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五代目菊之助の狐忠信・文楽との共演

令和元年9月28日NHKホール:第46回NHK古典芸能鑑賞会「義経千本桜」〜川連法眼館

五代目尾上菊之助(佐藤忠信・源九郎狐・二役)、四代目中村梅枝(静御前)、五代目中村時蔵(源義経)
文楽座共演(浄瑠璃:豊竹咲太夫、三味線:鶴沢燕三、ツレ:鶴沢燕次郎)


1)歌舞伎と竹本

本稿で紹介するのは、令和元年9月28日NHKホールで1日だけ上演された・菊之助の狐忠信による「義経千本桜〜川連法眼館」の舞台映像です。この公演が特別なのは、文楽の咲太夫との共演ということです。ただし咲太夫が幕全部を語るのではなく、前半部分はいつも通りに竹本(愛太夫)が語って、咲太夫が語るのは後半の「・・てこそ帰りけれ。園原や、帚木(ははきぎ)ならでありと見し」から、つまり静御前による忠信の詮議以降になります。

しかし、ここからであると、役者が台詞をしゃべる場面は数えるほどしかありません。それでも義経・静御前には台詞が数か所(それもごく短い)ありますが、狐忠信の場合は、静の鼓の詮議の場面での「コハなんとなさるゝぞ」、「なに科あつて騙し討ちに、斬らるゝ覚へかつてなし」、これに忠信が狐の正体を現わす直前の台詞「桓武天皇の御宇(ぎょう)、内裏(だいり)に雨乞ひありし時、この大和国に千年功ふる雌狐(めぎつね)雄狐(おぎつね)。二疋の狐を狩り出だし、その狐の生皮を以て拵へたるその鼓。雨の神を諫(いさ)めの神楽、日に向かふてこれを打てば、鼓はもとより波の音。狐は陰の獣故、水を発(おこ)して降る雨に、民百姓は悦びの声を初めて上げしより、初音の鼓と名付け給ふ。その鼓は私が親、私めはその鼓の子でござります」、以上の三つの台詞だけです。義太夫の地色や色を文楽の太夫が取るのは当然ですが、それじゃあ地を役者が取るのかと云うと、そう云うことではないのです。「文楽と歌舞伎の共演」と云うと聞こえは良いですが、実際にはこれは「歌舞伎役者が文楽の太夫に合わせて動いた」に近いものです。

と云うことは、「文楽と歌舞伎の共演」と聞いて観客が「ホウ、それは見てみたい」と期待するものとはかなり異なると云うことなのです。ただし、これは後述しますが、これが観客の期待通りでないのには、もちろんそれなりの事情・理由があるわけです。そこを考えないと、この舞台で起こっていることの意味が見えて来ません。そこでまず「義太夫狂言とはどういうものか」と云うことを考えてみたいのです。

 「義太夫狂言とはどういうものか」、この問いは簡単なようでいて、実はとても難しいのです。義太夫狂言とは元々人形浄瑠璃(文楽)のために書かれたもので、これを歌舞伎でやる時は、義太夫の台詞(地)の部分を役者が言い、それ以外のト書きの部分は床(竹本)が持つ。一言で云うならばまあそう云うことです。しかし、実際に「ここはどうする」と云う具体的なことになると、これは一筋縄では行きません。太夫の語り物(音曲)としての義太夫から、役者の台詞(に当たる部分)をポンと抜き出してそれで終わりと云うわけに行かないからです。

例えば今回(令和元年9月28日NHKホール)で竹本(愛太夫)が語る「川連法眼館」前半を、文楽床本を手にして聞いて見れば、それが分かります。歌舞伎で聞く竹本は、詞章や間が文楽(本行と云う・つまり本家・オリジナルと云うこと)と随所に違っていますが、舞台を見ながら竹本を聞けば、そうならざるを得なかった事情がまざまざと分かって来ます。まず役者の動きの間と、人形の動きの間が全然違います。さらに役者の台詞の息が、義太夫の間と全然違います。これは違うことが悪いのではなくて、歌舞伎として練り上げていけば必然的にそうならざるを得なかったのです。こう考えると、竹本が役者の動きや台詞の間じっと息を詰めて、自分の持ち場でそこまでで途切れた音曲のラインを再び繋ぎ合わせる苦労が、並大抵のことでないことが分かって来ます。このことを想像しただけで、吉之助などは息が苦しくなったり、間(ま)が持てなくなってコケそうです。ですから竹本が本行と微妙に(或る場面においては大幅に)異なることは、長い歴史のなかでの、役者と竹本の相克の中から生まれて来たことなのです。変わったのには、やはり変らざるを得なかった事情があるのです。文楽床本を手にしながら歌舞伎を見ると、「これはもはや元には戻せない」とつくづく感じます。そもそも「元に戻す」のが正しいことなのかさえ分からなくなって来ます。

このことは約300年ほど前に歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れた時、どのような形態で・どのようなプロセスで義太夫狂言を始めたのかと云う疑問と深く関連します。例えば二代目団十郎が「心中天網島」や「国姓爺合戦」を演じた記録はありますが、これがどう云う形であったか、文献的にはほとんど検証出来ていないのです。義太夫にただ振りを付けて演じただけであったか、それとも現在と似た形であったかどうかさえ分からない。文楽床本を手にして歌舞伎の舞台を見てみれば、「ここの部分は俺(役者)が取る・ここを変えろ」・「イヤそれは出来ません」という役者と竹本の押し引きと譲歩・折衷が頻繁にあったであろう。こうして現在歌舞伎座で見る舞台にまで至ったということは想像ができます。しかし、このことは非常に重要なことなので特に意識してもらいたいですが、そのような変遷の過程においても、歌舞伎は人形浄瑠璃をズタズタに改変することはしなかったということです。つまり、結果として歌舞伎は人形浄瑠璃の骨格の大筋を守った、本行へのリスペクトを捨てなかったということです。このことはいずれ機会を見て改めて考えてみたいと思います。

ところで「文楽の太夫と歌舞伎役者が共演する」と聞くと「ホウ、その試みを見てみたいねえ」と誰しも思うことでしょう。そう云う場合に皆が期待することは、歌舞伎(役者)の仕勝手で不必要に引き伸ばされてしまった間(ま)を直してもらいたいとか、歌舞伎がカットしたり改変してしまった場面を出来るだけオリジナルに(正しい形に)戻してもらいたいとか、そう云うことなのです。つまり長い間着て汚れやシワが付いたワイシャツを、糊が効いてアイロン掛かったパリッとした感じに戻して欲しいと云うことです。しかし、ここでは観客の期待と現場の思惑が食い違っています。そのような期待を文楽の太夫にしてしまうと、「ちょっと待ってくださいよ、共演するとは言ったけど、そういうことじゃないんだよ」と文楽の太夫は言いたくなると思います。確かにそれを文楽の太夫に期待するのは筋違いなことなのです。(この稿づづく)

(R2・2・17)


2)文楽と歌舞伎の駆け引き

文楽の太夫と歌舞伎役者の共演は、台詞のない舞踊では「文楽座出演」という形がたまにありますが、役者が台詞を云い・竹本がト書きを語るような形式は、長くタブーとされて来ました。このタブーを破ったのは、昭和34年(1959)4月に2日間だけ行われた文楽の八代目竹本綱太夫・竹沢弥七のコンビが八代目幸四郎と共演した「日向嶋」のことでした。二番目の試みが二年後に昭和36年(1961)4月歌舞伎座で同じく綱太夫・弥七が十七代目勘三郎と共演した「川連法眼館」です。なお綱太夫と勘三郎の同じく「川連館」の共演は昭和41年(1966)12月京都南座で再度行われており、今回上演(令和元年9月28日NHKホール)はそれ以来の試みになります。しかし、これらは(しばしば混同されていますが)文楽の太夫が竹本の役割を勤めたと云うのとはまったく異なる次元のものです。

今回の咲太夫と菊之助の「川連館」の台本ですが、綱太夫と勘三郎共演時のものが使われたそうです。咲太夫からすると、「親父(綱太夫)が歌舞伎にここまでは譲歩したのだから・この台本でやりましょ」と云うことだったと思いますが、文楽床本を見ながら映像を見ると、はるか昔の昭和36年、恐らく綱太夫と勘三郎との間に「ここの部分は私(勘三郎)にやらせてください」・「イヤそれは出来まへん」という押し問答が続いたのであろうなあということが想像出来ます。結果として綱太夫がことごとく押し切った感じがします。この台本であると、ほとんど「歌舞伎の狐忠信が文楽の太夫に合わせて動く」に近い。もうちょっと歌舞伎に譲ってやっても良いのじゃないかと思うところは確かにあります。

忠信が狐の正体を表わす直前の「桓武天皇の御宇(ぎょう)、内裏(だいり)に雨乞ひありし時・・」のかなり長い台詞を役者に渡していますが、ここは狐への早替わりの間が入って太夫が息を休められるから、ここは歌舞伎に譲っても良いと云う判断です。しかし、例えば

「なるほど、雨の祈りに二親の狐を取られ、殺されたその時は、親子の差別(しゃべつ)も悲しい事も、弁へなきまだ子狐。藻(も)を被(かづ)く程年も長け鳥居の数も重なれど、一日親をも養はず、産みの恩を送らねば、豚狼にも劣りし故、六万四千の狐の下座に着き、ただ野狐とさげしまれ、官上りの願(がん)も叶はず、親に不孝な子があれば、ヤイ畜生よ野良狐と人間では仰れども。鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述ぶ、烏は親の養ひを育み返すも皆孝行。」

の詞章は、歌舞伎では通常「ヤイ畜生よ野良狐と人間では仰れども」までを役者が取り、「鳩の子は親鳥より枝を下がつて礼儀を述ぶ」からを竹本が語ります。今回上演本では上掲詞章全部を文楽の太夫が取っています。これは義太夫を聞くと「人間では仰れども」からは節が付いていますから、上掲詞章ひと纏まりが太夫のものだ・ここは役者に渡せないと云う綱太夫の判断に拠るのでしょう。義太夫の骨格を崩せないという判断なのです。「畜生よ野良狐と」までの詞を役者が言い、「人間では仰れども」から太夫が継ぐという折衷案だってありそうに思います(その方が面白くなりそうだ)が、「そんな竹本みたいなこと文楽の太夫が出来ますかいな」ということだと思います。兎に角、竹本風になりそうな箇所がことごとく拒否されている印象がします。その結果、「汚れやシワが付いたワイシャツ(歌舞伎)を糊が効いてアイロン掛かったパリッとした感じにして欲しい」という観客の期待は裏切られています。言い換えれば、綱太夫は義太夫の骨格を損ないそうな場面をすべて本行の領分であると頑として譲らなかったと云うことなのです。こういう場合、本行の判断が優先するのは当然のことです。

勘三郎は文楽の綱太夫・弥七と共演するならば、彼の得意分野から見ても地(詞)の部分が多そうな世話物浄瑠璃を選択した方が良かったのではないでしょうかねえ。舞踊的な振りの要素が多い「川連館」を選んでしまったために、勘三郎の良さが活かされなかった気がするのです。ですから今回の咲太夫と菊之助との関係では、文楽と歌舞伎の駆け引きが起きるはずがないことなので、「歌舞伎の狐忠信が文楽の太夫に合わせて動く」ところで、菊之助がどれだけ本行の息を体現した演技が出来るか、これが今回上演の見どころと云うことになるでしょう。(この稿づづく)

(R2・2・25)


3)文楽と歌舞伎の駆け引き・続き

「歌舞伎の狐忠信が文楽の太夫に合わせて動く」と云う点では、菊之助は本行の息に付いていくべく・良く頑張ったと思います。それを認めた上で云いますが、本行の息に近いところでやることが、いつもの歌舞伎の「四の切」と比べて「間合いがキリッと引き締まった」と感じるならば良いと云うことになるのでしょうが、実際に見ると、文楽と歌舞伎では「表現ベクトルが真逆である」と云う当たり前のことが、今更のように分かって来ます。文楽の場合は、人形が人間の動きを模す・つまり人形の表現が志向するところは写実(リアル)と云うことです。一方、歌舞伎の場合には、役者は決して人形の動きを模すわけではないのですが・義太夫に合わせて様式的な振りの演技をすることで、結果として役者の表現は反写実を志向することになるのです。だから表現ベクトルがまったく逆になる、このことを菊之助の狐忠信は改めて意識させます。

ここでもう一度、約300年ほど前に歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れた時、どのような形態で・どのようなプロセスで義太夫狂言を始めたのかと云う疑問に立ち返ります。吉之助は、なぜ歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れる時に、脚本を全面解体して主題と粗筋だけ拝借して地狂言(台詞劇)に仕立て直さなかったのか、そうすればそもそも役者が人形の真似をするような手間掛かったことをせずに済んだのにと思うわけです。理由は、いくつか考えられます。竹本座・豊竹座が競い合っていた人形浄瑠璃の黄金期は、「操(あやつ)り段々流行して歌舞伎はなきが如し」(「浄瑠璃譜」)と云う状況でした。当時の歌舞伎は作劇レベルで人形浄瑠璃に到底太刀打ちが出来ませんでした。また歌舞伎が違う手法でやろうとしても、観客がそれを認めなかったでしょう。だから歌舞伎は人形浄瑠璃に沿ったことをしなければならなかったと云う事情が考えられます。しかし、歌舞伎には一点だけ有利なことがあったかも知れません。それは人形がやるよりも生身の人間がやる方が絶対リアルなはずだと云う、この一点です。吉之助は歌舞伎が人形の真似をしようと云う突拍子もないことを始めたのは、多分「人間が演技をやれば写実度では勝てる」と云う安直な発想からではなかったかと思うのです。しかし、結局、歌舞伎は人形浄瑠璃に「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」形になったわけです。その後の歌舞伎は、それまでとまったく違う形態へと変容していきます。(詳しくは別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」をご覧ください。)

菊之助の狐忠信は、本行(咲太夫)の息によく付いて頑張って動いて、「歌舞伎の狐忠信が文楽の太夫に合わせて動く」というところは、十分実現できています。本行の息でやると、普段の歌舞伎の息よりも詰めて動かねばなりませんから、苦しいことになります。これでもし床本の詞(地)の部分を細かく役者に渡されたとしたら、それこそ息が継げなくなるかも知れません。だからここでは普段の歌舞伎の狐忠信よりも、間(ま)が急いて・いくぶん余裕がない感じにも見えてきます。そこはやはり一長一短があるようです。最初期の歌舞伎の義太夫狂言もこんな格闘から始まったのかなと云うことを想像してみても良いのではないでしょうかね。これを見れば、歌舞伎が人形浄瑠璃との折り合いを付けて義太夫狂言という一大ジャンルを確立するために、つまり義太夫のなかに役者仕様の間合いを取り入れて折り合いを付けるために、竹本が普段どれだけ苦労しているかと云うことも、何となく察せられます。ともすれば我々は竹本の存在を一段低く見勝ちですけれども、竹本は義太夫狂言を成り立たせるため大いにクッションになってくれているわけですね。

しかし普段の歌舞伎の舞台では、間(ま)が歌舞伎(役者)の仕勝手から引き伸ばされて緊張感が欠ける場面をしばしば見かけることは事実です。ですから今回(令和元年9月28日NHKホール)の菊之助の狐忠信の文楽の共演は、オリジナルに立ち返り・歌舞伎の緩んだネジを締めなおすと云う意味において、とても意義ある試みであったのではないでしょうか。細かいことを云えば、今回の菊之助の狐忠信のベースがいつもの菊五郎型であること、この際だからそこに検討を入れてみても良かったのではないかと思うところはありますが、まあ1日だけの特別公演ではそれを行う余裕もなかったでしょう。ともあれこの経験が来る令和2年3月国立小劇場での、菊之助の「義経千本桜」三役主演に何らかの刺激を与えてくれることになるならば良いなあと思います。

(追記)

令和2年3月国立小劇場での、菊之助の狐忠信による「川連法眼館」については、別稿「五代目菊之助による源九郎狐」をご覧ください。

(R2・2・27)



 

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