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「新版歌祭文〜野崎村の段」床本


年の内に春を迎へて初梅の、花も時知る野崎村、久作といふ小百姓、せわしき中に女房は、万事限りの隔病、娘おみつが介抱も心一杯二親に、孝行臼の石よりも堅い行儀の爪はづれ、在所に惜しき育ちかや。冬編笠も燻り三味線、つぼもすまたの弾き語り、
「ご評判の繁太夫節、本は上下綴本で六文、お夏清十郎の道行々々、「あづまからげのかいしよなき、こんな形でも五里十里」
「通らしやれ、母様の煩ひで三味線も耳へは入らぬ。手の暇がない、通つて下され」
「清十郎涙ぐみ、お夏が手を取り顔打ち眺め、同じ恋とはいひながら、お主の娘を連れて退く、これより上の罪もなし」
「オヽ聞きとむない。通りや/\」
と言ふ声に久作は納戸を出で、
「大坂で流行る繁太夫節、そなたにも聞かしたけれど、病人の気に構はふ、本なと読んで気晴らしゝや」
と、義理ある中も子を思ふ、恵みは厚き古合羽の、煙草入れからこつてこて銭取り出して。
「ドレ一冊買ひませふ。なんぢや『お夏清十郎、道行恋の濡草鞋』、コレ見や、このお夏は手代と懇ろして、姫路を駆け落ちする道行。アヽ同じ娘でも世は様々、わづか三里の大坂へ芝居一つ見にも行かず、今度の大病から目の見へぬ婆の介抱。 達者な俺が食ひ物まで、その様に気を付けてたもる孝行娘。もし疲れでも出よふかと、おりやそれを案じるわいのふ。したが百日と限りのある婆が大病、案じるも無理ではない、ガ玄庵殿の加減の薬で、今朝から末のかさにおも湯が二杯通つた、見かけによらぬ巧者な医者殿。ヤ幸ひ今日は日和もよし、久松が親方殿へ歳暮の礼に往て来る程に、随分婆に気を付きや」
と、言ひつゝ脚絆草鞋がけ、紐引き締むれば、
「オ、父様とした事が、この短い日にモウ昼過ぎ、明日の事になさんせいで」
「何のいやい、年こそ寄つたれこの足に覚えがある。一時三里犬走り、日暮までには戻つて来る。歳暮の祝儀は、コレこの藁苞、山の芋は鰻になる。久松が年が明けたらば、われは又お内儀になる。それ楽しみによふ留守せい。ドリヤ往て来ふ」
と身拵へ、藁苞肩に
「ヤ、ゑいとこな」
表へ出でしが、立止まり、
「とりわけ今年は早ふ咲いたこの梅、何よりかよりよい土産」
と、春待ち顔に咲く花を、手折りて苞に一技を、添へてひよか/\野崎村、後に見なして出でて行く。

 

影見送りて久松が事のみ思ひとやかくと、胸に一ばい半分の、水量り込む薬鍋、一へぎ入れる生姜より、辛い面つき久三の小助、久松引き連れ入口から
「久作内にゐやるか」
と、づゝと這入ればおみつは嬉しく、
「オヽ久松さん、よふマア戻つて下さんした。定めてあなたは送りのお方。お茶よ煙草」
と嬉しさに、立つたりゐたり気もそゞろ、
「エヽやかましいわい。うそ穢い在所の茶呑みには来ぬわい。コリヤ追従せずと聞いて置けよ。 この久松めが親方の銀、一貫五百匁、お山狂いにちよろまかしたによつて、今日連れて来たはな、久作と三つ鉄輪で詮議するのぢや。親父を出せ、出せ/\/\/\」
と辰巳上がり。身の誤りに久松が差し俯むひて詞さへ、ないには『もしや』と思ひながら、
「お腹立ちはお道理ながら、何のマア久松さんに限つて、よもやそふしたことはあるまい。定めてこれはなんぞの間違ひ。サ覚えがなくばないといふ、ツイ言訳をして下さんせいな」
「ハヽべるは/\/\、喋るは/\。コリヤヤイ、頭こそ前髪なれ、そのさらす事の素早さ。朋輩には辞宜なしに、取つて置きのお娘まで、ハヽヽヽこの後は言はずにこますわ。エヽ小倉の屋敷へ受取に往た為替の銀、御役人から改めて渡つたは正真、内へ戻つて明けたところが、わやひんの胴脈ぢや。コリャてつきり道の間で、ナ、ソレ擦り替へた、品玉の太夫、早咲久松、早久でござい。 ハアとヤカラ/\/\。なんぢやい/\/\/\、白眼むくは無念なか、無念なら銀立てるか、あるまいがな。サア久作はどこにゐる。出さらずば引出さふ」
と、駆け入る袂を久松引止め、
「成程、銀を擦り替へられたは皆私が不調法。身の明りの立つまでは、在所へ往けと、後室様の結構な御了簡。それをそなたが」
「ヤイ/\/\何抜かすぞい。ソリヤわれが勝手了簡の聞き損ひぢや。俺には又この詮議仕抜いて来いと、内証で後家御の言ひ付け。ぢやによつてめつきしやつきするが何ぢやい。ひんこめ出され」
と大声をおみつが押さへて、
「コレ申し、御尤もでござんすけれど、奥の病人に聞かしましては、病気の障り。モそっと静かに」
「イヤ高ふ言ふのぢや/\。これ程喚くに聞き耳潰すは、ハヽアこりや親父もぐるの仕事ぢやな。ドレもふ家捜しと出かけざなるまい、邪魔ひろぐな」
とおみつを引き退け、取り付く久松
「面倒な」
と、踏むやら蹴るやら無法の打榔、詮方もなき折からに。道引返しいつきせき戻る久作駆け入つて、小助を引き退け突き飛ばし、
「コリヤヤイ留守の間へ来てわつぱさつぱ、様子によつて了簡せぬぞ」
「オヽよふ戻つて下さんした。最前から久松さんをな」
「オヽよいてや。久作が戻るからは娘もじつと落ち着け」
と納める程なほ業腹煮やし、
「大枚の銀引負したこのばりめ、詮議に来た小助は親方の代り、それを又わりや何で投げたのぢやい」
「これは迷惑な。ひばり骨見る様な手で血気なこなた投げたのではない。怪我のはづみで、出端れの曲り途で道が逢ふて、留守の間へ大坂から息子が来たぞやと、若い者どもが知らしてくれたで、行戻り五、六里を助つた徳庵堤。引返して戻つたが、そんなら何か、その引負で、久松は戻つたのか。アヽそれ聞いてマア落ち着いた。マア/\何かは差し置いて、朋輩衆のお世話であらふと、蔭ながら言ふてばつかりゐますわいの。寒い時分によふ連れ立つて来て下さつたなふ。ソレおみつよ、茶なと汲まんかい」
「チエ納めな/\/\納めなやい。わりやマア夢に見たこともあるまいが、一貫五百匁といふ銀高、子の科は親にかゝる。銀立つるか、但しは又願はふかい、どふぢやい/\/\/\/\」
「ハテよいわいの、その様に息精張るは大きな毒とかく人間は気を良ふ持つのが薬ぢや。ヤその薬で思ひ出した。土産にせふと思ふたこの山の芋をとろゝにして、出来合ひの麦飯を進ぜふかい」
「エヽ置けやい/\、見せかけばかりの正直倒し、イヤ麦飯のとろゝのと、ぬらくらとは抜けさせぬわエエ、あんだら臭い」
と蹴散らす藁苞破れてぐはらりと出る丁銀。
「ソレ久松が引負の銀、渡したからは言分あるまい。とつとゝ持つて去なしやれ」
と、聞いておみつも久松も思ひがけなき驚きに、小助もぎよつとしながらも、包み改め、
「こりや正真ちや/\。吹きや飛ぶ様な内のざまで、泥亀三つで一貫五百匁。出難い所からよふ出たな。銀受け取るからは言分ないわい」
「オヽそつちに言分がなふても、こつちにグツと言分がある、と言ふも古い物ぢや。これまでお世話になつた親方様、御恩こそあれ恨みはなけれど、人に欺され取られた銀、引負の悪遣ひのと、無い名を付けて貰ふてはどふも済まぬ、と言ふて無理隙取るではない。暫く親が預つて置く程に、この通り言ふたがよい。モウ二十年俺が若いと、わごりよにはぐつと馳走もあれど、入らざる殺生。サア/\早ふ去んだがよかろ」
と言はれてどふやら底気味悪く
「ハテ銀の出入りさへ済んでしまや外の事はお構ひないわい。ドリヤさらば御暇申さふ」
と打違取り出し、捻ぢ込み押し込み。
「ハア命冥加な一貫五百匁、内へ往んで出したところが、蛙になつてゐやせまいか」
「ハテ仇口を聞かずとも、足元の明い中」
「オヽヽヽ去ないぢや/\/\。銀こそは主の物なんのその俺が手に、俺がコウかたげて、俺が足で、俺が歩いて、俺が体で、俺が去ぬるに、ぐつとも言分ない筈ぢや」
と、へらず口して、とつぱ門口柱で頭、
「ア痛、し」
小助は足早に、大坂の方へ立ち帰る。


おみつは親の気をかねて、答へなければ久松擦り寄り、
「この身の手詰は遁れても、この御暮らしで余程の銀後でお前の御難義には」
「ハテ俺ぢやとて相応のかくまひはせまいものか。始末してためたあの銀は、黒谷の方丈へ上げる冥加銀気遣ひしやんな。まんざらあればかりでもないわいの。改めて言ふではなけれど、末はわが身と一つにする約束で、このおみつは婆が連れ子、あれも否でもないそふなり、折もあらば親方殿へ暇の事を願はふてみやうと、これがほんの儲け重宝、もふ大坂へ去なしはせぬぞよ。早却なれど日柄もよし、今日祝言の盃さすぞ。なんとおみつよ、嬉しいか、アノマア嬉しそふな顔わいやいハヽヽハヽ。われらは又頭を丸め参り下向に打ちかゝらふと、頼み寺へ願ふて袈裟も衣もちやんと請けておいたてや。幸ひ餅はついてあり、酒も組重も、正月前で用意はしてある。サア/\早ふ拵らや」
と、薮から棒を突つかけた、親の詞に吐胸の久松、知らぬ娘は嬉しいやら、又恥づかしき殿設け、顔は上気の茜裏袂くはへるおぼこさを見るにつけても今更に否応ならぬ親の前、急に思案も出の口の壁にいの字を垣一重。裏の病架に咳嗽く声、
「ホンニこちらのことに取込んで、定めて婆が淋しからふ。久しぶりで久松にも逢はして、この事を聞かしたら薬より効目がよい。ハテ俯いてばかりゐずと、おみつよ、鱠も刻んでおけ。久松おぢや」
と、先に立ち悦び勇む親の気を、知つて破らぬ間似合紙、襖

 

 引き立て、入りにける。後に娘は、気もいそ/\、
「日頃の願ひが叶ふたも、天神様や観音様、第一は親のお蔭。エヽこんな事なら今朝あたり、髪も結ふて置かふもの。鉄漿の付け様挨拶もどふ言ふてよかろやら」
覚束鱠拵へも、祝ふ大根の友白髪、末菜刀と気も勇み、手元も軽ふちよきちよき、ちよき、切つても、切れぬ恋衣や、元の白地をなまなかに、お染は思ひ久松が、あとを慕うて野崎村堤伝ひにやうやうと、梅を目当てに軒のつま。供のおよしが声高に、
「もうし御寮人様。かの人に逢はふばかり、寒い時分の野崎参り。今船の上り場で、教へてもらうた目印のこの梅。大方ここでござりませうぞえ」
「アアコレもそつと静かにいやいなう。久松に逢ひたさに、来ごとは来ても在所の事、日立つては気の毒。そなたは船へサ早ふ/\」
と追ひやり追ひやり立寄りながら、越えかぬる恋の峠の敷居高く、
「物もふお頼みもうしませふ」
といふもこはごは暖簾越し、
「百姓のうちへ改まつた。用があるなら這入らしやんせ」
「ハイハイ卒爾ながら久作様はうち方でござんすかえ。さやうなら大坂から久松といふ人が今日戻つて見えた筈。ちよつと逢はして下さんせ」
といふ詞つき姿かたち。
「常々聞いた油屋のさてはお染」
と悋気の初物胸はもやもやかき交ぜ鱠俎押しやり、戸口に立寄り見れば見るほど、
「美しい。あた可愛らしいその顔で、久松様に逢はしてくれ。オホそんなお方はこちや知らぬ。よそを尋ねて見やしやんせ阿呆らしい」
と腹立ち声。心付かねば、
「ホンニマアなんぞ土産と思うても急な事、コレ/\女子衆、さもしけれどもこれなりと」
と夢にもそれと白玉か露を袱紗に包のまま、差出せば、「こりやなんぢやえ。大所の御寮人様、様々々と言はれても心が至らぬ置かしやんせ。在所の女と悔つてか、欲しくばお前にやるわいな」とやら腹立ちに門口へほればほどけてばらばらと、草にも露銀芥子人形、微塵に香箱割り出した。中へつかつか親子連、出てくる久作。
「アどうぢやどうぢや鱠は出来たであらう。さて祝言のこと婆が聞いてきつい悦び。ぢやが年は寄るまいもの。さつきのやつさもつさで、取りのぼしたか頭痛もする。アヽヽヽいかう肩がつかへて来た。橙の数は争はれぬものぢやわいの」
「さやうならそろそろ私が揉んで上げませうか」
「ソリヤ久松忝い。老いては子に随へぢや。孝行にかたみ恨みのないやうに、コレおみつよ三里をすゑてくれ」
「アイアイ、そんなら風の来ぬやうに」
となにがな表へ当り眼、門の戸びつしやりさしもぐさ。燃ゆる思ひは娘気の細き線香に立つ煙。
「サア/\親子とて遠慮はない。もぐさも痃痞も大掴みにやつてくれ」
「アイ/\コリヤマアきつうつかへてござりますぞえ」
「さうであらうさうであらう。ついでに七九もやつてたも。オツトこたへるぞこたへるぞ」
「サア父様すゑますぞえ」
「アツアツアアア、アアえらいぞえらいぞ。ハヽヽヽヽイヤモウモウあすが日死なうと火葬は止めにして貰ひませう。丈夫に見えても古家。屋根も根太もこりや一時に割普請ぢや。アツ/\/\」
「オオ父様の仰山な。皮切はもうしまゐでござんす。ホンニ風が当ると思や。誰ぢや表を開けたさうな。締めて参じよ」
と立つを、引止め、
「ハテよいわいの。昼中にうつとしい。ノウ久松、久松、久松、コリヤ久松。よそ見してゐずと、しか/\と揉まぬかいの」
「サアよそ見はせぬけれど、覗くが悪い。折が悪い、悪い/\」
と目顔の仕かた。
「ヤ悪いの覗くのと、足に灸こそすゑてゐれ、どこもおみつは覗きはせぬが」
「サアアノ悪いと言ひましたは、確か今日は瘟こう日。それに灸は悪い/\とサいうたのでござります」
「エヽ愚痴な事を。このやうに達者なは、ちよこ/\と灸をすゑ作りをする、そこで久作。アツ/\やっぱり熱いわいハヽヽヽ。ムなんぢやわい、わが身達も、達者なやうに、灸でもすゑるのがおいらへの孝行ぢやぞや」
「オヽさうでござんすとも。久松様には振袖の美しい持病があつて、招いたり呼出したり、憎てらしい、あの病ひづらが這入らぬやうに、敷居の上へエヽ大きうしてすゑて置きたいわいな」
「アツイ/\おみつ、どうするぞい、どうするぞい。そこは頭ぢやがな頭ぢやがなコリヤ、頭に三里はないわいやい。アアトツトモウ、えらい目に合はすがな ハヽヽヽ」
「コレおみつ殿。振袖の持病のと色々の耳こすり、はしたない事聞いてはゐぬぞや」
「ホヽヽ変つた事がお気に障つた」
「ホヽ障らいぢや」
「コリヤをかしい。その訳聞くぞえ」
「いふぞや」
と我を忘れていさかいを、外に聞く身の気の毒さ、振りの肌着に玉の汗。久作ももてあつかひ、
「アヽコリヤヤイ、コリヤ肩も足もびり/\するがなびり/\。まだ祝言もせぬ先から、女夫いさかひの取越しかい。灸行の代り喧嘩の行司さすのかやい。二人ながらエヽ嗜めたしなめ」
「イエ/\構ふて下さんすな。今のやうな愛想づかしも病づらめが言はしくつさるのぢやわいなア」
「ハヽヽヽなにをいふやらモウ/\両方ともおれが貰ひぢや。ヨヽヽ仲直しが直ぐに取結びの盃、髪も結ふたり鉄漿もつけたり、湯もつかふて花嫁御を、コリヤ作つて置け」
と打笑ひ無理に納戸へ連れて行く。その間おそしと駈入るお染。
「逢ひたかつた」
と久松にすがりつけば、
「アヽコレ声が高ふござります。思ひがけないここへはどうして、訳を聞かして聞かして」
と問はれてやう/\顔を上げ、
「訳はそつちに覚えがあらう。わしが事は思ひ切り、山家屋へ嫁入りせいと、残しておきやつたコレこの文。そなたは思ひ切る気でも、私やなんほでもえ切らぬ。あんまり逢ひたさ懐しさ。勿体ない事ながら、観音様をかこつけて、逢ひにきたやら南やら、知らぬ在所も厭ひはせぬ。二人一緒に添はうなら、ままも炊かうし織りつむぎ、どんな貧しい暮しでも、わしや嬉しいと思ふもの。女の道を背けとは、聞へぬわいの胴欲」と恨みのたけを夕禅の、振りの袂に北時雨、晴間はさらになかリけリ、曇りがちなる久松も、背撫でさすり声ひそめ、「そのお恨みは聞へてあれど、十の年から今日が日まで船車にも積まれぬ御恩。仇で返す身のいたづら。冥加のほども恐しければ、委細は文に残したとおり山家屋へござるのが母御へ孝行家のため、よう得心をなされや」
と言へど、答も涙声。
「いやぢやいやぢや私やいやぢや。今となつてさう言やるは、これまでわしに隠しやつた、許嫁の娘御と女夫になりたい心ぢやの。ぜひ山家屋へ行けならば覚悟はとうから極めてゐる」
と用意の剃刀取直せば
「それは短気」
と久松が止めても、とまらず、
「イヤ/\/\、そなたに別れ片時も、なに楽しみに生きてゐよふ。止めずと殺して殺して」
と思ひ詰めたるその風情。
「そんならこれほどもうしても、お聞き分けはござりませぬか」
「添はれぬ時は死ぬるといふ、誓紙に嘘がつかれうかいなふ」
「ハアたつてもうせば主殺し。命に代へてそれほどまでに」
「思ふが無理か女房ぢやもの」
「叶はぬ時は私も一緒にお染様」
「久松」
と互に手に手を取りかはす、悪縁深き契りかや。始終後に立聞く親。
「その思案悪からう」
と、言われて『はつ』と久松、お染。騒ぐを押へて、
「ア、大事ない大事ない。マア/\下にゐや下にゐや。ハテマア下にゐやいの。アヽ因縁とは言ひながら、和泉の国石津の御家中、相良丈太夫様といふれこさの息子殿、いささかの事で家が潰れてから、わが身の乳母はおれが妹、その縁で十の年まで、育て上げたこの久作は後の親。草深い在所に置こより、智恵付けのため油屋へ丁稚奉公。それほどまでに成人して商売の道読み書きまで、人並になつたはコリヤコレ親方の大恩ぢやての。その恩も義理も弁へぬは、アコヽこれ見や。先に買うたお夏清十郎の道行本。嫁入りの極つてある、主の娘をそそなかすとは、道知らずめ、人でなしめ、トサこりやコレ清十郎が話ぢや/\、話ぢやわいの。コレお染様ではない、この本のお夏とやら。清十郎を可愛がつて下さるは、嬉しいやうでエ、恨めしいわいの。ア若い水の出端には、そこらの義理もへちまの皮と投げやつて、こなさんといつまでも、添ひ遂げられるにしてからが、戸は立てられぬ世上の口ぢやわい。エ、あの久松めは辛抱した女房嫌うて、身上のよい油屋の婿になつたは、アリヤアレ、栄耀がしたさぢや皆慾ぢや。人の皮着た畜生めと、在所は勿論大坂中に指さされ、人交りがなりませうかいの。コレ/\/\ここの道理を聞分けて、思ひ切つて下され。コレ拝みます/\、拝みますわいの。フムこれほどいうても返事のないはコリヤ二人ながら不得心ぢやの」
「アヽ勿体ない。実の親にも勝つた御恩、送らぬのみか苦をかけるも、私が不所存から」
「イヤ/\そなたの科ではない。みんなこの身の徒らから、親にも身にも代へまいと、思ひ詰めても世の中の義理にはどうも代へられぬ。なるほど思ひ切りませう」
「オヽよう御合点なされました。私もふつつり思ひ切り、おみつと祝言致しまする」
「そんならそなたも」
「お前も」
と互に目と、目に知らせ合ふ心の覚悟は、しら髪の親仁。
「アノさつぱりと思ひ切つて、祝言をしてたもるか」
「なんの嘘をもふしませふ」
「ムヽ娘御も今の詞に微塵も違ひはござりませぬか」
「久松の事はこれ限り、私や嫁入をするわいの」「出来た/\/\。アヽむくつけな親父めと腹も立てず、よう聞き入れて下さりました。善は急げぢや、今ここで盃さそ。おみつ/\」
と尻軽に立つて一ト間を差覗さ、
「ハテ出ぐすみをしてをるわ。それでは果てぬ」と手を取つて、「サア/\マア嫁の座へ直つたり/\。一家一門着のままの祝言に改まつた綿帽子、エヽうつとしかろう取つてやろ」と脱がすはずみに、こうがいも抜けて惜しげもなげ島田、根よりふつつと切髪を、見るに驚く久松、お染、久作呆れて、
「こりやどうぢや」といふ口おさへて、
「コレもうし父様もお二人様も、なんにもいうて下さんすな。最前からなに事も残らず聞いてをりました。思ひ切つたといはしやんすは、義理に迫つた表向。底の心はお二人ながら死ぬる覚悟、ム、サ死ぬる覚悟でゐやしやんす、母様のアノ大病。どうぞ命が取りとめたさ。私やもうとんと思ひ切つた。ナ、サ切つて祝うた髪かたち、見て下さんせ」
と両肌を脱いだ下着は白無垢の、首にかけたる五条袈裟思ひ切つたる目の中に浮む涙は水晶の、玉より清き貞心に、今更なんと詞さへ涙呑み込み、呑み込んでこたゆるつらさ久松、お染。久作も手を合せ、
「なんにもいはぬこの通りぢや、この通りぢや。女夫にしたいばつかりに、そこら辺りに心もつかず、蕾の花を散らして退けたは、みなおれが鈍なから、赦してくれ」
も口のうち、聞へ憚る忍び泣き。
「アヽ冥加ない事おつしやります。所詮望みは叶ふまいと思ひのほか祝言の、盃するやうになつて嬉しかつたはたつた半時。無理に私が添はうとすれば死なしやんすを知りながら、どう盃がなりませうぞいな。添ふに添はれぬこの身の因果、せめて未来は仏にと、あきらめきつた投島田。心を推してお二人とも仲よう添ふて下さんせ」
と恨みつらみはえもいはず、泣き声せじとくひしばる。四人の涙八ツの袖。榎並八ケの落し水膝の、堤や越えぬらん。久作涙押拭ひ、
「どうやらかうやら合点がいたさうな。さぞ母御様が案じてござらう。大事な娘御確かな者に」
「イヤそれにはおよびませぬ。母が確かに請取りました」
と言ひつつ這入れば、
「ヤア母様。ハア」
『はつ』とばかりに詞なく差俯向けば、
「コレお染。野崎参りしやつたと聞いてあんまり気遣ひさ。イヤ気慰みによからうと跡追うて来てなに事も残らず聞いた。夫婦の衆の親切、おみつ女郎の志。最前からあの表で、私や拝んでばつかりゐましたわいなう。観音様の御利生で、怪我過ちのなかつた嬉しさ。これから直ぐにお礼参り。幸ひ私が乗つて来た、あの駕籠でコレ久松。そなたは堤お染は船。別れ別れにゐぬるのが、世上の補ひ心の遠慮」
「さやうでござりまするとも。お志ぢや乗つてゐにや」
「娘は船へ」
と親、親の、詞に否も言ひ兼ぬる、鴛鴦の片羽の片々に別れて二人は乗り移れば、
「兄様お健でお染様、もうおさらば」と詞まで早や改まるおみつ尼。哀れをよそにみなれ棹、
「船にも積まれぬお主の御恩。親の恵の冥加ない取り分けておみつ様。かうなりくだるも前の世の定り事と諦めて、お年寄られた親達の介抱頼む」
といひさして泣く音伏籠の面ぶせ。船の中にも声上げて、
「よしないわしゆゑおみつ様の、縁を切らしたお憎しみ堪忍して下さんせ」
「アヽわつけもないお染様。浮世離れた尼ぢやもの。そんな心を勿体ない。短気起して下さんすな」
「オヽ娘がいふとほり、死んで花実は咲かぬ梅、一本花にならぬやうに、目出たい盛りを見せてくれ。随分達者で」
「ハイ/\お前も御無事で」
「お袋様もお娘御もおさらば」
「さらば」
「さらば」
「さらば」
も遠ざかる船と、堤は隔たれど縁の引綱一筋に、思ひあうたる恋中も義理の柵情のかせ杭、駕籠に比翼を、引き分くる心々ぞ世なりけり。

 



 

 

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