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かさねとは八重撫子の名成べし〜盆狂言としての「かさね」

令和2年9月歌舞伎座:「色彩間苅豆(かさね)」

十代目松本幸四郎(与右衛門)、四代目市川猿之助(かさね)


1)かさねとは八重撫子の名成べし

「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」(通称:かさね)は、文政6年(1823)6月江戸森田座の四代目鶴屋南北作「法懸松成田利剣(けさがけまつなりたのりけん)」の二番目序幕から独立したものです。清元の作詞は松井幸三、作曲初代清元斎兵衛ですが、芝居全体の流れとしては当然南北が仕切っていますから、これもいわゆる南北物です。南北と云えば「四谷怪談」を思い出すように、「かさね」もまた怪談話です。ところで盆狂言とは6・7月にかけて行われる歌舞伎興行のことを指しました。これが好評ならば興行は8月まで続くことになり、本来はこれを盆狂言と呼ぶべきかも知れませんが、6・7月興行のことも盆狂言と称したのです。盆狂言に怪談物あるいは仇討ち物が多いのは、盂蘭盆会(うらぼんえ)に先祖の霊が帰って来るとされていたからでした。各家は盆棚を作ったり、迎え火を焚いたりして先祖の霊を迎えました。初期の江戸は大都市とは云え、その生活感覚は質的に田舎とそう大差があったわけではなく、歌舞伎の盆狂言もまた盂蘭盆会の意味合いを帯びていました。お盆には先祖の霊だけでなく、祀る人が絶えた無縁仏や、恨みを抱いて死んで成仏できない霊もやって来ますから、歌舞伎の盆狂言でも、浮かばれない霊の苦しみを描いてその成仏を願いました。だから盆狂言とは「鎮魂の芸能」なのです。お化け芝居を見ると怖くてゾーッとして寒気を感じるから怪談物が夏狂言(=盆狂言)になったと云うのは、間違いです。清元「色彩間苅豆」の最後の詞章を見てみると、

「情容赦も夏の霜、消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべしと、後に伝えし物語、恐ろしかりける。

とあります。かさねの怨霊から逃れようとする与右衛門が連理引きで何度も引き戻されて、「ハテ恐ろしい執念じゃなア」と呻く幕切れになります。なるほど詞章にある通り、「恐ろしかりける」光景です。しかし、この詞章から女の執念の恐ろしさ・女の業(ごう)のおぞましさばかりを感じ取るのではなく(まあそれも大事な事に違いないですが)、「色彩間苅豆」が盆狂言であることをちょっと思い出してもらいたいのです。盆狂言とは、浮かばれない霊の苦しみを描いてその成仏を願うものです。そうであるならば、「色彩間苅豆」にもかさねに対する供養の気持ちを幕切れに見出したいと思うのです。舞台を見ると「恐ろしかりける」ばかりが目に付くようですが、そのような鎮魂の要素を、この清元の最後の詞章から感じ取ることが出来るでしょうか。

このことは「消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべし」という清元の詞章を見れば分かります。この詞章は、実は「奥のほそ道」のなかの或る句から引いたものです。ただし芭蕉の句ではなく、弟子の曾良の句ですがね。

そこで当該の「奥のほそ道」(那須)の項を参照します。それは元禄2年(1690)4月2・3日(旧暦)のことでした。日光を訪ねた後、現在の栃木県那須郡黒羽町に住む友人を訪ねようと芭蕉一行は那須野の歩みを進めます。一軒の農家に一夜を借りましたが、そこから先の道筋がよく分からない。すると親切な農夫が「この馬に乗ってトコトコ行けば、馬が道を知っているから自然に連れてってくれるよ。馬が止まったところで下りて馬を放てば、馬は自分でここに帰って来る」と云って野飼いの馬を貸してくれたので、有難く芭蕉一行は馬に乗って道を行きます。すると子供が二人やってきて馬の後を追って戯れます。一人は女の子で名前を聞けば「かさね」だと云う。

ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独(ひとり)は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、
かさねとは八重撫子の名成べし   曾良

「色彩間苅豆」の詞章末尾「消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべし」は、この「奥のほそ道」(那須)から引いたものでした。ちなみに上記の逸話は、芭蕉に同行した曾良の随行日記に記載が一切なくて、曾良関係の資料にはこの句が見当たらないそうです。それでこの逸話は芭蕉の創り話ではないかと疑う学者もいるそうですが、ツマラぬことを考える人もいるものですね。素直にホントのことだと受け入れればいいことじゃないですかねえ。これは曾良自身は大した出来じゃないと思って捨ててしまった句を、師匠が優しい眼差しで拾い上げたと云うことに違いありません。

そこで「かさねとは八重撫子の名成(なる)べし」と云う句の意味を考えてみます。日光を過ぎて芭蕉一行は那須野を行きます。もう目指す奥羽(奥のほそ道)の入り口にまで差し掛かっています。芭蕉一行の前途を祝福するかのように童子(神の使い)がふたり現れて戯れます。芭蕉の愉し気な旅の気分が伝わって来るようです。女の子の名を尋ねると「かさね」だと云うそうな。かさね・・?聞きなれぬ名前だが・・・。ここで曾良のなかに「かさね」→「重ね」→「八重」→「八倍」という連想が浮かびました。可愛い女の子ならば撫子だ、そうか「かさね」っていうのは、とってもとっても可愛い女の子の名前なのだねえ。これが「かさねとは八重撫子の名成べし」の意味です。とても素敵な句ではないでしょうか。

ところが後世の芭蕉研究書を見ると、この句を怪談話の「かさね」に結び付けるものが出てきます。江戸中期の芭蕉研究家・簑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)(正徳4年・1714〜天明3年・1783)の「奥細道菅薦抄」(おくのほそみちすがごもしょう)(安永7年・1778出版)では、上掲句に

「按ずるに、世に云う、祐天上人の化度(けど)有し、鬼怒川の与右衛門が妻、かさねと云いしは、或は此小姫の成長したる後か」

という注釈が付いています。化度とは「教化済度」の略。祐天上人の霊験譚のことです。最初に申しておきますが、この注釈は正しくありません。那須野の「かさね」ちゃんが後にお化けの「かさね」になったなんてことは、有り得ないのです。しかし、吉之助がここで云いたいのは、簑笠庵梨一が間違いを書いたということではありません。「奥細道菅薦抄」は現在でも「奥のほそ道」読解のためにまず最初に参照すべき書とされています。江戸中期の人々にとって、「かさね」と云う名前を聞けば、まず最初に思い浮かべたのはお化けの「かさね」のことだったということです。そこが大事なポイントです。芝居や読み本を通じて当時の民衆には、かさねの怪談話があまねく知れ渡っていました。だから「奥のほそ道」の曾良の句の読み方も、お化けの「かさね」のイメージに知らず知らず影響されてしまったと云うことなのです。

おくのほそ道: 付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄 (岩波文庫)

まず元禄2年(1690)当時の芭蕉も・曾良も、「かさね」の怪談話は知らなかったということを検証しておきます。「かさね」の怪談話は、寛文12年(1672)に下総国羽生村(現在の茨城県常総市)で起きた悪霊憑き騒ぎが発端でした。菊という娘が累(かさね)という死霊にとりつかれました。祐天上人の死霊祓いによって、原因はどうやら与右衛門が前妻の累を殺したことが発端であるらしいと判明した怪奇事件でした。(詳細については別稿「お化け芝居の明晰さ」を参照ください。)下総国の地域の怪談話に過ぎなかったものが江戸で紹介されたのは、元禄3年 (1691)に出版された「死霊解脱物語聞書」(しりょうげだつものがたりぶんしょ)に拠りますが、これで江戸の町人にすぐに広まったわけではありません。元禄当時祐天上人はご存命で、後の正徳元年(1711)には芝の増上寺36代法主となられました。祐天上人の盛名につれて、上人の若き日の霊験譚が次第に知れるようになったのです。こうして芝居で最初の「かさね」狂言が取り上げられたのが、享保16年(1731)江戸市村座のことでした。さらに安永7年(1771)江戸中村座での「伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)」で「かさね」狂言が歌舞伎に定着しました。以上の流れを分かりやすく年譜にすると、次の通りになります。

寛文12年(1672)   下総国羽生村で悪霊憑き騒ぎ
元禄2年(1690)4月  芭蕉・曾良 「奥のほそ道」行 那須野
元禄3年(1691)    「死霊解脱物語聞書」出版
享保16年(1731)    江戸市村座で最初の「かさね」狂言
安永7年(1778)    江戸中村座「伊達競阿国戯場」初演
安永7年(1778)    「奥細道菅薦抄」出版
文政6年(1823)    江戸森田座「法懸松成田利剣」〜「色彩間苅豆(かさね)」初演

芭蕉隠密説があるくらいですから、芭蕉は情報通には違いなく・もしかしたら下総国羽生村での悪霊憑き騒ぎを耳にしていたと云うことも時系列的にあり得ないわけではないです。しかし、もし芭蕉がそれを知っていたのならば、「かさね」の名を聞いて、「聞なれぬ名のやさしかりければ」とは書かないはずです。「怪しき名の心安からねば・・」とでも書くべきところですね。

以上のことから、文政6年当時の「色彩間苅豆」作者が「奥のほそ道」の「かさねとは八重撫子の名成べし」の句にどのような思いを重ねたのかを考えます。

かさねとは八重撫子の名成べし」
オリジナルの意味:そうか「かさね」っていうのは、とってもとっても可愛い女の子の名前なのだね。

これに怪談話の「かさね」のイメージを重ねると、曾良の句は次のように解釈することが出来ることになります。

「かさねとは八重撫子の名成べし」
新しい意味:「かさね」と云えば醜く恐ろしいお化けのことなんだけど、ホントは彼女はとても可愛くて優しい女性であったのだよ。

これで我々は「色彩間苅豆」が盆狂言であることの核心に到達したことになります。「色彩間苅豆」でのかさねは確かに怖い・恐ろしいお化けだけれども、その醜い姿は、彼女の本当の姿ではない。「かさね」さん、あなたはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。そう云って、かさねを供養しているのです。これが清元の「消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべし」と云う詞章の意味です。(この稿つづく)

(R2・9・21)


2)お化け狂言と「やつし」の芸

かさねは確かに怖い・恐ろしいお化けなんだけど、今舞台で見る・その醜い姿は、彼女の本当の姿ではない。「かさね」さん、あなたはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。「色彩間苅豆(かさね)」の作者はそう云って、かさねを供養しようとしているのです。これが盆狂言としての「かさね」の意味です。

ところで「今現在の・私の姿は私の本当の姿ではない」と云うことは、実はとてもかぶき的な感性なのです。例えば上方和事の「やつし」の芸は、主人公が落ちぶれて・本来の身分を想像できない哀れな姿で登場し・人々の同情を誘う演技であるとされます。しかし、実はそういうものは表面的な要素に過ぎません。元の高貴な身分から落ちぶれた身分への落差・哀れさは、「やつし」で大事なことではないのです。「やつし」の本質とは、「現在の自分は不本意ながら本来自分があるべき本分を正しく生きていない、自分は仮の人生をやむなく生きており、本当の自分は違うところにある」という強い思いにあります。(これについては別稿今日の檻縷は明日の錦」をご参照ください。ここでは仇討ち物で、追っ手が乞食の姿になっても敵の行方を追う姿も、また「やつし」のバリエーションであることを論じています。)

和事の名人・初代藤十郎は「やつし」の芸を得意としました。不本意にも仮の人生を生きなければならぬとすれば・その憤懣と虚しさはどうしようもなく、その憂さを晴らすために一時の虚しい楽しみに走らざるを得ないというのが傾城買いの本意です。ですから和事の「やつし」の芸に見られるものも、「今現在の・私の姿は私の本当の姿ではない」という沸々とした「墳(いきどお)り」の心情です。

「やつし」の芸での、「今現在の・私の姿は私の本当の姿ではない」という思いは、しばしば滑稽の形で以て現れます。(別稿「和事芸の起源」を参照ください。)それは彼の本来の(高貴な)本質からすると、本来ならば彼には有り得ない・それゆえ不釣り合いな・不似合いな・齟齬(ギャップ)がある姿です。そのような奇妙な姿は、しばしば滑稽な状況を呈します。

『愛にこそ、古典喜劇の頂点が位置付けられます。愛はここにあるのです。愛はひとつの本質的に滑稽な(=コミックな・喜劇的な)原動力なのですが、たいへん奇妙なことに、(現代に生きる)我々は愛を窒息させるあらゆる種類の仕切り、ロマン主義的な仕切りを通してしか、もはや愛を見ることがありません。愛という言葉をめぐって生み出されたロマン主義的な観点の変化によって、我々はもはや、愛をそれほど容易に考えることができなくなりました。(中略)「この高貴にして深遠なモリエール、私たちはいま笑ったけれども、本当は泣くべきだったのだ。」 人々はもはや、滑稽なものが愛そのものの真正かつ胸をいっぱいにするような表現と両立し得るとは、ほとんど考えません。しかしながら、愛が告白され表明される最も真正な愛である時には、愛は滑稽なもの(=ル・コミック、喜劇的なもの)なのです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

「最も真正な感情はしばしば滑稽なもの(=ル・コミック、喜劇的なもの)である」、このことを示す典型的な例として吉之助が挙げたいのは、古代ギリシアの詩人ホメーロスの大叙事詩「オデュッセイア」の最終場面です。

トロイア戦争は十年にわたりましたが、堅固なトロイの城は智将オデュッセウスが考案した木馬の策略によってついに陥落しました。「オデュッセイア」は、故郷イタケに向けて帰還の船出の帰途、十年間も各地を転々として放浪を余儀なくされたオデュッセウスの物語です。巨人の島や魔女の島などに漂着して・家来たちも船も失って、ついに乞食同然になってしまいます。故郷では、すでに彼は死んだものと思われており、妻ペネローペイアは財産目当ての求婚者に悩まされていました。ペネローペイアは時間を引き延ばしていましたが、ついに求婚を断り切れなくなり、宴の最中に、夫の強弓を持ち出して、この弓を引くことが出来た者と結婚すると告げます。しかし、それを引ける者はいませんでした。ところがそこに突然ひとりの乞食が現れました。男たちは乞食をあざ笑いますが、乞食は強弓を持つと易々と引いて、無法な求婚者たちを次々に射殺しました。彼こそがオデュッセウスだったのです。こうしてオデュッセウスは、再びイタケーの王としてペネローペイアと共に一生を過ごしました。

乞食という哀れで惨め・かつ滑稽な姿で登場するオデュッセウスに最も真正なものが隠されています。惨めな乞食の姿は、オデュッセウスにとって不釣り合いで・最も似つかわしくないものでした。乞食の姿は、彼の本来の姿ではない。和事の「やつし」の芸も、同様に考えられます。

翻って「色彩間苅豆」の場合を考えてみます。醜く・グロテスクな姿は、かさねにとって、不釣り合いで・最も似つかわしくないものでした。実は滑稽とグロテスクの間には、皮一枚ほどの差しかありません。和事の「やつし」の芸の滑稽をひっくり返せば、お化け芝居のグロテスクになるのです。つまり、何のことはない、お化け芝居も「やつし」の芸のバリエーションのひとつであったと云うことなのです。今現在の・その醜い姿は、あなたの本当の姿ではない。「かさね」さん、あなたはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。これが民俗学的にはかさねに対する供養の意味を持つことは先に説明した通りですが、同時にこれは「今現在の・私の姿は私の本当の姿ではない」という強い今日的なテーゼを含んでもいます。つまりこれはとてもかぶき的な・とても江戸的な感性の所産なのです。

「色彩間苅豆」の筋を見れば、かさねには何の罪もなく、彼女には祟られる理由が何もないことに気が付くと思います。与右衛門に殺された助の霊が与右衛門に祟るのならば分かります。与右衛門の罪なのだから、それが因果応報と云うものです。それなのにどうして助の霊はかさねに祟たって、彼女の面相を変えてしまったのでしょうか。説明が出来ない不条理が観客の胸に突き刺さります。かさねさん、あなたはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。あなたには、そんな醜い姿に変えられる理由は何もないはずだ。なのにこの不条理は一体何だ。この点に気が付いた時、死者を鎮魂するための伝統的な風習に過ぎなかった盆狂言が、今日的な様相に変わるのです。これは江戸の観客にとっても、きっとそうであったに違いない。「かさね」狂言は、怪談芝居として見た場合、中世仏教の因果応報の因習にどっぷり浸っておらず、その不条理の感覚がどこか新しい。吉之助は、江戸中期に「かさね」狂言が、歌舞伎に・そして江戸町人のなかに、急速に浸透して行った要因がここにあったと考えています。

残念ながら現行歌舞伎の「色彩間苅豆」幕切れを見ると、大抵、与右衛門が「ハテ恐ろしい執念じゃなア」とまるで自分が被害者だみたいな面をしてますねえ。おかげで女の執念は何と恐ろしい・女の業(ごう)は何とおぞましいなんてご感想になってしまい勝ちですけれど、そりゃあちょっと違うのではありませんか。だからこそ、ここで「今舞台で見る・醜いかさねの姿は、かさねの本当の姿ではない」と考えることが、改めて大事なことになります。

付け加えれば、この点は同じ四代目南北の「東海道四谷怪談」(文政8年・1825・江戸中村座初演)においても、まったく同じことなのです。お岩さんの場合も、彼女が醜い姿に変えられねばならない理由はどこにもなかったのです。お岩さん、今現在の・その醜い姿は、あなたの本当の姿ではない。あなたはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。この観客の思いがお岩さんへの供養になるのです。と同時に、この世に生きることの不条理が、我々の平凡な日常生活に少しだけピリッとした憤りをもたらすことになるでしょう。これがやがて幕末江戸の社会の地殻変動へと繋がって行くのです。現行歌舞伎においては、「四谷怪談」大詰で美しいお岩さんの姿を見せる「夢の場」を上演することが滅多にありません。夢の場をカットすることは、ホントは盆狂言としての「四谷怪談」をまったく無意味化してしまうほど、イケナイことなのです。夢の場が回り舞台で蛇山庵室に転換する、これこそ南北物の妙味と云うべきなのですがね。(この稿つづく)

(R2・9・23)


3)「これが私の顔かいの・・」

前節で「四谷怪談」との類似を指摘しました。「かさね」に与右衛門が面相の変わったかさねに鏡を突き付けて「これ(自分の顔)を見よ」と云う残酷な場面がありますが、「四谷怪談・浪宅」にも、まったく同様の場面があるのを思い出します。ここでは宅悦がお岩に鏡を見せて・毒薬のおかげで彼女の面相が醜く変ってしまったことを教えます。お岩は「これが私の顔かいの・・」と言って歎きますが、お岩の悲しみはドス黒い怨念に急激に変化します。お岩がここで感じる・この世の理不尽への憤りがそうさせるのです。この瞬間、この世が漆黒の悪の闇の様相に一転します。このドラマツルギーは、「かさね」でもまったく同様です。もう一度「かさね」幕切れの清元の詞章を引きます。

「情容赦も夏の霜、消ゆる姿の八重撫子、これや累の名なるべしと、後に伝えし物語、恐ろしかりける。

ここで重要なのは、末尾の「恐ろしかりける」の文句ではありません。そこの字句ばかりを気にするから、「かさね」がただのお化け芝居になってしまいます。ホントは「情容赦も夏の霜、消ゆる姿の八重撫子」が、大事なのです。かさねはホントはとても可愛くて優しい女性なんだ。だから情容赦もなく・かさねの面相が替えられてしまう・この世の理不尽さが恐ろしいのです。

さて今月(令和2年9月歌舞伎座)の舞踊「色彩間苅豆」で猿之助のかさね(累)ですが、真女形とは違って加役の場合は面相が変ってからのかさねに凄みが出るのが長所で、平成18年(2006)金丸座でのかさね(与右衛門は海老蔵でした)の時も・後半を車輪にやって、これはこれとして面白かったことを覚えています。吉之助にとって久しぶりの猿之助のかさねでしたが、後半が突出してお化け芝居の印象が強くなるかなと予想していましたが、今回は前半(綺麗なかさね)のクドキが濃厚で、これは良いかさねを見たなあと思いました。

大事なことは、かさねには何の罪もなく、祟られる理由が彼女には何もないと云うことです。ということで、与右衛門が自分を置き去りにして放逐する理由が、彼女には全然思い至りません。かさねには男の不実を疑う気持ちが露ほどにもない。だからかさねは必死で与右衛門の後を追うのです。猿之助のかさねの前半のクドキは情味が濃く、しっとりとしてとても良い。真女形の綺麗過ぎるかさねであると、綺麗の印象が先立って情がサラッとした感触になり勝ちです。猿之助のかさねであると、そこのところが塩梅が良い。イヤ猿之助のかさねが綺麗でないと云っているのではないので・誤解のないように。適度に綺麗だから女の真実味が出ると云いたいのです。だから後半の「鬼女のありさま」にも真実味が出て来ます。猿之助は「かさね」のドラマツルギーをよく汲み取っているなあと感心しました。

幸四郎の与右衛門は揚幕を出て来た姿は悪くないですが、全体に描線が細いですねえ。「色悪」のイメージを表層的に捉えているようで、優美のイメージが先に立ちます。清元の調子に引っ張られているのか・台詞を高調子で謡うみたいなのが弱々しい印象で、ちょっと気になります。台詞を低調子にバラ描きにしゃべらないと南北のフォルムにならないと思います。もっと剛毅な与右衛門であって良いはずです。そこが弱いから幕切れが、「私はかさねの怨霊に振り回されてます・私は被害者で〜す・ああ恐ろしや恐ろしや」みたいな感じになってしまいます。もっともこれは幸四郎に限ったことではありませんが。しかし、そもそもこの陰惨な物語は、与右衛門にすべての原因があるのです。そこのところ与右衛門がしっかり反省した形で幕にしてもらわねばなりませんね。

(R2・9・28)



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