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八代目幸四郎の大石内蔵助〜「最後の大評定」

昭和44年12月国立劇場:通し上演「元禄忠臣蔵」〜「最後の大評定」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(大石内蔵助)、三代目実川延若(伊関徳兵衛)、五代目沢村訥升(九代目沢村宗十郎)(内蔵助妻おりく)、三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(磯貝十郎左衛門)、四代目市川段四郎(堀部安兵衛)他

(巌谷慎一演出)


1)国立劇場と「元禄忠臣蔵」

本稿で取り上げるのは、昭和44年(1969)12月国立劇場が初めて取り上げた真山青果の「元禄忠臣蔵」通し上演の映像で、この時は元禄赤穂事件の発端となる「江戸城の刃傷」(ただし大幅なカットあり)、次いで赤穂城引き渡しに係わる「最後の大評定」、これは外伝になる「御浜御殿綱豊卿」、討ち入り後になる「大石最後の一日」の四編が上演されました。ずいぶん欲張りなプログラムですねえ。上演時間は休憩を含めれば5時間を優に超えるボリュームで、現在であるとこの形での上演はとても無理でしょう。

ところで国立劇場の開場は昭和41年(1966)11月のことですが、聞くところでは、開場当時、国立劇場は真山青果を一切拒否しているらしいと云う噂があったと云うことです。このことは西山松之助氏が雑誌「演劇界」・昭和45年1月号での劇評のなかでちょっと触れています。その後の国立劇場は「元禄忠臣蔵」を(歌舞伎座よりは明らかに)比較的頻繁に上演しており、「元禄忠臣蔵」は国立劇場にとっての独参湯の感がある(男性客の入りが良いようです)ほどなので意外の感がします。結局、これは事実無根の噂に過ぎないのですが、しかし、考えてみると、なるほどあの時代にはそんな噂が出そうな雰囲気があったかも知れないなあと思うのです。

それは戦時中の青果は「元禄忠臣蔵」や「東郷平八郎」・「乃木将軍」など時局に迎合した戯曲を沢山書いたと云う批判が、当時まだ根強く演劇界にあったからです。少し遅れて昭和50年代に歌舞伎を見始めた吉之助にさえそういう批判が耳に届いていました。ましてや昭和40年前半と云うのは、冷戦(米ソ対立)の真っ最中で、70年安保闘争・大学紛争が激烈な時期でした。当時は「君は右か左か、親米か・親ソか」などと主義主張をすぐ問われそうな雰囲気があったものです。国立劇場が青果の芝居を上演するとなれば、「芸術の名を借りて国家が再び忠孝・皇国思想を喧伝しようと云うのか」と云う批判が左翼の方から出ることを覚悟せねばならない、国立劇場の関係者がそのような心配をしたというのは、如何にもありそうな話だと思えるのです。

現在では伝統芸能を保護するのは国の使命だなんて考えるのは当たり前に思うかも知れませんが、そもそも歌舞伎は庶民の芸能・反体制的な性格を持つもので、江戸幕府は常に歌舞伎を敵対視し、歌舞伎の歴史は体制からの被弾圧の歴史であると云って良いほどです。芸術を国に保護してもらうなんてトンデモナイことだ、国から金をもらうようになったら芸術は終わりだという考え方だってあるものなのです。蜷川幸雄が文化勲章をもらった時には、60年代の蜷川のアングラ演劇時代をよく知る者は、みんな蜷川のことを「この裏切り者め」と云って笑ったものでした。ですから国立劇場という機能は、ホントは芸術にとってとても微妙な立ち位置なのです。「国立劇場は真山青果を一切拒否している」と云うのは事実無根の噂に違いありませんが、今回(昭和44年12月国立劇場)の「元禄忠臣蔵」を見る時には、そのような熱いイデオロギーの時代の上演だったと云うことを承知して置く必要があります。

青果がホントに「元禄忠臣蔵」を書いて軍部に協力したのかと云う疑問については検証してみる必要があるかも知れません。これは戦時中の松竹の興行姿勢も考えなければなりませんが、そのような批判を受ける謂われが青果に全然なかったとは言えないと思います。ただし当時の日本国民ならば誰でも、多かれ少なかれ同じようなことがあったはずです。戯曲作家は自分が書いた作品が劇場に掛からなければ喰って行けないからです。ただし「元禄忠臣蔵」脚本を読む限り、忠孝・皇国思想を喧伝するところに本作の意図はなく、青果は純粋に「この危急の場面において人たる者は如何なる行動を取るべきか」と云う問いに徹していたと吉之助は考えています。その意味において、青果が批判を受ける言われはないと考えます。「作品に罪はない」とでも言っておきましょうかね。青果は娘の美保さんに (戦争中の)今は無理だが、この戦争が終ったら自分は書きたいことを書くんだ、待っていろ、内蔵助の真実を書いてやる」とよく言っていたそうです。「元禄忠臣蔵」の舞台を見る時に、青果が書きたくて書けなかった内蔵助の真実を想像してみたいと思うのです。(この稿つづく)

(R2・3・10)


2)「最後の大評定」幕切れの改訂

「最後の大評定」は、昭和10年4月東京劇場での初演。配役は、二代目左団次の内蔵助・二代目猿之助(初代猿翁)の徳兵衛・六代目寿美蔵(三代目寿海)の安兵衛・二代目松蔦のおりくでした。このうち徳兵衛は内蔵助の幼なじみで・その後浅野家から放逐されて長い間浪人暮らしをしていた人物という設定ですが、これは架空の人物です。このように史実では本心がなかなか知れない主人公に架空の人物・事件を意図的に絡めて・主人公の心中を引き出すという仕掛けは、芝居ではしばしば行われる手法です。実録風の「元禄忠臣蔵」についても、そこは例外ではありません。

*写真は復元された赤穂城(当時は苅谷城と呼ばれたようです)二の丸大手門。平成31年2月20日、吉之助の撮影です。

「最後の大評定」第3場の舞台は、赤穂城二の丸大手門を出て、三の丸にある内蔵助屋敷の方角へしばし歩いた辺りでありましょうか。城を出た内蔵助はそこで刀を腹に刺し地面に突っ伏した徳兵衛を発見します。死にゆく徳兵衛は内蔵助に「かならず何か、大望があるであろう。死出の旅路を踏み出した俺だ。聞かせてくれ」と懇願します。これに応えて内蔵助は決然と「内蔵助は、天下の御政道に反抗する気だ」と言います。これを聞いて徳兵衛は安心して死んでいきます。

この「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」の台詞を以て、これが「大石最後の一日」で内蔵助が云うところの「初一念」だとする劇評を少なからず見掛けますが、それはちょっと読みが浅いと吉之助は思いますねえ。内蔵助が云いたいことは、殿中において抜刀した主人内匠頭が罰せられることは仕方がない、だがそれならばどうして喧嘩相手の吉良殿にお咎めがないのか、これは喧嘩両成敗の理屈に反するではないか、このような幕府の裁きは俺は断じて納得できないと云うことです。しかし、内蔵助のその憤りは理屈から来るものではなく、心情から発するものです。藩中を束ねる家老職にある内蔵助は、自らの憤りを理性で制御し・心情に理論的な裏付けを与えなければなりません。決して軽率な言動・行動はならぬと内蔵助は自らを戒めているのです。だから内蔵助は「復讐は軽く、御政道の批判は難い。ここに思案があり、大事があるのだ」と言うのです。青果が描く内蔵助は徹底して理性の人です。

ですから「戦時中の青果は時局に迎合した戯曲を沢山書いて軍部に協力した」と云う左翼の批判に対し、「内蔵助は天下の御政道に反抗する気だ」との台詞は明らかに体制批判であり、青果が戦争協力者ではないことの明確な証(あかし)であると青果ファンならば主張したいところでしょうが、内蔵助は内匠頭切腹・御家断絶の処分に対して吉良家には御沙汰がないという幕府の裁きの不当性に異議申し立てをしているに過ぎません。これだけでは体制批判の台詞だと軽々に読むわけには行きません。内蔵助にはもっと内に考えるところがあるはずなのです。でなければ、第一「元禄忠臣蔵」がこの後も続々書き継がれるはずがありません。連作史劇「元禄忠臣蔵」とは、青果が内蔵助の真実を探る心の旅なのです。(初一念については別稿「内蔵助の初一念とは何か」でその辺を書きましたから、そちらをお読みください。)

ところで今回(昭和44年12月国立劇場)の「最後の大評定」の舞台映像を見ていて、吉之助は思わぬ発見をしました。「最後の大評定」の舞台を何度か見たのに、気が付かなかったのはまったく迂闊でした。それは第3場で内蔵助の言葉を聞いて徳兵衛が喉笛を掻き切って死んだ後の、内蔵助のことです。まず内蔵助は悲痛な面持ちで徳兵衛の遺骸に熊野牛王の幟(のぼり)をかけてやり、次に徳兵衛倅の遺骸に鎧をかけてやり、二人に合掌します。この後、内蔵助はゆっくりした足取りで花道七三へ向かって歩みながら、強い口調で次のように独白します。

『正保二年築くところ播州赤穂の城には此処に第一の犠牲者を見た。第二第三の犠牲者の声はやがて千代田の城の奥深きところ、泰平の夢に眠れる人々を襲うであろう。』

この後内蔵助は花道七三で立ち止まって城を静かに見やり、やがて揚幕に引っ込みます。(この場面が「仮名手本忠臣蔵・四段目・門外)に照応することはお分かりの通り。)以上は、現行歌舞伎(真山美保演出)での「最後の大評定」幕切れの定型となっているものです。なお直近(平成21年3月歌舞伎座での「最後の大評定」)の九代目幸四郎の内蔵助も同様の幕切れです。

内蔵助のなかに強い憤怒が湧き上がった・とても激しい言い回しです。今しがた城明け渡しの評議を終え・そうでなくても尋常ならざる心持ちである内蔵助が、幼なじみ(徳兵衛)の死を目の当たりにして、内に押し隠した憤りが一気に噴き出したと考えるならば、これはまあ芝居の流れとしては理解出来ないことはない。この場では人の眼もないわけだから、思う存分本音を吐露したと云うことかも知れません。しかし、「最後の大評定」第1場大石邸から第2場赤穂城内黒書院(大評定の場)までの、本心を押し殺して・ひたすら理性的な態度を取り続けようとする・内蔵助の慎重な性格を考えれば、この場面で内蔵助が見せる激しさは唐突に過ぎて、この独白はまるで呪詛の如く異様に響いて、強い違和感を感じます。

そのような引っ掛かりを吉之助が今回感じたのは、大評定の場までの幸四郎の内蔵助が素晴らしかったからでしょう。ここでまでの自己を完璧に制御し切った内蔵助の芝居の流れが、上記独白の箇所で突如乱れる不自然がある。そこで疑問に感じて真山青果全集(雑誌「キング」・昭和10年2月号・5月号発表台本)を調べてみると、そこには上記の台詞がまったくないのです。つまり上記は上演に際して後で付け加えられたものだったわけです。これで吉之助が感じた違和感が正しかったことが明らかになりました。真山青果全集では、徳兵衛が喉笛を掻き切って死んだ後を、以下のト書き1行のみで済ませています。

『月光蒼白、内蔵助、ジッと親友の死体を見下ろしたる後、やがて衣紋の塵を払うて、静かに帰路につく。(幕)』

つまり青果初稿においては、内蔵助は親友の死骸に幟をかけてやることも、合掌することもしないのです。ただ親友の死体をジッと見つめた後、それはもう終わったことのように、内蔵助は我が道を歩み始めるのです。冷酷とも云える幕切れですが、内蔵助の胸中に万感の思いがあるに違いありません。親友の無念をも自らの力にして、内蔵助は我が道を歩むのです。しかし、我が思いを明らかにすることが出来るのは、本望を達した後のことだと、内蔵助にはそう云う厳しい覚悟があるのです。これは初稿の幕切れの方が、改訂版より数段よろしいと思いますねえ。この結末ならば、第1場・第2場の内蔵助から見てもイメージの落差はありません。

これは現段階では吉之助の推測に過ぎませんが、これは(青果の本意であったかどうかは別として)戦時中の上演の改訂だろうと思います。ここには戦時中の匂いがします。内蔵助の「正保二年築くところ・・・」の独白には、「米軍の空襲で幾千の死者が出ようとも我々国民は一致団結してこの恨みを晴らさで置くべきか」みたいな響きが聞こえます。この場面を見た戦時中の観客はそのように感じたに違いありません。こういう箇所は、青果の名誉のためにも初稿通りに戻して欲しかったと思いますねえ。演出を担当した巌谷慎一氏(劇作家で青果に師事した)には、そこまで考えて欲しかったと思います。巌谷氏のような責任ある立場の方が正さなければ、こういう間違いはなかなか直らないです。しかし、もう言っても仕方がない。もう50年が経ってしまいました。

余談ですが、戦時中の内務省による台本検閲により場面がカットされたり台詞が書き換えられたりと云うことは、歌舞伎に限らず・新劇やら映画など、いろんな方面で頻繁に起きたことです。現行歌舞伎の脚本には、戦時中の検閲で変えさせられた後、戦後になって元に戻されないままそのままされている事例が沢山あるそうです。芝居の流れがどこか変だな・違和感があるなと感じた場合には、何か裏で変なことが起きている、そう云うことが多いものです。上述の「最後の大評定」幕切れの改訂は、その一例だと思われますが、今後の調査を要します。(この稿つづく)

(R2・3・11)


3)内蔵助の[初一念

「最後の大評定」には、「初一念」という言葉が出て来ません。それは「大石最後の一日」にしか出て来ないのですが、これこそ内蔵助の初一念だと云える台詞が、本作にはあります。それは大評定の場で内蔵助が「弟浅野大学を立てて浅野家を存続させる考えもないわけではない」という趣旨のことを言い始めた時、磯貝十郎左衛門が進み出て、次のように泣き叫びながら言う台詞です。

「御兄上内匠頭さまの鬱憤を散じ、敵上野介さまを討ち果たしてこそ、はじめて大学頭さまは世に立って人中(ひとなか)がなると申されましょう。仇敵上野介をノメノメと安穏に前に見て、大学さまの武士道が立つとは申されませぬ。(中略)厭でござります、厭でござる。たとえ御公儀より大学さまへ恩命下って、日本国全体に、唐、天竺を添えて賜るほどの大大名になられましても讐敵吉良上野介をこのままに置くのは、厭でござります、厭でござります。」(磯貝声を極めて泣く。)(「最後の大評定」)

十郎左衛門が云う「厭でござる、厭でござる」こそが、初一念です。この気持ちは原形質のようなもので、理屈も損得勘定もなく、ただひたすらに無私なものです。内蔵助のような立場もあって・いい歳をした大人には決して言えない青臭い台詞です。しかし、これはまさに内蔵助のなかの・秘められた気持ちをぴったりと言い当てた言葉でした。ここで内蔵助は「何ィ」という台詞を三回発しています。ここで青果は『磯貝を見る眼中に無上のよろこびを漂わせて』とト書きを入れています。ホントは内蔵助も十郎左衛門と一緒に泣きたい気分であったでしょう。十郎左衛門に自分の気持ちを代弁されて歳がいもなく感動して、内蔵助は照れ臭かったと思います。「・・それにては何時が日にも話しが煮え乾る時がない。(迷惑そうに笑いながら)喜兵衛老人、そなたなどの御考えは・・・?」と内蔵助は話をさりげなく逸らしてしまいます。青果は(恐らく意図的に)核心の部分をまったくさりげなく・サラッと目立たないように隠しています。

ここで大事なことは、「厭でござる」という気持ちは、そのまま「上野介を討ってやる」ということにスンナリつながらないということです。 確かに十郎左衛門はここで「讐敵吉良上野介をこのままに置くのは厭でござります」と言っていますし、赤穂浪士の場合、結果としてこの方向に行動が進みますが、「厭でござる」というのは、今現在我々が直面する状況を受け入れるのが厭だということです。「上野介をこのままに置く」ということは現状を認めることに他なりません。だから「厭だ」というのです。これは或る意味で非常に危険な感情なのです。彼らの怒りの矛先は時代にも向くかも知れないし、この世の生そのものに向くかも知れないし、上野介にも向くし、幕府という政治機構にも向くし、 判断を下した直接の当事者(綱吉その人・あるいは幕府要人)に行くかも知れないし、場合によっては愚かな行為をした主人内匠頭にも向きかねないのですが、武士としての彼らの倫理感からすれば、当座の怒りは上野介に矛先が向いていると言うことに過ぎません。大事なことは、「厭でござる・この状況は厭でござる」という感情です。この感情を研ぎ澄ませた時、彼らの腹のなかに熱い初一念が湧いて来ます。

内蔵助と云う人物の凄いところは、各人各様で・持って行きようがない(方向性が定まらない)感情を、指導者として「これで良いのか」と自問自答を続けて・悩み迷いつつ、行ったり来たり試行錯誤しながら・これを束ねて、最終的に集団をひとつの方向へ持って行ったことです。こう云う懐の深い大人物を演じさせると、八代目幸四郎ほどピッタリ来る役者はない気がしますねえ。「元禄忠臣蔵」の内蔵助や「勧進帳」の弁慶での幸四郎は、史実の内蔵助や弁慶もこんな沈着冷静な人物だっただろうと思わせる真実味があったものですが、今回(昭和44年12月国立劇場)の舞台もまたそうです。大評定の場での内蔵助の肚の座り様は見事なもので、おかげで、芝居が引き締まった緊迫感あるものとなりました。(なおこの「最後の大評定」での幸四郎の内蔵助は、この舞台が初役でした。)恐らく内蔵助は、どんな相手の言うことでも「それもそうだ、その言い分にも一理ある」と思いながら聞くのでしょう。最終的には指導者がひとつの決断を下さなければならないわけですが、内蔵助はずっと悩んでいるのです。内蔵助は結論を出すことを決して急かないのです。

幸四郎の内蔵助でいつも感心するのは、感情の裏打ちを持った・その台詞の抑揚の上手さです。台詞を読み込んで・言葉の流れを際立たせるように伸縮を大きく付けて、言葉を一色では決して言わないのです。例えば内蔵助がしばしば発する「何」と云う台詞ですが、他の役者であると、ここは「ナニ」と単純な一色にしか聞こえません。しかし、幸四郎だと「ナァ二ィィ」と太く引っ張って、そこに微妙な色合いが生まれます。色合いの具合で「ナァ二ィィ」が何通りにも変化するのです。そこに内蔵助が肚のなかで感じていることが、すべて表現されています。「何」と云う一言の台詞でもこの通りで、幸四郎はどんな長い台詞であっても何度も何度も繰り返し発声して、乗りやすいリズムと抑揚を工夫研究したのに違いありません。こう云う言い回しは、或る種「謡う」ような様式的な感覚を呼び起こします。そこが歌舞伎らしいという感覚に繋がるとも云えますが、吉之助はむしろこれを「演劇的な台詞廻し」と形容したいですねえ。古今東西を問わず、優れた役者の台詞は「まるで音楽を聞くようだ」と評されるものですが、幸四郎の内蔵助がまさにそう云うものです。

猿之助の磯貝十郎左衛門は悪くないですが、肝心の「厭でござる、厭でござる」の箇所が醒めた感じがします。ここはもっと恥も外聞もなく泣き叫んで欲しいのです。役者とすれば、ちょっと恥ずかしい気分になるのかも知れません。その気持ちも分からないことはないですが、ここは肝心の箇所ですからねえ。

(R2・3・17)



 

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