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世話物としての小団次劇

令和元年5月歌舞伎座・「曾我綉侠御所染」御所五郎蔵

二代目尾上松也(御所五郎蔵)、九代目坂東彦三郎(星影土右衛門)、四代目中村梅枝(傾城皐月)、二代目尾上右近(傾城逢州)


1)小団次-黙阿弥の歌舞伎

吉之助も四十数年歌舞伎を見て来て、「御所五郎蔵」を何度見たか・数えたことはないけれど・まあそれほど多いわけではないですが、しかし、それにしてもこの芝居を面白いと思ったことは一度もない気がしますねえ。何と云えば良いかな、もうちょっと面白い芝居に出来そうなのに、何だか様式美に寄り掛ってどうも具合が良くないねえ、「御所五郎蔵」ってのはこんな芝居なのかねえ・・みたいなことしか考えたことがない気がします。今回(令和元年5月歌舞伎座)の舞台も例外ではないのですが、いい機会なので、ちょっとこの芝居について考えてみたいと思うのです。

黙阿弥の「曾我綉侠御所染」(通称・御所五郎蔵)は元治元年(1864)2月江戸中村座の初演。初演の五郎蔵は名優・四代目小団次、土右衛門は三代目関三十郎でした。ちなみにこの時期は小団次と黙阿弥の提携時代のほとんど終わりに近い時期に当たります。小団次と黙阿弥との深い関係は、嘉永7年(1854)3月の「都鳥廓白浪」(忍ぶの惣太)に始まり、慶応2年(1866)3月小団次の突然の死によって終わりを告げます。ところで小団次との関係から生みだされて、現在でも歌舞伎の人気レパートリーになっている作品は、「宇都谷峠」・「十六夜清心」・「三人吉三」など数多いのですが、小団次の芸風を以後にその通り引き継いだ役者がおらず、明治以降にこれらの作品を引き継いだ五代目菊五郎、あるいはその後の六代目菊五郎・十五代目羽左衛門らの芸風が、良くも悪くも、小団次のそれとは微妙に異なるために、これらの作品は小団次が初演した時とはまったく違った印象で現在まで受け継がれて来た、したがって、現代の舞台から小団次時代の黙阿弥を想像すると若干の齟齬が生じると云うことを想像します。前述の通り、現代の「御所五郎蔵」は何だか様式美に寄り掛ってどうも具合が良くないと感じるのは、その辺に原因があるのではないかと思うのです。

例えば歌舞伎研究者からは、小団次との提携によって黙阿弥の芝居は竹本・清元などの下座音楽の多用、よそ事浄瑠璃・割り科白・七五調の科白など、音楽的・情緒的 な表現に傾斜し、江戸歌舞伎の写実劇の伝統を見失ってしまったと云うことがよく言われます。これは現行歌舞伎での「御所五郎蔵」の五條坂仲之町の舞台を見れば、その指摘もなるほどと思わなくもない。様式美( と云うことでしょうか)と、タラタラとした音楽的流れに頼り切ったダルい台詞廻し。まるで生きた人間が描かれている気がしません。

それにしても、ホントにこのようなダルい舞台が小団次ー黙阿弥の提携の行き着いた所なのでしょうか。吉之助には大いに疑問に思われるのです。「これ以後は色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」という御達しをお役所から受けて、「これじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ」と言って憤死したほどの小団次が、江戸歌舞伎の写実の伝統を歪めたなんてことがあるのでしょうか。決してそんなはずはないと思います。(別稿「小団次の西洋」をご参照ください。)それならば小団次が初演した「御所五郎蔵」というのは、一体どんな感触であったのでしょうか、そんなこともちょっと考えてみたいと思うわけです。(この稿つづく)

(R1・5・29)


2)小団次劇の音楽的要素について

例えば映画に背景音楽がなければ、どれだけドラマが詰まらないものに見えるか想像してみれば良いと思うのですが、小団次ー黙阿弥劇での下座音楽の多用も、結局、写実の芝居を如何に陰翳深く見せるかというところに掛かっているのです。音楽的表現それ自体は写実から遠のくものです。しかし、下座音楽が作り出す情緒に寄り掛って、役者の演技までが様式的になってしまっては元も子もありません。これはむしろその逆で、役者の演技が写実に向くことで、下座音楽が志向するベクトルとの対比を際立たせることによって、感情の彫りがより深くなり、人情の機微が描ける。小団次ー黙阿弥が目指したものは、そう云うことではないでしょうか。

通常黙阿弥の「曾我綉侠御所染」は時代世話であると認識されているようです。これにはもちろん理由がないわけではありません。本作は柳亭種彦の小説「浅間嶽面影草紙・前編・後編」(出版は文化6年〜文化9年)から取材したものですが、 これは種彦が元禄の絵入り狂言本「けいせい浅間嶽」(つまり歌舞伎にとって昔から馴染みの題材です)からアイデアを得て書いたものだそうですから、随分起源が古い御家騒動物なのです。 黙阿弥の芝居の筋は錯綜しているので説明しても仕方ないですが、これは六幕十二場の長い狂言で、たまに「時鳥殺し」の場面が出ることもありますが、現在ではもっぱら「御所五郎蔵」の件のみが見取りで上演されています。

五郎蔵と土右衛門が出合う五條坂仲之町と云うのは、実はこれは 種彦の原作と同じく場所は京都なのですが、黙阿弥は「筑波なれえを吹き返す」などとすっかり江戸の吉原のつもりで書いています。これは浅間家の後室百合の方という悪女が殿寵愛の妾時鳥を嬲り殺しにする「時鳥殺し」の筋(その後時鳥は怨霊と化し数々の怪異を引き起こし芝居全体の骨格を成す)を一番目(時代狂言)に見立て、「御所五郎蔵」の筋を二番目(世話狂言)に見立ているのです。したがって五條坂を江戸吉原に見立てることで、五郎蔵の件を世話に砕いているのです。この辺のセンスがとても大事なことで、五郎蔵の件は時代物の骨格を持っていても、中身は完全に世話なのです。京都での出来事だけれど、芝居は江戸吉原のことだと割り切って楽しむ。五郎蔵のカツラも車鬢などと云う古風なものを付けていても、この場はあくまで世話である。それでないと芝居のアクセントが付かないのではありませんか。

しかし、明治以降現在までの「御所五郎蔵」を見れば、これは明らかに時代世話として、つまり音楽美と様式美が入り混じった世話物として上演されて来たことは明らかです。三宅周太郎が六代目菊五郎の五郎蔵についてこんなことを書いています。

『「御所五郎蔵」の芝居の如きは、黙阿弥の前期の作に属する共通性の、歌舞伎劇の幻想と、グロテスクな様式美とを以て作られた超現実的な物である。さすがに(六代目)菊五郎もこの狂言では写実を加えない。あるいは彼自身の新解釈を加えては忽ち破綻を生じるくらいの、歌舞伎味の濃い作であるのを知っていると見える。それだけに彼は不承不承に型を辿るだけで、その役が生理的にも、技芸的においても自己の領分でないのが分かっていると見えて、熱もなければ、型を優秀な技術たらしめようともしない。ただ型を一通り繰り返しているだけである。ゆえに我々が観賞上から批判を下せば、菊五郎の御所五郎蔵くらい稚拙な物は珍しいとさえ云える。』(三宅周太郎・「演劇往来」〜「羽左衛門と菊五郎の世話物」・大正11年)

三宅周太郎が嫌味を交えてここまで役者をこき下ろすのも珍しいと思いますが、それは兎も角、吉之助には六代目菊五郎の気持ちが何となく分かる気がするのですがねえ。菊五郎は天性のセンスで、「御所五郎蔵」 で人間を描く為にホントは何が必要かちゃんと分かっていたに違いない。しかし、周囲が時代で演技しているなかで自分だけが写実に強引に押したら全体が分解してしまうことが明らかなので、自分の芝居を投げちゃった、そう云うことだと思います。まあ役者としては、確かにしちゃいけないことではあるのですがね。(この稿つづく)

(R1・5・30)


3)明治維新が歌舞伎にもたらした衝撃

時系列を整理すると、「御所五郎蔵」初演が元治元年(1864)2月、小団次が 亡くなったのが慶応2年(1866)5月、王政復古の大号令が慶応3年(1867)12月のことでした。小団次ー黙阿弥の歌舞伎の流れがぶった切られて続かなかった背景には、明治維新を境にした世相の激変が明らかに関係しています。これは明治維新が世間のみならず・歌舞伎にもたらした衝撃が想像以上に大きかったことを示すものです。

同じように日本人の感性に衝撃を引き起こした由々しき事態と云えば、近いところでは昭和20年8月15日の太平洋戦争敗戦があります。戦後処理や戦犯裁判など、どのような過程で日本が泥沼の戦争にはまりこんで敗戦に至ったのかは様々な議論・批判がされたと思いますが、それは大抵直近10年だか20年のところでなされました。歴史的な視点からすれば、もっとはるか昔の明治の日清・日露戦争辺りにも根本要因が潜んでいそうですが、そういうことはほとんど論議されませんでした。議論の仕様がなかったとも云えます。

歌舞伎にとっての明治維新も、まあそんなところです。当時は「天保人」という言葉が侮蔑的に使われた時代でした。開化開化で、江戸のすべてのものが議論抜きで何でも悪いとされました。演劇改良運動で、旧態依然とした歌舞伎の権化として真っ先に槍玉に挙げられたのが、黙阿弥でした。はっきり云えば、それは小団次ー黙阿弥の歌舞伎のことでした。荒事の初代団十郎や近松や出雲など伝統歌舞伎が槍玉に挙げられたわけではなく、直近の小団次の歌舞伎が江戸の旧弊の象徴として否定されたのです。

黙阿弥はなおも歌舞伎に踏みとどまり、苦渋を舐めつつも、遂に名誉回復の機会を得ることが出来たのは幸いなことでした。しかし、 維新前に亡くなった小団次には名誉回復は訪れませんでした。明治14年(1881)に新七から黙阿弥に号を改めた時、黙阿弥は「以来何事にも口を出さずにだまって居る心にて黙の字を用いたれど、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と自分の気持ちを書き残しています。「黙」の字には様々な思いが込められているでしょうが、そこに黙阿弥の小団次への思いが含まれていな かったはずがありません。晩年の黙阿弥は自身の快心作として「三人吉三」(安政7年初演)を挙げたそうですが、これは小団次との提携作でありました。

ですから明治維新によって小団次の歌舞伎の流れは一旦断ち切られた、これ以後も引き続いて上演された「三人吉三」にせよ「十六夜清心」にせよ、元の小団次ー黙阿弥の歌舞伎とはちょっと異なる感覚で処理されて来たのかも知れぬと云うことを考えてみなければならないのです。但し書きを付けますが、これは明治の歌舞伎を引き継いだ九代目団十郎・五代目菊五郎が先輩小団次を裏切ったということではなく、明治の世に在ってはそのような形でなければ小団次の歌舞伎を残すことは出来なかった、そう云う事情があったのかな、それほど明治維新が歌舞伎にもたらした衝撃は大きかった、そう云うことを吉之助は想像するのです。

明治の役者から見れば、「御所五郎蔵」などつい 20年か30年そこら前の芝居であるはずですが、それは彼らにとって精神的に最も遠い芝居になっていたのです。こうして芝居が写実(リアリティ)から遠のいてしまいました。大正期になってみれば、前節で引用した三宅周太郎が書いた通り、小団次の歌舞伎は「歌舞伎劇の幻想と、グロテスクな様式美とを以て作られた超現実的な物」であったのです「御所五郎蔵」が時代世話だと云う認識は、そう云うところから出て来るのです。(この稿つづく)

(R1・6・1)


4)世話物としての小団次劇

五條坂仲之町での五郎蔵と土右衛門の出合いは、小団次が初演した時(元治元年)は子分も含めて双方全員が傘を差して登場したものだそうです。傘には鎌倉の大名の紋どころを描きました。五代目菊五郎は二回目まではこのやり方で演じ、三度目から現在のやり方に変えたとのことです。なぜ菊五郎が変えたのか理由は分かりませんが、多分「弁天小僧」の稲瀬川勢揃いにツクのと、仲之町の舞台では 大時代に過ぎる印象があるせいだろうと思います。しかし、本作は「鞘当」を擬しているわけですから、大時代の印象になるのは当然です。五郎蔵が古風な車鬢のカツラを付けるのも、そういうことです。視覚面をこのように大時代に仕立てておいて、演技面では世話に砕くのです。この対照が小団次ー黙阿弥の仕掛けです。そうでないと世話の「鞘当」の趣向が生きて来ないことは、明らかです。現行の仲之町の舞台を見れば(今回の舞台もそうですが)台詞を時代っぽくダラダラ調の七五でやって面白くなろうはずがありません。

今回(令和元年5月歌舞伎座)の舞台を見ると、松弥の五郎蔵は見掛けは悪くありませんが、台詞が妙に力んで流れがギクシャクして聴き辛い。自然にやれば上手い台詞を喋れる役者なのに、様式的に節を付けて歌おうという意識が却って悪い作用をしているようです。「黙阿弥の七五調は歌うもの」なんてことを云う 方がいるからいけないのです。台詞が導く抑揚に従って言葉を自然に転がせば、リズムは自然と七五のリズムに乗る、そのように黙阿弥がご親切に台詞を書いてくれているですから、そのようにやれば良いことです。

彦三郎の土右衛門も台詞も、リズムがセカセカする感じで余裕がありませんねえ。彦三郎の台詞は歯切れ良く声が通るので、吉之助も評価している役者です。この彦三郎の歯切れ良い台詞は、二拍子を基調にする新歌舞伎であれば活きます。しかし、黙阿弥でこの台詞廻しだと二拍子のリズムが強く出過ぎて、急き立てる印象になってしまいます。黙阿弥の七五調と云うのは、自然な抑揚のなかにゆるやかな緩急の流れがあるものです。これを二拍子で強引に割ろうとするから、言葉が後ろから押す印象になって来ます。もっと言葉をゆったりと自然に流す。そのような滔々たる流れが音楽的な印象を生むのです。

ですから五條坂仲之町の出合いを様式美を見せる時代世話の場面だと思うところに大きな誤解があるわけで、視覚面ではバッチリ大時代に決めても、演技・台詞は写実に生世話に砕く、そのギャップこそが、小団次ー黙阿弥の歌舞伎の面白さなのです。意図的に世話に崩していくことをしないと、小団次劇の面白さは出て来ません。活きの良い人間を描くことこそ、小団次の狙いです。そこを様式的に納めてしまったら、生きた人間を描いたことにならないじゃアありませんか。残念ながら、明治以降の「御所五郎蔵」はそんな感じになってしまいました。吉之助はそこに明治維新が歌舞伎にもたらした 伝統の断絶の大きさを思うのです。

(R1・6・3)



 

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