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二代目白鸚の「時平の七笑」

令和3年10月歌舞伎座:「天満宮菜種御供〜時平の七笑」

二代目松本白鸚(左大臣藤原時平)、五代目中村歌六(右大臣菅原道真)他


「天満宮菜種御供」(てんまんぐうなたねのごくう)は、安永6年(1777)3月大坂角の芝居での初演。この二幕目(内裏記録所)が「時平の七笑」として今に残ります。作者は並木五瓶で、本作は五瓶が30歳の時の大坂時代の作ですが、後に五瓶は江戸に移り上方劇の写実を江戸歌舞伎に移植し、これが文化文政期に花開いて鶴屋南北の生世話を生むことになります。五瓶の・この演劇史的位置を押さえておきたいと思います。

本作は、近松門左衛門の「天神記」・竹田出雲他の「菅原伝授手習鑑」を下敷きにしています。だから歴史劇ではないわけですが、この場は完全な台詞劇になっており、芝居の雰囲気としては実録風に進みます。芝居が淡々として写実(リアル)なのです。例えば「菅原・車引」では藤原時平は隈取で登場し、見ただけで大悪人だと分かる仰々しい造りですが、わざとそこをしないところが五瓶なのです。本作での時平は最後の最後まで流罪となる菅原道真に同情して・善人のふりを続けて、舞台上にただ一人になった時に至って「道真はいかい阿呆じゃ、ハハハ・・」と笑い出す、この意表を突いたところが本作の最大の趣向です。明治に入って福地桜痴が本作を活歴仕立てにして「時平公七笑」という芝居を書いた(明治30年11月歌舞伎座、時平を演じたのはもちろん九代目団十郎、ただし評判芳しからず)のも、元はと云えば本作に実録風な要素があるからに違いありません。

今回上演(令和3年10月歌舞伎座)の「時平の七笑」(今井豊茂脚本)では、道真の流罪が決まったところで気分が悪くなって奥に引っ込む(原作では時平は最後まで舞台に残る)、他の者たちがいなくなったところで時平は中国の使者天蘭敬を刺し殺し(原作では金を与えて立ち退かせる)、姿を顕わした時平は青の筋隈の化粧で・衣装がぶっかえって七笑いとなります(原作では最後まで白面で公家装束のままです)。さらに今回は時平の登場から原作にない竹本仕立てとなっています。筋書の談話を読む限りでは、これらの改訂は、どうやら白鸚の発案のようですねえ。まあいつもの芝居の常識からすると、時平=天下を狙う大悪人の、いつもの歌舞伎の図式に乗るわけだから、お客も芝居が分かりやすくなるし、役者も演じやすいと云うことでしょうかね。それにしてもホントに可哀そうな五瓶・・・みんな良かれと思って・寄ってたかって・こんな風に変えちゃうわけです。これでは作者の意図は台無しです。

と云うわけで原典主義者の吉之助からすると口アングリでしたけれど、これで「時平の七笑」が面白くなったと云う方がいらっしゃるならば、まあそれはそれでよろしかったのかも知れませんねえ。二代目松緑が半通しで「天満宮菜種御供」の時平を演じた時(昭和57年4月国立小劇場)に、確か「芝居が薄味だ」という劇評が出たと思います。何と較べて薄味だと云うのか分かりませんが、五瓶の芝居というのは、そう云うものなのです。いつものカブキらしい・こってりした濃い味に慣れてしまっているから、五瓶の芝居を薄味に感じてしまうのです。これを薄味に感じてしまうから、今回みたいに醤油やラー油をぶち込みたくなるわけです。それでホントに良いのでしょうか。

本作の延長線上に、後年の名作「五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ・初演寛政7年・1795)があり、更に文化文政期の南北の生世話が続く・・と考えるならば、そもそも我々が現状これで良いと思い込んでいる「東海道四谷怪談」の舞台の感触だってホントにこれで良いのだろうか、これでホントに生世話の感触になっているんだろうかと云う疑問に思い至らねばなりません。滅多にやらない芝居をやる時は、新鮮な気持ちに返って、そう云うことを考える良いチャンスなのですけどねえ。せっかくのチャンスなのに、いつも俺たちはこんな風にしてやってきたという・いわゆる「歌舞伎らしさ」だけでやっていたら、歌舞伎が持っている膨大な財産は、我々に何も教えてくれないのではありませんか。白鸚の時平はさすがの大きさを見せているし、最後の七笑いもなかなかの見ものではありますが、その辺が何ともねえ・・・。

(R3・11・29)



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