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九代目中車の又平・初代壱太郎のおとく

令和5年6月歌舞伎座:「傾城反魂香・土佐将監閑居〜浮世又平住家」

九代目市川中車(浮世又平後に土佐又平光起)、初代中村壱太郎(又平女房おとく)、五代目中村歌六(土佐将監光信)、四代目中村歌昇(雅楽之助)、五代目市川団子(修理之助)、五代目中村米吉(銀杏の前)、六代目市川男女蔵(不破伴左衛門)、二代目市川猿弥(大津絵の坐頭)、二代目市川笑也(大津絵の藤娘)、初代坂東新悟(大津絵の鯰)他


1)師の言い分

今回(令和5年6月歌舞伎座)の「傾城反魂香」は、いつもの「吃又」(将監閑居)に珍しい「又平住家」を付けたやり方で、「三代猿之助四十八撰の内」なる角書きが付されています。吉之助は三代目猿之助(=二代目猿翁)の「吃又」は平成13年(2001)12月歌舞伎座での公演(おとくは五代目勘九郎=十八代目勘三郎)を見ましたが、それは純然たる六代目菊五郎の型であったと記憶します。五代目勘九郎のおとくが情の濃い演技を見せて感心したのをよく覚えています。これを含めて三代目猿之助は本興行で「吃又」を3回演じていますが、それらには「又平住家」の上演記録がありません。それなのにどうして「四十八撰の内」なのかと不思議に思って調べてみると、「又平住家」の場は昭和45年(1970)9月27・28日歌舞伎座での「春秋会」(澤瀉屋の自主公演)で実験的に試みられて以来のことであるようです。この時に「又平住家」が復活されただけでなく、いつもの「吃又」の場でも古い小芝居の型を参照した新演出がなされたようです。今回はそのやり方を53年振りに取り上げたと云うことです。

ところで今回の舞台の話に入る前に、例によって前置きで触れておきたいことがあります。「吃又」(将監閑居)について巷間よくありそうな誤解は、「師土佐将監が浮世又平に冷たく当たり・土佐の苗字を与えないのは、又平の発声障害のせいだ」と思われていることだと思います。そのように読んでしまうと「吃又」のドラマが歪んで映ると思います。将監の言い分を正しく聞いてやって欲しいと思います。

『・・将監も不便さの、ともに心は乱るれど、わざと声をあららげ、「ヤアまたしても叶はぬ願ひ。コリャよっく聞けこの将監はナ、近江の国高島の御家来筋、すなはち禁中の絵所。小栗宗丹と筆の争ひ、その上高島家の重宝雲竜の硯を、宗丹たって所望す。「ア、イヤきゃつに持たせじわれにたべ』と互ひに意地をいひつのり、つひに御前のお聞きに立って、それがしは勘当受けてこの浪人住居。いまでも小栗に従へば、富貴の身と栄ふれども、一人の娘に君傾城の勤めさせ、子を売って食ふほどの貧苦を凌ぐはなにゆゑぞ。土佐の苗字を惜しむにあらずや。修理之介はただいま大功あり。そちにはなんの功がある。琴棋書画は晴れの芸、貴人高位の御座近く参るは絵書。ものをも得いはぬ身をもって及ばぬ願ひ。似合うたやうに大津絵書いて世を渡れ。茶でも呑んで立帰れ」』

『・・声も惜しまず、歎きける、心ぞ、思ひやられたる。将監重ねて、「汝よく合点せよ。絵の道の功によって、土佐の苗字を継いでこそ手柄ともいふべけれ。武道の功に絵書の苗字、譲るべき仔細なし。ならぬならぬ」』

いずれの場面も、又平の必死の訴えに対する師将監の返答です。最初の返答では「将監も不便さの、ともに心は乱るれど」とあり、二つ目の返答でも「心ぞ、思ひやられたる」とありますから、どちらも将監が又平を突き放すことに辛さを感じていることを示しています。返答の内容はどちらも同じことを言っています。それは「土佐の苗字を継がすか否かは絵の道の功に拠る。それ以外の理由で土佐の苗字を継がすことはない」ということです。つまり師将監が浮世又平にわざと冷たく当たり・頑として土佐の苗字を与えないのは、「未だ又平に絵の道の功がない」と師が見るからです。それ以外の理由はありません。そこをよく合点せねばなりません。それが証拠に又平が描いた絵が手水鉢を抜けた奇蹟を認めると、将監は実にあっさり又平に土佐の苗字を許すのです。

ところが、又平の方は、自分が師匠に受け入れられないのは、自らの発声障害のせいだと考えているみたいですねえ。そこに師匠と弟子の認識の大きなすれ違いが見えます。

『モモもうしもうし、エエさりとては、ゴゴゴゴ御承引ないか。吃りでなくばココかうはあるまい。エエエエ恨めしい。咽ぶえを、カカかき破ってのけたいわい女房ども、ササさりとはつれないお師匠ぢゃ」と、声をあげて泣きゐたる。

『女房を取って投げ踏付け地団駄踏み、「ナナなんぢやれ。ホホおのれまでがキヽキヽ気違ひとは。エエ女房さへ侮るか。不具はなんの因果ぞや」と、どうと座を組み大地を打って、声も惜しまず、歎きける。

どちらの場面でも、又平は「吃りでなくばかうはあるまい」・「不具はなんの因果ぞや」と、自らの発声障害を嘆くばかりです。他方、師将監が大事だとする「絵の道の功」には言及がありません。又平は自分が師匠に受け入れられないのは、自らの発声障害のせいだと考えているようです。描いた絵が手水鉢を抜けた奇蹟を見せたくらいですから、又平は十分な絵の技量を備えていたことに疑いはありません。しかし、ホントに奇蹟を起こすほど「突き抜けた」ところを絵の分野で又平はまだ見せていなかったのです。そこに何らかの問題が潜んでいると師将監は見ていたのではないか。

この奇蹟は「この手水鉢を石塔と定め・絵像を書き止め・この場で自害」せんとする土壇場の覚悟から生まれたものでした。最後の最後に、初めて又平は「絵の道を悟った」のではないでしょうか。だから絵が手水鉢を抜ける奇蹟が起きたのです。吉之助は「吃又」(将監閑居)を、そのような画家又平の「成長物語」であると読みたいと思います。(この稿つづく)

(R5・6・21)


2)師将監の言い分・続き

「傾城反魂香」全体を見ると、将監は結構重要な人物だと思います。将監が勘当を受けて浪人暮らしになった時、娘みやが自ら身を売って傾城遠山となりました。(このことは「吃又」のなかで将監自身が語っています。)「傾城反魂香」という題名は、中の巻で狩野四郎二郎元信に嫁いだみや(傾城遠山)が実は亡霊(すでに亡くなった身)で、元信はみやの願いで香を焚いた寝室のなかで熊野三山の絵を襖(ふすま)に描き、二人はこれを背に幻想の熊野詣の道行をする(三熊野かげろう姿)という場面に由来します。

上の巻に描かれるみやと元信との出会いと、みやが家の秘伝である松の図を元信に伝授する場面が、とても重要です。この秘伝は父将監が娘に伝えたものです。さらに元信の描いた虎が絵から抜け出て、主人の危急を知らせに走ります。それが「吃又」冒頭に登場するあの虎です。ということは、虎は迷って偶然将監閑居に現れたのではないのです。虎は明らかに将監を目指して走って来たのです。将監は虎を見て、「今これほどの絵を描ける人物は狩野四郎二郎元信以外にいない」とはっきり見抜いています。ですから「吃又」だけを見ると、将監は又平の絵の師匠以上に見えないかも知れませんが、「傾城反魂香」全体のなかでの将監の位置は、実はとても重いものです。娘の性格・生い立ちに多大な影響を与えた父親です。恐らく傾城遠山(みや)と将監との関係は、「摂州合邦辻」での玉手御前と合邦道心との関係と同じくらい重いものです。

将監がこれほど重要な人物であるとすれば、「吃又」のなかで、将監が又平の「絵の功」を認めて土佐の苗字を与えたことの意味も、また格別に読まなければならないはずです。次の場の「又平住家」では、押し寄せた敵からお姫様を匿わねばならない又平の危難を、大津絵から抜け出した奴や藤娘・座頭・鯰などが救います。つまり又平の絵の奇蹟は二度起こったのです。驚いた又平がこう言います。

オオそれよそれよ気がついた。今目前の不思議を見よ。我らが手柄でさらになし、土佐の名字を継いだる故。師匠の恩の有難さよ。」

その昔、浮世絵の始祖は岩佐又兵衛(実在の絵師、天正6年・1578〜慶安3年・1650)であると信じられていました。江戸の民衆は、又兵衛=又平の発想から、岩佐又兵衛が「吃又」の浮世又平のモデルだと思ったようです。又平は生活費を稼ぐために大津絵描きの副業をしていました。江戸の庶民は「吃又」の芝居を、我ら庶民の絵師・浮世又平の目出度い出世物語であると見て喜んだのです。将監が又平に土佐の苗字を与えたことで、土産物として売られていた民衆絵に過ぎなかった大津絵が「昇格」することになったのです。こうして大津絵描きの又平が浮世絵の始祖と見なされることになりました。このような俗説が生まれたのは、近松門左衛門が「吃又」を書いてからずっと後の世のことに違いありません(色摺り浮世絵が登場するのは50年ぐらい後の明和年間のことです)が、それもこれもすべて「吃又」のなかに内包されていた或る種の「真実」から来たものでしょうねえ。(この稿つづく)

(R5・6・23)


3)将監の選択

ところで今回(令和5年6月歌舞伎座)の「吃又」(将監閑居)は、古い小芝居の型を参照した三代目猿之助の型です。現行の標準である六代目菊五郎型(ほぼ丸本に近い段取りと云えます)と猿之助型との目立つ大きな相違は、菊五郎型では又平夫婦の花道の出は虎の一件(修理之助が虎をかき消す)があって百姓たちが引き上げた後のことになりますが、猿之助型では順序が入れ替わって、虎の件の前に又平夫婦が登場することです。そこが大きな違いです。まずこの違いについて考えてみたいと思います。

菊五郎型では、(芝居のなかの場面としてはありませんが)引き上げていく百姓たちと又平夫婦が道の途中ですれ違い、そこで修理之助が筆の力で虎をかき消してみせた・その功が認められて・師将監から土佐の苗字を戴いた・何とエライ若者だと云う百姓たちの噂話を又平夫婦は耳にしたのです。師匠になかなか認められずに・土佐の苗字が戴けなかった又平は、弟弟子に先を越されてしまったことを知って愕然とします。だから菊五郎型では、又平夫婦が沈痛な面持ちで花道に登場することになります。

一方、猿之助型では、虎が現れた時には、既に又平夫婦は将監閑居に居ます。そこで修理之助が師匠に「わが筆先であの虎を消し止めて御覧にいれん」と進み出ます。又平も負けずに「我こそが」と進み出ます。二人の内どちらかを選ばねばなりませんが、将監は又平を選ばず、修理之助の方に「やってみよ」と言います。修理之助が見事に虎を消してみせたので、将監は絵の功を認めて・修理之助に土佐の苗字を与えます。それを又平夫婦は眼前で見ることになるわけですから、その衝撃度合いは如何ばかりかです。さらに百姓たちが又平のことを嘲ったりするので屈辱感はより強くなります。その辺が猿之助型の意図でしょうかねえ。

演出というのは常に背後に意図がありますので、段取りを変えれば、それに応じた別の意図があるということです。もちろん色んな解釈があって宜しいことです。しかし、吉之助は「師将監が又平に土佐の苗字を与えないのは、又平の発声障害のせいではなく、未だ又平に絵の道の功がないからである」と云うことを重く見る立場ですから、猿之助型の段取りはあまり感心しないと思います。その理由を以下に申し上げます。

「吃又」後半で雅楽之助がお姫様(銀杏の前)の危難を知らせ、将監は「さて助太刀を差し向けなければならない」という事態になります。ここで将監はどうしたら良いかハタと考え込んでしまいます。又平に頼むか・修理之助に任せるか。将監はなかなか決断をしようとしません。どちらにも不足があるからです。結局将監は修理之助を差し向けることにしますが、その経緯を見ると、「討っ手の役目を自分に任せてくれ」と又平が脇で盛んに喚くので、又平に背中を押されたような恰好で切羽詰まった将監がつい「修理之助」と言ってしまうのです。そこの顛末は近松がとてもリアルな筆致で描いています。

これはお姫様を救出すると云う、「絵の功」とまったく関係のない場面での選択でした。それでも将監は、又平と修理之助のどちらを選ぶか、なかなか決断出来ませんでした。そんな将監が、虎を筆の力でかき消す役目をどちらに任せるか、又平か・修理之助か、まさに「絵の功」に係わる重要な場面で又平を退けて・迷わず修理之助の方を選ぶことが出来るでしょうか?そこのところをよくよくお考えいただきたいですねえ。出来るはずがありません。猿之助型の段取りは、そのような無理な選択を師将監に強いていると云うことです。

菊五郎型の段取りであれば、虎の現場に又平夫婦が居合わせませんから、将監が修理之助にそれを任せたのは「選択」ではありません。これは流れとして、ごく自然なことです。そう云うところの近松の筆力はどんな作品でもホントに見事で、芝居の流れに無理がまったくないのです。

もし猿之助型にあるように、虎を筆でかき消す役目を又平か・修理之助か・どちらに任せるか、「絵の功」に係わるところで選択を迫られたならば、将監は決断出来なかったでしょう。多分将監は「イヤ今日のところは自分がやることにしよう」と言ったはずです。又平か・修理之助か、どちらを選んだとしても、片方をえこ贔屓して・片方を否定することになります。そのような選択を将監がすることはあり得ません。(この稿つづく)

(R5・6・24)


4)九代目中車の又平・初代壱太郎のおとく

前述の通り、猿之助型は古い小芝居の型から来ています。まあこれもひとつの解釈に違いないわけですが、小芝居の型には「将監の差別は又平の障害のせいだ」という感覚がなかったわけでないと思います。ちなみに、後半の手水鉢の件で・おとくが又平の手を取って言う有名な台詞、「手も二本、指も十本ありながら、なぜ吃りには生まれしゃんしたぞうなあ」も歌舞伎の入れ事で、近松の原作(丸本)にないものです。

ただしこの点は大事なことなので強調しておきたいですが、これら歌舞伎の入れ事は、又平の障害に対する深い同情と憐憫を以てなされたものです。それが証拠に、小芝居の型では又平が土産に鰻を持ってきましたという入れ事があって、その鰻が逃げて縁の下に逃げ込むので又平がテンヤワンヤする場面があったりして、又平が憎めない純朴な三枚目に仕立てられたものです。コミカルな笑いの入れ事で「将監の差別は又平の障害のせいだ」という辛い部分を中和することが意図されています。歌舞伎の又平は「愛されキャラ」です。我らが庶民から出た画家・浮世絵の始祖であるからです。

ところが今回(令和5年6月歌舞伎座)は鰻の件が出ませんから、又平の障害の辛い側面が意図せず露呈してしまいました。「私が虎をかき消したい」と又平・修理之助両人が願い出ているのに・そこで将監が躊躇なく修理之助を選ぶので、「エッどうして?冷たい師匠だなあ」という感じが強くなってしまいました。又平の衝撃は如何ばかりかと察せられますが、三代目猿之助はそこの落差にばかり目が行ってしまった印象がしますねえ。これでは「将監が又平に冷たく当たるのは、又平の発声障害のせいだ」としか見えないのです。吉之助が猿之助型の段取りが感心しないと考えるのは、そこのところです。ですから今回の「吃又」は、小芝居の型を取り入れるならば、又平は「愛されキャラ」に徹すれば良かったのに・それをせず、六代目菊五郎型と中途半端に折衷したため・障害のために差別された印象の又平にしてしまいました。そう考えると(原作に近い形に戻した)菊五郎型は、現代に生きる歌舞伎としてやはり成るべくしてそうなったと云うことを思いますね。

中車初役の又平は性根として間違ったところはないのですが、役者の仁としては菊五郎型のシリアスな又平の方に向きのような気がします。今回の猿之助型は、中車にとって若干不利に作用したかも知れませんね。「吃又」の又平は、為所がありそうでいて・ない、なかなかしんどい役です。義太夫味はさほど求められないかも知れませんが、逆に「肚」の演技が強く求められます。又平と云う役は、そこのところが難しい。

又平の核心は、師匠に背を向けて座り「・・サッ切らっしゃりませ、この願いが叶わずば・・死にたい、死にたい」(注:この台詞は歌舞伎の入れ事)と言って泣く場面だと思います。又平の姿から自分の気持ちを上手く表現できない辛さ・悔しさ・悲しさが滲み出なければなりません。生きることの哀しみとでも云うか、又平の存在自体から発せられる哀しみです。この哀しみは観客とも共有されるものです。そこはもちろん自然主義演劇の演技術(心から又平に成り切る)でも表現出来ないものではありませんが、それだと形から「肚」を体現しようとする歌舞伎の文法に沿って来ないのです。中車の又平は心は出来ているけれど・まだ肚にまでは至っていない印象がします。芸とは難しいものだと思いますねえ。まあそれは兎も角、中車は一生懸命やっていますよ。10年前には「新歌舞伎の役くらい出来るようになればなあ」と思っていたのが、今や古典の役どころに挑戦なのだから大したものです。

壱太郎のおとくは二回目だそうですが、ご機嫌にやっていて決して悪くはないのだけれど、多くのおとく役者は前半が出過ぎた印象になりやすいものですが、壱太郎のおとくはむしろ後半の手水鉢以降がやや煩い感じがしますねえ。中車のサポートをする余裕はまだないだろうし、猿之助型だからそうなったと云うところもあるのかも知れませんが、やはり後半はもう少し控えめにして・亭主の引き立てに回るところが欲しい気がします。この辺は今後の課題かと思いますね。

(追記)別稿「浮世又平の過剰性について」も併せてご覧ください。

(注記)本公演は当初猿之助がお徳を演じる予定でしたが、猿之助休演により、初日から壱太郎が代演を勤めました。

(R5・6・27)


 


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