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十代目幸四郎襲名の伊左衛門

平成30年4月御園座:「廓文章」

十代目松本幸四郎(七代目市川染五郎改め)(藤屋伊左衛門)、初代中村壱太郎(扇屋夕霧)

(十代目松本幸四郎襲名披露狂言)


本年(平成30年)1月歌舞伎座から始まった十代目幸四郎襲名も今月(4月)は名古屋・御園座に劇場を移して行われ、夜の部は幸四郎は初役で「廓文章」の伊左衛門 を勤めます。吉之助は、「廓文章」については、見る前はてっきり幸四郎は仁左衛門から上方型の指導を受けたのだろうと思い込んでいましたが、実際はそうではなくて、今回の「廓文章」は六代目菊五郎が練り上げた東京型を採用しており、竹本と清元の掛け合いで行うものでした。吉之助は菊五郎の芸を受け継いだ(菊五郎の娘婿である)十七代目勘三郎の伊左衛門の舞台を何度か見ました。今回、幸四郎は勘三郎の型をよく承知している(勘三郎の娘婿である)二代目沢村藤十郎から指導を受けたとのことです。

   

ところで代々の「幸四郎」と云うと、世間には由良助や熊谷・弁慶など実事の骨太い印象があると思います。一方、十代目幸四郎は優男・色男の役柄も得意としており、機会は多くないけれど女形も勤めますから、これから「幸四郎」の芸の系譜にこれまでにない新たな 領域が加わって行くことになります。そんな新・幸四郎の気概を示すものとして、今回の初役の伊左衛門に大いに期待しましたが、舞台を見たところではまだまだ消化不良の感があって、課題が多い伊左衛門です。まず声のトーンを意識的にかなり高く取っているのが、作為的な印象を醸し出します。動きにも課題があります。幸四郎は元々腰高のところがありますが、この伊左衛門は動きがヒョコタンヒョコタンしており(腰を落としていないから肩の上下動が大きいのです)、滑稽感覚が浮き上がって演技が表面的に見えます。観客は反応してよく笑っていました。しかし、滑稽に実が伴わないので、観客を笑わせるだけのコントにしか見えない、まあそんな感じでしょうかね。「廓文章」をお頭と体力が弱い商家のボンボンの笑劇だとすれば、それなりかも知れません。幸四郎が上方和事の芸をこのような滑稽な三枚目的要素で捉えているように見えたことは、とても残念でした。

別稿「和事芸の起源」・「和事芸の多面性」でも触れた通り、上方和事の本質はやつしの芸である、つまりこれは「今の自分の有り様は、真実の自分の姿ではない(本当の自分は別のところにいる)」というシリアスな思いなのです。その思いを胸にグッと秘めて素直に出さずに誣(し)いるだからシリアスな要素を中和するために滑稽味や諧謔味が背中合わせに出て来るのです。照れ隠しと云うのでもないが、シリアスな要素をストレートに出す(ストレートに出せばこれは江戸荒事の行き方に近くなるわけですが)ことを恥じるところがあって、逆にシリアスな要素を捻(ひね)った形で出して見せる、これが上方和事なのです。幸四郎の伊左衛門のように滑稽が浮いて見えるのは、上方和事を表層的に理解しているせいです。もっと伊左衛門の心情をシリアスな方向から掘り下げて行かねばなりません。そこからこぼれ落ちる哀れさがどこかしら滑稽に映るのが、上方和事の本来の在り方であると思います。例えば伊左衛門の台詞を見れば、

『・・この唄で思い出す、去年の月見に、太夫とわしが連弾(つれび)きで、弾いた時の面白さ、弾くその主(ぬし)は変わらねど、変わったは俺の身の上、あいつが心底、このような心であろうとは。』

「あれから変わったのは自分(伊左衛門)の身の上とあいつ(夕霧)の心だ」と言って嘆いています。勘当されて落ちぶれた我が身の情けなさもありますが、それよりも伊左衛門は互いの愛を誓い合ったはずの夕霧の心変わりを嘆いています。もののあはれ、この世の無常にも通じると云えます。この台詞はまったくシリアスそのもので、滑稽な要素はどこにも見えません。この台詞を起点に伊左衛門の性根の全体を構築すれば良いと思います。

『いかさま、そうじゃなア、恋も誠も世にある時、人の心と飛鳥川(あすかがわ)、変わるは勤めの習いじゃもの。逢わずにいっそ帰りましょ。・・・さりながら喜左衛門夫婦の心遣い、逢わずに去(い)んではこの胸が・・・』

ここで伊左衛門が「逢わずにいっそ帰りましょ」と言って帰りかけるのは、夕霧に会いたい本心を隠す為に嘘(ポーズ)でそう言うと多分幸四郎は解釈するのでしょうが、伊左衛門は夕霧が来ないのを怒って本気で帰ろうしていると考えた方が良いのです。しかし、これは一瞬だけのことで、伊左衛門は花道を行きかけてフッと思いとどまる(心変わりする)。「さりながら喜左衛門夫婦の心遣い・・」と云うのは、もちろん夕霧に会いたい自分の気持ちへの口実に過ぎません。夕霧が居る奥座敷の方を見やりながら、この台詞を上の空で言い、ここでシリアスと滑稽が交錯します。そこに「逢いたいけれど憎らしくて逢いたくない、逢いたくないけどやっぱり逢いたい」と云う、上方和事の揺れる気分が出るのです。そのどちらも伊左衛門の本心だと考えた方が良いのです。

現行歌舞伎においては上方和事を「つっころばし」に代表される、ナヨナヨした弱々しさの三枚目的な芸として捉えることがもっぱらです。こうなったことについてはもちろんそれなりの背景を思いやらねばなりませんが、一番大きな要因は元禄期の私(わたくし)の心情(吉之助が「かぶき的心情」と呼んでいるもの)が後世の人々が実感を以て受け止められないせいです。このため上方和事は実質を失い、脆弱な三枚目芸の如く見なされることが多くなって来ました。それでも当代(四代目)坂田藤十郎、当代(十五代目)仁左衛門など優れた上方和事役者は現代にもいますが、東京の役者にはそこの感覚がなかなか難しいのでありましょうか。

ここで吉之助は十七代目勘三郎の伊左衛門の舞台を思い出すのですが、勘三郎の伊左衛門はもちろん本人持前の愛嬌がよく効いていたとは云え、伊左衛門が内心に沸々とたぎらせる思い、「今の自分の有り様は、真実の自分の姿ではない」という思いはしっかり持っていたのです。伊左衛門がこの思いを持ち続けていたからこそ、芝居では最後に勘当が許されて目出度し目出度しとなる。伊左衛門は最後に真実の自分の姿に戻ったのです。他愛ない芝居だと云えば確かにそんなものですが、「廓文章」を見て観客が明るい気分になるのはそのせいです。遺された勘三郎の「廓文章」の舞台映像を見ると、本人の愛嬌ばかり目に強く残るかも知れませんが、ホントに学ぶべきところはそこです。

当代幸四郎が「幸四郎」の芸の系譜に上方和事の領域を加えようと云うのならば、そこに「実事」(シリアスさ)の共通項を見出すこと、これが取っ掛かりになると申し上げたいですねえ。声のトーンを落として台詞をシリアスにしゃべる、これだけでも相当印象は変わるはずです。まあ再演を期待いたしましょうか。

最後になりましたが、壱太郎の夕霧は品良く勤めてなかなか良かったと思います。

(H30・4・29)



 

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