(TOP)     (戻る)

合邦と玉手〜六代目歌右衛門の玉手御前

昭和62年10月国立劇場:「摂州合邦辻〜合邦庵室」

六代目中村歌右衛門(玉手御前)、十三代目片岡仁左衛門(合邦道心)、七代目中村芝翫(俊徳丸)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(浅香姫)、五代目上村吉弥(合邦女房おとく)、三代目実川延若(奴入平)他

*比較参考:昭和57年(1982)9月歌舞伎座:「合邦庵室」


1)休演復帰直後の玉手御前

本稿で紹介するのは、昭和62年(1987)10月国立劇場での「摂州合邦辻〜合邦庵室」の映像で、玉手御前を演じるのは六代目歌右衛門です。ちなみに歌右衛門はこの後にも、2回玉手を演じており、平成元年(1989)5月歌舞伎座・同年12月京都南座で玉手を演じたのが最後となりました。云うまでもなく玉手は歌右衛門の芸を論じるための最重要の役のひとつに違いありませんが、歌右衛門の玉手を論じるのであれば、心技体のバランスを考えれば、恐らく昭和57年(1982)9月歌舞伎座での舞台映像を、歌右衛門の玉手の、ひとつの到達点とするのが適当であろうと思います。今回紹介する昭和62年10月国立劇場の玉手には歌右衛門に体力的な衰えが見えるので、その点は割り引いて見る必要があると思います。ただし、そこはさすがに歌右衛門、体力的な衰えがあっても・タダでは置かない。そこからなお新たな芸の境地が見えて来ます。

まず吉之助の思い出を記します。別稿「六代目歌右衛門の今日的意味」(これは歌右衛門死去の直後に書いた吉之助の最初期の評論のひとつでした)に詳細を書きましたが、昭和62年9月25日歌舞伎座での「九代目三津五郎襲名披露興行」・夜の部(千秋楽)での「喜撰」で、お梶を踊った歌右衛門が衣装の裾を踏んで転倒し、この時、左手首を骨折(軽いヒビが入ったということであったかと思われます)した事件がありました。たまたま当日客席に居合わせた吉之助は、この光景を目撃して大変なショックでした。このため確か翌日に歌右衛門は翌月の国立劇場公演を休演する旨の発表があって、初日(4日)から15日までを芝翫が初役で玉手を代演しましたが、歌右衛門は中日(16日)から舞台に復帰しました。つまり本稿で紹介する映像は、骨折休演から復帰した直後の歌右衛門の舞台映像と云うことです。20日で完治したとは思えないので、患部をテーピングしての復帰だったのではないかと思います。映像で見る限り歌右衛門の動きからは、そう云う目で見なければ不自由なところはあまり見えませんが、何となく元気がなさそうに思いました。吉之助はこの「庵室」の舞台を生(なま)で見ましたが、痛感したのは、歌右衛門らしいピーンと張り詰めた緊張感が弱かったことです。前月の転倒シーンが吉之助の脳裏に鮮明にあったせいもあって、歌右衛門がガクッと衰えたように感じられて、これから歌右衛門の最晩年期が始まるのだなあとしみじみ感じたことを思い出します。しかし、歌右衛門は内面的に一段と掘り下げた玉手御前を見せてくれたと思います。

全盛期の歌右衛門の玉手御前と云うと、妖艶さと云うか・俊徳丸に対する邪恋の凄まじさが特徴的なものであったと思います。前述・昭和57年9月歌舞伎座での玉手が、まさにそのような玉手でした。一方、今回(昭和62年10月国立劇場)の玉手では、そのような強烈な印象が奥に引っ込んだ感がします。この点では、衰えを感じさせるところは確かにあります。その代わり、以前にはその強烈な印象の影で隠されて観客によく見えなかった玉手の性根(つまり歌右衛門の役作りの勘所)が浮かび上がることになったのです。恐らく手順(型)としては歌右衛門に変える所はなかったと思います。しかし、受ける印象はかなり違ったものとなりました。それは父親(合邦道心)の存在をより強く意識した玉手に見えたと云うことです。父親にわざと殺されに行こう(自ら罰せられよう)とする玉手であったと云うことです。

玉手の邪恋の「荒れ」の目的は、ただひとつ。それは父親を怒り心頭にして、刀で自分を刺すように仕向けるためでした。このために玉手はわざと淫らな・不道徳なことを言って父親を怒らせるのです。なぜならば玉手は合邦道心の娘であるからです。不道徳に見えた玉手の行動は、清廉潔白な父親に育てられた玉手の、貞女としての計算された行動でした。この真意を玉手が一番分かって欲しかったのは、父親である合邦道心です。「モドリ」が偽りのポーズを脱ぎ捨て本心を吐露し始める時、その告白は、彼(彼女)がそれを最も聞いて欲しい人に向けてなされるものです。その告白は「お前の本心はそこにあったのか、そうか分ったぞ」と納得して欲しい一番大事な人に対してなされるのです。それが「モドリ」のドラマなのです。このことは例えば「寺子屋」を考えればお分かりいただけるでしょう。

それにしても、このような「合邦庵室」のモドリの構図が、今回(昭和62年10月国立劇場)の玉手ほどに明確に現れた舞台は少ないかも知れませんねえ。俊徳丸に対する思いと云うことならば(それが真の恋かどうかということは今は置きますが)、どの玉手役者もよく心得ていると思います。しかし、父親に対する思いが、この歌右衛門の玉手ほど強く出たものは他になかったように思うのです。思うに、歌右衛門の玉手の性根はこれまでもそこ(父親への思い)にあったに違いないのですが、我々はこれまで歌右衛門の玉手の邪恋のあまりの凄まじさに幻惑されて・それがクリアに見えていなかったと思うのです。ところが今回の歌右衛門の玉手では、邪恋の強烈な印象が和らいだおかげで、歌右衛門本来の意図が素直に浮かび上がって見えたと云うことなのでしょう。ここでは十三代目仁左衛門の合邦が気合いがこもった「受け」で、玉手の思いに見事に応えました。今回の舞台の成功は、仁左衛門の合邦無しではあり得なかったと思いますねえ。(この稿つづく)

(R4・2・25)


2)晩年の歌右衛門の玉手

玉手御前は、倫理観がとても強い女性です。「貞女というものはこうあるべき」という観念がとても強いのです。何故かと云えば、それは清廉潔白・謹厳実直な父親(合邦道心)に育てられたからです。そこに玉手のアイデンティティーがあるのです。ですから玉手は邪恋の振る舞いが実は嘘で・それは計算された行動であったことを「出かしたよくやった」と父親に認めてもらわなければ玉手は死ぬに死ねません。「モドリ」はそのために行なわれるのです。言い換えれば、邪恋の振る舞いは玉手に本来最も相応しくないものですから、それを行なうことは・玉手にとってとても辛く苦しいことだと云うことです。

このことが今回(昭和62年10月国立劇場)の歌右衛門の玉手であると、実によく分ります。これよりひとつ前の歌右衛門の所演(昭和57年9月歌舞伎座)であると、妖艶さと云うか・俊徳丸に対する邪恋の印象があまりに強烈であり・そのインモラルな要素が今日的で魅惑的であったために、それが貞女の玉手にとって辛く苦しい行為であることが、我々の目に感知され難かったかも知れませんねえ。しかし、今回(昭和62年)の玉手であると、このことが歌右衛門の玉手の表情の端々に表れます。どこか思い詰めた・生の暗い深淵を見るかのような表情を歌右衛門は見せるのです。

〽しんしんたる夜の道、恋の道には暗からねども、気は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ人目をも、忍びかねたる頬かむり・・

まず揚幕から登場して花道を行く場面ですが、ここは玉手の性根を見せる大事の箇所ですが、暗く・孤独の歩みを進める玉手の姿にハッとさせられます。玉手は、世間を敵に回して、一切の同情を誰からも受けない孤独の身です。玉手が親元である庵室にやって来るのは、そこに俊徳丸がいると云う当てでもあるのか・それとも親に最後の縁(よすが)を求めるのか・それは分かりませんが、兎に角まるで引き寄せられるかの如くに玉手は庵室に現れます。

ここを暗い表情で出るのは「モドリ」の底を割ることにならないかと云う批判も出て来そうです。普通だとそうかも知れないと思います。しかし、晩年の歌右衛門で見ると、いろいろと試行錯誤した後での「この結論」と云う感じがします。だからここは重く受け止めたいと思います。玉手は世間からは蔑みの目で見られ、親元にもどっても・親が得心するはずもないことです。自分が貞女であることを貫くために・納得して行なった邪恋の振る舞いではあるが、玉手には辛さ苦しさが身を苛(さいな)むようです。〽しんしんたる夜の道、恋の道には暗からねども・・という竹本の詞章には、本心を胸に秘めつつ・それを決して誰にも明かしてはならぬ・あくまで邪恋の偽りを崩してはならぬと云う、玉手の寂しい胸中が描かれているのでしょう。ここまで描けるのは、晩年の歌右衛門ならではと云う気がします。

そのような玉手であるとすれば、邪恋の振る舞いも、「決心して」・この身を奮い立たせるかのように「辛い気持ちを振り払うかのように」行なわれなければならないことになると思います。例えば母親に内にいれてもらって・「嬉しや健でゐたかいの」と抱きしめられる辺りで、歌右衛門の玉手は疲れ切った表情を見せますが、「不義ぢゃのと悪う云へど、そなたに限りよもや/\さう云ふことはあるまいの、コリャアノ嘘であろ嘘であろ」と母親が言って、ホラ後ろで父さんが聞いているからと指さして「嘘だ」という返事を求めているのに、これをきっかけに「待ってました」とでも云うように玉手の表情がにわかに変化します。

「母様のお詞なれどいかなる過去の因縁やら、俊徳様の御事は寝た間も忘れず恋ひ焦れ、思ひ余って打ちつけに、云うても親子の道を立て、つれない返事堅いほどなほいやまさる恋の淵・・」

歌右衛門の玉手を見ると、その台詞が後ろにいる父親(合邦)に向けて発せられていることが明らかです。それはわざと父親を怒らせるために発せられています。父親を怒らせて自分を刀で刺すように仕向けるためです。

父親が「ヤイ畜生め、おのれにはまだ話さねど、もとおれが親は青砥左衛門藤綱というてナ、鎌倉の最明寺時頼公の見出しに合うて天下の政道を預り、武士の鑑と云はれた人ぢゃわい・・」と長々説経を始める場面でも、そうです。玉手は最初は父親の説経を無視するかのように、あっちを身いて衣装を畳んだりします(これはいつもの歌舞伎の型です)が、歌右衛門の玉手では、父親の言うことを逐一聞いていることが次第に表情に表れて来ます。最後には俯いて父親の説経を心で受け止めるかの表情に変わります。ところが説経するうちに頭に血がおぼってきた父親が「サ覚悟せい、ぶち放す」と怒り始めると、ここでまた「待ってました」と云うかのように玉手の表情がにわかに変化します。貞女がその身に相応しくない邪恋の振る舞いをする為には相当な決心が要るのです。玉手はこの身を奮い立たせるかのように力を入れて、

「エゝわっけない事云はしゃんすな、わしゃ尼になること嫌ぢゃ/\、アイ嫌でござんす、モせっかく艶よう梳き込んだこの髪が、どう酷たらしう剃られるもの、今までの屋敷風はもう置いて、これからは色町風随分派手に身を持って、俊徳様に逢うたらば、あっちからも惚れて貰ふ気、怪我にも仮りにも尼の、坊主のと云ひ出しても下さんすな」

と狂い始めます。ここでもそれがわざと父親を怒らせるために発せられていることが明らかなのです。しかもその文句が、倫理道徳が厳しい江戸期にこんな台詞を書くかと思うほどに凄まじい。これで怒らぬ父親があるかと思うところですが、母親の必死のとりなしで・兎も角も合邦は奥へ引っ込みます。

中盤・俊徳丸と浅香姫が登場し・これに玉手が絡んで立ち廻りとなりますが、歌右衛門の玉手は邪恋の狂いの振る舞いをする最中にも、暖簾口の奥に気を向けているのが、明らかです。つまり父親はいつ怒って飛び出して来るか、いつ刀を振り上げて自分を刺しに来るか、これでも来ないか、これでも怒らないか・・・という感じなのです。ついに合邦が飛び出して玉手を刺します。・・玉手が待ち望んだ時が遂に来たのです。

「モドリ」の構造からすれば・その時が来るまで本心は明かしてはならぬということになるので、邪恋のポーズを取る間は・その演技に徹するのが、歌舞伎のお約束です。しかし、今回の歌右衛門の玉手は、邪恋のポーズを取ることの「辛さ・苦しさ」を前面に押し出して・全体としては耐える印象が強くなったものの、勘所では演技の起伏が大きくなりました。歌右衛門の玉手がそのような印象へと変化したのは、前述の通り、往時の歌右衛門の俊徳丸に対する邪恋の妖艶さが後退したせいです。これを晩年の歌右衛門の体力的な衰えのせいだと決め付けるのは早計ですが、決して無関係ではなかろうと思います。それにしても、さすがに歌右衛門は、芸の算段をきっちり付けて見せてくれました。(この稿つづく)

(R4・2・28)


3)仁左衛門の合邦・芝翫の俊徳

「役者は役と同化すべきかどうか」は、難しい問題です。まあ付かず離れずというところが落し所でしょうが、歌右衛門がこんなことを語っています。

玉手御前は後妻に入った家のお家騒動で、継子のどちらにも義理立てしてわが身を犠牲にするんだけど、十九や二十という若さなのに、五十くらいの女じゃないと分からない心を持っていますからね。ああいうところが歌舞伎なんだね。両方の継子の間に入って・・・驚いちゃうわね、あたしなんかいやだいやだ、まっぴらだわよ。役に合体してるわけじゃないもの。役者にも本心があるでしょう。玉手は気の毒よ。」(中村歌右衛門談話〜関容子:「歌右衛門合せ鏡」(文芸春秋))

この談話を読むと、玉手にとって邪恋の行動を取ることがどれほど辛く苦しいことかと云うことを、晩年の歌右衛門が深く感じていることが分って、興味深いものがあります。今回(昭和62年10月国立劇場)の玉手の映像は、そんな歌右衛門の役作りが反映しているのではないでしょうか。振り返って・それ以前の、例えば昭和57年9月歌舞伎座での舞台映像を見直してみると、確かに邪恋のポーズは妖しく凄まじいのですが、その裏付けにある歌右衛門の玉手の性根がこう云うものだと分って来ると、この玉手もかなり違って見えて来るようです。辛い忍従の裏返しとして、玉手は禁断の輝きを一層増すと云うことなのです。それは貫徹せねばならぬことだからです。そこに玉手のバロック的な要素があるのです。

ところで、今回のような、邪恋の行動を取ることの辛さ・苦しさを前面に押し出した玉手であると、対する父親合邦の方も、玉手の行動に対する怒り・非難をより強く押し出さねばなりません。それでこそ玉手の「忍従」の苦しみが際立つことになるわけです。この点において、今回の十三代目仁左衛門の合邦は気合いが入って、ホントに素晴らしい。

仁左衛門の合邦の良い点は、さすが義太夫の素養がある人だけに、息の詰み方が他とは段違いに優れていると感じることです。例えば「もとより娘は斬られて死んだ」の台詞を、「もとより娘は●」でぐっと息を詰め、「斬られて死んだ」を鋭く言い切る言い回しなどは、まこと本行の息です。このような、台詞に聞き入る観客をハッと思わせる鋭い気合いが随所に現れます。これで合邦は玉手を追い込んで行くのです。しかし、結果から見ると、合邦は怒りに我を忘れて娘を刺さねばならぬところに自らを追い込んでいたのです。後になって、合邦はこのことに気が付きます。だからこそ、すべてが明らかとなって、玉手が「父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ」と言った時、合邦が後悔の念で「オイヤイ/\/\/\」と泣き叫ぶことの悲愴感がますます強くなるのです。仁左衛門の合邦はその「オイヤイ・・」の箇所も哀切で、とても素晴らしい。まさに「この父にしてこの娘あり」と言えるような芝居になりました。同様にこの仁左衛門の合邦あってこそ・この歌右衛門の玉手があるとも言えます。この合邦は、菅丞相と並んで晩年の仁左衛門の二大名品とすべきものではないかと思いますねえ。

ところで今回の「庵室」は、もしかしたら歌右衛門の最後の玉手になるかも知れないということもあって、万全の布陣が敷かれた感があります。奴入平に延若なんてもったいないくらいです。吉弥のおとくも良いですが、特に芝翫の俊徳丸がまことに素晴らしい出来です。俊徳が登場すると、たとえ病いの哀れな身であっても、そこに清涼な風が吹く心地がします。玉手の犠牲によって俊徳の面相が回復すると、こうして世界は在るべき姿に戻された・そのことの日想観の奇蹟の有難さを素直に信じられる気分になります。玉手と合邦とで展開されてきたドロドロしたバロック絵巻が、俊徳によって見事に古典的な清らかな感覚へと収束されてることになります。この芝翫の俊徳は忘れ難い。こう云う所は、まことに歌舞伎の不思議なところだと思いますねえ。

(R4・2・28)



  (TOP)     (戻る)