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二代目松緑の最後の弁慶

昭和55年11月歌舞伎座:「勧進帳」

二代目尾上松緑(弁慶)、十七代目中村勘三郎(富樫)、七代目尾上梅幸(義経)


1)戦後昭和歌舞伎の「勧進帳」の最終回答

本稿で紹介するのは、昭和55年(1980)11月歌舞伎座での、二代目松緑の最後の弁慶になる「勧進帳」です。(尚その後の松緑は富樫を二回勤めました。)この時代の吉之助はもっぱら三階席からの観劇でした。しかし、当時(第四期)の歌舞伎座の三階席からだと構造上弁慶の飛び六方の引っ込みが全然見えない。それでこの松緑の最後の弁慶だけは奮発して揚幕脇の一階席を取って見たので、この舞台はよく覚えています。松緑の弁慶はほぼ4年ぶりのことでしたし、これが最後の弁慶になることは明らかでした。これが戦後昭和の「勧進帳」の最終回答となるという意識が、誰のなかにもあったはずです。だから見る吉之助の方も気合いが入りました。この舞台のことは強烈に思い出されます。つらつら思んみるに、この上演はその後の(平成以後の)「勧進帳」の行方に決定的な影響を及ぼしたのではないかと思いますねえ。今映像で振り返ってみると、この上演の歴史的な意義を改めて感じます。本稿ではそのようなことを考えてみたいと思います。

*昭和55年11月歌舞伎座のチラシ。
この錚々たる演目・配役をご覧あれ。これこそ顔見世、

高麗屋三兄弟(十一代目団十郎・初代白鸚(八代目幸四郎)・二代目松緑)は、戦後昭和の重要な弁慶として、それぞれ個性的な舞台を見せてくれました。或る方は「団十郎の弁慶は柄が立派、白鸚の弁慶は芝居が上手い、松緑の弁慶は踊りが上手い」と評しましたが、まったくその通りだと思います。今映像を見返すと、当時はそんなことはあまり感じなかったのですが、松緑の「勧進帳」は、思いの外、舞踊劇風の印象が強いように感じます。総括すれば踊りの弁慶ということになるでしょうか。どちらかと云えば、例えば白鸚の弁慶に見られるような実録風の芝居っぽさは後退しています。その代わり松羽目舞踊の荘重さが強くなったと感じます。その意味では団十郎の弁慶の感触にやや近く、さらにテンポを重めにして様式性を推し進めた感じと云えるでしょうか。

この印象は、ちょうど吉之助が芝居を熱心に見始めた昭和五十年代の歌舞伎全般の印象と一致します。この時期の歌舞伎は、良く云えばテンポが遅めで緊張感があって芝居が如何にも荘重で、たっぷり濃厚であった。悪く云うならばテンポが伸びて様式感が強くなって芝居が重ったるい。この時期の歌舞伎は、そのような印象が強かったのです。典型的なのはもちろん六代目歌右衛門でしたが、立役ならば松緑であったと思います。ご注意いただきたいですが、悪いと云っているのではありません。ご承知の通り吉之助は歌右衛門崇拝の批評家ですし、吉之助は、良くも悪くも、この時代の歌舞伎で洗礼を受けて育ったのです。正直吉之助にもかったるいなあと感じる瞬間は確かにありましたけど、これを乗り越えたところに歌舞伎の醍醐味があると信じて息を詰めて芝居を見たものでした。イヤ懐かしいねえ。そういう昭和五十年代の歌舞伎の代表的な舞台として、この松緑の最後の「勧進帳」があるのです。

しかし、後に吉之助も昭和三十・四十年代の過去映像に数多く触れて、昔の歌舞伎はもうちょっとテンポが早く・演技があっさりした感触であったことに気が付いて、軽いショックを受けたものです。もちろんその時代の歌右衛門も松緑も、時代に沿った若々しい感触でした。こういうところから出発して、彼らの芸も、歌舞伎の感触も、次第に重々しい方向へ変化して行ったのです。大体歳を取れば芸のテンポが自然と重くなる傾向は確かにあるものです。恐らく歌舞伎のこの変化は、昭和四十年代から五十年代にかけて日本の社会意識が次第に保守化して行ったことと無関係ではないのですが、ここでは深入りしないことにします。本稿では、「勧進帳」の変遷について考えます。

別稿「勧進帳のふたつの意識」で触れた通り、「勧進帳」にはふたつの表現ベクトルがあります。ひとつは、能の格調と様式的な感覚を取り入れて高尚化(芸術化)しようとする意識であり、もうひとつは江戸荒事の弁慶のイメージに戻ろうとするもので(これは或る意味において俗化ということにもなりますが)、芝居っぽさを大事にしようという意識です。明治初期における九代目団十郎の使命は歌舞伎の地位向上を図り・これを国劇としようと云うものでした。その旗印となる象徴的な演目が「勧進帳」でした。江戸期に式楽であった能の格調は、当時の歌舞伎が是非とも手に入れたいものでした。ですから九代目団十郎が演じる「勧進帳」は当然ながら能の様式性を強く意識したものにならざるを得ませんでした。様式性というのは反リアリズムですから、様式性が強くなれば芝居っぽさは弱まります。

しかし、明治36年(1903)九代目団十郎が没した後に、揺り返しが生じます。これは維新後の急進的な世相が大正期に大きく揺り返したことと密接に連動した現象です。団十郎の高弟たち、特に1,700回以上弁慶を演じたとされる七代目幸四郎による「勧進帳」の高尚化は、どちらかと云えば史実化・実録化という方向で進むことになるのです。これはあくまで俗化ではなく・高尚化なのですが、芝居っぽくなって行くのです。安宅の関の出来事がまるで事実であったような、生きた弁慶がそこにいるような感覚になって行きます。史実っぽい重い感触に仕立てることで高尚化しようという意図なのです。ただし芝居っぽくなって行くということは、揺り返しには違いありません。その結果、能っぽい様式的な感覚が次第に後退していきました。七代目幸四郎(弁慶)・十五代目羽左衛門(富樫)・六代目菊五郎(義経)による・歴史的な「勧進帳」映像(昭和16年・1941)を見れば確認が出来ます。白鸚の弁慶は上記の芝居っぽい弁慶の流れのうえにあるものです

一方、市川宗家に養子に入った十一代目団十郎は、実父・七代目幸四郎の成果を踏まえつつも・「勧進帳」を市川宗家に取り戻す使命を背負っていました。途中団十郎の急逝などもありましたが、ここで再び「勧進帳」は様式化の方向へ舵を切ることになります。そして今度は芝居っぽさが「勧進帳」から後退していきます。これは戦後日本の社会意識が次第に保守化して行くことと深く関連するわけですが、同時に世界に誇る伝統芸能であると歌舞伎が世間に認知されていくなかで、歌舞伎の代表的演目とされる「勧進帳」の位取りが再び重くなって行きます。御存知の通り、歌舞伎の演目人気ランキングを取ると、ずっと変らず「勧進帳」がトップなのです。郡司正勝先生が次のような発言をされています。

『「勧進帳」というのは最も歌舞伎的でないものですよ。それが一番浮上して第一線を占めているという、つまり歌舞伎の歴史始まって以来の事件ですよ、これは。』(郡司正勝・合評「三大歌舞伎」・「歌舞伎・研究と批評」第16号・平成7年・1996)

「勧進帳」は最も歌舞伎的でないものだという郡司先生の発言の真意は、上述の通り「勧進帳」にはふたつの表現ベクトルがあり、明治以来、様式化と芝居らしさという狭間の揺れのなかで、右に振れたり左に振れたりして、「勧進帳」の高尚化が進んで来たと云う認識があるならば、スンナリ理解が出来ると思います。このような流れのうえに、戦後昭和歌舞伎の「勧進帳」の最終回答として、二代目松緑の最後の「勧進帳」が立つわけです。(この稿つづく)

(R2・9・24)


2)松緑の弁慶・勘三郎の富樫・梅幸の義経

「勧進帳」の弁慶と富樫の本来の声質バランスは、九代目団十郎の弁慶の高調子に対し・五代目菊五郎の富樫の低調子であるということは、何度か書きました。(別稿「勧進帳は音楽劇である」を参照ください。)しかし、現在では多分、富樫は高調子でイメージされることが多いと思います。これは戦前ならば十五代目羽左衛門、戦後は十一代目団十郎、平成・令和の現在ならば十五代目仁左衛門ということで、歴代の富樫役者が高調子であることから来ます。このためバランス上、弁慶は低めの太い声にイメージされることが多くなりました。

これは吉之助の私見ですが、現在の「勧進帳」の弁慶の低調子のイメージは、恐らく二代目松緑の弁慶から来るところが大きいと思っています。実はこれは弁慶だけのことではなく、荒事・つまり歌舞伎十八番全般についても云えることです。昭和四十年代から五十年代、松緑は豪快な荒事の役どころを手掛けることが多く、これで高い評価を受けて来ました。声の調子が低くて甲(カン)の声が出せない不利はありましたけれど、松緑は何より押し出しが立派だし、隈取りがとても良く似合いました。踊りが巧いから動きはもちろん良い。だから松緑は豪快な荒事役者だというイメージが一般に強くありました。これらの舞台で植え付けられた荒事の、低めの太い声で豪快に押すイメージが結構根強くて、現在でも荒事では低めの太い声を作ろうとする役者が多いのです。恐らくこの時期に弁慶や歌舞伎十八番の舞台を見た人は(吉之助も含まれますが)、誰でもみな松緑の影響を多かれ少なかれ受けたはずです。この昭和55年(1980)11月歌舞伎座での「勧進帳」映像を見直して、改めてその影響の強さを思いますねえ。

例えば平成11年(1999)8月歌舞伎座の「勧進帳」で、吉之助と同世代になる八十助(後の十代目三津五郎)が弁慶を勤め・勘九郎(後の十八代目勘三郎)が富樫を勤めた時のことを思い出します。明らかに八十助は本来の声質より声を低く太く作ろうとしており、勘九郎は調子を高めに取ろうとしていました。勘九郎は本来調子が低い人でしたから・それでやれば良いのに、声を無理に高調子に取ろうとして、そのため台詞廻しの具合が良くありませんでした。二人とも芸に関しては生真面目でしたから、「弁慶は低調子・富樫は高調子」という図式に囚われて、どうしてもそれを追おうとしてしまうのです。これは松緑の「勧進帳」のイメージから来ていたと思います。彼らがそうなってしまうことは、同世代の吉之助としてはよく理解できます。

このように書くと、まるで松緑が悪かったみたいに聞こえるかも知れませんが、そうではありません。自分の声質・声域に沿うところで、役を無理なくセッティングするのが本来なのです。松緑の声域ならば、低調子の弁慶になるのは当然です。吉之助が言いたいのは、歌舞伎十八番など荒事の役どころでは、以後の役者にとってそれほどまでに二代目松緑の印象が根強いということです。平成・令和の「勧進帳」の弁慶は、声を低く太く作ろうとする傾向が強くなってしまいました。しかし、このため現況、弁慶・並びに荒事の役どころのイメージがちょっと狭まっているかも知れません。そこのところもう少し自由であって良いと思うわけです。

話を昭和55年(1980)11月歌舞伎座の「勧進帳」に戻しますが、ここでの松緑の弁慶は低調子、これに対する十七代目勘三郎も低調子です。声質バランスからすると、ホントはもうちょっとどちらかが高いか・低いかの方が良いかも知れません。どちらも低調子であるために、この山伏問答が音楽的にいまいち盛り上がらない感じで、地味に聞こえるのは事実です。松緑の調子が上がらないので勘三郎が若干抑え気味にしている気配もありますねえ。ただし台詞の二拍子のリズムをしっかり踏んでいる点は感心させられます。リズムの刻みが深い。だから台詞の格調が決して損なわれません。立派な山伏問答だと感じるのは、そのせいです。

全体としてテンポが遅めで荘重な趣が強い「勧進帳」です。逆に云えばテンポが重めで様式感覚が強い(それだけ芝居っぽさからは遠ざかる)ということになるかも知れませんが、かったるいと感じさせる手前で踏みとどまっているのはさすがです。揚幕から登場する能装束の弁慶は、ホントに立派です。足取りからして風格が全然違いますね。ああ「勧進帳」は能取り物(松羽目)であるなあと感じ入ります。(最近の「勧進帳」でよく見る足取りでは能取り物になっていません。爪先の出し方からして全然違います。)問答から打擲・詰め寄りまでの流れは、数々の決まりを着実に押さえて緊張感があり、勢いにまかせたようなところがまったくありません。踊りの上手さには定評がある方ですから、延年の舞はもちろん素晴らしい。この全体のまとまりの良さが、松緑の「勧進帳」の舞踊劇風の印象になるわけです。この時期の松緑は膝を悪くしていました。知っていて見れば動きにそれが見える場面はないわけではないが、知らなければ分からぬ程度のものです。幕外の花道での飛び六方も立派なものです。揚幕脇の席に座っていた吉之助めがけて突っ込んでくる松緑の弁慶の姿をありありと思い出します。

別稿「十一代目団十郎の弁慶」で、松緑の富樫について触れました。富樫は低調子が本来だと云うことがよく理解できる・とても良い富樫です。もっとも後世の評価では松緑は弁慶役者ということになるでしょうから、そうなると吉之助的には、十七代目勘三郎を戦後昭和の低調子の富樫役者として推したいところです。スタジオ録音で・生(なま)舞台のライヴ録音ではありませんが、昭和35年(1960)4月に、八代目幸四郎(弁慶)・十七代目勘三郎(富樫)・七代目梅幸(義経)で収録された「勧進帳」の録音(キング・レコード)があります。幸四郎の高調子・勘三郎の低調子による組み合わせが、山伏問答の理想的なフォルムを聞かせてくれますから、是非一聴をお勧めしたいところです。

歌舞伎十八番 勧進帳 (キングレコード・CD)

十七代目勘三郎の富樫が良いのは、情味があるということです。湿っぽい・涙もろいと云うことではなく(もしかしたら勘三郎の富樫に対してはそう云う批判をする方がいそうに思います)、弁慶の懸命さに対して、論理ではなく情において感応する富樫という印象が勘三郎にはあります。弁慶の忠義の論理に感じ入るのではなく、主人を護ろうとする弁慶の必死さに反応しているということです。だから富樫が一行を通す気持ちに変化する心理が自然に感じられます。勘三郎の富樫のおかげで松緑の弁慶が忠義一点張りの武張った印象に見えないと云うところがあるのではないでしょうかね。吉之助が勘三郎の富樫を評価するのは、そういう点です。七代目梅幸はまったく申し分ない義経で、改めて付け加えることはないのだけれども、いつでも安定した佇まいを見せて、まことに菩薩の如く有難い義経であると思いますねえ。

(R2・10・3)


 
 

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