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「野崎村」のお光の位置付け

令和6年2月歌舞伎座:「新版歌祭文〜野崎村」

二代目中村鶴松(久作娘お光)、二代目中村七之助(丁稚久松)、六代目中村児太郎(油屋娘お染)、初代坂東弥十郎(百姓久作)、六代目中村東蔵(後家お常)


1)「野崎村」はお光の芝居か?

本稿は令和6年2月歌舞伎座での「新版歌祭文〜野崎村」の観劇随想です。本サイト「歌舞伎素人講釈」はもう20年以上続いていますけど、「野崎村」をまだ一度も取り上げていなかったことに気が付きました。これは吉之助の関心が世話物より時代物の方に寄っているせいが大きいです。しかし、この間に「野崎村」の舞台を何度か見ているわけですから・書くきっかけはあったのに書かなかったのは、「野崎村」のお光の位置付けが、吉之助のなかではっきり決まらなかったせいだと思います。そこでそんなことを取っ掛かりにしながら本稿を進めて参りたいと思います。

ところで昨年(2023)7月のことですが、吉之助は大阪郊外・大東市の慈眼寺(野崎観音)を訪ねました。(別稿「大坂歌舞伎旧跡散策〜野崎」をご参照ください。)JR野崎駅までは、大阪市内のJR京橋駅から学研都市線で20分ちょっとの距離です。野崎駅から慈眼寺へはすぐそこです。野崎観音は浄瑠璃「野崎村」に場所としては登場しませんが、お染のクドキの詞章のなかに

『そなたは思ひ切る気でも、私やなんほでもえ切らぬ。あんまり逢ひたさ懐しさ。勿体ない事ながら、観音様をかこつけて、逢ひにきたやら南やら、知らぬ在所も厭ひはせぬ。』

と野崎観音のことが出て来ます。当時(「新版歌祭文」初演は安永8年・1780・大坂竹本座)の大坂町人にとって「野崎詣り」は手頃なレジャーでした。その昔、野崎の付近に深野池(ふこのいけ・ふこうのいけ)という大きな淡水湖があって、野崎詣りには、屋形船で行く川路と駕籠で向かう(または徒歩)の陸路の二通りがありました。そのことが芝居のなかに取り入れられています。歌舞伎の舞台面では久作住家のすぐ裏手が深野池になっており、久作住家から野崎観音までほど近いと思われます。当時の大坂町人はそのような地理をよく承知して芝居を見たわけです。

「お染久松の塚」が慈眼寺境内にあります。(写真上)お染のクドキの詞章を刻んだ石板は昭和33年建立とありますから、塚もそんなに古いものでないかも知れません。それを眺めて吉之助がフト思ったことは、「そう言えばお光の碑がないじゃないか。何でもいいから・お光に由来する碑とか像とか何かないのか」と云うことでした。そう思って見回してみると、慈眼寺にも・野崎の町にも「お光」の名が冠されたものは見当たらないようでした。駅前に「久作橋」というのは在りましたが、「お光橋」というのは無さそうでした。(どこかに在ったのでしょうかねえ?もしご存じでしたら教えてください。)

まあお光が架空の人物だからそうなってしまうのかも知れないけれど、こだわるつもりは全然ありませんが、お光に由来する碑とか像が野崎の地に全然ないというのも、芝居好きには何だか寂しい気分がしませんか?しかし、ここで吉之助がハタと思い至ったことは、やはり「野崎村」はお染久松の芝居なのであってお光の芝居ではないのだなあと云う至極当たり前のことでした。イヤそう言い切ってしまうと若干の語弊がある。「野崎村」のなかでのお光はもちろん大事な人物なのです。しかし、「新版歌祭文」全体の流れからすると、久松が野崎の実家に戻っていたのを・お染が訪ねていって連れ戻す、再び二人は大坂へ戻ることになる、これで後の心中への段取りが出来上がるわけですから、そう云う流れからすると、失恋したお光が出家するというエピソードは、「お染久松心中譚」から派生した脇筋に過ぎないと読むことが出来ると云うことなのです。どうやら吉之助は「野崎村」をお光が主人公の芝居だと読みたい気持ちがこれまで少々強過ぎたようです。

三代目雀右衛門が芸談のなかで、お光という役が大嫌いだと云って、こんなことを語っています。

『もう慄然とするほどいやでござります。一体お光は、いわば失恋の結果尼になるので、前半と後半とはコロッと態度も変わり、裏と表を明瞭にさせてお目にかけねば役の性根というものが分からんようになってしまいます。と云うてそれが極端に走って、ただ写実風にばかりしては、性格はハッキリするかも知れませんけれど、芝居として考えてみますと面白うまいりません。(中略)私が最近でお光を演じましたのは昨年(大正2年)の春木座で、アノ時もくれぐれ御辞退をいたしたのですが、八百蔵(七代目中車)さんが名代の久作をお勤めになるのゆえ、お前のお光はただ出て居りさえすればええ、何もお前のお光を見せるために野崎を出すのではないさかい・・と無理から納得させられてしまいまして、イヤイヤながら、と申しては恐れ入りますが、一生懸命に勤めたのでございます。』(三代目中村雀右衛門:芸談・「演芸画報」・大正4年1月)

七代目中車が「お前のお光を見せるために野崎を出すのではないさかい」と言ったのが何とも可笑しいですが、確かに「野崎村」はお光だけの芝居ではないのです。お光が突出するのではなく、もちろん久作もですが、登場人物が六名(歌舞伎では省略されることが多いですが、原作では病身のお光の母親が登場します)それぞれが相応しいバランスを保って、全体が「お染久松の心中譚」としてさりげなく淡々と流れていくことが「野崎村」本来の在り方なのだろうと思うわけです。

そのように考えると、今回(令和6年2月歌舞伎座)の「野崎村」は配役バランスがとても良く、鶴松のお光を始め、七之助の久松・児太郎のお染も含め、登場人物の粒が揃って・誰が突出することもなく、ほど良いテンポで芝居が運んで行く、そのなかでこの芝居が確かに「お染久松の物語」であるという本来の趣がごく自然に立ち現れていた気がします。(この稿つづく)

(R6・2・10)


2)お光出家の「必然」

このように「野崎村」の件はあくまで「お染久松の物語」のなかの脇筋ではあるのです。しかし、久松との結婚を楽しみにしていたお光が失恋して出家してしまう結末は、観客にとって悲しいサプライズです。お光の失恋の衝撃がどれほど大きかったか察せられます。だからお光が久松とお染の関係を知って出家を決意するに至る葛藤に大きなドラマが潜んでいるはずです。これだけでもうひとつ別の芝居が出来そうです。それにしても浄瑠璃作者はお光の心理を描くことにあまり関心がないようですねえ。「野崎村」幕切れでは作者の関心はもうお染久松のカップルを大坂へ戻すことの方へ移ってしまっています。お光に感情移入する観客は、そこに大きな不満を覚えるでしょう。「作者はもうちょっとお光の気持ちに寄り添っても良いのではないか」と感じると思います。これは江戸期の観客にとっても同じであったようで、だから常磐津「お光物狂」のような作品も出て来るのでしょうね。「お光物狂」は「野崎村」の直截的な後日談ではありませんが、失恋のため気が違ってしまったお光が、病鉢巻をして笹の枝を持って堤を彷徨います。六代目菊五郎が「野崎村」幕切れをお光が久作にすがって泣く型にしたのも、お光の気持ちに寄り添おうとした結果です。

ところで「お光が久松とお染の関係を知って出家を決意するに至る葛藤に大きなドラマが潜んでいる」と云うところに戻りますが、お光が出家を決意したのは「失恋したから」なのでありましょうか。失恋のあまり世を儚(はかな)むと云うことはあるでしょうが、それだけだと短絡的であると思います。吉之助としては、お光が出家を決意するに至る「必然」に、失恋だけではない・もっと重いものを見たいと思います。そう云う視点から「野崎村」を眺めていくと、確かに浄瑠璃作者はその「必然」を用意していないわけではないのです。まずひとつは、お光が髪を下したのを見せる場面で、

『コレもうし父様もお二人様も、なんにもいうて下さんすな。最前からなに事も残らず聞いてをりました。思ひ切つたといはしやんすは、義理に迫つた表向。底の心はお二人ながら死ぬる覚悟、ム、サ死ぬる覚悟でゐやしやんす、母様のアノ大病。どうぞ命が取りとめたさ。私やもうとんと思ひ切つた。ナ、サ切つて祝うた髪かたち、見て下さんせ』

という箇所です。(お染久松が)「思い切った」と云うのは私(お光)への義理に迫った表向きのことでしょ。本心は二人とも死ぬ覚悟、サ死になさる覚悟でいらっしゃるのでしょ。それにお母様のあの大病も何とか命を取り留めてもらいたいから、私はここはと思い切りましたと云うのです。お染久松の件に突然大病の母親のことが出てきて文章の脈路が乱れますが、お光が言いたいことは、私はお母様の看病を続けて命を長らえてもらいたい、(私が思い切ることで)お染さま久松さまにも命を長らえてもらいたいと云うことなのです。しかし、言外にあるお光の気持ちは、お母様ももうそう長くはあるまい、お染さま久松さまもほどなく二人して死ぬことになろうと云うことです。そこに深い諦観がある。だからお光は出家して尼になると云うのです。

もうひとつ、浄瑠璃作者が用意した「必然」は、久作がお染久松に意見する時に持ち出す「お夏清十郎」の歌祭文の件で、

『アコこれ見や。先に買うたお夏清十郎の道行本。嫁入りの極つてある、主の娘をそそなかすとは、道知らずめ、人でなしめ、トサこりやコレ清十郎が話ぢや、話ぢやわいの。コレお染様ではない、この本のお夏とやら。清十郎を可愛がつて下さるは、嬉しいやうでエ、恨めしいわいの。ア若い水の出端には、そこらの義理もへちまの皮と投げやつて、こなさんといつまでも、添ひ遂げられるにしてからが、戸は立てられぬ世上の口ぢやわい。

という箇所です。久作はお染久松に「お前さんたちはお夏清十郎みたいになろうというのか」と意見するのですが、ここで浄瑠璃作者は観客に、お染久松はいずれ心中する運命にあることを示唆しているわけです。同時にこの示唆は、お光の出家の決断に対しても強く作用しています。つまりお染久松の心中の後、お光尼は無常を感じて、二人のあとを弔うことになるであろう、そう云うことを示唆しています。お光尼はこの物語の回向者と云うか・語り部と云うか、そのような役割なのですね。このことは本作の外題が「新版歌祭文」であることからも明らかです。「お夏清十郎」の歌祭文(旧版)に対する新たな版の歌祭文、それが「お染久松の心中物語」だと云うことです。

「野崎村」丸本を読めば、浄瑠璃作者は上記ふたつの「必然」をちゃんと用意しているわけです。しかし、現行歌舞伎の「野崎村」では、病身のお光の母親は丸々カットされてしまって登場しないし、冒頭部で久作が行商の祭文語りから「お夏清十郎」道行本を買う場面もカットされるのが普通です。だからせっかくの「必然」が全然効いて来ないのだな。歌舞伎の「野崎村」の現行テキストはもっと積極的な読み直しがされるべきですね。

そう云うことなので、「作者はもうちょっとお光の気持ちに寄り添っても良いのではないか」と書きましたけれど、浄瑠璃作者が全然それをしてないわけではないのですが、しかし、お光の葛藤が十分に描き込まれていないと云うストレスは依然として残ります。やはり「野崎村」の件はあくまで「お染久松の物語」のなかの脇筋なのでしょうかね。(この稿つづく)

(R6・2・14)


3)鶴松のお光

つまり「野崎村」はお光の目から見た「お染久松の物語」なのです。大坂の観客も・お光も「物語」の結末を承知しています。それはお染久松の心中で終わる。浄瑠璃作者はもうその結末に向けてひたすらに走るだけです。悲しい結末を知っているだけに、やけに明るい三味線の調子に余計に「あはれ」を感じてしまいます。

『「さらば」「さらば」「さらば」も遠ざかる船と、堤は隔たれど縁の引綱一筋に、思ひあうたる恋中も義理の柵情のかせ杭、駕籠に比翼を、引き分くる心々ぞ世なりけり。』(「野崎村」末尾)
吉之助の意訳:さらばさらばの声で遠ざかっていく船と、堤を行く駕籠とは隔たっていても二人の縁は繋がっていると思う恋仲のふたり(比翼)であったが、義理の柵(しがらみ)と情の杭に引き裂かれてしまうことになるのは、これがこの世というものなのだろうか。

今回(令和6年2月歌舞伎座)の「野崎村」は配役バランスがとても良いですが、まあ全体的にさっぱりした感触ではありますね。芝居味と云う点で不満を覚える方もいらっしゃるかも知れませんが、さっぱりしたおかげで「お染久松の物語」の趣を感じさせてくれたとも云えます。鶴松のお光は出しゃばらない素直な出来なのが良いですねえ。お光の感触がさっぱりしているせいか、対照的に児太郎のお染が濃厚に見えて引き立ったのではないでしょうか。弥十郎の久作も押さえるツボは押さえた手堅い出来であると思います。お光が久作にすがって泣く六代目菊五郎の幕切れは、新劇ならばお光の気持ちに寄り添うということで分かるのだけれど、何となくセンチメンタルに過ぎるように感じられます。なかなか歌舞伎の感触にならぬようで、六代目型はそこが難しいといつも思います。

ところで「野崎村」は両花道でやるべきもので、本花道を船(お染)が行き・仮花道を駕籠(久松)が行くものだと思っています。しかし、今回は仮花道がありません。まあいろいろ事情があるのでしょう。それで今回は本花道を駕籠が行き、船が上手脇に入ると云う、真逆の暫定的な形になっています。これは堤に立つお光の目線の向こうに久松が乗っている駕籠を出来るだけ長く残したいという演出上の意図だということはもちろん理解はしますけれど、平作住家の盆が回って客席側を深野池に見立てることになると、舞台奥が慈眼寺のある山並みになるわけで、本花道を駕籠が行ってしまう(下手へ向かう)と、久松は大坂へ向かわず・どんどん反対方向へ行ってしまう・お染と離れ離れになってしまうことになると思いますが、役者も関係者のどなたもこう云うことが気にならないのですかねえ。世話物というのは写実を旨とするのですから、地理はよく心得ておいてもらいたいと思います。世話物のリアルと云うのは、そういう細かいリアルの積み重ねなのです。

みんな歌舞伎座は本格の芝居を見せるところだと思っているのですから、歌舞伎座でやるならば「野崎村」は両花道で断固やるというプライドを持って欲しいと思いますがね。今月(2月)の演目ならば、次いでに「籠釣瓶」の吉原仲ノ町を両花道でやれば花魁道中を一層華やかに展開出来る、「猿若江戸の初櫓」も両花道ならもっと面白い演出が出来る、そう云う工夫も考えてもらいたいと思います。

(R6・2・17)


 

 

 


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