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初代壱太郎のお初・二代目右近の徳兵衛

令和6年2月大阪松竹座:「曽根崎心中」

初代中村壱太郎(天満屋お初)、二代目尾上右近(平野屋徳兵衛)、二代目中村亀鶴(油屋九平次)、四代目中村鴈治郎(平野屋久右衛門)他


『あなたが作中人物たちに吹き込む、けっして前途の明るくない慈愛は、あなたがありあまるほど手にしている信(信念・信仰)が生む事実ではないだろうか。あなたは、空虚な生と記述不能な対象の声なき婚礼を言祝(ことほ)ぐことができる人なのだから。』(ジャック・ラカン:「作家マルグリット・デュラスへのオマージュ」・1965)


1)身体が醸し出す真実味(リアリティ)

本稿は令和6年2月大阪松竹座での、壱太郎のお初・右近の徳兵衛という新鮮な顔合わせの「曽根崎心中」の観劇随想です。なお壱太郎のお初は今回が3回目、右近の徳兵衛は初役になります。

ご承知の通り、宇野信夫版・「曽根崎心中」は昭和28年(1953)8月新橋演舞場での初演以来、もっぱら四代目藤十郎(二代目扇雀-三代目鴈治郎-)のお初を軸に長年上演されて来ました。その後、お初は当代扇雀・そして壱太郎に引き継がれて現在に至ります。だから世間ではお初は西の成駒屋の持ち役です。一方、徳兵衛の方は、初演の二代目鴈治郎が長く勤め、その後は孫の当代鴈治郎が引き継いで現在に至るので徳兵衛も西の成駒屋独占であるみたいですが、実は当代鴈治郎がまだ若かった時期・徳兵衛役に定着するまでのしばらくの間、七代目菊五郎・十二代目団十郎・四代目梅玉などが徳兵衛を勤めたことが数回ほどありました。そういう時期もあったわけですが、やはり徳兵衛も西の成駒屋の持ち役のイメージでしょう。

だから今回(令和6年2月大阪松竹座)の「曽根崎心中」で、当代鴈治郎からの指導を受けて・右近が初役で徳兵衛に挑戦し・壱太郎のお初とコンビを組むと云うことは、将来的に大きな意味を持つことになると思います。本作上演史上と云うことだけではなく、これからの上方歌舞伎の方向がこれで決まってくるかも知れませんねえ。と云っても右近は東京出身の役者だから上方弁と云うことではハンデが少なからずあるわけだが、現在の上方歌舞伎はそのようなことを心配していられるほど余裕があるわけではありません。東京から新しい血を輸血してでも、何としても上方歌舞伎を存続して貰わねばなりません。そのような状況であるわけですから、壱太郎-右近のコンビによる「曽根崎心中」が、上方歌舞伎再興の起爆剤のひとつになってもらいたいと思いますね。因みに来月(令和6年3月)南座でも、壱太郎(小春)-右近(治兵衛)のコンビで「心中天網島・河庄」が出る予定になっています(隼人が初役で与兵衛を演じる「女殺油地獄」も同様です)が、興行サイドが将来に向けてそのような方針を真剣に考え始めているのならば嬉しいことです。

もうひとつ今回の「曽根崎心中」で吉之助が期待したいことは、壱太郎(33歳)のお初・右近(31歳)の徳兵衛の若さで以て、作品が持つ「熱さ」をトコトン引き出してもらいたいと云うことです。歌舞伎では70歳の役者が20歳の役を見事に演じてみせる、これが芸の力だと云うことになっています。しかし、役者と役の年齢が比較的近い場合、身体が醸し出す真実味(リアリティ)に思わずハッとさせられることもあります。例え芸としてはまだまだであったとしても、それ以上に身体が真実を雄弁に語ることがあるものなのです。昭和28年8月新橋演舞場での「曽根崎心中」初演の時にも恐らくそのような感動があったに違いない(当時二代目扇雀21歳・二代目鴈治郎51歳でした)ですが、吉之助の記憶のなかで強く残っているのは、昭和62年(1987)4月国立小劇場での「曽根崎心中」のことです。この時、浩太郎(後の三代目扇雀・当時26歳)のお初、智太郎(後の四代目鴈治郎・当時28歳)の徳兵衛でした。もちろん二代目扇雀と二代目鴈治郎のコンビの舞台も良かったけれども、若き浩太郎と智太郎の舞台の方も、吉之助のなかでは今でも「別格」で残っているのです。一言で云えば、演技が上手いとか下手とかを越えて、とにかく「熱かった」と云うことです。それはつまり、「深いことは考えず・思い込んだらまっしぐら、失うものは何もない、何も恐れるものはない、見ていろ・やってやろうじゃないか」と云うメッセージであったと思います。だから吉之助としては、壱太郎・右近のコンビにも、同じような「熱い」ものを期待してはるばる大阪まで遠征したと云うわけです。(この稿つづく)

(R6・3・3)


2)お初がリードするドラマ

歌舞伎のカップルは、お初徳兵衛・小春治兵衛・お軽勘平とか、女性の名前が先に来ることが多いことはご存知の通りです。例外はないわけでもありません。例えば小栗判官照手姫なんてのがそうですけれど、しかし、まあ大体は女性の名前が先に来ると思って良いのではないでしょうか。このことは女性が男性に対して何らかの精神的イニシアティブ(主導権)を取っていることを示唆しています。つまり男性は女性のおかげで初めて真の意味に於いて「男」になるとも言えます。近松門左衛門の最初の世話物「曽根崎心中」はその典型です。ドナルド・キーン先生が次のように言っています。

『西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行三島由紀夫の作品風土 」(中公文庫)

キーン先生は、お初の足首にしがみつくことしか出来なかった・みじめったらしい徳兵衛が「歩きながら背が高くなる」とズバリ指摘しています。死に場所に着いた時には、徳兵衛はもう一人前の「男」の大きさになっています。このように徳兵衛を大きくしたのはお初であると云うことを意識せねばなりません。

「曽根崎心中」冒頭・観音廻りの場は現在ではもはや文楽でも上演されませんが、この場に於いて近松はお初の魂を呼び出して、三十三の観音札所を巡らせます。お初は世俗の垢・煩悩を洗い落とし、魂を浄化して神々しいお姿に変化します。ここで近松はお初に或る役割を与えます。近松はお初のことを

「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」

と言うのです。これは大詰「曽根崎の森心中の場」の結句

「貴賤群集(きせんぐんじゅ)の回向の種、未来成仏疑いなき、恋の手本となりにけり」

に照応するものだと思います。「恋の手本」とはお初徳兵衛の二人を指すとするのが穏当な解釈ではあろうけれど、吉之助としては「恋の手本」をお初の方に比重を掛けて読みたいのです。徳兵衛を真の「男」へと導くのはお初であるからです。だからお初は徳兵衛にとっての観音菩薩なのです。

宇野信夫脚色の「曽根崎心中」初演は昭和28年8月新橋演舞場のこと、主演は二代目鴈治郎の徳兵衛・二代目扇雀のお初でした。著書「役者馬鹿」のなかで二代目鴈治郎が初日に起こったハプニングを回想しています。それに拠れば、天満屋でお初が「死ぬる覚悟が聞きたい」と他人に分からぬように縁の下へ右足を差し出し、徳兵衛がお初の右足を取って自分の喉笛に当て・心中の意思を伝える場面で、客席は興奮の渦であったそうです。天満屋をふたりで抜け出す場面では、客席の前の方から「早く、早く・・」と声が掛かる。ようやくふたりが舞台に飛び出すと、客席はハンカチを目に当てる人ばかりで、初日の熱気に演じる方が当てられてしまって、思わずお初が徳兵衛の手を引っ張って花道を引っ込んでしまったと二代目鴈治郎が回想しています。思わぬハプニングが新鮮な感動を呼んで、以後の本作ではお初が徳兵衛の手を引いて花道を引っ込むのが型になってしまいました。

歌舞伎の心中物では男が女の手を取って花道を引っ込むのがお約束です「曽根崎心中」でも最初はそうするはずだったのですが、ハプニングでこれが逆さまになってしまったのです。しかし、「曽根崎心中」の場合はやはりこれが感覚として「正しかった」と思わざるを得ません。この心中は確かにお初がリードしたものであるからです。

「この人(徳兵衛)を愛する私」を主張する感情が、お初は人一倍強いようです。「歌舞伎素人講釈」ではこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。実は別稿「遊郭「吉原」の搾取構造」で論じたのと大して変わらぬ閉塞した環境が、この「曽根崎心中」のなかにも見えます。お初は前借金でがんじがらめに縛られ、遊女として空疎な日常を過ごしています。遊女と云うのは商売ですから、口では「愛してる」とか方便を言っても、本気で相手に惚れてはならぬものです。ほとんどの客が遊びと割り切り「商品」として扱われるなかで、ただひとり・徳兵衛だけが違うのです。徳さまと一緒にいる時だけはお初は「自分が真っ当な人間として扱われている」と感じています。これは「籠釣瓶」での八つ橋と栄之丞(間夫)との爛れた関係とはまったく異なるもので、お初と徳兵衛の恋は真剣なものです。ただし世間を忘れてしまった「見境(みさかい)のない恋」ではあるのですが。

徳兵衛は醤油を商なう平野屋の手代ですが、店の主人とは叔父・甥の関係です。主人は徳兵衛に目をかけて妻の姪と結婚させて商売を継がせようとします。しかし、徳兵衛はすでに天満屋のお初という遊女と馴れ合っており、この縁談を断ってしまいました。主人は怒って・結婚を前堤に徳兵衛の義母に用立てた銀二貫目を期限までに返すように要求し、「それが出来なければ大坂の地は踏ませぬ」と言います。ここで徳兵衛が主人に言ったことが問題です。それは生玉社境内で徳兵衛がお初に得意気に語って聞かせた・あの台詞のことです。

『在所の母は継母なるが・我に隠して親方と談合極め、二貫目の銀(かね)を握って帰られしを、このうつそり(まぬけ者)が夢にも知らず、後のつきからもやくり出し、押して祝言させうとある。そこでおれもむっとして、やあら聞えぬ旦那殿、私合点いたさぬを老母をたらし、たたき付け・あんまりななされやう。お内儀様も聞こえませぬ。今まで様(さま)に様を付け、祟(あが)まへた娘御に・銀を付けて申し受け、一生女房の機嫌取り、この徳兵衛が立つものか、いやと言ふからは、死んだ親仁が生き返り申すとあっても嫌でござる・・・』

大坂で商売をする者にとって、主筋の娘との縁談は願ってもない話なのです。ところが徳兵衛はこれまでお嬢様お嬢様とあがめてきた娘さん(姪)を嫁にもらって・今度はその女房の機嫌を一生取るなんてのはまっぴらご免だと主人に対して断ってしまいました。しかも「この徳兵衛が立たない」とまで言っています。これは当時の大坂町人の感覚から見るとトンデモないことなのです。だから大坂で商売をする人間の夢を・たかが遊女風情のために捨てた「馬鹿な男・愚かな男」と云うのが大坂町人の常識から見た徳兵衛のイメージです。このことを前提として考えなければ「曽根崎心中」のドラマは十分に理解できません。

この徳兵衛の話を角度を変えてお初の立場で聞けば、「この私のために結構な縁談さえ断ってしまう、徳さまはそれほどまでに私のことを熱く愛してくれる」と云うことになります。だから「この人(徳兵衛)を愛する私」と云うことが、お初のアイデンティティ同然になっているのです。そこに遊女であるお初の過酷な環境・空虚な生活を察することが出来ます。(この稿つづく)

(R6・3・8)


3)壱太郎のお初のこと

壱太郎のお初は、最初登場した時のと哀れさとしっとりとした風情がなかなか良いですねえ。そこには吉之助が期待した若い身体が醸し出す真実味(リアリティ)がはっきり出ています。しかし、芝居が進むにつれて・何だか物足りない感じがして来るのです。何故そう感じるかと云うと、お初が徳兵衛に対し少し後ろへ引いたような印象がするせいです。お初が徳兵衛を立てているのか・壱太郎が右近を立てているのか・それは分からないが、或いはどちらもあるかも知れないが、何だかお初が徳兵衛に対し控え目にしている印象がします。このため「曽根崎心中」がお初がリードするドラマになり切れていない印象です。「熱さ」が足りない感じがします。

ひょっとすると、これは「お初と徳兵衛の愛のドラマ」(=つまり二人が対等である)と云う考え方でありましょうかね。そうなると見境もなく心中に突っ走る若者の「熱さ」が後ろへ引いてしまって、それよりも「心中せねばならなかった二人の哀しみ」の方が前へ出るように思います。そう云う「曽根崎心中」もあるものであろうか。まあ昭和と令和と時代の違いもあるだろうし、あの頃の浩太郎(当時26歳)・智太郎(当時28歳)のコンビよりも、今の壱太郎(33歳)・右近(31歳)のコンビの方が或る意味で「大人」なのかも知れないなあと思ったりしました。「大人」だねえとちょっと皮肉りたくなるのは、宇野信夫脚本の行き先が何となく見えちゃって・その行き先に向けて演技しているように感じるからです。つまり友人(九平次)に陥れられて・偽判(にせはん)使いの汚名を着せられて・不本意ながら心中せねばならぬ状況に追い込まれた可哀そうな二人と云うことです。

「二人が心中せねばならぬ状況に無理やり追い込まれた」と云う様相が宇野信夫脚本にあるのは、宇野信夫が原典を元禄16年(1703)5月大坂竹本座での「曽根崎心中」初演本に求めず、その後の改作本に求めたからです。例えば天満屋に平野屋主人久右衛門が訪ねて来て九平次の悪事が露見する、久右衛門は実は徳兵衛を許すつもりであったなどの件はすべて改作本から出たものです。宇野信夫の名誉のために付け加えておくと、昭和28年当時にはこれらが近松本人による改訂であると信じられていたもので、だから宇野信夫はこれを基にほぼ忠実に作劇したのです。これらが紀海音など他人による改訂であったと判明したのは後の研究に拠ります。ホントは最初から初演本を基に作劇してくれれば良かったのですがねえ。

まあ事情はそう云うことなのだが、「お初徳兵衛がホントは死ななくても良かったのに・心中に追い込まれた被害者であった」という印象になったことで、「死ぬことでわれらの無実を証明するのだ、見ていろ・やってやろうじゃないか」と云う熱いところが弱くなってしまったのです。先ほど壱太郎・右近の方が「大人」だねえと書いたのは、二人が宇野信夫脚本のそのようなところに強く反応しているように感じることです。そうではなくて、若者ならば、「死ぬことで無実を証明して、われらはもっと激しく生きてやる」と云うところを前面に押し出してもらいたいのです。そう云う感覚は、意識してやろうと思えば、宇野信夫脚本であっても出せないことはないのです。例えばクライマックスはもちろん天満屋でのお初の、

「さのみ利根(りこん)に言はぬもの。徳さまの御事、幾年なじみ、心根を明かし明かせし仲なるが、それはいとしぼげに、微塵訳は悪うなし。頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」

という台詞です。これは「かぶき的心情」で自己を主張する台詞です。折しも世間は赤穂義士の討ち入り・切腹の話題で持ち切りの時期でした。喧嘩両成敗であるべきなのに・吉良家は「お咎めなし」で・浅野家のみが「お取り潰し」という幕府の裁定に異議を申し立てた行為だと世間の誰もが直感しました。それとまったく同じような行為を遊女風情が主張するのです。元禄16年「曽根崎心中」初演時の観客の驚きと興奮はどれほどのものであったでしょうか。

晩年の四代目藤十郎のお初はそのようなことをしませんでしたけれども、吉之助の記憶に間違いがなければ、若い頃の藤十郎(といっても昭和50・60年代の二代目扇雀のことであるが)のお初は、「この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」の場面で、縁の下を足で探りつつ、煙管をカンカンカンと音を立てて縁に突いたと思います。「徳さま、どこにいるの、早く返事をして、早く返事を・・」という感じでしたねえ。「オオ、そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと」では高く叫んで九平次でなくても気味が悪くなるほどでした。壱太郎のお初にも、このような熱い切迫感が欲しいのだなあ。この場面は物凄く官能的ではありませんか。

壱太郎と右近のコンビを見ると、お初は打ち萎れており・徳兵衛は惨めさに引き裂かれているようです。確かに憐れさはある。しかし、惨めさと裏腹に表出される「熱い官能性」がもっともっと欲しいのです。この点「曽根崎心中」にとっては大事なことなのです。(この稿つづく)

(R6・3・10)


4)右近の徳兵衛のこと

キーン先生が指摘する通り、お初の足首にしがみつくことしか出来なかった・みじめったらしい徳兵衛が道行では「歩きながら背が高くなって行」きます。ここで徳兵衛を真の「男」へと導いたのはお初です。これは確かなことです。しかし、そのような「立派な男」の要素が、「道行」以前の徳兵衛にまったくなかったものなのでしょうか。そうではないと思います。

それは「強さ・熱さ」として以前から徳兵衛に内在していた要素でした。しかし、序幕・生玉社境内で提示される大坂で商売をする人間の夢を遊女風情のために捨てた「馬鹿な男・愚かな男」という情けないイメージに邪魔されてしまって、観客からはなかなか感知出来なかったのです。この要素を表面にまで引き出して、徳兵衛こそ真の「男」・立派な「男」だと満天下に示したのが、お初だったのです。同時にこれは「この男(徳兵衛)が愛した女がこの私(お初)だ」と云う自己顕示の裏返しでもあったわけです。

そのような徳兵衛の「強さ・熱さ」は、生玉社境内でも、よくよく見れば見えます。例えば平野屋主人とやりあった様子をお初に得意気に語って聞かせる場面、

『あんまりななされやう。お内儀様も聞こえませぬ。今まで様(さま)に様を付け、祟(あが)まへた娘御に・銀を付けて申し受け、一生女房の機嫌取り、この徳兵衛が立つものか、いやと言ふからは、死んだ親仁が生き返り申すとあっても嫌でござる・・・』

世間(大坂商人の社会)が見えていない愚かしさと背中合わせですが、徳兵衛は「ドウや、カッコええやろ」という調子でしゃべっています。お初はそんな徳兵衛の真っ直ぐなところが大好きなのですがね。徳兵衛はお初のことを「たかが遊女」などと毛の先ほども思っていません。ホントに普通の恋人として接してくれています。そこが人間として徳兵衛の偉いところです。ただしそう云うところはその他のいろいろガチャガチャした要素のため観客からは見えにくくなっています。これは近松がそのように書いているのです。

もうひとつ、大事なことを付け加えます。「曽根崎心中」は昭和28年の復活狂言であるので、古典歌舞伎としてのバックグラウンドを持たないわけです。したがって徳兵衛を在来の古典歌舞伎の役どころとして、伊左衛門(廓文章)や治兵衛(天網島)などと並べて上方和事の範疇に捉えることは議論のあるところかも知れませんが、これが近松の最初の世話物浄瑠璃であること、さらに徳兵衛を持ち役として来た二代目鴈治郎から当代(四代目)鴈治郎への芸の系譜、そのようなことを考慮に入れると、吉之助はやはり徳兵衛を上方和事として捉えたいと思うのです。

別稿「和事の起源」のなかで、和事芸では熱くシリアスな要素が、滑稽味・諧謔味と背中合わせで出ることを論じました。例えば徳兵衛は九平次のことを「あいつも男を磨く奴」と言い、平野屋主人に対しては「この徳兵衛が立つものか」を怒鳴るなど、徳兵衛は「男」と云うことを盛んに言います。しかし、大坂で商売をする人間の夢を・たかが遊女風情のために捨てた馬鹿な奴と思って見ている当時の観客(大坂町人)から見ると、「あいつも男を磨く奴」と言っていた友人からは裏切られ、「この徳兵衛が立つものか」と怒鳴った主人には店を追い出され、徳兵衛は「男」・「男」と盛んに言うけれど、観客からは失笑ものなのです。ここに吉之助は和事のヴァリエーション(変化形)を見ますね。

生玉社境内・幕切れでは、九平次と仲間に殴られ・地面に転がされ、徳兵衛が惨めさに泣きながら花道を引っ込みます。徳兵衛には潔白を証明する術がありません。喧嘩の見物人から「騙りめっ」と罵声が飛んだ瞬間、右近の徳兵衛はヨヨッと泣き崩れます。右近の徳兵衛は惨めさ・情けさに打ちひしがれた感じをよく表現していますが、ここに若干注文があります。ここで「コン畜生」という強い感情を一瞬目の色に出したいと思うのです。しかし、抗弁出来ない自分の情けなさにハッと気が付いて思わず悔し泣く、和事の要素を応用すれば・そんな演技も出来ると思うのですがね。右近の徳兵衛は、まだまだ演技がひと色ですね。(この稿つづく)

(R6・3・12)


5)上方和事の本質とは

すなわち徳兵衛が惨めさに泣きながら花道を引っ込む(これは徳兵衛の滑稽な要素)時、「コン畜生」という強い感情(これは徳兵衛のシリアスな要素)を目の色に一瞬交錯させることによって、和事の「揺れ」の感覚を表現するのです。さすが劇作家の勘で宇野信夫はそこを嗅ぎ取っています。この場面で「騙りめっ」と罵声を飛ばしたのは、そのきっかけのためです。いわゆる古典的な和事のキャラクター・例えば治兵衛(天網島)などと比べると徳兵衛はちょっと「熱過ぎる・真っすぐ過ぎる」、そんな風に感じる向きは少なくないと思います。しかし、実は徳兵衛という役も、和事に必須の要件である「揺れ」の感覚をしっかり備えているのです。惨めさのなかに一瞬垣間見える徳兵衛のシリアスな要素、これこそ道行のシーンでお初が徳兵衛が導き出す「立派な男・偉大な男」の取っ掛かりです。

そのように考えるならば、天満屋縁下で徳兵衛がお初の足首を取って自らの喉笛に押し当てる・あの有名なシーンも、視覚的にはこの場面は滑稽の極みですが、実は「男・徳兵衛」を見せるもっとも偉大な場面だと云うことになるのです。もちろんこの感覚は徳兵衛だけで表現するものではありません。お初役者の協力は不可欠ですが、そうすると徳兵衛役者はこの場面でどうやってシリアスな感情を表現するか、そこをじっくり考えてみる必要がありそうです。ポイントは、自らの喉笛にお初の足首を押し当てた時の徳兵衛の「目の色」でしょうね。ここに徳兵衛の「コン畜生」が見えるはずです。決して惨め一辺倒ではないのです。「男」・「男」と口走っては当時の観客(大坂町人)の失笑を買っていた徳兵衛が、芝居が進むにつれて観客を黙らせ、沈黙がやがて熱狂へと変わる、そんな感じでやってもらいたいものです。

当月筋書の出演者の言葉で右近は、「(徳兵衛という役は)お初への愛に尽きると思います」と語っていました。まあ初役のことであるし、最初の取っ掛かりはそんなところから始まるものです。「曽根崎心中」がお初と徳兵衛の愛のドラマだという考え方を否定はしませんが、実は「曽根崎心中」はそれ以上にお初と徳兵衛の「意地」のドラマなのです。「この女を愛した俺(徳兵衛)」と「この男を愛した私(お初)」の「意地」のドラマです。(本サイトではこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。)

右近も、徳兵衛や・他の和事の役ところを繰り返し演じるなかで、試行錯誤を繰り返しながら、そのような上方和事の感覚を掴み取って欲しいと思いますね。いろいろ人生経験を積むことも必要になって来ます。智太郎(現・鴈治郎)だって徳兵衛という役がしっくり来るようになるまでに長い年月が掛かったのですが、今では上方和事と云えば四代目鴈治郎です。若い右近には(壱太郎と協力して)上方歌舞伎存続の期待が掛かっていますから、頑張ってもらいたいと思いますね。

本稿冒頭に、心理分析のジャック・ラカンが作家マルグリット・デュラスに捧げた言葉を掲げました。ラカンはつねづね「デュラスは私が教えていることを私抜きで知っている」と語っていました。同じことが近松門左衛門についても言えると思います。「あなた」が近松だと思ってお読みください。

『あなたが作中人物たちに吹き込む、けっして前途の明るくない慈愛は、あなたがありあまるほど手にしている信(信念・信仰)が生む事実ではないだろうか。あなたは、空虚な生と記述不能な対象の声なき婚礼を言祝(ことほ)ぐことができる人なのだから。』(ジャック・ラカン:「作家マルグリット・デュラスへのオマージュ」・1965)

近松は言祝(ことほ)ぐ役割をお初に任せています。だからお初は「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」なのです

(R6・3・14)


 

 

 


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