厳然たる旧弊道徳の象徴に見えて興味深いものであったろうと思います。

今回(平成24年3月)世田谷パブリック・シアターでの白石加代子のモントルイユは、言語明瞭にして・リズム明確な・そのしゃべりがある種の様式感覚を呼び起こし、一座のなかでちょっと浮いた異質感が感じられました。そこに当初三島が考えた女形の感触に通じるものがありました。フランス革命を目の前にしたアンシャンレジームの閉塞した空気が重なってきます。本来、法・道徳というものは社会の正義を体現するものです。一方、モントルイユが担う法・道徳というのは、アンシャンレジームの因習・惰性・固定観念みたいなものとして捉えられます。それらは後のフランス革命で完全否定されてしまう運命にあるものです。

旧弊の象徴モントルイユと劇中に登場しないサドが並列的に置かれるならば、ルネはどういう位置に置くべきでしょうか、ここが問題になると思います。吉之助が考えるには、第1幕から第3幕の間に、ルネは モントルイユとサドの周囲をフラフラと浮遊していて、決してどちらかの側に付いているということではないのです。ルネはモントルイユと対立しているわけではありません。かと言ってサドと対立しているわけでもないのです。「私は一体どうしたらいいの・・」と悩み苦しみながら、あれやこれや考えて、しかし答えはなかなか出てこないので、結局ルネは動けないということです。本当は「動けない」のだけれども、傍から見ればルネは「動かない」ように見えるのです。傍から見ればルネは「サド侯爵夫人」であることから頑として動かないように見えます。だからルネは貞淑であるように見えるのです。しかし、サドのことで・一番悩み苦しみ・怒り・泣いているのは、間違いなく妻であるルネであるはずです。そこのところが、新劇の二元論の解釈であると見えてきません。第1幕では、モントルイユの 「サドと別れてしまいなさい」という説得に応じず、ルネは頑として貞淑な妻であることにこだわっているように見えます。

史実に拠れば、七年戦争に従軍したサドは、帰還後に治安判事モントルイユの娘に求婚しますが、彼女の父はこれを拒絶し、その代わりに彼女の姉ルネとの結婚を取り決めたということだそうです。詳しいことを調べる気もないですが、ルネとサドとの結婚はどうも当人たちが乗り気でないところで進められた感じで、政略結婚の匂いがぷんぷんします。まあそれはともかく、第1幕でのモントルイユの会話にもある通り、モントルイユ家にはサド家が及ばぬ財産があり、この婚約でモントルイユ家はブルボン王家とご縁つづきになったわけです。そのなかで長女ルネは両親のご期待に沿うべく育てられ、予定通り侯爵夫人に納まって、貞淑な妻を演じているということです。「サド侯爵夫人」の粗筋をひと言で言うと、ルネは頑なに貞淑な妻を演じ続け、最後の最後になって突如変心して・夫サドを捨てて修道院に入ったということになると思います。しかし、芝居を見ると、母親モントルイユの眼から見たルネの印象は、芝居が進行するなかで、コロコロ変化しています。

まず第1幕、「サドと別れてしまいなさい」という説得にルネは応じません。モントルイユは「お前(ルネ)は聖いものと穢れたものとを一つなぎにして、自分をおとしめている」と言います。モントルイユから見れば、ルネは夫であるサドをあくまで信じて、「夫に尽くすことは妻の務めなのです」とでも言いたそうに見えます。これが第1幕の前半のルネのイメージですが、幕切れ近くなって妹アンヌが登場、アンヌがサドと一緒にベニスへ旅行して・しかもルネがそのことを容認していたことを知って、モントルイユは驚愕します。モントルイユは、ルネがただの貞淑な妻ではないらしいことに気が付きますが、ルネの真意はまだ分かりません。

第2幕では更に驚くべきことに、サドの不道徳な行為にルネも巻き込まれていたことが明らかになります。モントルイユはルネを見て「ああ、そういうお前の顔が・・・アルフォンヌに似てしまった、怖ろしいほど」と言います。これに対してルネは微笑して「アルフォンヌは、私だったのです」と言います。ここでルネの清らかなイメージは完全に崩れます。しかし、「夫に尽くすことは妻の務めなのです」という 一点においてルネは依然として貞淑な妻の位置に固執し続けているように見えます。

第3幕では、サドがまもなく牢獄から出所することか知らされます。それならばルネは、19年間待ち続けた夫がやっと自由の身になるのだから、これからは夫と一緒に暮らすのかと思いきや、意外やルネは既に修道院に入る手続きを済ませています。ルネは獄中でサドが書いた物語の主人公のことを挙げ、あの時に「アルフォンヌは私です」と言ったのは間違いで・「本当はジュスティーヌは私なのです」と言い、夫サドへの賛美(と思える)ことを叫びます。しかし、それでもルネは夫と別れて修道院へ入ると言うので、モントルイユは驚きのあまり声も出ません。モントルイユにはまったく理解が出来ぬまま幕になります。

傍目には頑として動かないように見えるルネも、母親モントルイユの眼には娘の印象が、劇の進行のなかで絶え間なく変化して見えるのです。モントルイユが、娘は「こんな風に思っているのだろう」と・半ば期待も交えて考えていることの、ルネはことごとく逆を行きます。そして最後に大どんでん返しが待っています。革命により旧体制は崩れ、これまでの法・道徳はもはや通用しなくなってしまいました。これこそモントルイユが後生大事にしていたものです。サドの時代がやってきたように思われました。幕切れのサドへの賛美の台詞を聞けば・ルネが夫と別れる理由は何もないように思えます。しかし、ルネは「そのことはこれから残る生涯を、修道院のなかでどっくりと神に伺ってみることにします」と言うのです。あっけないほど簡単にルネは夫を拒否してしまいます。ルネの心のなかで一体何が起きたのか。このことを考えるためには、モントルイユとルネという・二元対立構図を捨て去る必要があります。(この稿つづく)

(H24・4・20)


6)その選択の軽さ

『もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡(うち)に埋没する。それが人間の宿命なのだ。』(三島由紀夫:「一対の作品〜「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」・昭和44年5月・劇団浪漫劇場プログラム)

『もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで・サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・・』とは一体どういうことか。吉之助はここで「本朝廿四孝・十種香」の八重垣姫のことを思い出しました。別稿「超自我の奇蹟」はワーグナーの歌劇「さまよるオランダ人」とのコラボレーションですが、この論考のなかで述べた要点をお浚いしておきます。八重垣姫は大名の娘ですが、彼女に期待されることはよい縁組み(政略結婚)により家の安泰・あわよくば勢力拡大を計ることでした。「父の取り決めた許婚を夫とし・尽くせ」ということで八重垣姫は、家の期待を一身に背負って育てられてきたのです。八重垣姫は切腹した(と思われている)許婚・勝頼の絵姿ばかり見て暮らしています。そこに絵姿そっくりの男・蓑作が現れます。八重垣姫のなかに「あの男が絵姿の男だから・彼に尽くせ」という超自我の声が響きます。そこから八重垣姫は俄然積極的になります。八重垣姫のアイデンティティーは「あの男は絵姿の男だから尽くせ ・恋せよ」という超自我の命令によって維持されます。絵姿の男に尽くさなければ自分は生きていると感じない・絵姿の男に尽くさなれば罪悪感を感じてしまうのです。その喜びは決して自然発生的な喜びではありません。父親の願いと沿っていると見える状況においてはその実相があからさまに見えて来ることはありません。「どんな状況であったとしても・たとえ父親が逆らってでも・絵姿の男に尽くせ」という状況になって八重垣姫が自己のアイデンティティーにどれほど忠実であるかが試されることになります。次の「狐火の場」で、諏訪明神に守護する狐が現れ・その狐に守護されて・八重垣姫は勝頼の元へと諏訪湖を渡っていきます。一方、「さまよるオランダ人」では、呪われた宿命にあるオランダ人を・ゼンタが海に身を投げることによって救い出し・ ついに昇天させます。どちらも超自我が引き起こす奇蹟です。「究極の思いこそが奇蹟を起こすのかも知れない」というのが作品の主題です。

「サド侯爵夫人」のルネを見ます。モントルイユ家は名誉も財産もあり、あとの望みは家柄だけでした。長女ルネは両親の期待を背負って育てられ・サド侯爵家と縁付き、これでモントルイユ家はブルボン王家とご縁つづきになったわけです。ここまでは予定通りでした。しかし、サドが乱行を始めたことで事態が一変します。「別れなさい」という母親の説得に耳を貸さず、ルネは頑なに貞淑な妻を演じ続けます。「どんな状況であっても、親に逆らっても、夫に尽くすことは妻の務めなのです」という感じなのです。これ がルネのなかの超自我の声です。

とするならば、ルネはその究極の思いによって奇蹟を引き起こさなければならないことになりますが、最後の最後に・いよいよ夫が牢獄を出所して戻ってくるという段で、ルネは「やっぱ、アタシ、や〜めた」と感じで投げ 出しちゃったのです。だから、期待されたはずの奇蹟が起こらなかったのです。これが三島の言う「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで・サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・・」ということです。それならば超自我の強制にも係わらず・ルネが何故「やっぱ、アタシ、や〜めた」となったのかということが当然問題になるでしょう。これについては、ドイツの演出家ヨアヒム・ヘルツがゼンタについて書いていることが参考になります。

『ゼンタという女性のなかに、われわれはロマンティックな精神的な態度を芸術家が透視するように見た象徴的な姿を見ることができる。彼女は自分の環境に満足できない。なぜならそこには完成すべき行為というものがないからである。彼女にはふたつの道だけが開かれている。ここから逃げ出すか、あるいは自分のために夢の世界を創り出すか。夢の世界でなら、生活が彼女にかなえてくれなかった偉大な 行為がまだ可能だった。彼女の憧れは自分の人生のための生き甲斐を求めることだった。彼女の生まれつきの強さが、健全な性格が、彼女の周囲のもったいぶって偉ぶるものに反抗して自己を主張する。』(ヨアヒム・ヘルツ:「さまよえるオランダ人の演出」・1962)

ワーグナー さまよえるオランダ人 (名作オペラブックス)(上記ヘルツの論文を収録)

ルネには完成すべき行為というものがありません。ルネにはふたつの道だけが開かれています。ここから逃げ出すか、あるいは自分のために夢の世界を創り出すか。ルネにとって、ふたつの選択肢は等価なのです。右に行くか・左に行くかとか、正しいか・間違っているかとか云う決定的な重い選択肢ではなくて、どちらを選んだって良い・どちらを選んだって大して変わりゃしないと 云う軽〜い選択肢なのです。後者の選択肢(自分のために夢の世界を創り出す)について、第3幕でルネは「お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が造った世界なのでございます」と言っています。第2幕までルネはその線で貞淑な妻を頑固に演じ続けていたのですから、サドの幻想の世界のなかにルネが住み続けるという選択肢は確かに大いにあり得たはずです。ルネはそういう選択を既にしたのだと周囲も思い始めていました。ところが、夫が牢獄を出所して戻ってくるという段になって・ルネは周囲があっけに取られるほど簡単に夫を投げ捨ててしまいます。これはルネのなかで物凄く重い決断がなされたように思えるかも知れませんが・実はそうではなくて、「やっぱ、アタシ、や〜めた」という感じで ・その決断がとても軽〜い レベルでなされています。これはルネのなかでの主体が軽いことを示しています。主体が脆弱ということではないのですが、奇蹟を引き起こすというほどには重くはないということです。主体の軽さが、選択を軽いものにしています。 ここに八重垣姫やゼンタとの決定的な違いが見えます。

この違いは近松半二の生きた時代(江戸中期)と三島由紀夫の生きた時代(昭和)の違いということかも知れません。別稿「超自我の奇蹟」で触れた通り、江戸期の寺子屋教育で「廿四孝」の説話が重要な教材となったのは、「究極の思いが奇蹟を引き起こす。その時に奇蹟は起こるのかも知れない」ということを素直に信じられる時代であったからです。そこに江戸庶民の健全さがあったのです。一方、三島は奇蹟を信じたくても・信じ切れない現代の人間でした。まして三島は敗戦時に「結局、あの時に神風は吹かなかった」という挫折を味わった世代でした。しかし、ルネが夫を捨ててしまうことについて、「奇蹟は起こることはない・神風は吹くことはない」という絶望だなんて読むならば、これは読み方があまりに単純に過ぎます。作家の発想というものは、そんな単純なものではありません。(例えば短編「海と夕焼」(昭和30年)などを参考にすれば良いと思います。)吉之助は、ルネの選択に軽さを見たいのです。ルネが「やっぱ、アタシ、や〜めた」となるところに、別に奇蹟を拒否したというわけでもなく、何となく貞淑ぶっているのがかったるくなってきたという程度の選択の軽さを見たいわけです。

これはルネが主体を持っていないということではありません。超自我は主体と一体化しているのですから、ルネは自分が貞淑な妻であるために自分がどう振舞うべきかを、あれやこれや考えて・ 一生懸命試して来たのです。それは母親のモントルイユを驚かせることばかりでしたが、両親に教育された通り・貞淑な妻であるべくルネは努めてきたわけです。ルネの行動はどれもこれも彼女の心情のまことを表しています。しかし、それは決して長続きはせず、貞淑な妻のあるべき姿の理想は一向に見えてきません。その原因はルネにばかりあるわけではなく、もちろん夫サドのせいが大きいのです。それでも夫サドが絵姿である間は・つまり牢獄にいる間は、いろいろやっていればそれで満足できたのです。ところが、夫が牢獄を出所して戻ってくる段になって・ルネは急にかったるくなって来るのです。これまであれやこれや試してきたものだから、イザ現実に向き合うという段になると貞淑な妻のあるべき姿の理想がスルリと抜け落ちてしまって・そんなものがあったのかどうかさえ自分で分からなくなってしまう。そうなると夫を捨てるという選択が意外なほど簡単に思えてくる。夫を捨てるか、あるいは自分のために夢の世界を創り出すか。どちらを選んだって大して変わりゃしないわという軽い選択になってしまうわけです。

吉之助が、今回(平成24年3月)世田谷パブリック・シアターでの蒼井優のルネに狂乱場面のオフィーリアを思い出したというのは、そういうところです。幕切れで、「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と。」という最後の台詞を言い終わった後の優ちゃんの晴れやかな笑顔がとても印象的でした。「ワァ、言っちゃった〜」というスカッとした表情でしたね。こうして観客が内心期待していた奇蹟のドラマを、ルネは最後の最後に自ら投げ捨ててしまうのです。(この稿つづく)

(H24・4・29)


7)配役バランスの妙

ここで大事なことは、ルネのなかで、夫の所業に対する悲嘆と困惑と同時に、「私は妻としてどう振舞うべきか・ああすれ良いか・こうすれば良いかという葛藤と・自問自答が絶えずあるということです。その試行錯誤のあれこれが、母モントルイユから見えると・母が考えていることごとく逆を行き・驚かせるばかりなのですが、ルネ本人からすると・それは試行錯誤の結果で・それらはことごとく等価なのです。等価であるから簡単に乗り換えられることができて、その選択が軽いのです。しかし、その選択が軽いからと云って・ルネが深く考えていないということではないのです。「私は妻としてどう振舞うべきか」という答えがひとつに決まらない・決められないということです。ですから、三島が云っている「ロゴスとパトスの相克の構図」というものはルネの心のなかにあるものです。

新劇の二元論ではモンルイユはアンシャン・レジームの象徴としてルネと概念的に対立しており、旧社会の規範・道徳で以ってルネを押さえ付けようとしていると見ます。母と娘の対話の応酬のなかにロゴスとパトスの相克の構図を見るという設計であると思います。これは脚本だけ読めば解釈として十分あり得ますが、三島がエッセイで記していた「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・」という意図を納得させるものではありません。

一方、吉之助の見方はモンルイユをアンシャン・レジームの象徴と見る点では同じですが、吉之助はモンルイユをルネの周囲で動き回って、ルネが「私は妻としてどう振舞うべきか・ああすれ良いか・こうすれば良いか」と深く考えようとしているのを、引っ掻き回し・ある時は邪魔し・ある時は決断を急かす道化みたいな騒がしい存在であると見るわけです。恐らく三島が当初予想していたモントルイユの位置付けはそんなところだろうと吉之助は思います。そのために三島は新劇にとって異形の存在である女形の起用を考えたのですが、三島の当初予想よりルネとモントルイユの対話量が増えてしまい・そのためモントルイユを戯画的存在のほど良く小さい役に出来なくなった・それで女形起用を断念したというのが、吉之助の推測です。

今回(平成24年3月)世田谷パブリック・シアターでの蒼井優のルネを吉之助が評価したいのはこの点です。確かに蒼井優は台詞に頼りないところがあって・対話で白石加代子(モントルイユ)と真っ向ぶつかって論理と気迫で応酬するという場面にはならないのです(それが物足りないと感じる方は当然いると思います)が、結果としてそれがお定まりの新劇の二元構図を崩してしまうという思わぬ効果を生んでいます。蒼井優のルネの台詞は、彼女のその時々の真実を語っているのですが、同時にそれが彼女自身に言い聞かせるモノローグのように空ろに聴こえます。それがオフィーリアに似るのですが、ルネは「私は妻としてどう振舞うべきか・ああすれ良いか・こうすれば良いか」をあれやこれや考えて試行錯誤をしますが、それは決して結論になることはなく、だからその行動も一時的で重みを持つことはないのです。ですから、蒼井優のルネは、モントルイユとの対立という ・これまでの新劇のお定まりの構図からスルリと抜けてしまいました。結果的に白石加代子(モントルイユ)の方も、戯画的な・それゆえに異形な・三島が当初予想していた女形の感触を十分想像できるものになっています。そして、一番大事なことですが、三島がエッセイで記していた「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み・・」という意図を十分納得させます。ルネは、その思いで奇蹟を引き起こすことなく、「やっぱ、アタシ、や〜めた」とドラマを投げ捨てます。

こういう書き方をすると蒼井優のルネが役として弱いのが怪我の功名だったみたいに思われるかも知れませんが、蒼井優は第3幕の幕切れの場面は輝いて「もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで奇蹟のドラマが起きたのに・・・」というところを十分表出できていて・よく頑張ったと思います。これは配役の妙、配役のバランスが生む思わぬ効果と言えましょうか。この配役バランスが意図して出来たものならば、演出の萬齋のキャスティングの眼は大したものだと思いますねえ。

それにしてもカーテンコールで「ラ・マルセイエーズ」が繰り返し鳴り響いたのは、二元論的発想でちょっといただけませんでしたねえ。このカーテンコールでは、サドは既成道徳に反抗した人物のように見えて(まあそういう側面もないわけではないですが)、出獄を許されたサドはフランス革命後はわが世の春を謳歌したように見えかねないと思います。史実に 拠れば、サドは1790年4月出獄(第3幕の時期に相当)の後、ナポレオンによって狂人とされ、1803年に精神病院に再び閉じ込められ、1814年にそこで没しました。

(H24・5・4)


 

 

 

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