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八代目芝翫初役の按摩道玄

令和4年10月歌舞伎座:「盲長屋梅加賀鳶」

八代目中村芝翫(竹垣道玄)、五代目中村雀右衛門(女按摩お兼)、四代目中村梅玉(日蔭町松蔵)、四代目市川左団次(伊勢屋与兵衛)他


黙阿弥の「盲長屋梅加賀鳶」は、明治19年(1886)3月東京千歳座での初演。これは五代目菊五郎が、幕末期に四代目小団次が演じた極悪非道の悪人・村井長庵を演りたいと思ったのを、このままでは自分の柄にちょっと合わないと感じたらしく、黙阿弥に頼んで自分に合わせて新たに書き下ろしてもらった芝居でした。昔の役者は柄というものに敏感で、少しでも自分と役との間に溝があると感じると、演じることを躊躇したようです。小団次と菊五郎の芸風が微妙に違っていたことが、この逸話からも察せられます。その違いは両者が初演した役の数々から想像していくしかありませんが、小団次はいかつい風貌の役者で・アクの強い写実の芸を追求した役者でしたから、村井長庵は図太い悪の色合いが強いものであったでしょう。一方、按摩道玄では菊五郎の持ち前の愛嬌みたいなものがちょっと出ているかも知れません。

しかし、大事なことは、菊五郎が極悪非道の悪人を演じたいと考えたのが発想の原点なのですから、道玄の場合もそこが性根だと云うことです。極悪非道の悪人というのが性根だが、間が抜けたところもちょっとある、そこが味になるということです。思うに、そこが幕末期と明治期の芝居の感触の違いでもあって、道玄をあまり写実一方の悪人に仕立てると・観客の受けが悪くなってしまう、だからそこを役者の愛嬌でちょっと「いなして」・非道なことをする申し訳を付ける、その辺が菊五郎のセンスであったと思います。つまり写実感覚から離れかけているわけだが、極悪非道の性根はしっかり押さえなければならない、笑劇になってはいけない、そこの塩梅が大事だということです。このことは、吉之助が生(なま)で見た二代目松緑の道玄の印象からも裏付けられます。

しかし、いつ頃からそうなったかは分かりませんが、愛嬌と云うより・もっと進んで笑いで茶化そうという感じに道玄を仕立てる傾向が出て来たようですね。今回(令和4年10月歌舞伎座)の「加賀鳶」の芝翫の道玄が、まさにそうです。当月のチラシを見ると、「極悪非道ながらどこか憎めない道玄」と書いてあるのには、イヤ驚きました。と云うか呆れました。まるで法界坊みたいな道玄ですねえ。まあここで察せられることは、道玄を写実の悪人に仕立てることが、令和の現代においては、ますます受け入れられなくなっていると云う現実でしょうか。

伊勢屋の強請場では、梅玉の松蔵が堅実なところを見せてくれています。決して派手なところはないけれど、しっかり押してくれています。これを真正面で受けるならば、芝翫の道玄は柄は悪くないのだから・いい芝居に出来ると思うのですが、鼻から茶化しに掛かっているような道玄です。もっと正攻法で役に対してもらいたいですねえ。芝翫なら松緑の道玄は知っているでしょう。今月(10月)歌舞伎座では、この第3部が甚だしく入りが悪いですが、観客もよくお分かりのようです。これでは写実の黙阿弥物を見る期待は、ちょっと持てません。

(R4・10・30)



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