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珍しい「玉藻前」通し上演

昭和55年12月国立劇場:通し狂言「玉藻前曦袂」

六代目中村歌右衛門(玉藻前・実は妖狐)、八代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(安倍播磨守泰成)、二代目中村吉右衛門(薄雲皇子)、七代目中村芝翫(上総之助広常)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(安倍采女之助泰晴)、五代目中村富十郎(三浦之助義明)、六代目中村東蔵(美福門院)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(初花姫)他

(戸部銀作:演出・補綴)


1)九尾の狐伝説

本稿で紹介するのは、昭和55年(1980)12月国立劇場で上演された通し狂言「玉藻前曦袂」(たまものまえあさひのたもと)上演映像です。このうち三段目・「道春館の場」については、別稿「玉三・道春館」の難しさ」にて取り上げました。本稿では「玉三」以外の、妖狐に関する・いわば本筋のところを検討してみることにします。九尾の狐伝説を題材にした「玉藻前」は、明治半ば頃までは人気狂言で、芝居や人形浄瑠璃でもよく取り上げられたものでした。

栃木県那須温泉付近に「殺生石(せっしょうせき)」と呼ばれる溶岩石があります。三国を悩ませた金毛九尾の狐が死して石となり、その毒気で近づく人を殺したという伝説を持つ石です。九尾の狐伝説のあらましは、以下のようなものです。

天竺(インド)にあっては班足太子(はんぞくたいし)を虜にして極悪非道を尽くした華陽夫人、中国では周の幽王を狂わせ死に追いやった褒姒(ほうじ)。または殷の紂王を骨抜きにした妲己(だっき)。これらはみな「九尾の狐」と呼ばれる妖狐が化けたものと伝えられます。さらに妖狐は海を渡って宮中に入り込み、鳥羽院に仕える玉藻前(たまものまえ)という女官に化けて、院の寵愛を受けるようになりました。玉藻前を召してからの鳥羽院は顔色が悪くなり、臣下の言葉を聞き入れなくなりました。陰陽師の安倍泰成はこれを妖狐の仕業と見抜き、これを調伏したので、妖狐は正体を現わし、下野の国那須野の原に飛び去りました。勅命を受けた三浦之助・上総之助はまず試みに犬を射てみせ、これが犬追物(いぬおうもの)の始まりとなったとのことです。結局、妖狐は両人に退治されましたが、その怨念は殺生石として残り、その後も人々を悩ませました。後に玄翁和尚の供養によって成仏し、祟りを止めたと伝えられますが、この時に和尚が打ち砕いた石が全国に飛散したため、「殺生石」の伝承を伝えるところが各地にあるそうです。

この伝説を舞台化したのが、佐阿弥作と伝えられる謡曲「殺生石」です。江戸時代には、妖狐伝説は民間に定着して、読本や草双紙、長唄や一中節の題材にもなりました。戯曲化されたものとしては紀海音の浄瑠璃「殺生石」(享保元年頃)が最も古く、その次が宝暦元年(1751)豊竹座初演の「玉藻前曦袂」であるようです。現在上演されるものは、この改作になる「増補玉藻前曦袂」(文化3年・1806・3月大坂御霊境内内芝居)です。本作は、初段を天竺・二段目を大唐に取り物語のスケールがとても大きく、大切に景事「化粧殺生石」を付け、華やかに締めて人気作であったようです。谷崎潤一郎の小説「蓼喰う虫」(昭和3年・1928)で、主人公・要が義父である老人とその愛人お久と三人で淡路を旅して、淡路人形を見る場面がありますが、そこに

「(淡路人形芝居では)玉藻前とか、伊勢音頭とか、ああ云う物はなかなか大阪とは違っていて面白いそうだよ。」
なんでも文楽あたりでは残忍であるとかみだらであるとか云う廉(かど)で禁ぜられている文句やしぐさを、淡路では古典の姿を崩さず、今でもそのままにやっている、それが非常に変っていると云う話を老人は聞いて来たのであった。たとえば玉藻の前なぞは、大阪では普通三段目だけしか出さないけれども、此処(淡路)では序幕から通してやる。そうするとその中に九尾の狐が現れて玉藻の前を喰殺す場面があって、狐が女の腹を喰い破って血だらけな膓(はらわた)を咬(くわ)え出す、その膓には紅い真綿を使うのだと云う。伊勢音頭では十人斬りのところで、ちぎれた胴だの手だの足だのが舞台一面に散乱する。奇抜な方では大江山の鬼退治で、人間の首よりももっと大きな鬼の首が出る。
「そういう奴を見なけりゃあ話にならない
。」
(谷崎潤一郎:「蓼喰う虫」・第11章)

という老人の言が登場します。ここで述べられているように、明治半ば頃までは、「玉藻前曦袂」は頻繁に通し上演されて庶民に大いに人気であったようです。しかし、現在では妖狐が登場しない三段目「道春館」が上演されるのみなので、本作と九尾の狐伝説との関連がよく見えなくなってしまいました。「道春館」だけであると、外題の「曦袂」(あさひのたもと)というのも意味が分かりませんが、これは四段目・神泉苑の場で妖狐である玉藻前が薄雲皇子と魔道の契りを交わすのを、美福門院が立ち聞きして・玉藻前を暗殺しようとしますが、この時玉藻前の身体が異様な光を発して・これを阻止するところから来ています。(この稿つづく)

注)犬追物とは、中世武士の武芸鍛錬法のひとつ。竹垣で囲んだ馬場に犬を放ち、これを馬上より射る。矢は犬を傷付けないように、犬討引目(いぬうちひきめ)という特殊な鏑矢を使用する。

(R4・6・17)


2)九尾の狐伝説・続き

天竺(インド)・唐土(中国)・日本と三国を舞台にして、妖狐を主人公とする九尾の狐伝説は、構想の雄大さと奇抜な趣向で、大いに人気を博したようです。ところで吉之助が気になることは、このような、日本の説話としては稀に見るスケールの大きい話が、どのようにして生まれ・どのように発展してきたかと云うことです。これを分かりやすく紐解くことは容易ではないようです。しかし、定説になっていないようですが、玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原徳子)であるということは、昔からまことしやかに云われたことであったようです。曲亭馬琴は「世話質屋庫」のなかで、

『事のこころを推量するに、七十四第の帝、鳥羽院の、美福門院を寵(ちょう)させ給うのあまり、内外の事、みな後宮の進退によらせ給ひしかば、世の誹りも多く、人の恨みも深く知江、ついに保元の反乱ななりぬ。これらの事をいはんとて、近衛院の宮嬪(きゅうひん)、玉藻前といふ妖怪を作り設けしなり』

と書いています。美福門院が本当に皇室人事にどのくらい係わったかという史実は兎も角、貴族社会が没落して武家社会へ移行していくなかでの大混乱期を象徴する出来事として、三国を股にかけた妖婦・妖狐の説話が、如何にも「さもありなん」と江戸期の庶民に受け止められたということは、ありそうな気がします。このことが那須野の殺生石と結び付いていく奇縁は、もう想像するしかありません。

もうひとつ興味深いことは、天竺・唐土での九尾の狐は残虐非道の限りを尽くしますが、日本に渡って玉藻前に化けてしまうと、やることは鳥羽院を悩ませることくらいのもので、意外と大人しいことです。身体全体が光輝いたりの不思議は見せますが、妖狐があんまり怖くないのです。玉藻前は陰陽師安倍泰成に狐の正体を見破られて調伏されると、簡単に那須野に逃げ去ってしまって討ち取られてしまいます。これは日本の陰陽師がそのくらい強力で頼れる存在だったことを示しているのかも知れませんが、残虐で血生臭いことをあまり好まぬ日本人の淡泊な性格が表れてもいるのでしょう。

しかし、その一方、「蓼喰う虫」の淡路人形の話でも分かる通り、残虐なところを目いっぱい強調したエンタテイメント系の「玉藻前」も、幕末期の庶民に大いに人気であったことは事実であるので、日本人の性格が淡泊だと一概に決め付けられないと思いますが、今回(昭和55年12月国立劇場)の「玉藻前」通しを見ても、「玉三」以外の、妖狐に関する・いわば本筋のところは、「何だこんなものか」と拍子抜けしてしまうところがあります。歌舞伎の「玉藻前」上演が、時代を下るにつれて「玉三」ばかりになっていくのも、道理であるなあと思ったりします。今回上演では省かれていますが、序段(天竺)・二段目(唐土)を見せることの方が、もしかしたら「玉藻前」では、大事なことなのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R4・6・23)


3)歌右衛門の玉藻前

当月(昭和55年12月国立劇場)の公演筋書に「演出・補綴のことば」として戸部銀作氏が書いていることですが、「完成された上演台本には手を入れないと云う国立劇場の従来方針に従い」通し上演の補綴・演出を行なった」と云うことだそうです。「玉藻前・三段目・道春館」に関しては、カットや役者の仕勝手があるにせよ、曲りなりにも定形台本と云えるものが存在します。そこで今回は昭和44年9月歌舞伎座で歌右衛門が上演した時の台本をそのまま演じて、これに合わせて前後の幕の筋を通したと云うことです。

しかし、国立劇場開幕公演昭和41年11月公演「菅原伝授手習鑑」)筋書を見ると、「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針でおこなわれるか」という記事があって、そこに七つの方針が掲げられています。劇場創建に係った方々の理念・意気込みが伺われるます。七つの方針のポイントを記すと、1)原典を尊重した上演、2)通し狂言を心掛ける、 3)意欲的な復活狂言を試みる、4)演出を努めて観客に分かりやすいものにする、5)配役は適材適所を旨とする、6)役者の仕勝手を排除し演出を統一化する、7)伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした新作上演にも努めると云うようなものでした。開幕当初(数年ぐらい)の舞台からは、従来の仕勝手を修正して、原作者の意図を出来る限り忠実に再現しようとする姿勢が、台本にも・演出にもはっきり見えたものでした。

それが15年も経つと、志がいつの間にか曲げられて、従来演出の「玉三」の仕勝手はそのままに置いて・これに合わせて前後の筋の辻褄合わせをするのが、「補綴」だと云うことになってしまいました。平成・令和の昨今では、こう云うことがもう当たり前のことになっています。いわば仕勝手の上塗りみたいなものです。まあ彼らにも、「面白い芝居に出来なきゃ意味ないでしょ」という言い分があるのでしょうが、補綴が易い仕事になっちゃいましたね。

当時(昭和55年12月国立劇場)の「玉藻前」通し上演を生(なま)で見た吉之助の記憶を呼び覚ますと、「玉三」には歌右衛門の萩の方も含めて思い出される印象的なシーンが確かにありますが、その他の場面が、吉之助の記憶からまったく抜け落ちています。要するに「あまり面白くなかった」と云うことだと思います。今回舞台映像を見直してみると、なるほどすっかり忘れてしまったのも道理であるなあと思いました。大きな問題は、作品そのものにあります。「玉三」が九尾の狐説話の本筋たるところに深く絡んでいないからです。「玉三」は、双六の勝負で勝ち・また金藤次の犠牲で救われることになった初花姫が、玉藻前として参内することが決まったところで幕となります。その初花姫が九尾の狐に喰い殺されて、妖狐が玉藻前に入れ替わることになるのです。つまり通し全体から見ると、「玉三」は九尾の狐説話のほんの導入のエピソードに過ぎなかったわけです。

したがって「玉藻前」通し上演の目的を、徹底的に「玉三・道春館」を活かすところに置いて・そこから全体をデザインした方が良かった気がするのです。今回上演はカットされた萩の方が采女之助と今後のことを相談し・采女之助が桂姫に薄雲皇子の求愛を桂姫が受け入れるよう説得する場面も復活させれば、序幕(清水の場)での薄雲皇子の陰謀の件とも深く絡んで来るので、「玉三」のドラマが一層浮き彫りされるということになったと思います。薄雲皇子も蘇我入鹿みたいな重い印象の役に出来たのではないか。「玉三」台本再検討の良い機会になったであろうに、みすみす好機を逃すことになりました。参内した初花姫(松江)と妖狐(歌右衛門)が入れ替わる場面は、ここを淡路人形みたいに残酷に見せれば、遡って「玉三」が活きてくると思いますが、今回上演では何が起こったか俄かに分からないくらいアッサリしたものでした。これももったいない。

一方、「玉藻前」通し上演の目的をあくまで九尾の狐説話(殺生石)の本筋活かすところに置くとすると、芝居は趣向本位なものになり、ドラマ的に中途半端にならざるを得ないでしょうが、見どころはやはり大詰・那須野原殺生石の場での、「七化け」の踊りだと思います。妖狐が、夜鷹・座頭・雷・在所の娘・奴・いなせな男・女郎など、姿を七色に変化させて那須野原の民を惑わせる場面です。ここは淡路人形が早替りで賑やかに締めたところです。ここを変化舞踊で見せるならば、多分ここは澤瀉屋(三代目猿之助)の領分でしょう。ここを成駒屋(六代目歌右衛門)に任せるのは、さすがに無理があります。このため今回の殺生石の場では、歌右衛門は「七化け」以外の上臈という役で登場して、七役の方は通しに出演の七人の役者がそれぞれの役で分担して踊るように変えてありました。これでは出演者総出のカーテンコールに過ぎず、「七化け」でも何でもありません。妖狐の趣向が生きず、舞台を眺めながら「俺は一体何を見させられているのか」と考えてしまいました。

多くの役者が、「馴染みのないこの芝居を何とか・・らしくしよう」と思いながら・芝居のイメージが掴めないまま、まあこれならばスケールの大きい時代物の感じかなと当たりを付けたところで、「重々しく荘重に」勤めようとしている印象です。(本来ならば全員をひとつの方向へ導くのが演出の仕事であるはずなんですがねえ。)吉右衛門演じる薄雲皇子は、見た目の立派さはなかなかのものです。しかし、これは台本のせいなのだが、如何せん悪役としての裏打ちが足りないので、薄っぺらい印象が付き纏います。幸四郎が演じる安倍泰成も、清涼殿で歌右衛門の玉藻前(狐)と対峙して画になるところはさすがの貫禄ですが、祈祷による対決がドラマ的に大したことがないので、せっかくの幸四郎の大きさが活きて来ません。

そう云うなかにあって歌右衛門の玉藻前は、良くも悪くも「役を自分の方に引き寄せて」演じており、超然として歌右衛門です。何となく違うような気もするのだが、「ただならぬ妖しい存在」と云うところだけは、確実に押さえている玉藻前なのです。結局、歌右衛門のおかげで今回の「玉藻前」通し上演はどうにか持っている感じがするのです。まるで「七化け」になっていない大詰の景事ですが、それでも最後に歌右衛門が三段にあがって狐の面を外して決まると、何となく納得したような気分に陥るのだから、不思議なものですねえ。さすが歌右衛門と云うべきか、我ながらパブロフの犬みたいなものだなあと苦笑してしまいました。

(R4・6・26)


 


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