(TOP)     (戻る)

忠太郎の論理〜負い目と自負心

平成29年12月歌舞伎座:「瞼の母」

九代目市川中車(番場の忠太郎)、五代目坂東玉三郎(水熊のおはま)


1)負い目と自負心

歌舞伎では「一本刀土俵入」の上演の方が多いと思いますが、新国劇や旅回り劇団その他を含めると、長谷川伸の戯曲で最も上演回数が多いのは「瞼の母」、次いで「沓掛時次郎」なのだそうです。これらは映画化も多くされており、長谷川は大衆に最も愛された戯曲作家であることは疑いありません。ところで「瞼の母」はいわゆる股旅物で、番場の忠太郎は渡世人ですが、長谷川が描く渡世人には或るパターンがあります。これについては佐藤忠男著・「長谷川伸論」がとても参考になります。以下本書の助けを借りながら、その周辺を考えてみたいと思います。

佐藤忠男:長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

長谷川戯曲の主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちは人一倍強いのだけど、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという負い目がこれまた人一倍強いのです。それで女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。ですからこれでやっと二人の幸せが来ると云う場面になると、男は女に気付かれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。このように書くと、男が女から身を引くという行動は、その「負い目」ゆえに男は女との小さな幸せさえも手にすることができないという風に読めるかも知れませんが、そう単純なものでもありません。その辺もうちょっと考える必要があります。

まず渡世人と云えども、彼なりの自負心を持っているわけです。女は彼の助けを必要としているということを彼は分かっていますから、彼はそこに自分の価値を賭けています。長谷川戯曲のヒロインは、大抵の場合、悲惨な境遇に置かれています。彼にはそこから女を何とか救い出す力がある(多くの場合、それは腕力ですが、なにがしかの金である場合もある)ので、女を助けるわけですが、目の前の問題が解決されてしまうと、彼は急に現実と向き合わなければならないことになるのです。そうすると彼は自分に付きまとう「負い目」という奴が気になって来ます。これがあるからには、女との幸せは決して長くは続かない、自分は女を幸福にする資格がないということが、彼には分かっています。そこで自分の「負い目」が露呈する前に、彼は女の元から去ってしまう。こうすることで美談は美談のままで終わり、彼の行為の「粋」は保たれる。逆に云えば、そこで彼が情にほだされて女の元に居残ってしまうことは、彼にとって「野暮」なのです。 そこに彼らの個の主張がある。

『彼らは自分を省みずに他人を助けるという「いき」な行為を取るのであるけれども、その行為は結果としては美談のかたちを取る。しかし、美談の主がみんなの喝采をあびてそこに居残るというのはまことに野暮なことである。「いき」な行為とは無償の行為でなければならないが、彼らは、彼らの行為が美談となったとたんにさっと消えることによってのみ、その行為が純粋に「誇り」と「恥」の二律背反の気持ちから生み出された無償の行為であることを主張できるのである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」)

ここで佐藤先生は「恥」という言葉を使っていますが、吉之助はそこを負い目という言葉に置き換えていることに、留意ください。あまり違いがないみたいですが、昭和の新歌舞伎の長谷川伸の分析に使うのならば、「恥」で十分だと思います。しかし、ルース・べネディクトの「菊と刀」的な恥の概念は、特に江戸初期のかぶき者の心情を分析する時には邪魔になります。江戸初期のかぶき者には、個人と世間を対立構図に見る考え方がまだ ありません。はっきりそうなるのは明治以降のことです。吉之助としては、佐藤氏の理論を歌舞伎のかぶき者の心情分析にも応用したいと考えているので、個人の心情に 更に踏み込んだ形で 、負い目或いは引け目と云う言葉を使いたいのです。

『大衆は趣味と教養が低いから感傷的な悲劇しか愛さないのではない。事実上、たいして名誉を持っていない者が、あたかも名誉ある者のように道徳的にふるまおうとするならば、それは実際には意地を張るというかたちをとらざるを得ず、したがって、崇高な名誉心によって困難な状況に耐えるということより、感傷的な意地によってこそ困難な状況に耐えることのほうが、大衆にとってはるかに親しい具体的な発想法だからである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」)

上記の佐藤先生の文章は、例えば「義経千本桜・鮓屋」でいがみの権太が妻子を犠牲にする大博打のドラマツルギーの秘密を、どの歌舞伎の解説より、シンプルに解き明かしてくれるように思います。これならば、いがみの権太の犠牲的行為が持つ崇高さをスンナリ理解できます。権太が行動を起こさなければ平家の御曹司維盛は梶原に捕まって殺されるしかないわけで、権太はそういう高貴な御方を救ったのです。歴史という大きな律に名もなき庶民がちょっとだけ棹差して見せたと云うことです。端から見れば無駄死に見えるような行為だけれど、権太はそこにカッコ良さを感じているということです。意地を張るという形でしかそれを表現できないところに庶民の哀しさがあるわけですが、権太はカッコ良いと大衆も感性で感じ取っているのです。そこに大衆が持つ 論理の裏打ちを見ます。(別稿「放蕩息子の死」を参照ください。)

演劇の感動は必ずしもイデオロギーから来るものではなく(そういう場合もあろうけれども)、多くは心情から来るものです。だから或る種感傷的なものが常に付きまといます。歌舞伎は庶民の芸能ですから、大なり小なりこの要素から離れることは出来ません。しかし、そこには必ず大衆が持つ 論理の裏打ちがあるはずです。心情というと何だかフワフワしたつかみどころのないものになりますが、道徳と云えば、それはきっちり理性的なものになるのです。長谷川伸は、博徒 ・任侠・やくざ者と云った、社会の底辺で見捨てられた者たちの視点を大切にした作家でした。ですから長谷川戯曲を考えることは、彼らの心情を思いやることです。そのためには彼らの行動の裏にある論理を理解せねばなりません。「ああ股旅物のね・・・」ということで 長谷川伸を軽く見る方も少なくないと思いますが、歌舞伎のドラマツルギーを深く考えるうえで、長谷川戯曲を味わうことは、実はとても役に立つことです。 (この稿つづく)

(H30・1・2)


2)忠太郎の論理

そこで「瞼の母」の主人公番場の忠太郎のことです。五歳の時に息子である自分を捨てて家を出て行った母親、ほとんど記憶に残っていない母のイメージを必死に膨らませて、忠太郎はそれを瞼の裏に刻み付けています。「瞼の母」のドラマを、生き別れになった母の面影を慕う忠太郎、再会を冷たく拒否する実の母、その母の冷たい態度に深く傷つく忠太郎・・・そこに母と子の葛藤のドラマを見るというのは、もちろんそういう見方もあります。しかし、吉之助は、上述の長谷川戯曲の渡世人のパターンに沿って読んでみたいのです。と云うのは、大詰:荒川堤で忠太郎を探して名前を呼ぶ母おはまと妹おぬいの姿を見送って、忠太郎が独白する有名な台詞が、母と子の葛藤のドラマとして読むだけでは、吉之助にはどうも釈然としないからです。

忠太郎:『(母子を見送る。急にくるりと反対の方に向い歩き出す)俺あ厭だ、厭だ、厭だ、だれが会ってやるものか。(ひがみと反抗心が募り、母妹の嘆きが却って痛快に感じられる、しかもうしろ髪ひかれる未練が出る)俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ 、それでいいんだ。(歩く)逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(永久に母子に会うまじと歩く)』(長谷川伸:「瞼の母」)

この台詞での忠太郎は、実の母を恨んでいるのか、すねているのか、実の母に幻滅したから空想の母にすがるのか、それでも実母への思慕を断ち切れないのか、それならどうして母妹の後を追わないのか、いろんなことを考えさせられます。実は長谷川伸自身が五歳の時に母と生別しており、作家として世に出てからも、長谷川は母を探し続けていました。昭和5年に「瞼の母」を書いた時には、長谷川はまだ実母に会えておらず、「瞼の母」は長谷川の前夫人が実父を探し当てて再会した時の体験が取り入れられて書かれたそうです。長谷川が実母と47年ぶりの再会を果たしたのは、昭和8年のことでした。執筆当時の長谷川は、もし本当に実母に再会出来たとしたら、こういう状況なら自分はどう振舞っただろうかということを真剣に考えたでしょう。初稿では忠太郎はそのまま母妹に会わずに去ってしまいますが、長谷川は、上述の忠太郎の独白の後の、幕切れに三種類の異本を書いて、試行錯誤を繰り返しています。異本1は、幕切れに「おっかさあん、おっかさあん」と忠太郎が叫んで母妹の後を追うヴァージョン。異本2は、忠太郎が叫んでいるのを聞いて引き返して来た母妹と忠太郎が出会うヴァージョン。異本3は、純粋さが失われているとの判断で作者によって廃棄されたそうです。しかし、現在は初稿で上演がされるのが普通です。 長谷川の迷いと云うか、こうあって欲しいという願いと云うか、いろんなものを感じます。以下は初稿を基に考えますが、そこで有名な「逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という忠太郎の独白ですが、長谷川戯曲の渡世人のパターンに沿って読んでみれば、こうなると思います。

忠太郎はほとんど記憶にない母のイメージを必死に膨らませて、再会の場面をあれやこれや空想しています。母は再会を涙を流して喜んでくれるに違いないと忠太郎は思っています。生憎、自分はしがない渡世人です。堅気の人から見れば、疎ましい存在です。忠太郎はそのこと を分かっていますが、そんな詰まらない自分ではあるが、忠太郎は母に何かしてやりたいと考えています。忠太郎に出来ることと云えば、母に危害を与える悪い奴 がいればそいつを腕力で懲らしめてやるか、或いは母に金を与えることくらいですが、しかし、それは褒めてもらいたいということではなくて、自分が息子 だと認めてもらいたいからです。忠太郎は「お前に会えてよかった」と言ってくれれば、それで十分なのです。渡世人の身ですから、これからずっと母 と一緒に暮ら したいとは毛頭考えていません。自分を一人の人間として息子だと受け入れて、母が再会を喜んでいるのを見れば、それで満足して忠太郎は母の元を去るつもりです。生みの母に無償の愛を捧げて「粋」に去る、これが忠太郎にとって大事な美学です。

だから忠太郎が空想する母の姿が、貧乏でやつれて不幸な境遇にいる母の姿となるのです。母の不幸を内心で願っているということではありません。渡世人の忠太郎 の助けを必要としていて、それを有難がってくれるという母と云うことで、忠太郎のなかで母が自然とそういう姿になっていくのです。忠太郎は「もしひょっとして貧乏に苦しんででも居るのだったら、手土産代わりと心がけて、何があっても手を付けず、この百両は永えこと、抱いてぬくめて来たのでござんす」と言っています。これが「お前に会えてよかった」と母に喜んでもら いたい忠太郎にとっての最高のシチュエーションです。

ところが、実際に会ってみると忠太郎の想像とはまるっきり違っていて、母おはまは大店の料理茶屋の女主人に収まって、忠太郎の助けなど全然必要のない境遇でした。そうなると忠太郎は腕の振るいようが何もありません。見知らぬ渡世人が突然自分が息子だと名乗ってきてびっくりして、おはまは忠太郎が息子であると認めてくれません。傷付いた忠太郎はおはまの元を去りますが、ここで忠太郎は或るポーズを取ろうとします。失意にうなだれて惨めに去るのではなく、忠太郎としては「粋」に去って行きたい。そこに渡世人の美学があるのです。「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ、それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という台詞が、そこから出て来ます。忠太郎は「粋」に振舞おうと必死になっているのです。素直に泣けずに片意地張る渡世人の哀しさがそこにあります。(この稿つづく)

(H30・1・3)


3)忠太郎の負い目

「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのが出てくるんだ、それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ」という忠太郎の台詞から吉之助が 考えることは、長谷川伸の「瞼の母」のドラマは、生き別れた忠太郎と実母おはまの葛藤のドラマとして読むよりも、忠太郎と彼の内面のなかにある母(瞼の母)との心との 旅路であると読んだ方が、この台詞は生きて来ると云うことです。水熊のおはまの居間までの前場も、その方がより生きて来ると思います。 半次郎の母おぬいや、夜の街を三味線を弾き銭を乞う老婆、夜鷹おとらも、忠太郎の助けを必要としている女であり、これを有難がってくれる女です。そんな時に忠太郎は、「粋」で優しい男になれるのです。

普通だと世間体を畏れて忠太郎を冷たく突き放す母おはま役者が多いと思います。一方、今回(平成29年12月歌舞伎座)での「瞼の母」の舞台では、玉三郎が演じる母おはまは、忠太郎が死んだと思っていた実の息子だとすぐ悟ったものの、目の前にいる息子が自分のイメージとあまりに違う渡世人なので戸惑って(つまりおはまにも彼女なりの「瞼の息子」があるのです)、世間体を守りたいという気持ちと実母の情との狭間で身も世もないという風情をよく見せています。今にもその場に泣き崩れて自分が母親だと忠太郎に告白しそうです。底を割る演技だという批判が出るかも知れませんが、この場ではおはまが実母であることはもう明白です。実母であるおはまの苦しみが明確に見えた方が、ドラマが立体的に見えて来ると、吉之助は思います。大事なことは、母おはまが忠太郎の目にどのように映っているかということです。そんな実母おはまと対照されるのは、忠太郎の心のなかにある空想の母(瞼の母)です。

忠太郎が実母に言って欲しいのは、「よく生きていてくれた、お前に会えて嬉しい、有難う」という一言だけです。忠太郎はおはまからその一言を何とか引き出したい。しかし、おはまはその一言がどうしても言えないという 葛藤を、玉三郎は細やかに表現して見せてくれました。おはまがそれが言えない理由は、忠太郎にはもちろん分かっています。それは忠太郎が堅気でなく、渡世人であるということです。瞼の母は、そんなことは気にず、自分に感謝を捧げてくれます。忠太郎としては、実母にそんな世間の柵や 偏見・差別の一切を飛び越えて、自分をひとりの人間として受け入れて、「お前に会えて嬉しい」と言って欲しいわけですが、現実はそうはならなかったということです。忠太郎は自分の身の上を思わざるを得なかったでしょう。そこに昭和5年に書かれたこの戯曲の社会的視座があります。

中車は、回を重ねるにつれて演技が歌舞伎に馴染んできたようです。中車の忠太郎はちょっと堅気風の渡世人という感じもしますが、かえって台詞に実 (じつ)が感じられたのはとても良い事で、忠太郎の心情がよく伝わって来ました。粋に滑らかに台詞をしゃべろうとしたら、この実は表現できなかったと思います。今回の忠太郎は、母おはまとの対話で感情が激してくる場面に於いても、台詞の二拍子のリズムが崩れることがなく、しっかり芝居になっていました。これならば中車は少なくとも新歌舞伎に関しては安心して見られる レベルになったと思います。

最後に「瞼の母」幕切れのことを考えてみたいと思います。金五郎が斬りかかるのを押さえて、忠太郎がこう問います。

忠太郎 お前の面あ思い出したぜ。(斬る気になり、考え直す)お前、親は。
金五郎 (少し呆れて)何だと、親だと、そんなものがあるもんかい。
忠太郎 子は。
金五郎 無え。
忠太郎 (素早く斬り倒し、血を拭い鞘に納め、斜めの径を歩き、母子の去れる方を振り返りかけてやめる)

もし金五郎が「年を取った母親がいる」とか「幼い娘が一人いる」という返事をしてきたら、忠太郎はどうするつもりだったのでしょうか。「羨ましいねえ、お前、親(子)を大事にしてやりな」とか言って、忠太郎は金五郎に打ち身でも食らわせて気絶させて、それで終えたのではないかと吉之助は思うのですねえ。中車の忠太郎は、「(子は)無え」という返事を聞いて忠太郎が金五郎を斬り倒すタイミングがいささか早過ぎます。答えが何であっても、最初から金五郎を斬るつもりのように見えます。これでは忠太郎が見詰める負い目が見えて来ません。 忠太郎は自分が何を斬るつもりか、その正体をはっきり見極めなければなりません。忠太郎は「瞼の母」のなかで四人の男を斬り 殺しています。それ以前にも何人か殺しているようです。そういう人間ですから、恐らく忠太郎は畳の上で死ぬことはありません。そのことを忠太郎はよく分かっています。忠太郎が本当に斬り倒したかったのは、天涯孤独の渡世人の、しがない自分の負い目であったに違いありません。

(H30・1・5)




  
(TOP)     (戻る)