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代目獅童のおっさん狐忠信

令和2年11月歌舞伎座:「義経千本桜〜川連法眼館」

代目中村獅童(佐藤忠信・源九郎忠信・二役)、八代目市川染五郎(源義経)、初代中村莟玉(静御前)


代目獅童が狐忠信(源九郎狐)を演じるのは、平成15年(2003)1月浅草公会堂以来17年ぶりだそうですが、吉之助は初めて見ました。何だかもっさりと動きが鈍くて・不器用そうな狐忠信であるので、ちょっと驚きました。義太夫狂言の修練不足という言葉がすぐ浮かんで来ます。「これは困ったな・・」とは思いましたが、一生懸命やっていることはよく分かります。何と云ったら良いかな、いつもの狐忠信であると大体「子狐」のイメージが浮かんで来るものです。平成25年10月歌舞伎座での菊五郎71歳の狐忠信でも、所作は危なっかしいところがあったにせよ、子狐の可愛らしさがよく出ていたのは、さすがでした。ところが獅童の狐忠信は「子狐」ではなくて、「成獣」の感触がするのですねえ。しかも、もっさりと動きが野暮ったいせいか、どこか中年おっさん狐の匂いがするのです。いろんな狐忠信を見てきましたが、成獣臭い狐忠信ということが脳裏に浮かんだのは、獅童が初めてのような気がします。そこがとても興味深いと思いました。イヤ揶揄しているのではありません。吉之助は貶しているのか・褒め殺しにするつもりかと思われそうですが、不器用ながら獅童が一生懸命やっていたからそう見えたのかも知れないと思うのです。

そこで話しを中年おっさんの狐忠信に移しますが、まあ初音の鼓の「親」との関係から見れば、確かに狐忠信は「子」ではあるのです。しかし、川連法眼館での告白を聞くと、狐忠信は「子狐」ではなく、随分歳を取っているようです。

『桓武天皇の御宇(ぎょう)、内裏(だいり)に雨乞ひありし時、この大和国に千年功ふる雌狐(めぎつね)雄狐(おぎつね)。二疋の狐を狩り出だし、その狐の生皮を以て拵へたるその鼓。(中略)その鼓は私が親、私めはその鼓の子でござります』

初音の鼓が出来た年ははっきりしませんが、桓武天皇の京都遷都は延暦13年(794)のこと。源義経が兄頼朝に疎まれて、京都を落ちて吉野に逃れたのは、文治元年(1185)のことでした。このことからすれば、狐忠信の年齢は、若く見積もってもどうやら400歳くらいなのです。これだともう子狐ではありません。立派なおっさん狐なのです。しかも丸本を読めば、狐忠信には何と妻子がいるのです。歌舞伎ではカットされますが、丸本を見ると、狐忠信の台詞「親父様母様、私はもふお暇申しまする。とは言ひながら、お名残り惜しかるまいか」と「まだせめてもの思ひ出に、大将の給はつたる源九郎をわが名にして、末世末代呼ばるゝとも、この悲しさはなんとせん」との間に、かなり長い台詞があります。それは、

『二親(ふたおや)に別れた折(注:初音の鼓が出来た後ということ)は何にも知らず、一日々々経つにつけ、暫くもお傍にゐたい、産みの恩が送りたいと、思ひ暮らし泣き明し、焦れた月日は四百年。雨乞い故に殺されしと、思へば照る日がエヽ恨めしく、曇らぬ雨はわが涙、願ひ叶ふが嬉しさに、年月馴れし妻狐。中に設けしわが子狐、不憫さ余つて幾度か、引かるゝ心を胴慾に、荒野(あれの)に捨てゝ出でながら、アヽ飢へはせぬか、凍へはせぬか、もし猟人に取られはせぬか、わが親を慕ふ程、わが子も丁度この様に、われを慕はふかと、案じ過しがせらるゝは、切つても切れぬ輪廻の絆(きずな)、愛着(あいじゃく)の鎖(くさり)に繋ぎ止められて、肉も骨身も砕くる程、悲しい妻子(つまこ)を振り捨てゝ、去年の春から付き添ふて、丸一年たつやたゝず。』

というものです。歌舞伎の「四の切(川連館)」を見ると、「親」である初音の鼓を慕う「子狐」の狐忠信の関係で、親子の情愛の大切さが「四の切」の重要な主題であると感じると思います。それはそれで十分納得できるものです。現行文楽の舞台は多分に歌舞伎の影響を受けているせいがありますが、文楽の「川連館」を見てもそのように感じると思います。

しかし、丸本をよく読むと、もうちょっと異なる見方が出来るかも知れません。もう少し暗い・陰惨な影が差す気がします。狐忠信は、別れを悲しむ妻子を振り捨て・静御前に同道し・この吉野の地に来ているわけです。と云うことは、初音の鼓に対しては親子・親子と云うけれども、自分の妻子に対しては、狐忠信は不義理しているということなのです。そうすると狐忠信が妻子を捨て・初音の鼓を追って今この吉野の地に在るのは、もちろん親への孝行・情愛という理由があろうけれども、別箇にもっと切実な内的欲求が狐忠信のなかにあることが推察されるのです。そこで狐忠信の台詞を見てみると、

『(内裏にある初音の鼓に近づくことが出来ず)頼みの綱も切れ果てしは、前世に誰を罪せしぞ。人のために怨(あだ)する者、狐と生れ来るといふ因果の経文恨めしく、日に三度夜に三度、五臓を絞る血の涙、火焔と見ゆる狐火は胸を焦する炎ぞや。(中略)忠信になり変り、静様の御難儀を救ひました褒美とあつて、勿体なや畜生に、清和天皇の後胤源九郎義経といふ御姓名を給はりしは、そら恐ろしき身の冥加。これといふもわが親に孝行が尽くしたい、親大事、親大事と思ひ込んだ心が届き、大将の御名を下されしは人間の果(か)を請けたも同然、いよ/\親が大切、片時(へんし)も離れず付き添ふ鼓。』

とあります。狐となって生まれた我が身は、恐らく前世に人を殺めたに違いない。因果の業(ごう)が空恐ろしい。だから罪滅ぼしの為、わが親(初音の鼓)に孝行が尽くしたい。親大事、親大事と、狐忠信はそう思い込んでいるのです。現在の妻子に辛い悲しい思いをさせねばならないのも、我が身の因果、我が身の業(ごう)ゆえと狐忠信は思うのです。しかし、本物の忠信に成り替わり静御前を救ったことで義経から「源九郎」の名を戴いて、自分も少しは人間に近づけたであろうか、有難いことだ。だからこそ尚更わが親(初音の鼓)に孝行が尽くしたい。そこに狐忠信の悲痛な叫びがあるのです。(そこに狐に擬された被差別民(遊芸民)の哀しみが重ねられているとも考えられますが、これは「葛の葉」なども関連させて考えねばならないことです。話が壮大になり過ぎるので、本稿ではその話は置くことにします。)

ここで翻って狐忠信に感じ入って初音の鼓を与える源義経のことも考えてみなければなりません。義経はこう言っています。

「オヽ、われとても生類(しょうるい)の、恩愛の節義(せつぎ)身にせまる。一日の孝もなき父義朝を長田(おさだ)に討たれ、日蔭鞍馬に成長(ひととなり)、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業(ごう)、われも業。そもいつの世の宿酬(しゅくしゅう)にて、かゝる業因(ごういん)なりけるぞ」

幼い時に父を亡くし苦労を重ねたのも、我が身の前世の業(ごう)であったのかも知れぬ。せめては兄の頼朝の為にと平家追討に力を尽くしてはみたが、これも修羅の道を重ねる罪深いことであった。二段目の知盛の入水、三段目の維盛の出家も、そのような業(ごう)の有様を見せるものでした。義経は今また兄に疎まれて、都を落ち吉野に隠れ、我が身が宿業の深みにはまっていくことを痛感せざるを得ません。義経は狐忠信の歎きにわが身を重ねているのです。つまり「川連館」のなかで、義経と狐忠信はこの世に生まれ等しく宿業を背負った存在として並列できるということです。

こうなると初音の鼓を戴くことは狐忠信にとって「祝福」ですが、義経の側から見たところの初音の鼓を捨てることの意味もよく考えなければならぬと思います。これは義経が狐忠信に同情したから鼓を与えたという次元をはるかに超えたもので、自らの身体を縛り付けた宿業から義経が解き放たれるという意味を持つものに違いありません。つまり義経にとっても、このことは「もののあはれ」を知るという意味において「祝福」なのです。(別稿「義経と初音の鼓」を参照ください。ちなみに吉之助は、これをワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」でラインの黄金がラインの乙女から奪われて様々な人物の手に渡っていくなかで、最終的に元のラインの乙女の手に戻されるのと同様の円環のイメージで考えています。)

義経が狐忠信に初音の鼓を与えることにはそのような重い意味があるわけですが、浄瑠璃作者はこれをメルヒェンのオブラートに包んで軽やかに仕立てて、これを決して重い感触にしていません。「川連館」は、歌舞伎では「四の切」と通称されますが、あくまで四段目の端場であって切場ではありません。そこがとても大事なことになるのです。「川連館」を意図的に軽いタッチに仕立て、「千本桜」からするとその後の・未来のことになる義経の奥州への逃避行・平泉衣川での寂しい最後(江戸の観客は「義経記」でみんな義経の最後を御存知でした)へ筋をさりげなく渡しています。「川連館」での義経の決断を踏まえるならば、平泉衣川での義経の死は、決して辛く悲しい最後ではないのです。義経はもうとっくの昔に歴史の舞台から下りることを決めている。運命が定めた役割を淡々とこなすが如く死出の段取りを進めるように見えて来ます。「もののあはれ」を知る義経のイメージは、後年の「勧進帳」での義経の菩薩のイメージへ向けてスンナリ繋がるもので、違和感が全然ありません。つまり浄瑠璃作者は「千本桜」を日本芸能の義経物の系譜に正しく位置付けているのです。

獅童のおっさん狐忠信を取っ掛かりに、狐忠信と初音の鼓の意味を長々考察しましたが、これは吉之助の性分でしてねえ。このような重いことをチラッと頭の片隅に置きつつ、ただ一時のメルヒェンの世界に軽やかに遊ぶことで、「川連館」は正しい感触になっていくのです。つまり「千本桜」の重さのなかに軽さで切り込み、物語をバロック的に解体するのが狐忠信の役目であると吉之助は考えています。その意味において狐忠信は軽めの感触でなければならないことになります。

獅童の狐忠信は、吉之助にいろんなことを考えさせてくれました。それにしても獅童ももう48歳か・・。「型は熱いハートで演じればそれで良い」という段階は、もうそろそろ卒業して欲しいところです。もちろんハートは大事ですが、まず型をしっかり決めて・そのなかにハートを注入するのが、やはり伝統芸能の在り方でしょう。獅童の忠信二役がおっさんの感触になるのは仁(ニン)と云うべきで・興味深いものがありますが、まだ演技の段取りに追われる感じがしますねえ。時代物のいわゆる「重々しさ」と演技の「重ったるさ」とを混同している気がします。総体に演技が重ったるい方向へ崩れる感じで、しゃきっとした印象がしません。これでは義太夫狂言では上手くいかないことになります。先に「狐忠信は軽めの感触でなければならない」と書きましたが、必ずしも動きの身軽さのことを言うのではありません。冒頭に触れた通り、菊五郎71歳の狐忠信は動きがゆっくりであっても感触は軽やかでした。勘所はそこだと思いますがね。染五郎の義経は台詞が棒読みで物足りない。15歳というのは年齢的に役者として中途半端で難しい時期ではあるのですが、まだ肚が足りないように見えます。まあ義経というのは、難しい役ではあります。莟玉の静御前はなかなか可愛いですねえ。新鮮な感覚があって、この場に良い彩(いろどり)を添えてくれました。

(R2・12・4)



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