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四代目猿之助の「御贔屓繋馬」

令和5年5月明治座:「御贔屓繋馬」

四代目市川猿之助(相馬太郎良門・女童熨斗美・小姓澤瀉・番新八重里・太鼓持彦平・傾城薄雲実は土蜘の精)、八代目市川門之助(源仲光)、九代目市川中車(渡辺綱)、二代目市川猿弥(伊賀寿太郎・平井保昌)、五代目中村米吉(桔梗の前)、初代中村隼人(台屋の四郎次・源頼光)、七代目市川男寅(滝夜叉姫)他

*本稿では、三代目と四代目猿之助が交錯しますが、ただ猿之助とのみ記した時は四代目を指すとお読みください。


1)「御贔屓繋馬」初演の思い出など

本稿は、令和5年5月明治座での、四代目猿之助が六役を務めた「御贔屓繋馬」(ごひいきつなぎうま)の観劇随想です。「御贔屓繋馬」は三代目猿之助(後の二代目猿翁)の主演により昭和59年(1984)4月明治座で初演されました。三代目初演の公演はもちろん見ましたけれど、筋が込み入り過ぎであったせいか、細かいことがほとんど思い出せません。正直に申しあげると、「御贔屓繋馬」は、三代目猿之助の復活狂言としてはあまり成功しなかった方の部類かなと吉之助はこれまで考えて来ました。しかし、今回(令和5年5月明治座)の四代目猿之助による「御贔屓繋馬」を39年振りに見て、初演の時の印象を裏書きしたようなところもありましたが、吉之助もあの当時よりは経験も積んで多少は目も肥えて来たせいか、今回は三代目猿之助の復活狂言の意図が大分理解できた気がしました。

三代目猿之助の復活狂言のパターンのひとつとして、江戸の顔見世狂言の形式を復元して見せようと云うものがありました。その代表的な例としては、三代目猿之助が平成8年(1996)10月国立劇場での四代目南北の顔見世狂言「四天王楓江戸粧」(してんのうもみじのえどぐま)の復活がそうでした。昭和59年(1984)4月明治座での「御贔屓繋馬」は、これに先駆けた試みであったと思います。

往時の江戸歌舞伎の1日掛かりの顔見世狂言の立て方は、「二番建て」と云うものです。まず一番目が時代物、これは歴史上の出来事や武士の世界を扱ったものです。二番目は世話物で、現代の出来事や庶民の世界を扱います。しかも一番目と二番目との間に何らかの関連がなければならないと云うお約束がありました。例えば二番目の人物は一番目の何某が身をやつして名前を変えて出ているとか、実は○○家の家来で密かに御家再興に奔走しているとか云う設定になります。そして最後の大喜利を所作事(舞踊)で締める。これが顔見世狂言の基本的な構造でした。そうすると、一見関係なさそうな話だった二つの話が、主筋に次第次第に絡んで行って最後になるほどと納得できる大団円が待ち受けることになるわけです。そのような構造の芝居を、江戸の観客は丸一日を掛けてゆったり愉しんだのです。ちなみにこのような演目建て(プログラミング)の考え方は、現在はほとんど形骸化していますが、一番目は時代物・二番目は世話物で・最後を舞踊で締める約束事としてつい近年までは残っていたものでした。

しかし、言うのは簡単なことだけれど、1日掛けた長尺の顔見世狂言のなかで上手い具合に筋に起伏を付けて観客が最後にアッと驚く見事なオチを仕立てるのもなかなか至難なことだろうと思います。大抵の場合、趣向を凝りに凝らしたつもりが、筋の捻りと実は・・実は・・のサプライズが多すぎて、芝居の筋がこんがらかって容易に理解出来ない芝居になることが多かったかも知れませんねえ。しかし、それでも江戸の観客は煩いことを言わなかったかったと思います。一日中根を詰めて芝居の筋を追うなんてことを、昔の観客はしなかったのです。筋の整合が通る・通らぬ、芝居の筋が分かる・分からないなんてことは二の次。芝居の様相が次々と変わるのを見て、その場その場の趣向を愉しめれば、多分それで良かったのです。それは芝居の楽しみ方が現在とは違っていたからです。

現代の観客(吉之助も含む)は、芝居から筋を読み取って・その後の展開を予想する、更にそこから意図(テーマ)を探るのが芝居見物だという考え方から決して逃れられません。多分39年前(昭和59年当時)の吉之助は「御贔屓繋馬」初演を見て、ここは前の幕とどういう関係になるんだ?、ここはどういう理由でこんなことになるんだ?と云うことを舞台から読み取ろうとイライラしながら見ていたのでしょうねえ。「御贔屓繋馬」を見る場合には、多分そう云う見方は間違っているのです。と云うか切符代の元が取れない芝居の楽しみ方なのです。芝居の意図を探るなんてことは、芝居を見終わった後、筋書をパラパラしながら、ゆっくりやれば良いことなのです。吉之助にも段々そう云うことが分かってきたような気がしました。(この稿つづく)

(R5・6・19)


2)顔見世狂言の思惑

昭和59年(1984)4月明治座で初演された「御贔屓繋馬」は、三代目猿之助と奈河彰輔による脚本で、題材としては顔見世狂言でよく取り上げられた「前太平記の世界」、すなわち平将門と藤原純友の乱と源頼光と四天王を扱ったものです。脚本は四代目鶴屋南北の作から、「四天王産湯玉川」(してんのううぶゆのたまがわ、文政元年・1804、江戸玉川座初演)から一番目(時代の部分)を取り、「戻橋背御摂」(もどりばしせなにごひいき、文化10年・1813、江戸市村座初演)から二番目(世話の部分)をアレンジして繋いで、大喜利として土蜘蛛を下敷きにした変化舞踊「蜘蛛絲梓弦」(くものいとあずさのゆみはり)を付けた構成です。「御贔屓繋馬」という外題は、平将門の紋である「繋ぎ馬」に、南北のふたつの作品を繋ぎ・ご贔屓のお客様の心をも繋ぎたいと云う気持ちを重ねたものだそうです。

つまり「御贔屓繋馬」は南北の純然たる復活作品ではなく、途絶えていたいくつかの作品を組み合わせて・ひとつの芝居に纏め上げた(と云うかはっきり云えばデッチ上げた)作品であるわけですが、猿之助歌舞伎の場合は、「上演できなきゃ意味がないでしょ、面白くなきゃ意味がないでしょ」と云うところが優先するので、学究的な立場であるとモノ申したいことが多分いろいろ出てくると思います。吉之助は昔からこういう素性がよく分からないデッチ上げ作品があまり好きではなく(これで南北を論じて良いのかという疑念がつねに付き纏うので)、それが若き日の吉之助が三代目猿之助歌舞伎から次第に遠ざかる遠因にもなったのですが、現在の吉之助は「そんな硬いこと言わんでもいいじゃないか」と云う気持ちにだんだんなりかかって来たのは、歳を取ったからでしょうかね。

ただし今回(令和5年5月明治座)の「御贔屓繋馬」上演は、上演時間の関係で二番目の「戻橋背御摂」の部分が丸々省かれたアレンジがなされています。つまり実質として「四天王産湯玉川」・一番目のみの復活と云うことになってしまいました。分量的には初演台本から3割ほどカットされたような印象です。(今回は休憩時間を含めて3時間ですが、初演の時は5時間近かったはずです。)したがって、顔見世狂言の「二番立て」の様式を再現して見せようという「御贔屓繋馬」当初の目論見は今回は失われてしまったわけですが、芝居を見る分には筋がスッキリ整理されて、一番目と二番目の筋の整合性に思い悩む必要がなくなったとも云えます。これはまあ一長一短があることですが、昔の芝居(と云ってもたかだか40年ほど前のことだから・それほどの昔じゃないわけだが)と比べると、今は芝居の分量(ボリューム)自体が少なくなって、現代の観客は劇場空間にじっくり浸る余裕がますますなくなっている、それだけ芝居のコクも薄くなっていると云うことが言えそうですね。(この稿つづく)

(R5・6・20)


3)三代目猿之助歌舞伎の雰囲気

「御贔屓繋馬」の背景にあるのは、「前太平記(ぜんたいへいき)の世界」と呼ばれるものです。元となるのは、江戸時代(天和元年・1681頃)に出版された「前太平記」という書物です。「太平記」の流行にあやかって、平安中期から末期に至る・およそ200年間の事件・合戦などを、清和源氏七代の人々との関わりを軸にして逸話を綴った通俗史書で、浄瑠璃・歌舞伎・講談・小説などに多くの題材を提供しました。「前太平記の世界」は、おおまかに二つの系統に分かれます。ひとつは「源頼光と四天王の世界」で、これは源頼光(よりみつ・らいこう)と有能な家来たち(渡辺綱・坂田公時など)の活躍を描くものです。もうひとつは「将門記(しょうもんき)の世界」で、これは10世紀中頃に京都朝廷に対して反乱を起こして滅んだ平将門の遺児相馬良門(そうまよしかど)と滝夜叉姫の復讐物語です。

江戸歌舞伎の顔見世狂言では、題材として「前太平記の世界」が好んで取り上げられたものでした。これは登場人物が多彩であること(役どころを数多く揃えられる)もあると思いますが、もうひとつ大事なことは、神田明神に祀られているのが平将門である、つまり将門が江戸町民にとって氏神的存在であったからです。四代目鶴屋南北は将門物を多く取り上げており、南北の絶筆となった「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」(文政12年・1829・11月江戸中村座)も「前太平記の世界」から採った顔見世狂言です。

今回(令和5年5月明治座)復活の「御贔屓繋馬」の特色は、主演の猿之助が大喜利所作事「蜘蛛絲梓弦」では五役早替り(ここでの猿之助の踊り分けは鮮やかなものでした)を見せるけれども、いつもの猿之助歌舞伎と違って、「一番目」(今回の場合は序幕と第2幕に当たる)では猿之助は相馬良門のみを演じて・早替りをしないことだと思います。その代わりに他の役者にそれぞれの持ち場を十分に与えています。おかげで一座の役者たちはやる気が出るし、これならば猿之助を慕う若手が多いのは当然だと思いますね。

序幕・京市原野の場は初演稿から大幅に削られたようで発端以上の意味はないようですが、病で亡くなった相馬良門がまさに荼毘に伏せられんとするところを呪術で蘇り、火が付いた棺桶が壊れて・ぶすぶすと身体が燻ぶって白煙があがる状態の良門(猿之助)が立ち上がって・やがてどこかへ飛び去る(宙乗り)と云う・如何にも南北らしい見せ場があります。ここでの猿之助の無言の演技は凄絶でなかなか見応えがありました。重量感と云うことならば、ここでの猿之助は先代に負けないくらいのものを見せていたと思います。

第2幕・丹波大江山切見世の場は、かつて酒呑童子が住んでいて・源頼光がこれを退治してから廃屋になっていた大江山の岩屋が今は遊郭に改装されていると云う・これも南北らしい奇抜な趣向から始まり、コロコロ変わる局面を愉しんでいればよいので、芝居はこじんまりとしてはいるが、小さめのお団子が次々と皿に乗って出てくるようなスピーディな展開を面白く見ました。この辺は新年度に契約した一座の役者のお披露目という顔見世狂言としての原作の雰囲気を、補綴の石川耕士が上手に生かしていると云うことでしょうね。今回の舞台を見ていると、どの役者もイキイキした演技を見せていて、40年くらい前の・伸び盛りの時代の三代目猿之助歌舞伎の雰囲気が思い出されて何だか懐かしくなりましたよ。

(R5・6・29)

(追記)5月18日より猿之助休演。千秋楽まで隼人が代役を勤めました。


 


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