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女敵討ちの論理〜十五代目仁左衛門の彦九郎

令和4年7月大阪松竹座:「堀川波の鼓」

十五代目片岡仁左衛門(小倉彦九郎)、三代目中村扇雀(彦九郎の妻お種)、六代目中村勘九郎(鼓の師匠宮地源右衛門)、初代中村壱太郎(お種の妹お藤)、初代片岡千之助(一子文六)、初代片岡孝太郎(小倉の妹おゆら)、二代目中村亀鶴(磯部床右衛門)


1)近世におけるフォークロア的行為

本稿は、令和4年7月大阪松竹座での「堀川波の鼓」映像の観劇随想です。今回上演台本は村井富男の脚色で、これは戦後の「堀川波の鼓」上演でほぼ定本となっているものです。村井脚本は丸本を素直に劇化しており・なかなか出来が良いものだと思いますが、上の巻・中の巻までの劇化・つまり彦九郎宅でのお種の自害までで終わり、下の巻・つまり京都堀川での女敵討ちの場面が省かれるのが、戦後上演での「堀川波の鼓」上演の通例となっているようです。結末の女敵討ちまで上演した例外は2件あって、ひとつは昭和48年・1973・5月国立劇場での通し上演、もうひとつは平成2年・1990・2月近松座での通し上演でした。本稿ではその是非を論じるものではないですが、現状の歌舞伎での「堀川波の鼓」のイメージは、概ね上の巻・中の巻のみの、二場上演によって出来上がっていると云うことを指摘しておきます。

云うまでもなく「堀川波の鼓」(初演については諸説あるが、正徳1年・1711・正月以前に大坂竹本座にて初演)は、「大経師昔暦」(正徳5年・1715・春頃に大坂竹本座にて初演)、「鑓の権三重帷子」(享保2年・1717・2月大坂竹本座初演)と並んで、近松門左衛門の三大姦通物の一つとされています。これらはみな女敵討ちを描いたものです。「堀川波の鼓」の元になるものは、宝永3年・1706・5・6月に実際に起こった事件でした。実説は、「月堂見聞集」・「鸚鵡籠中記」などで確認が出来ます。因州鳥取の台所役人大蔵彦八郎が主人参府に付き江戸に滞在中、妻たねが鼓の師匠宮井伝右衛門と密通、噂が家中に広まったため、彦八郎が吟味したところ不義が発覚、宝永3年5月27日に彦八郎はたねを刺殺、直ちに京都へ出立し、翌月6月7日京都堀川にて伝右衛門を討ち果たしました。(その行動は迅速で・見事なものに思われます。) 彦八郎は仇・伝右衛門の顔を知らなかったため、案内役として妹くらと・たねの妹ふうを帯同したので、女の敵討ちとして巷の評判になったと云うことです。

まず女敵討ち(めがたきうち)について考えたいと思います。これは別稿「女敵討ちを考える」で取り上げました。仇討ちには、普通の敵討ちと女敵討ちとがあります。しかし、両者は表面上様相がかなり異なります。このため普通の敵討ちと女敵討ちとを一緒にすることをしないという考え方もあり得ます。しかし、普通の敵討ちと女敵討ちとの間の、心情的に共通した部分を考えてみないと、江戸期に「堀川波の鼓」のような事件が起こったことが、なかなか理解出来ないと思います。

普通の敵討ちと云うのは、親を殺した相手を追い掛けて仇(かたき)を討つと云うようなものを指します。そもそも発端となった殺人事件にいろいろ事情があるかも知れないので、第三者的に見ると犯人の方に同情の余地がある場合があるかも知れませんが、一般的に云えば、仇を討つ側(犯人を追い詰めてこれを討つ側)の方に常に「正義」があるのです。仇討ちをすると、孝子として評判があがって英雄視されます。そう云う夢の実現のためにどこに居るのだか分からぬ仇を求めて、当てもない苦しい旅を続けた人たちがいたのです。そうやって道の途中で倒れた人は数知れなかったでしょう。しかし、敵討ちを果たせば、名誉が回復されてスカッとするはずである。(実際にスカッとするかは・これはまた別の話ですが)そうでなければ、あれほど芝居に敵討ちが多かったことの説明が出来ません。(吉之助流仇討ち論では、これを「予祝性」と呼んでいます。)

一方、女敵討ちでは、そこが全然違います。女敵討ちは、スカッとしないのです。女敵を討つと云うのは、そういう事態に自分が巻き込まれたことを満天下にさらすことになるわけですから、これは夫にとっての「恥」です。人に笑われるようなことなのです。だから間男を討ち果たせば、確かに夫の名誉は回復されるはずだけれども、必ずどこかに杓然としないものが残る、それが女敵討ちなのです。折口信夫は、論考「仇討ちのフォークロア」のなかでこう書いています。

『考えてみれば、これほど馬鹿々々しい事はありません。馬鹿々々しい事ながら、条理を立てて考えているのでなくては、女敵討ちがあったとは言えないのです。つまり、つまらない女が、夫を捨てて他の男と亡命して逃げてしまった場合とか、或いは、姦通を見付けたりした時は、その場で処理して居ります。それが、昔は言わず語らずのうちに賞賛されています。それをしなければ、顔が立たないのです。これは名誉の問題であって、道徳問題ではありません。ただし、名誉問題と道徳問題とは引き続いています。民俗的に言えば、道徳でないとしても、しなければ背徳になることもあります。それをしなければ、世の中の夫婦道徳が無茶苦茶になると、世間で考えていたとすれば、それは道徳問題になります。そして、事実そう考えていたわけです。ことに近松の浄瑠璃には、それが著しく取り扱われています。(中略)江戸幕府はそうした旧俗の弊を矯めようとしましたが、同時に女敵は討たなければならないと云う、何時からとも知れぬフォークロアがあったわけなのです。何らかの意味において、社会が価値を認めていなければ、フォークロアではないのです。』(折口信夫:「仇討ちのフォークロア」・昭和26年12月)

或る身分の高いお侍は、自分の妻が密通した時、相手を成敗して、そのあとに狐を死骸を置いた、通っていた男と云うのは実は狐の化かしだったと云うことにしてカタを付けたそうです。女敵討ちは恥ずかしいことだと分かっていたので、立派な侍ならば、そう云うことはしなかったのです。

近松は三大姦通物を書きましたが、三つとも、妻が夫以外の男を愛して密通したと云うものでありませんでした。密通を犯してしまったのは、女の本意でなかったのです。不義の女の背後に、それぞれやむを得ぬ事情が隠されていました。近松の姦通物がそのような形を取るのは、江戸期(近世)と云う・或る程度社会制度が整備されて法に基づいた理性的な判断が出来そうな時代にあっても、なお根強く残る旧時代の倫理感覚(フォークロア)、その狭間に在って、男は女敵討ちという不可解な行為を、法的な手続きを以て理性的に処理せねばならなかったからです。討たれる妻もその手続きに理性的に殉じたのです。そこに近世社会に生きる個人と社会との関係が立ちはだかっています。ですから近松が浄瑠璃で描こうとしたものは、女敵討ちと云う行為の虚しさであったのです。もちろん普通の敵討ちにも虚しさがあるのですが、女敵討ちではその虚しさが一層痛切に見えます。女敵討ちでは、熱狂的な事態は決して起こらぬのです。(この稿つづく)

(R4・9・7)


2)女敵討ちの論理

「堀川波の鼓」に関する巷の評論にいくつか目を通しましたが、姦通を犯してしまった妻お種の心理に焦点を置いた分析が多いやに思われます。そこへ興味が行くのは、現代演劇の観点からするとごく自然なことであるし、本作は「姦通物」ですから・決して的を外しているわけではないけれども、それであると上の巻・中の巻のみで作品を論じるのと同然ではないでしょうか?下の巻の存在が無視されていると感じます。この読み方であると、「堀川波の鼓」は、確かに妻お種の悲劇にはなりますが、夫彦九郎の悲劇になりません。つまり、本作が女敵討物だと云うことを忘れている、或いは女敵討物としての価値を本作に認めていないと云うことですね。

例えばおゆらやお藤・文六が死んだお種のために女敵討の供をさせてくれと声をあげて泣いた時、彦九郎は、

『「さほど母姉兄嫁を、大切に思ふほどならばなど最前に衣を着せ、尼にせんとて命をばなぜに貰うてはくれざりし」と、空しき殻に抱き付き、わつと叫び入りければ・・』

という激しい反応を見せます。ここに彦九郎が如何に妻を愛していたか、妻を刺殺せねばならなかったことの苦渋が表れています。広末保先生は次のように書いています。

『封建社会の、非人間的な機構のなかで生きねばならなかった武士の悲痛な声である。しかし、これは、どこまでも、お種の悲劇をしっかりと担った悲劇感である。(中略)お種は彦九郎の妻であるばかりでなく、観客の愛惜してやまない女である。お種は許されているのである。彦九郎に許されているように、われわれによっても。(中略)「命をばなぜに貰うてはくれざりし」と彦九郎にいわしめた瞬間、お種は完全に悲劇の主人公になりえて居たのである。』(広末保:「堀川波鼓」の方法〜「増補 近松序説」・未来社)

広末先生の論考は、お種の悲劇的状況を分析して示唆するところ大きいものがありますけれど、大変失礼ですが、何となく上の巻・中の巻のイメージだけで書かれた感じがしますね。彦九郎は確かにお種を許したと思います。しかし、彦九郎はこのあとすぐさま女敵討ちに出立するのです。「命をばなぜに貰うてはくれざりし」という叫びのなかに彦九郎の苦悩が形象化されていますが、それはお種の悲劇に付随して現れるわけではないと思いますがね。広末先生はお種の悲劇ばかりを見ていますね。もちろんそれも一つの読み方に違いありません。しかし、本作の女敵討物としての視点が欠落していませんか?広末先生が下の巻を無視していることは、次の文章でも分かります。

『下巻で近松は女敵打を書く。女敵打という事件そのものが興味ある事件であったということでもあろうが、なんと言っても、武士社会の姦通が必然的に女敵打へ発展する以上、女敵打の場を設けなければ、この姦通事件に全体としての決着をつけることが出来なかったのであろう。それにいま一つ、お種の詞につづいて彦九郎の割り切れない立場が正面に出て来る。その感情に結末をつけるということがあるかも知れない。しかし、基本的な葛藤はすでに終了しているから、下巻はただ敵を打つだけである。』(広末保:「堀川波鼓」の方法〜「増補 近松序説」・未来社)

つまり、広末先生にとって下巻はただの「付け足し」に過ぎないわけです。それにしても、近松研究権威として、「心中天網島」では上中下の三部構成の形式美をあれほど熱く語る広末先生が、「堀川波の鼓」の三部構成をまったく顧みないというのは、これは近松研究者として如何なものかなと吉之助は思いますがね。例えば中の巻でお種が自らの罪を告白し・九寸五分を胸に刺し通して自害する場面での彦九郎の行動を、広末先生ならばどう読むでしょうか。

『彦九郎刀を抜き、取って引き寄せ、ぐつと刺し、返す刀で止めを刺し、死骸おしやり、刀を残し、刀を拭い、しづしづしもうて立つたりし、武士の仕方のすすどさよ。今朝脱ぎ捨し旅装束、またおつ取って、笠、草鞋、刀おつ取り、これ文六、我はこれより番頭へ訴え、御暇(おんいとま)申し捨て、すぐに京都へ馳せ上り、妻敵を打つ間、おのれは足弱引き連れて、一門方へ立ち退けと・・』

お種が自害するのを見るや、彦九郎はサッと立ち上がり、お種を抱き寄せ・止めを刺す、その一連の行動は迅速で、そこに何の躊躇(ためら)いも見えません。近松は「武士の仕方のすすどさよ」と褒めています。「すすどさ」とは、手際が鮮やかだと云う意味です。そこには愛するお種の苦痛を長引かせまいとする夫の配慮も確かにあるでしょう。お種を許してやりたい彦九郎の気持ちがそこに見えます。広末先生ならば、そこを一段と重く見ることでしょうね。しかし、「武士の仕方のすすどさ」とは、彦九郎の女敵討ちへの揺るがぬ覚悟を示してもいるのです。お種が息絶えてしまってから死骸を刺したのでは、女敵討ちになりません。お種が息あるうちに刀を突き立て、夫の手で妻を始末せねばならぬのです。もう女敵討ちが始まっているのです。

したがって、自裁の形を取ってはいますが、息あるうちに夫に自分を殺させたことで、お種は女敵討ちへの段取りを自ら付けたとも云えるわけです。ここが広末先生の分析にはない・とても重要なポイントだと思います。お種を刺殺するや否や、彦九郎は直ちに京都への出立準備に取り掛かります。彦九郎に迷いは見えません。このことを頭に置いたうえで、彦九郎の「命をばなぜに貰うてはくれざりし」という嘆きを読み返せば、それはまったく異なる様相を呈するはずです。

『「さほど母姉兄嫁を、大切に思ふほどならばなど最前に衣を着せ、尼にせんとて命をばなぜに貰うてはくれざりし」と、空しき殻に抱き付き、わつと叫び入りければ・・』

彦九郎は江戸の単身赴任から故郷に戻り、たった今家に着いたばかりでした。「など最前に・・」と彦九郎が言っているのは、先ほど彼が家の玄関に立った時(最前)に、おゆらやお藤・文六らが主人を出迎え、尼姿となったお種を見せて、「この通り、われわれ一同相談の上で、お種を出家させました、どうかお許しください」と処置していれば、彦九郎としては手の出しようがなかった、しかし、それならばお種も助けてやれたし・俺も女敵討ちをせずに済んだ、既に家中に噂は広まっており・俺は大恥をかいているが・それでも女敵討ちはせずに済んだ・・と云う恨み節なのです。つまり俺が知らない内に事を処置して欲しかったと云うことです。妻の姦通の事実を知らされた後、「殿様、如何はからいましょうや」と言われても、もはや俺には女敵討ちするしか道は残されていないではないか。彦九郎はそう嘆いているのです。世の中そんな甘いものではありません。それをしなければ世の中の夫婦道徳が無茶苦茶になると、そう考えている人が世間に大勢いるのです。そんな社会のなかで彦九郎は生きています。彦九郎が妻を許したか・許さないか、そんなことはお構いなく、世間は無言のうちに女敵討ちを彦九郎に強制します。これが彦九郎が置かれた悲劇なのです。

ですから下巻はただの「付け足し」ではないのです。下巻は彦九郎のために(或いは夫婦のために)有らねばならない場です。そこに大したドラマが見えないとしても、絶対有らねばならぬ場なのです。これが無ければ、彦九郎の割り切れぬ気持ちが癒されることはありません。だから女敵討ちを果たした後、近松も出来る限りの讃辞を贈っています。

『(討っ手の)四人の男女うち囲い、しんづしんづと歩みゆく。見事さ、立派さ、心地良さ、世上にぱつと囃し立て…』

しかし、女敵を討ち果たせば、確かに夫の名誉は回復されるはずだけれども、必ずどこかに杓然としないものが残る、それが女敵討ちなのです。近松ほどこのことを分かっている人はいないのです。(この稿つづく)

(R4・9・8)


3)仁左衛門の彦九郎の「すすどさ」

吉之助は時々「芝居の間尺のバランス」と云うことを考えます。上演時間の制約とか様々な理由によって、長丁場の端場を切るとか・そういう処置がされることがあります。まあそれは仕方がないことですが、そうすると芝居のバランスが変わるので、役者がいつものことを同じようにやっていても、必然的に観客の目に映るドラマの様相が異なって見えて来るのです。

今回(令和4年7月大阪松竹座)の「堀川波の鼓」上演(村井富男脚本)は上の巻・中の巻の劇化ですから、下の巻(京都での彦九郎による女敵討ち)が描かれません。このこと自体をどうのこうの言うつもりはないですが、このように二部構成で「堀川波の鼓」を見る場合、見えて来るドラマの様相が変わって来ます。二部構成であると、ドラマとしては女敵討ちの様相が後ろへ引くことになります。代わりに姦通を犯した妻お種の悲劇の様相が濃くなっていきます。観客の興味はどうしても、姦通へ至るお種の女の弱さ・或いは夫の面前で自害を図り夫に刺殺されるお種の罪の意識の方へ向かうことになります。これは自然なことです。

その場合、役者はそのような芝居のバランスの変化に応じて演技の色合いを変化させていかねばなりません。これは必ずしも意図して出来るものでもなく・結果論的なこともあって、そこに正解はないのですが、考えられる行き方としては、「堀川波の鼓」での妻お種の悲劇性をもう一段掘り下げていく方向(これにより新しい作品解釈が生まれる場合もあるでしょう)、もうひとつは、二部構成のなかでともすれば忘れられてしまう・女敵討物としての本質をチラッと想起させることで・ここではカットされてしまった下の巻への余地(疑問)を残すという、二つの方向が考えられます。

今回の仁左衛門の彦九郎を見ると、これは上記二つ目の方向を取ったもので、「など最前に」の叫びで、幕切れの・最後の最後に、芝居を彦九郎の悲劇の方へ一気に引き戻した感がしますねえ。イヤ作品に在るものをそのまま正しく表現するならば・そこに現れるドラマは正しく作品が意図したものとなると云うことを示した典型のようなものだなあと感心させられました。妻お種が自害したと見るや・サッと立ち上がり、お種を引き寄せて・止めを刺す、この後、顔色を変えず息を乱さず座に戻り・刀を拭うと・すぐさま京に上って女敵を討つことを告げる、そこまでの一連の動きが流れるようで、まさに「武士の仕方のすすどさよ」です。さすがは仁左衛門。この見事さの後であるから、「など最前に」という彦九郎の嘆き節が一層効いて来ます。

イヤ実は中の巻の最初のうちは吉之助は、どうも仁左衛門は台所役人にしては見掛けが立派優美に過ぎて・まるで大名みたいに見えるなあと思いました(恐らく実説の彦八郎は質実剛健な武士であったでしょうね)が、最後の最後に見せてくれました。「堀川波の鼓」が妻お種の悲劇であるばかりでなく・夫彦九郎の悲劇でもあることを、仁左衛門の彦九郎は正しく見せてくれました。これでドラマは、カットされてしまった下の巻(女敵討ち)への段取りを残したことになります。(この稿つづく)

(R4・9・10)


4)お種の「真実」

今回(令和4年7月大阪松竹座)上演のように、「堀川波の鼓」を上の巻・中の巻の二部構成とすると、芝居のバランスが変化しますから、ドラマは姦通を犯した妻お種の悲劇の様相を呈します。ここで広末先生の言をもう一度引きますが、

『お種は彦九郎の妻であるばかりでなく、観客の愛惜してやまない女である。お種は許されているのである。彦九郎に許されているように、われわれによっても。(中略)「命をばなぜに貰うてはくれざりし」と彦九郎にいわしめた瞬間、お種は完全に悲劇の主人公になりえて居たのである。』(広末保:「堀川波鼓」の方法〜「増補 近松序説」・未来社)

この広末先生の指摘はとても大事ですが、近松の本意のために忘れてならないことは、妻お種の悲劇をただの「姦通劇」にしてしまわないこと、決して「よろめき」ドラマにしないことだと思います。(注:「よろめき」とは、昭和32年(1957)三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」に発した当時の流行語。) つまり妻お種は事実としては姦通を犯した、しかし、それは決してお種の本意ではなかった、お種は夫彦九郎を心底愛していた、むしろ愛していたが故に・そのような間違いに陥ってしまったと云うことです。彦九郎にも観客にも、このお種の「真実」が認知されなければ、それは「よろめき」ドラマになってしまいます。これでは「お種は彦九郎の妻であるばかりでなく、観客の愛惜してやまない女である」と云うことになりません。

それでは、芝居でのお種は、そのように見えているのでしょうか。そこが問題だと思います。実際、上の巻の、お種が姦通に至るプロセス(床右衛門がお種に迫り・この様子を源右衛門に見られたため・これを取り繕おうとして間違いへ至る、そこにお種の酒好きが絡む)において、お種の「真実」を観客を完全に納得させることは、難しいかも知れません。夫の単身赴任のため長く孤閨を守るお種に、欲求不満やら何らか、人間的弱さが心底にあったのじゃないの?と下衆の勘ぐりをされかねない。それはやはり姦通を犯した事実があるせいです。「堀川波の鼓」に関する巷の評論でも、そちらの方へ興味が行っているものが少なくない。しかし、演じる難しさがいろいろあるにしても、お種役者は、「夫彦九郎を心底愛している」という「真実」を揺るがず堅持してもらいたいものです。

そこで扇雀のお種を見ると、「真実が揺らいでいる」とまでは言わないけれど、上の巻前半では、何となくお種が夫以外の男に関心が無いでもなさそうな、姦通への伏線を置いている雰囲気に見えかねません。(これは相手役の勘九郎の源右衛門にも、多少の責任がないとは云えません。) ここはあくまで印象だから具体的な指摘が出来ませんが、例えばお種が源右衛門からの返杯を受ける場面で、「そらそら始まったゾ」みたいな観客からの下世話な笑いを引き起さないようにお願いしたいですね。扇雀のお種は、最初から酒を飲みに行きますね。吉之助は下戸だからよく分かりませんけど、お種が飲む量が源右衛門より多そうに見えます。文六が母の盃に酒を注ぐ量の方が多いのかな?まあいずれにせよ、最初はそれらしき気配をまるで見せず、床右衛門を追い返してから状況が一転する、源右衛門に対して場を取り繕おうと焦るお種が酒をあおっておかしくなるとした方が過程(プロセス)として自然ではないでしょうか。そう云うわけで、上の巻はもう少し工夫が必要かと思います。しかし、中の巻での自害の場面では、扇雀のお種は真実味を見せました。

(R4・9・11)

(追記)仁左衛門は、帯状疱疹の療養のため、初日から13日までを休演とし、14日から復帰。(初日から13日までの彦九郎代役は、勘九郎が勤めました。)



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