(TOP)     (戻る)

二代目吉右衛門の佐野次郎左衛門

平成23年5月新橋演舞場:「籠釣瓶花街酔醒」

二代目中村吉右衛門(佐野次郎左衛門)、九代目中村福助(兵庫屋八つ橋)、四代目中村梅玉(繁山栄之丞)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(兵庫屋九重)、四代目中村魁春(立花屋女房おきつ)、初代坂東弥十郎(釣鐘権八)、五代目中村歌六(都築武助)、四代目市川段四郎(佐野次郎兵衛)他


1)通し復活上演の意義

本稿で紹介するのは、平成23年(2011)5月新橋演舞場での、吉右衛門の次郎左衛門による通し狂言「籠釣瓶花街酔醒」の舞台映像による観劇随想です。吉右衛門の次郎左衛門は当たり役で何度も演じていますが、この時の上演は、明治期から上演が絶えていた場面を百有余年ぶりに復活し発端から大詰まで、俗に「花の吉原百人斬り」とも云われる事件の全貌を上演しようという珍しい試みでした。

まず発端(序幕・二幕目)として、戸田河原お清殺し〜野州千貫松原〜佐野次郎左衛門内。ここで次郎左衛門が痘痕(あばた)顔で生まれた因縁、妖刀籠釣瓶を入手する経緯が描かれます。三幕目・吉原仲ノ町見染から兵庫屋八つ橋部屋縁切りの場までは、ほぼいつも通りの上演です。この後に大詰として、兵庫屋九重部屋が付いて、立花屋二階での八つ橋殺し場となり、続いて立花屋大屋根での立ち廻りで幕となります。戦後の上演記録を調べると、大詰を大屋根での立ち廻りで締めた上演は数例ありますが、発端を付けた例はなく、他はすべて吉原仲ノ町見染から八つ橋殺しまでの定型上演となっています。

発端を付けたことの意義は、まず次郎左衛門が痘痕(あばた)顔となったことの経緯が分かることです。事の起こりは、父・次郎兵衛が、かつての妻(お清)が乞食となっていたのを無惨に殺してしまったことでした。その祟りで、次郎兵衛は病で悶死し、息子の次郎左衛門は痘痕顔になってしまいます。

発端を付けたことのもうひとつの意義は、妖刀籠釣瓶が次郎左衛門の手元に渡った経緯が分かることです。千貫松原で盗賊に襲われた次郎左衛門を武士都築武助が助けた縁から、武助は次郎左衛門の家に逗留することになりました。しかし、まもなく都築は病に倒れ、その死の直前に次郎左衛門に形見として与えたのが、妖刀籠釣瓶であったのです。籠釣瓶は村正の作で、水も溜まらず斬れる名刀ということで付けられた名前でした。「一生抜かずに秘蔵なせば、その身に祟りはいささかもござらぬ。さりながら事に臨んで抜く時は、必ずその身に過ちあって血を見ぬうちは納まらぬ」と都築は言い残します。これがその後の八つ橋殺しに向けて、暗い予感を呼び起こします。

ただしこの発端があったからと言って・いつもの「籠釣瓶」の理解がさらに深まると云うほどのものではないかも知れません。むしろ怪談噺・因縁噺の様相になって暗い湿った非合理の世界に見えて、現代の観客にとって、却って理解し難いものになってしまうかも知れません。ひとつ考えなければならないことは、実は当時の民衆にとって因縁噺の仕掛けとは、「これがこうなるから・そういうことになったのか、そう分かったぞ」と云う、芝居理解のための手掛かりであったと云うことです。それは行灯の明かりのようなものでした。現代から見れば薄暗く感じられるほどのレベルだけれども、当時の人々にとってそれは十分に明るい灯であったのです。だから当時の観客がこの「籠釣瓶」のドラマをどのように見たかと想像してみることが大事だろうと思います。これについては、別稿「恐いのは人の心の闇でございます」をご参照ください。「籠釣瓶」は明治21年(1888)東京千歳座での初演作ですが、この時代の因縁仕立ては、明治初期の文明開化の日本が切り捨てようとして・なかなか捨てきれなかった「江戸の残渣」のようなものであったと思います。恐らく怪談噺の名人・初代三遊亭円朝が亡くなった明治33年(1900)辺りが、日本人の精神的な分岐点になるかも知れませんね。

ですから今回の発端復活に関して、積極的な意義をあまり見出せないことは事実ですけれど、ただし一点だけ気付いたことがありました。兵庫屋2階で次郎左衛門が八つ橋を一刀のもとに斬り殺しますが、初めてこの場面を見て感じるだろう疑問は、次郎左衛門は絹商人であるから刀の扱いを知らぬはず、なのに刀の使い様があんな見事で良いのかと云うことかと思います。発端を見ると、その答えが分かります。第2幕で、次郎左衛門の家に世話になった都築は村人に剣術指南をしており、次郎左衛門も一緒に剣術を習っていたことが描かれています。つまり次郎左衛門は刀の扱いを知っていたと云うことです。なお八つ橋が一刀で斬られるのは、初演の八つ橋を演じた五代目歌右衛門が既に丹毒で足の具合が良くなかったので、次郎左衛門(初演は初代左団次)に裾を押さえてもらって、これを払うとすぐに切り下げるように、歌右衛門が注文したのが型になったものだそうです。

他方、大詰の大屋根での立ち廻りも、これもあってもなくても良さそうなものですが、次郎左衛門の恨みが間夫の栄之丞と判人権八に向かうとすれば、ここで大立廻りをするのは、「花の吉原百人斬り」らしい結末で、これは役者も発散出来て良いかも知れませんね。(この稿つづく)

(R4・10・31)


2)ツールとしての妖刀籠釣瓶

今回(平成23年・2011・5月新橋演舞場)の「籠釣瓶」通し上演の最大の成果は、大詰の立花屋二階での八つ橋殺し場で、八つ橋を斬殺した後・刀身を見込んで「籠釣瓶は斬れるなア」と呟く時の、吉右衛門演じる次郎左衛門の凄み・殺気です。もちろんこれまでだって、吉右衛門の・この場面は十分に凄かったのです。しかし、今回は序幕で妖刀・籠釣瓶が次郎左衛門の手に渡った経緯が描かれるので、演技の説得力がさらに増しました。「いったん刀を抜くならば、血を見るまでは鞘に納まらぬ」という妖刀の謂われを知って見ると、八つ橋を斬殺する次郎左衛門の狂気が、観客に直感的に理解されます。ここから百人斬りにまで至る経緯もスンナリ理解されます。だから役者は心置きなく狂気の演技に没入出来るのです。

八つ橋を殺す次郎左衛門の心理は「満座で恥を掻かされたことへの恨み」という観点で読めますが、次郎左衛門がさらに大量殺人へ走る心理は、八つ橋への恨みだけだとなかなか納得が行かないと思います。このため「血を欲する」妖刀の謂われが必要になってきます。そう云う論理プロセスを身体で理解するために、吉右衛門としては、当たり役の次郎左衛門を是非一度通し上演で体験しておきたかったのではなかったでしょうか。

実際、「籠釣瓶は斬れるなア」と呟く時の吉右衛門の低く唸る声と凄みのある目付きは、まことに鬼気迫るもので、狂気に没入したところを見せて、通し上演の成果がここに在ることを納得させてくれました。通常の半通しであれば・芝居はここで終わるわけですが、何しろ「血を見るまで鞘に納まらぬ」妖刀です。次場の立花屋大屋根の立ち廻りで・次郎左衛門が恨みある栄之丞と権八に決着を付けるまでは、観客の気分も納まらぬと云うことでしょう。

大屋根の立ち廻りでが吉右衛門に感心したところは、次郎左衛門が妖刀に操られる、つまり心神喪失の状態で、刀が先に出て身体が後に動くような、魂が抜けた操り人形みたいなギコチない動きを見せなかったことです。妖刀の魔力が次郎左衛門の精神に何らかの作用して、次郎左衛門は自らの狂気で以て人を殺めるのです。ここが大事な点です。刀が人を殺めるのではないと云うことです。吉右衛門が演じる次郎左衛門は、しっかり腰を入れて刀を振り下ろしていました。

妖刀籠釣瓶というのは、社会道徳や様々な規制を一気に解き放つための「ツール」として在るということです。江戸期はいろいろと規制があって、思っていること・感じていることを正直に吐露することが出来ない時代でした。(まあ現代だって色々あるわけですが、現代と比べれば、江戸期はまだまだ規制が多かった。)次郎左衛門が何かに怒ってバッタバッタと関係ある人もない人も当たり構わず殺すのは由々しいことです。そんな芝居を庶民が拍手喝采するのは、為政者としては気掛かりです。だから表向き「次郎左衛門の殺しは刀の魔力のせいで〜す」と云うことにしているのです。そうすると為政者は「そういうことならば、まあ仕方ないか、しかしほどほどにしろよ」となるわけです。だから「妖刀」がツールだというのはそう云う意味なので、実はそれは芝居の方便である。次郎左衛門は自らの狂気で以て人を殺めるのです。ホントはとても危険な感情を孕んでいるのです。ですから次郎左衛門は刀に振り回されるのではなく、しっかり腰を入れて本気で刀を振り回さねばなりません。このことははっきり認識しておかねばならないことです。(この理屈は「伊勢音頭」での福岡貢の、名刀・青江下坂による十六人斬りでもまったく同じことです。)

今回の「籠釣瓶」通し上演では、序幕で次郎左衛門が痘痕(あばた)顔となったことの経緯、妖刀籠釣瓶が次郎左衛門の手元に渡った経緯が描かれます。このことが「籠釣瓶」のドラマを怪談噺・因縁噺の様相にしかねないと云うことは先に触れた通りです。これを「これがこうなるから・そういうことになったのか、そう分かったぞ」という・行灯の明かりで先を見るようなドラマ論理の明晰さで感じ取れるか否かなのです。「籠釣瓶は斬れるなア」と呟く時の吉右衛門の次郎左衛門の凄みのある目付きを見れば、今回の通し上演が成功したことがはっきり分かります。(この稿つづく)

(R4・11・6)


3)ツールとしての「お清殺し」

そう云うわけで、今回(平成23年・2011・5月新橋演舞場)の「籠釣瓶」通し上演では、ツールとしての妖刀籠釣瓶の役割がよく理解出来ました。これが今回上演の最大の成果でしたが、課題がもうひとつあります。それは怪談仕立てになりますが、次郎左衛門が痘痕顔であることを説明する因縁話です。父・次郎兵衛がかつての妻(お清)を無惨に殺してしまった祟りで、息子の次郎左衛門は痘痕顔になってしまったと云うわけです。今回上演のなかで、この怪談・因縁話が機能していたでしょうか。これはあまり利いていなかったように感じます。

これは大事なことだと思いますが、通常上演の、吉原仲ノ町見染から始まり・兵庫屋八つ橋部屋縁切り・立花屋二階八つ橋殺しで終わる上演形態では、次郎左衛門が痘痕顔であることがあまりハンデになっていないように見えると云うことです。つまり次郎左衛門が本気で八つ橋に惚れて身請け話になったのが、間夫・栄之丞の横槍で反故にされたと云うドラマなのだが、ドラマ自体は次郎左衛門が痘痕顔であろうが・なかろうが、どこでも起こり得る事件だということです。せいぜい栄之丞が誰もが太刀打ちできないいい男振りだということで、まあこの男が原因ならば仕方がないとなっている風です。しかし、これであると序幕のお清殺しがまったく機能しないことになりますね。これが機能するためには、事実はどうあれ、次郎左衛門が「この俺に満座で恥をかかせたのは、この俺が痘痕顔の田舎者であることをあざ笑うためであったのだな」と思い込んでしまうコンプレックスが、次郎左衛門の方に非常に強かったと云うことがなければならぬと思います。そうすると、これもお清の祟りのなせる業かということになります。

しかし、いつもの「籠釣瓶」を見ると、廓の衆は・八つ橋も含めて、次郎左衛門が痘痕顔の田舎者であることをまったく気にしていないようです。むしろお金の使い方が綺麗なお大尽だと好意的に見ている風です。だから、「この俺に満座で恥をかかせたのは、この俺が痘痕顔の田舎者であるからだ」と誤解するのは、やはり次郎左衛門の劣等感・或いは引け目から来るのでしょう。しかし、今回上演本であると、そこのところは見えて来ません。また吉右衛門演じる次郎左衛門が、痘痕顔で田舎者だけど・誰もが好感を持つ性格が良いお客という印象である為に、次郎左衛門の心の闇が見えて来ません。

まあ多分、吉之助は無いものねだりをしているのです。歌舞伎に於ける主役は、例え百人斬りをするにしても、観客から気を悪く思われてはいけないのです。満座で縁切りをされた次郎左衛門は観客から同情されねばなりません。縁切り場での、吉右衛門の次郎左衛門は、「花魁、そりゃつれなかろうぜ」に始まる長台詞が哀切を以て迫って来る見事なものでした。次郎左衛門にこれ以上何を求めるのかと云うほどの出来です。だけど、これだと次郎左衛門が痘痕顔でなかったとしても、多分事件は起こったでしょうねえ。

ですから芝居を見る分にはこれで十分過ぎるくらいに十分ですが、作品を読む場合には、このことを頭の片隅にちょっと置いておいてもらいたいとは思うのです。これは多分脚本の問題なのでしょうね。花の吉原百人斬りのエピソードの背景には、次郎左衛門が痘痕顔であること・そして田舎者であることの、強烈なコンプレックスが裏に潜んでいるのです。このことは、「籠釣瓶」から間接的な影響を受けたと推察される、池田大伍の「名月八幡祭」(大正7年・1918・8月歌舞伎座初演)には、もっとはっきり出てきます。幕切れで町の衆に取り囲まれた新吉が小判をばら蒔いて、こう叫びます。

「江戸っ子が何だ、口先ばかり巧いこと言ったって、みんな銭が欲しさだ」

驚いて小判を拾う男たちを見て、気が狂った新吉がヘラヘラ笑います。これは新吉の田舎者としての劣等感の、強烈な裏返しです。そこに新歌舞伎作家・池田大伍の近代的な社会視点があります。「籠釣瓶」は明治21年・1888・5月千歳座での初演ですから、時代的に「八幡祭」とそう離れているわけでもないのですが、歌舞伎狂言作者・三代目河竹新七の作であるから感触として古風で、視座は後ろ向きであるかも知れませんねえ。しかし、「江戸っ子が何だ、口先ばかり巧いこと言ったって、みんな銭が欲しさだ。心のなかでは、俺のことを痘痕顔だ・田舎者だと笑っているんだ」という怒りがなければ、無関係な人も含めて百人もの人をバッタバッタと切り倒すことは到底出来ません。したがって次郎左衛門の怒りは、非常に由々しい、非常に危険な社会的視点を孕んではいるのです。これを歌舞伎では表向き「父親のお清殺しの祟りのせいです」と云うことにしているのです。つまり怪談話もまた「ツール」であるということなのです。

(R4・11・11)



  (TOP)     (戻る)