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前進座の「佐倉義民伝」

令和元年5月国立劇場・前進座公演:「佐倉義民伝」

七代目嵐芳三郎(木内宗五郎)、六代目河原崎国太郎(女房おさん)、藤川矢之輔(渡し守甚兵衛・仏光寺住職光然・二役)


1)民衆劇の視点

瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演され大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ただし「東山桜荘子」は惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなく、題名から分かる通り世界を東山に採 り・つまり室町時代に仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げました。現行の印旛沼渡し・宗五内は如皐の筆によるものです。さらに文久元年(1861)8月守田座で再演(外題は「桜荘子後日文談」)された時に、小団次の要望で黙阿弥によって、田舎源氏の筋を抜き仏光寺光然(こうぜん)和尚の祈りから入水を加えるなどの大改訂が施されました。また大切に佐倉宮祭礼の所作を加えました。これが現在の「佐倉義民伝」の原型になるものです。

重税にあえぐ農民の窮状を見かねて奔走し、最後は自らの命どころか家族の犠牲さえ厭わず将軍への直訴を敢行する義民・宗五郎は、前進座の演し物として長年練り上げられてきたものです。三階出身の役者たちが団結して出来た前進座に「義民伝」は良く似合います。幸い吉之助は昭和56年(1981)8月国立劇場での前進座公演で三代目翫右衛門の宗五郎を見ることが出来ました。(この時のおさんは六代目芳三郎でした。)様式のなかにも鋭いリアルな感覚が胸をうつ翫右衛門の宗五郎は、今も吉之助の記憶に鮮やかに残っています。ただしこの時は門訴は出ましたが、印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴までの半通し上演で、仏光寺が出ませんでした。今回は三幕六場でほぼ完全に筋を通す形となっており、前進座でもこの形では約51年ぶりの上演になるそうです。

現行歌舞伎での「義民伝」上演は、ほぼ印旛沼渡し・宗五内子別れ・直訴の三場仕立てが通例です。もちろん芝居のエッセンスはこれで十分分かりますが、子別れが主体になると、将軍直訴のため江戸に向かおうとする宗五郎の行動を後ろへ引っ張るベクトルが異様に強く見えて来ます。だから大いに泣かせる芝居に出来るわけです(ここでの如皐の脚本は実によく書けています、切られ与三より数段良いですねえ)が、宗五郎が別れの辛さを熱演し過ぎると、本心では直訴に行きたくないみたいに見えかねません。

それは一般的な歌舞伎の図式であると世話(人情)と対立するのが時代の論理(政治)ということになるわけですが、重の井子別れなら確かにそう読めますが、宗五内子別れではその読み方が取れないからです。子別れ(愛する妻子と別れたくない宗五郎の気持ち)は人情に違いないですが、飢えに苦しむ人たちを助けなければならない・そのためには我が身を犠牲にしてでも将軍直訴を結構せねばならないという宗五郎の気持ちはもっともっと深くて広い無償の愛なのですから、これこそ究極の世話だと云えそうです。だから、これは決して単純な世話と時代の対立構図で読めないのです。(これについては別稿「子別れの乖離感覚」で論じましたから、そちらをご覧ください。)

だから宗五郎の気持ちを直訴へ駆り立てる前向きのベクトルを観客に強く意識させるために、門訴の場を付けることは、とても役に立ちます。吉之助としては通例の上演形態(三場)にさらに門訴の場を加えて、少なくとも四場仕立てとしていただきたい。その方が宗五郎の心情が、ツーンと胸に突くようにはっきり見えて来ると思います。(この稿つづく)

(R1・5・18)


2)仏光寺祈念の場の過激性

文久元年の再演(「桜荘子後日文談」)のために黙阿弥が書き下ろした仏光寺祈念の場は、今では滅多に上演がされません。しかし、この場はとても興味深いものです。仏光寺住職光然は宗五郎一家の助命を祈って三七日(みなのか)の行を続けていましたが、駆けつけた百姓十作が一家の処刑の情景を詳しく語ります。これを聞いた光然は憤怒の余り数珠を切りお経を引き裂いて、せめて彼らの遺骸を奪い取り自分の手で葬ろうと決死の覚悟で刑場へ向かいます。さらに次の場で光然は印旛沼に入水してしまいます。光然は宗五郎一家処刑の不当を強く叫び、荒事の要素も加わって観客を怒りの感情で激しく揺さぶります。この時代にここまでのものがよく書けたものだと驚いてしまいます。

現代の我々からすると過激な内容に見えますが、当時のお上がこの芝居を上演差し止めにしなかったことは、とても大事なポイントです。何故かと云うのは、簡単です。お上はこの芝居を幕府を批判した・封建制度の在り方を糾弾したと見なさなかったからです。将軍が慈悲の心を以て宗五郎の死を賭した訴えを取り上げて、暴虐な領主の振る舞いを糺したことで、お上の慈悲と度量の大きさが芝居のなかで十分示されているからです。悪いのは領主です。悪い領主には将軍が罰を与える。将軍さまはいつも民の幸せを考えているのです。憐れみを以て慈悲を与えるのは、為政者が特に好むポーズです。これが当時の芝居が持つ世界観でした。

明治の世に入ると宗五郎は宗五郎は命を賭けて民を守り・身分制度の不当を訴えた人物として、自由民権運動のシンボルに祀り上げられて行きます。そのような要素は「義民伝」のなかに内在するもので、これを延長すれば、確かにこれは社会批判の方向へ向かうものです。しかし、江戸時代の庶民の感覚にはまだそれは 存在しないものでした。当時はまだ人権とか・四民平等なんて概念がなかったからです。だからここでは宗五郎の気持ちのピュアなところを芝居から読みたいと思います。そこに見える宗五郎の気持ちとは、「悪いことをせず・たたひたすら真面目に・誠実に生きている庶民が、平和に安穏に暮らせる世の中で在って欲しい、強く願うことはただそれだけ」ということです。そして、民衆のささやかな願いを踏みにじる理不尽なものに対して宗五郎は憤りを発するのです。

今回(令和元年5月前進座公演)では、大切の印旛沼湖畔の場がエピローグとして良く出来ていました。これは宗五郎一家刑死の翌年春のことでしょうかね。宗五郎の願いが聞き届けられて年貢は軽減されました。人々は宗五郎に感謝を捧げ、志を受け継いで強く生きて行こうと誓い合い、ささやかな祭礼を宗五郎に捧げます。前場(仏光寺の場)で観客が感じた救いようの無さ、ムラムラと湧き上がる憤りが、穏やかで澄んだ感情に浄化されていく気分がしました。おかげで、静かな気分で劇場から出ることが出来ました。しかし、芝居のなかで宗五郎が提示した「これでいいのか」という疑問は観客の胸のどこかにしっかり残り、いつか大きな意味を持つことになるでしょう。宗五郎が生きた時代から恐らく三百年以上の歳月が経っているわけですが、現代の我々は宗五郎が望んだような世の中に出来ているのだろうか、そう云うことも考えて見なければならないことですね。(この稿つづく)

(R1・5・24)


3)芳三郎の宗五郎

前進座の芝居を見ていつも感心するのは、アンサンブルの良さです。前進座では主役だけが突出して見えることはありません。どの役も芝居が求めるサイズでそのような芝居が出来ています。すべての役者が同じ方向を向いているので、「義民伝」のような民衆劇では特にその良さを実感します。松竹歌舞伎を見慣れた方には、もしかしたらアッサリ風味で・もう少し濃い味付けが欲しいように見えるかも知れませんが、「歌舞伎らしさ」にドップリ浸かっていない演技が吉之助には新鮮に見えますねえ。台詞が七五のダラダラに陥らないし、台詞の末尾を長く伸ばして転がす役者もいません。これは写実を旨とする生世話では、大事なことなのです。

芳三郎の宗五郎はスッキリした風姿で、心の清く美しい人物像を素直に描き出せています。吉之助の記憶に残っている翫右衛門の宗五郎はもっと線が太かったし、演技に緩急を付けて感情の揺れを強く出しました。子別れの場面は素晴らしいものでした。その点では芳三郎はやや線が細い感じがしてアッサリ風味で、人によっては歌舞伎味がちょっと薄いと感じる方も居られるでしょう。それは台詞・演技のほんの僅かな緩急の付け方(息の取り方)に弱いところがあるせいです。演技がトントンと定間で進むからです。(ほぼ同じことが国太郎の女房おさんについても云えそうです。) このため子別れで引き裂かれるアンビバレントな感情が胸にツーンと来るというところまでには至っていないのだけれど、代わりにこの人の宗五郎は殉教者のような無垢な清らかさがありますねえ。だから描きたいものは確かに伝わって来ます。こういう宗五郎もあって良いと思いますし、回を重ねて行けば子別れの悲痛さがもっと出て来るでしょう。翫右衛門の貴重な映像が遺っているのですから、それを見て研究してもらいたいですね。大切の印旛沼湖畔の場で芳三郎と国太郎が旅芸人の二人連れで登場したのには、救われる思いがします。これは堀田の殿様の寝所に宗五郎夫婦の怨霊が現れて芝居が終わるよりも、ずっと後味が良い終わり方です。

(R1・5・26)



 

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