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「妹背山婦女庭訓・四段目・杉酒屋〜金殿」床本
杉酒屋の段、道行恋苧環、金殿(鱶七上使の段、姫戻りの段、金殿の段)
杉酒屋の段
こそ出でて行く。日とともに営むさまも入相の、四方の市庫戸ざし時。子太郎跡を打見やり、灯を上げ表の戸、夜の構へのそここと、こなたの道より歩みよる振りの袖の香やごとなき、面を隠す衣かづき誰れ白絹のやさ姿。窺ふうちに隣りの軒。知らせのしはぶき、主の求馬
「今宵はどうしてはやかりし。サア/\こちへ」
とその跡は云はず語らず手を取って、戸口立寄せ入る跡に子太郎は不審顔。隣りの門口耳をあて、聞きすまして立戻り、
「なんでも隣の烏帽子めはおれとは違うてよっぽどえらい色事師ぢゃわい。あいつが見事な烏帽子でアノしろもの占めをると聞えた。こちらのお娘に聞かせたら。たいていのことぢゃあるまい。エゝはし早い奴ではある」
とつぶやくところへ、娘のお三輪、寺子屋戻り、足はやに門口這入れば、
「ヤお三輪様戻らんしたか。サア/\ことぢゃ/\大事ぢゃ/\」
「オゝあの人わいのなんぢゃいの。私にびっくりさしやったわいの」
「なんじゃさしゃったわいの、さしゃったわいのどころかいの。これお前に忠義を云うて聞かす、忠義を」
「忠義とはなんのことぢゃいの」
「エゝ忠義とは忠臣のことぢゃわいの」
「サその忠臣は知ってゐるがの。それがどうぞしたかや」
「サその忠臣はの、アノ隣りの烏帽子めが」
「隣の烏帽子とは、求馬様のことかいの」
「オゝ求馬/\、その求馬の姿から起ったこと。こちの内儀様は家主殿へ用があっていかしゃった。その跡へなんぢゃか知らぬが、真白な絹をかつぎ、幽霊かと思うたら、美しい衒妻が隣りの門口こと/\と叩いた。そしたら求馬様がつつと出て、『ようはやう来たナア』と、手に手を取ってうちへはいった。それからおれがぢっとして聞いて居たら、コレこちへ雇ふ男どもが、朝の間に酒桶洗ふ様にシイ/\といふ音がした。どうでもありや求馬様が竹簓で擦すると見えるわいな、ナントお三輪様。コリャだまって居られまいがな」
「そんならなんと云やる。求馬様の所へ美しい女中様が見えて、その女中様を連立って這入らしゃんしたと云やるのか」
「アイ」
「そりゃマア合点のいかぬこと。幸ひかか様も留守なれば、そなた往て求馬様をここへ連れて戻ってたも」
「オット合点、呑み込んだ」
と走り出でて隣りの門、破れるばかりに打ち叩き、
「コレ求馬様、隣りの酒屋から使ひに来た。今のが済んだら印判持ってござんせ」
と口から出次第、求馬はびっくり、『なにやらん』と立出づれば、ものをも云はず、
「マア/\こちへ」と
無理やりに手を引連れてわが家のうち。それと見るより娘のお三輪、口に云はねど赤らむ顔。
「求馬様お帰りなされたか」
「ホこれは/\お三輪様。寺屋へお出でなさったげな」
と互ひに味な墨付きを、子太郎がひっ取って、「サアおれが役はもうこれまで、そこへなにかの立引きさんせ。ここらでわれら粋をとほし夜食の扶持にありつかふ。両人ともエヘン、ソモのちに逢はう」
と納戸へ走り入りにける。跡に二人は接穂なく、おぼこ育ちの娘気に思ひ詰めたる一節を、云はうとすれば胸迫り、
「いま子太郎に問いたれば、美しい女中様が宵からお前へ来てぢゃげな。定めてそれは隠し妻。これまでお前とわたしが仲、逢うことさへもたま/\に、千年も万年も変らぬ契りと仰しゃったその約束は偽りか。浮世の訳も弁へぬ在所育ちのわたしでも云ひ交したこと忘れはせぬ。あんまりむごい」
と取り付いて、涙先立つ恨み言。
「これは思ひも寄らぬ疑ひ。なる程女中は来てみるが、あれはソレ春日の神子殿。その連合ひ禰宜殿の烏帽子をあつらへに見えたのぢゃ。美女はおろか、いかな天女が影向あってもほかへ散る心はない。和歌三神を誓ひにかけ偽りはもうさぬ」
と時の間に合ひ落付かせば、さすがおぼこの解けやすく、
「神様まで誓言に、それでわたしも落付いた。必ず変って下さんすな」
と立上って、七夕に供へ祭りし二つのおだまき。持出でて前に置き、
「わたしが寺屋にいた時にお師匠様に聞いて置いた。殿御の心の変らぬやうに星様を祈るには白い糸、赤い糸、おだまきに針を付け結び合はせて祭るとやら」「オゝそれがすなはち願ひ糸の乞巧針」
「ムお前もよう知ってぢゃナア。白い糸は殿御と定め、女子の方は赤い糸。それで私もこの願籠め寺屋で見た本の中に、心をかけし女の歌。アゝなんとやら、オゝそれよ『恋ひ渡る、思ひはちぢに結ばれて、幾夜願ひの糸の緒環』「ホゝその男の返しには『相見ての、のちも願ひの糸筋を、よそへ乱すな君が小田巻』」
「アイ/\さうでござんした。いつまでも変らぬしるし、赤い糸をお前に渡し、白い糸を私が持ち、契りも長き願ひの糸。夫婦の約束星合ひにかささぎならぬ小田巻を千代のなかだち取りかはし、肌に付合ふわりなきゑにし」
求馬がうちより以前の女、歩み出でてこなたの門口。
「隣りの烏帽子折様はこなたへ来てござるかな。許さっしゃれ」
とうちへ入る。姿に求馬は手持ち不沙汰。お三輪はなんの気も付かず、
「アゝあなたがいまのお人かえ」
「オイノあれ/\神子様ぢゃ。それで薄衣着てござる。ナアもうし、お前様はアノお連合ひ様の烏帽子をあつらへにお出でなされましたのぢゃナア。さうでござりませうがな。サゝゝゝさうでござります」
と紛らかす。包む詞の絹を漏る、月の笑顔をぴんとすね、
「コレもうし求馬様。あの女中はお端女か、なに人でござります」
「アノこれはこの酒屋の娘御」
「ムゝそのマア隣りの娘御と最前から久しい間、なんの用がござりました」
と問はれて求馬は答へもなく、うぢつく素振り、見て取るお三輪。
「アゝもうし、コレ神子様とやらいふ女中様。人をマアお端女かのなんのとひっこなしたものの云ひやう。求馬様にはアイ、私が用がたあんとござんす。お前のお世話にはなるまいし、構うて下さんすな」
「オゝこれははしたない。そのやうに云はしゃっても、そもじなどの用を聞く求馬様ぢゃないわいなう。サアお帰り」
と手を取れば、お三輪が隔てて、
「イエ/\/\、わたしがまだ用がある。いなすことはなりませぬ」
「イイヤここには置きはせぬ。邪魔せずとそこ通しゃ」
と、手を引っ立てて立出づれば、
「イヤ離さじ」
とお三輪もまた、あなたへ引けば、こなたへ引く、訳も渚にたはれる雁、つばさ振り袖ふり分け姿。恋を争ふ、その折からいきせき戻るこの家の母。
「ヤア求馬殿。こなさんには用がある。どっこへも遣ることならぬ。動くまいぞ」
と身構へに、なにかは知らず白絹の姫は外へと出で行くを、とめる求馬に、またすがる娘を、押分け母親は、
「求馬やらじ」
と引止め繋ぐ手と手を、しがらみの風に揉まるる争ひに、子太郎立出で見廻して、『これ幸ひ』と母親の帯にしっかりくくったる縄先を、桶の呑み口にゆひ付け納戸へ逃げて入る。こなたは互ひに恋ひ慕ひ姿乱るる姫百合の、手を振りきれば、一時に乱れて走るを、母親が、『遣らじ』と追へば繋ぎ縄、力む拍手に呑み口抜け酒は滝津瀬びっくり敗亡三人門へ遅れじと、同じ思ひを跡やさき、道を慕うて追うて行く。
道行恋苧環
岩戸隠れし神様は、誰と寝ねして常闇の、夜々毎に通ひてはまた帰るさの、道もせ気もせそれも何故恋故にやつるゝ所体恥かしと、おもかげ隠す薄衣に、包めど香り橘姫、思はぬ人を思ひ侘び、心のたけを口説けども、つれなき松の下紅葉、焦がれて絶へん玉の緒も、殿故ならば捨て草も暫しは憩ふ芝村の、釜が口をも出離れて、歩むに暗き、くれ竹の、茂れる中をちらちらと、見へつ隠れつ、帰るさの、跡を求馬が慕ひ来て、互にはたと行き合ひの、星の光に顔と顔。『ヤア恋人か何故に、こヽまで跡を追ひ鳥は、もしやねぐらの契りをも叶へてやろとのお心か』と、胸にはいへど詞には、おもはゆぶりの袖几帳。
「成程切なる志、仇に思はじさりながら、さほど焦がるゝ恋路にて、昼をば何と鳥羽玉の、夜ばかりなる通ひ路は、いと不審なり名所を、聞いたる上はこなたより、二世の固めは願ふ事、あかさせ給へ」
とひたすらに問はれて実にも恥かしの、もりてあまれる浮き身の上、
「語るにつらき葛城の、峰の白雲あるぞとも、定かならざる賤の女と、思ふて深い疑ひの、雲を晴らして自らが、思ひも晴らして給はらば、どんな仰せも背くまい。たとへ草葉の露霜と、消えても何の厭やせぬ。これ程思ふに胴慾な、解けぬお前のお心は、あんまり結ぶの神様を、祈り過ごした咎めかや。つれなの君や」
と恨みわぴ。思ひ乱るヽすゝき蔭、それとお三輪は走り寄り、なかを隔てゝ立つ柳、立ち退く袂引き止め、
「エヽ聞えませぬ求馬様。ソリヤ気の多い、悪性な。そもや二人が馴れ初めは、始めて三輪の過ぎし夜に、葉越しの月のおもかげは、お公家様やら侍様やら知れぬなりふりすつきりと、水際の立つ好い男。外の女子は禁制と、しめて固めし肌と肌。主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾け方、よふ見やしやんせ、エヽ嗜みなされ女中様」
「イヤそもじとてたらちねの、許せし仲でもないからは、恋は仕勝よ我が殿御」
「イヽヤわたしが」
「イヤわしが」
と、ともにすがりつ、手を取りて「常に色よく咲く草時は、男女になぞらへ言はゞ、言はれふものか夕顔の、梅は武士、桜は公家よ、山吹は傾城、かきつばたは女房よ。色は似たりやあやめは妾、牡丹は奥方よ、桐は御守殿、姫百合は娘盛りと撫子の、さあなるぞえ/\。なるとならずと奈良坂や。この手柏の二人の女、睨めば睨む荻と萩、中にもまるゝ男郎花、「放ちはやらじしと縋り付き、こなたが引けばあなたが止め、恋のしがらみ蔦かづら、付き纏はれてくる/\/\、廻るや三つの小車の、花より白む横雲の、たなびき渡りあり/\と、三笠の山も程近く、鳴る鐘の音に驚く姫『帰る所は何処ぞ』と、求馬が気転振り袖の、はしに縫ふてふ取り交はす。縁の苧環いとしさの、あまりて三輪も悋気の針、男の裾に付くるとも、知らず印の糸筋を、慕ひ慕ふて
鱶七上使の段
栄ゆる花も時しあればすがり嵐のあるぞとは、いさ白雲の高御座。新たに造る玉殿はかの唐くにの阿房殿。ここに移して三笠山。月も入鹿が威光には、覆はれますぞ是非なけれ。腋門の方より宮越玄蕃、荒巻弥藤次。御前よきまま高う吹く、帆かけ烏帽子も十分に、のけぞり返り入り来たり、
「ホウ仕丁ども朝清めな。イヤなに玄蕃殿、このたび新たに築かれたるこの山御殿。朝日に輝くところは吉野龍田の花紅葉。一度に見るとも及びますまい」
「ナニサ/\。イヤモ言語に述べがたみきお物好き。瑪瑙のうつばり、珊瑚の柱、水晶の御簾。瑠璃の障子。コレ見られよ。飛石は琥珀、砂は金銀、また釣殿に登り見おろせば、春日の杉も前栽の草びら、若草山、つづら山はまき石同然猿沢の池はお庭の井戸に見えまする」
と話の尾に付く仕丁ども、
「アヽ、結構な御普請でござります。さうしてなにやらふつ/\と好い匂ひが致します」
「オヽその筈、縁板、おばしまに至るまでみな伽羅と沈」
「シタリ抹香や鉋屑とは違うた物ぢゃのう。又次」
「サイノウ、またお学問所は唐を写して唐木ぢゃげなの」
「ハアン、その唐木とは何々ぞ」
「オヽまづ花梨」
「フン」
「紫檀」
「フン」
「黒檀」
「ホイ」
「たがやさん」
「ホイ」
「うらやさん」
「ホイ」
「当卦本卦」
「や手の筋」
「や、男女相性や墨色の考」
「コレ/\」
「失せ物、待ち人」
「コレ/\/\」
「書き判の善悪」
「アヽコレ/\」
「そりゃ山御殿ではなうて山伏ぢゃぞや」
「サア王様もこの山で寝やしゃるによって山伏ぢや」
「エヽ人を嘲弄するかな」
「イヤ長老とは坊主のことか」
「イヽヤ女子の事ぢゃ」
「そりゃ女郎ぢゃ」
「イヤ如露とは花に水かける物ぢゃ」
「エヽどう言やかう言ふと、なんぼ貴様がくずなの弁でもおれにゃ敵はぬ」「ヤイ富楼那の弁ぢゃ、くずなとは魚ぢゃわい」
「イヤくずなぢゃ」
「イヤふるなぢゃ」
「くずなぢゃ」
「ふるなぢゃ」
「くずなぢゃ」
「ふるなぢゃ」
「くずなぢゃ」
「ヤイ/\騒がしいそりゃ何事、清めしまはば早く下がれ。みな行け/\」と
追立てやり。
「アレお聞きあれ弥藤次殿、我が君この殿へ御移りと見へ、物の音近く聞え申す」「いかさま、さよう」
と威儀つくろひ厳重にこそ、控へ居る。花に暮らし、月に明かし、酒池の遊びに酔ひ疲れ、御殿々々の通ひ路も数多官女が道楽に、君の機嫌をとりかぶと、調ぶる笛やしゃう、ひちりき、大鼓の音も鶏徳に、己が不徳を押し登る。うんげんの深縁、蜀錦のしとねの上、むんずと座せし有様は、実に類ひなき栄華の殿。玄蕃、弥藤次頭をさげ、
「せんだって卿上雲客たちより君の寿を祝し申されし数の島台、ソレ女中方、叡覧に供へられよ」
『アッ』と答へて持ち出づる、思ひ思ひの飾り物。
「なにがな君が寿を祝ふ鶴亀松竹の影は千尋の深緑。松と鶴亀合はせて見れば一万二千の齢を君に譲り寿ぐ蓬莱山。さてまた次の島台は、周の帝の寵妃仮りの情のおととぐさ。実に寵愛の色菊や、葉毎を染めしその筆の命毛長き八百歳。老いせぬや、老いせぬや。薬の名をも菊の酒、酌めども尽きぬ泉の壷。殿上人の方々より御祝儀なり」
と相述ぶる。一しほ興に入鹿が悦び。
「オヽ百司百官より下万民に至るまで、我が在位長かれと願ふことめい/\が身の冥加なれば、猶ばんぜいを唱へよ」
と高慢我慢のみことのり。
『はっ』と両人階下にひれ伏し、
「我れわれは申すに及ばず、民百姓も野に手をうって舞ひ楽しむ。誠に戸ざさぬ御代と申すは今此の時に候」
と滅多に追従。猩々の人形に見惚れ官女たち、
「コレ/\この猩々が手に持った酌盃も取りはづし、壷にはまことのみきを湛へた。これで御酒宴始めうか」
「いかさま。それはよい御慰み。サア/\早う」
と取りどりに手まづ遮る盃の、廻れや/\万代も尽きじ、尽きせぬ歓楽の興を催すその所へ「ものまう、頼みませう」とどってう声。ばちびん頭の大男。御殿間近くぼっか、ぼっか、ぼっか、ぼっか。着たる木綿の長かみしも。糊しゃきばって立ちはだかり。
「エヽ入鹿殿はこゝぢゃな。内になら逢はして下んせ」
と木で鼻くゝるむくつけ詞。宮越、荒巻目にかど立て、
「ヤア何奴なれば、君の御前ともはばからぬ馬鹿者め、すさりをらう」
ときめ付くる。
「イヤ俺や。難波の浦の鱶七と云う網引きでござんすが、いつやらからこっちの方へ宿替してごんしたお公家どの、鎌きりのだいしんから雇はれて来た使でごんす」
といふを、遙かに見下ろす入鹿。
「ハテ心得ぬ。その鎌足めは首陽山のむかしを学び、跡を隠せしと聞きしに、さては難波の浦に在りけるよな。普天の下、率上の浜、王地にあらざる所なければ、今日まで飢えにも臨まず健固にをりしは我が恵みならずや。それを思はばとくにも参り恩を謝すべきのところ、使を立てしは緩怠なり」
「エヽそれおれが知った事かいの、かう見たところが余程短気者ぢゃわいの。しかし喧嘩はこなんの様にこつきで行くのが徳ぢゃ。鎌殿も一旦は言ひがかりて、てっぱって見ようと思はれたさうなが叶はぬやら、どうぞおれに往て挨拶してくれてて、それは/\きつい弱りいの。大慨な事ならもう了簡してやらんせ。懇ろな中は得て心安立て、間違ひがあるものぢゃてのう。コレ仲直りの印ぢゃてて、酒(きす)一升おこされた」
と刀の提げ緒にぶらぶらと結びし徳利。きっと目を付け「未だ日本に渡らぬ兵器唐土にありと聞く。飛び道具のたぐひなるか。何にもせよ怪しき物を所持せしぞよ。かたがた油断致すな」と眉をひそめて身構へたり。
「エヽとっけもない。とっくりと見やんせ。酒ぢゃ酒ぢゃ。コレそこなお手代衆。早うコレ、進ぜさんせ」
「イヽヤ善悪知れざる鎌足より差し上げし酒ならば、毒薬仕込みあらんも知れず。奉る事罷りならぬ」
「エヽまはすわ/\。どれおれが毒味してやろ、茶碗はないかえ、そんなら赦さんせぢきやりぢゃ」
と言ひつゝ徳利の口から口。
「オヽよい酒ぢゃになあ。これを飲まぬといふことがあるかしらぬ」
と振って見て、
「ヤア/\南無三。みな飲んでしもた。エヽひょんな事してのけた。ヤコレひょっと鎌殿に逢はんしょとまゝおれが飲んだと云はずに、よう届いたと礼いうて下んせや」
とがむしゃな様でも正直者。真面目になって気の毒顔。
「アヽまだ何やらことづかって来たが落しはせぬか」とふところ探し、「オットあるわ/\、サアこれ見やんせ」
と一通を渡せば、弥藤次押し披き、
「ナニ/\我れ不肖たるによって、暫く心を惑はすといへども、いま一天四海御手の内に落ち入る事、正しく天の譲り給ふ万乗の御位、入鹿公に背くは天に背くと同じと先非を悔いてこゝに降参を乞ふものなり。いまより臣下に属するのしるし。君の齢を東方朔にたとへ、この桃花酒を以て御寿を祝し奉る。内大臣藤原の鎌足謹んで申す」
と読み上ぐる。
「ハヽヽヽなまくら者の鎌足め。臣下とならんなんどとは、イヤしらじらしき偽り奴」「なんぢゃ、鎌殿を嘘つきとは、何ぞ確かな証拠がごんすか」
「ヤア小ざかしき証拠呼ばはり。彼れが心腹いうて聞かさう」
「ドレ聞きませうか」
「まづ、この入鹿を東方朔に譬へたるが野心の証跡」
「そりゃ又なじょに」
「オヽ昔漢の武帝が代に、東方朔といへる奴、三千年に一度実を作る桃をみたび盗んで喰ひし故九千年の齢を保つ。桃に百の縁をかたどり、ももしき百官を手に入れし入鹿を盗人なりといはぬばかりの底巧み、憎っくいやつ」
と居たけだか。
「イヤ/\それゃ無理ぢゃ、無理ぢゃ」
「ヤアうず虫め、何を知って小癪やつ」
「イヤ何にも知らんけど、代りになって来た俺ぢゃによって一番いふのぢゃ」
「オヽ鎌足が代りならば、これをも代りに試みよ」
と、そばなる島台押し取って、眉間へはっしと打ち付くる。台は微塵に飛び散れど、びくとも動かず。
「アヽ好い加減にだだけさしゃれ。その厄払ひの代物。東方朔とやらに譬へたというてごうわかすのか。年にあやからんせとこそ書いておこさしゃったれ、盗人と書いちゃないぞや。それにそちから色々な講釈を付けて盗人せんさく。知った同士は涼しいとやらで、盗人の覚えがあるかして今の投げ打ち。アヽこなんは正直な人さんぢゃと世間の噂。見ると聞くとで大きな違ひマアそんな盗人と鎌どんを懇ろには俺がさすまいわいの。じんたいにも似合はぬ事さんすの。よもやさうぢゃあるまいかの。ただし覚えがござんすか。イヤさうかいの」
と文盲だらけも理屈は理屈。
「どうじゃいの/\どうでごはる」
とやり込むれば、邪智の入鹿もにが笑ひ。
「ハテ口がしこく言ひ曲げしな。うい奴、でかした。その褒美には鎌足が実否を正すまでおのれは人質。最早や篭中の鳥同然。帰る事はならぬと思へ。ヤア/\玄蕃、弥藤次、いざ萩殿にて天盃をめぐらさん。来たれや」
と引き連れて帳台深く入りにけり。
「ア、コレ/\おれを質に取らしゃると、着物や道具と違うてしろものが飯喰ふぞや。しかしあのごうはらでは大抵では喰はしをるまい。オヽ空腹に今の酒でよっ程酔が来たわい。ドリャ何処でなと一寝入りやってこまそ」
と伸び上がり
「エヽ腰が重い筈よ。この大小。らっちもないものを差さしておこして、あた面倒な」
と縁板へぐわたりと、鳴るは合図かと。突き出す鎗はしのすすき。構はずころりひぢ枕。不敵なりける男なり。御所より外へ咲き出でぬ、若き御達が入りかはり男見に来る愛想には、お茶よ、お菓子よ、煙草盆。銚子かはらけ持って出で。
「コレそな人は何御用でお召寄せありしは知らねど、さぞ待ち久しう気もつきよう。九献一つ」
と差し置けば、からだ寝返り、腹ばひに頬杖つくづく打眺め、
「フン貴様は誰れぢゃ」
「オヽ、我れわれは上様の身近く召さるゝ女ども」
「何ぢゃ短い女子ぢゃ。ドレ/\立って見い/\なるほど。どれもこれもよう煮え込んだものぢゃ。わいらはこゝな飯焚ぢゃな。テモけうな前垂しているな」
「エヽつがもないざればみごと。わしらを問ひやるそなたの名は」
「オヽ鱶」
「ナニ鱶とは」
「ハテ商売の夜網に出りゃ、沖でも磯でも行き当りに、よう寝る故に鱶七といふ漁師々々」
「ヤア料紙とは何ぞ書いてたもるのか。それならば必ず絵や歌はいやぢゃぞや。いま難波津で持て囃す、歌舞伎芝居のその中でもよう聞き及んだ文七や八蔵の紋ならば書いて欲しい」
としどもなき。桜の局すり寄って、
「さうして下々は皆そなたの様な男かや。よい男もたんとあるであろ。地下の女子はうらやましい。芝居は見次第、好い男は持ち次第、ほんにまたこの御所女には何がなる。見るも見るも冠装束窮屈で急な逢瀬のその場でも、衣紋の紐よ、上帯よ、解くかほどくか、大抵では下紐迄は手がとどかず、ついその内には花に風、月に叢雲さはりが出来て、本意ない別れをするわいの」といふさえ顔に紅葉の局。「中将や小将あたりで恋すれば、あのおいかけが邪魔になる、尻目づかいは出来ぬ/\。その上悋気いさかひもこっちからは檜扇で叩けば、あっちは笏でとめ、つっぱりかえっていきったばかり。いらうても見ぬ逆ほこの雫情も受けて見ず、しんき/\で暮らそより、いっその事に玉の緒も絶えなば絶えたがましであろ。もしもや誘ふ水しもあらば、往にたいわいの」
と鱶七にひしと二人は抱き付く。びっくり敗亡、ごう煮やし、
「エヽけたいな衒妻めら、あっちへきり/\うせあがれ」
とけんもほろろに言ひちらされ、
「さってもすげない恋しらず。玉の盃底ぬけ男。不骨者よ」
と不興して、本意なく奥へ入りにけり。あたり見廻はし長柄の酒。庭の千草にさら/\と潅ぎかくれば、忽ちに葉立ち変じて枯れしぼむ。
「ハヽヽヽヽフヽヽ。最前の鎗といひ、またぞろやこの毒酒。ハレヤレきつい用心」
と猶打ち見やる庭先へ、弓と矢つかひ、ばらばらばら、追取りかこませ宮越玄蕃。
「いかにしても心得ぬつら魂。尋ね問ふべき仔細のあれば引っ立て来よとの綸言なるぞ。早く参れ」
「オヽ呼びにごんせいでも行くのぢゃ。かりそめにもびこ/\と、ちょっとでもさはるかいな、腰骨踏み折り疝気の虫と生き別れさすぞ。ヤコレ家来どもさん、わろ様たちもその鳥おどし放すが最期、取っ掴まへて首引抜き、かたはしからぬたにするぞ。ヤどりゃ、おれから先へ行きやんしょ」
と事とも思はぬ大胆者。胸の強弓矢ぶすまを引明けてこそ入りにける。
姫戻りの段
されば恋する身ぞつらや。出づるも入るも忍ぶ草。露踏み分けて橘姫。すごすご帰る対の屋の障子にばらり打つつぶて。
「ソリャお帰りの知らせぞ」
とめい/\、庭につどひおり、しをり開いて入れ参らせ、
「おいとしや、/\、御所のお庭の内さへもつひにおひろひなされぬに、恋なればこそかちはだし、さぞ朝露でお裾もぬれん。こうちぎに召させかへん」
と立ち寄って、
「ヤアお振袖に付いてあるこの紅の糸不審」
とたぐり手操れば、くる/\と糸に寄る身はささがにの雲井の庭へ引かれ来る、ぬしはゆかしの、
「ヤア求馬様か」
『ハァはっ』と驚く姫よりも、騒ぎさざめく局たち。
「さても見事引き寄せた。七年物の恋人様か。ようこそお入り遊ばした。サア/\こちヘ」
と手を取れば、
「イヤ手前はつい道通り、このおだまきを拾ひ上げるやいな、滅多に引かれ参った者。何にも存ぜぬ。お赦し」
と出づる向ふを、立ち塞ぎ、
「エヽ手の悪いなされやう。私らに御遠慮は、内々のお話ならどりゃお次ヘ」
と立って行く。姫はとかうの詞なく差しうつむいて、思案の求馬。
「フンこの御所の姫とあれば聞くに及ばず、入鹿の妹橘姫」と言はれてはっと胸せまり、
「入鹿が妹と知り給はばよもお情はあるまいと、隠し包みし甲斐もなう御存じありしお前こそ藤原の淡海様」
と言ふ口ちやくと袂に覆ひ、
「女なれども敵方に我が名を知れば一大事。不憫なれども助け難し」
「なるほどお道理。ごもっとも。生きて居るほど思ひの種。お手にかかるがせめての本望。かういふ内もお姿やお顔を見れば輪廻が残る、サア/\殺して下さんせ」
と刃を待ったる覚悟の合掌。
「心底見えた。が、まこと夫婦になりたくば、一つの功を立てられよ」
「一つの功を立てよとはえ」
「オヽ入鹿が盗み取ったるこそ三種の神器のその一つ。十握の御剱奪ひ返して渡されなば、望みの通り二世の契約。得心なければ叶はぬ縁」
「サア是非もなや。悪人にもせよ兄上の目を掠むるは恩知らず、とあってお望み叶へねば夫婦と思ふ義理立たず。恩にも恋は代えられず。恋にも恩は捨てられぬ。二つの道にからまれし。この身はいかなる報いぞ」
と忍び歎いておはせしが、
「オヽさうぢゃ。親にもせよ兄にもせよ我が恋人のためと言ひ、第一は天子のため、命にかけて仕おほせませう」
「オヽ出かされたり。シテまた知らせの合図はなんと」
「こよひ御遊の舞にことよせ、宝剱奪ひお渡し申さん。笛や鼓の音をしるべ。奥の亭までお忍びあれ」
「しからば我れはこの所に暮るゝをしばし待ち合はさん。必ず首尾よう」
「合点でござんす。が若し見付けられ殺されたら、これがこの世のお顔の見納め、たとへ死んでも夫婦ぢゃとおっしゃって下さりませ」
「オヽ運命拙く事顕れ、その場で空しくなるとても、尽未来際かはらぬ夫婦」
「エヽ忝い、嬉しや」
と抱きしめたるをしどりのつがひし詞、縁の綱、引き別れてぞ忍ばるる。
金殿の段
迷ひはぐれしかた鶉、草の靡くをしるべにて、いきせきお三輪は走り入り、
「エヽこの緒環の糸めが切れくさったばかりで、道からとんと見失うた。さりながらここより外に家はなし。大方この内へはいったに違ひはない。エヽ誰れぞ来よかし。問ひたや」
と見遣る先より、おはしたがかつぎ眉深に、しゃな/\と豆腐箱提げ歩み来る。
「もうし/\」
と呼びかくれば、オット呑み込み早合点。
「オヽお清所尋ぬるのなら、そこをこちらへかう廻って、そっちゃの方をあちらへ取り、あちらの方をそちらへ取り、右の方へ入って、左の方を真直ぐに脇目もふらずめったやたらにずっと行きや」
「イエ/\私が尋ねるのは、お清どのとやらではござんせぬ。年のころは二十三四で色白にくっきりとした好い男は参りゃせなんだかえ」
「オゝ、/\、/\来たげな。来たげな。それはアノお姫様の恋男ぢゃげなの。三輪の里から路追うて来たところを、なにがお局たちが引っ捕へ、有無を言はせず御寝所へぐっと押し込み、上から蒲団をかぶせかけ/\、アヽヽヽ宵の中内証の御祝言がある筈と、暮れぬ内から騒いでぢゃ。エヽけなり、こちとまで内太股がぶき/\と、卯月あたりの弾け豆。豆腐の御用が急ぐに」と喋り廻って、出でて行く。「サア/\、ひょんなことが出来て来た。ほんに/\油断もすきもなるこっちゃない。大それた人の男を盗みくさって、何ぢゃいしこらしい内祝言ぢゃ。余りな踏み付けやう。よい/\。ドレその代りどこに居ようと尋ね出し、求馬様と手を引いてこれ見よがしにいんで退けるが腹いせぢゃ」
と行かんとせしが、
「イヤ/\/\はしたない者ぢゃとひょっと愛想をつかされたら、と言うてこのままに見捨てゝこれがどう往なれう。エヽどうせうぞ」と心も空。登るきざはし長廊下、行き交ふ女中見咎めて、一人が留むれば二人立ち、三人四人いつの間に、友呼ぶ千鳥むら/\と、こゝかしこから寄りたかり、「ついし見馴れぬ女子ぢゃが、そなたは誰ぢゃ。何者ぢゃ」
「ハイ/\、イヤ私は内方の、オヽそれよ、さっきのお清殿は寺友だち、奉公に出られてから久しう逢はぬなつかしさ。ちょっと見舞に寄りましたら、これはマア/\よう来た。上がれ、茶々呑め、さうしてアノ煙草のめ、アノお上にはああ滅相な御祝言があると聞けば聞くほど涙がこぼれて、あたおめでたい事ぢゃげな、ほんに内方の様なよい衆の御祝言はどの様なものぢゃおのれやれ拝んでなり、腹癒よと、うか/\こゝまで参りました。どうぞお前方のお心で、その聟様をちょっと拝ましてもらうたら忝うござります」
と言ふ顔も恨み色なる紫の、ゆかりの女とはや悟り、『なぶってやろ』と目引き、袖引き、
「マア/\そちは仕合せな。かういう折に参り合はせ、お座敷拝むという事は、女の身では手柄者だがこちらが呑み込んでお座敷へ出すものゝなんぞさゝずばなるまいな、何と皆さん、いっそのことこの者に酌取らそではあるまいか」「よからう/\」
}「アヽもうし、その酌とやらは」
「オヽ何のまたそちたちが知ってよいものか。いまこゝで教へてやろ。幸ひこゝに御酒宴の銚子島台。あり合ひの聟君さまには紅葉の局。梅の局は嫁君役。残りはかいぞへ待ち女郎」と桜の局が指図して、いやがるお三輪に、長柄の銚子持たせ、持ち添へ。「マア盃は三つ重ね。嫁君へ二度ついで、左へ二足。コレ立つのぢゃ。エヽ何ぢゃいの。うか/\せずとよう覚や。三度目ついで聟君へ。コレ酒がこぼれるわいのう。不調法な。サこれからが乱酒謡ひ物。これも嗜みなければならぬ。サア四海波なと謡やいの」
「エヽ」
「エヽとはいやか。そんなら聟さま拝ます事はマアならぬ。サそれがいやなら早う謡や」
とせき立てられ。
「これがマア何と千秋万歳の」
千箱の玉の血の涙声詰らせてないじゃくり。
「オヽめでたう哀れに出来ました。色直しにはんなりと、梅が枝でも蕗組でもサア/\聞きたい。所望ぢゃ、/\」
「エヽあられもない事おっしゃりませ。山家育ちの薮鶯、ほう法華経も片言ばかり。上り下りの仇口や、馬子の唄なら聞いても居よう。もう何事もお赦しなされ。サ早うその聟さまに」
「サア聟さまが見たくば早う謡や。馬子の唄なら面白からう。序でに振りも立ってしや。いやならこっちもなりませぬ。帰りゃ/\」
と引き出され、
「サア/\/\何のいやと申しませう」「サそんなら謡や」
「アイ/\/\謡ひまする」
と泣く/\も、涙にしぶる振り袖は、鞭よ、手綱よ、立ち上り、
「竹にサ、雀はナア、品よくとまるナ、とめてサとまらぬナ、色の道かいなアヽヨ、エヽここなほてつ腹め、とこの様に申しまする」
と打ち伏せば、皆みな一度に手を打って
「さてもきつい嗜み事。よい慰みで我れわれが、ほてつ腹までよれました。馬士どの大儀」
と言ひ捨てゝ行くを、驚き、
「コレもうし、わたしもともに」
と取り縋れど、ふり離されてがばとこけ、寝ながら裾にしがみ付き、引きずられて、声を上げ、
「のう皆さん、お情ない。どうぞ私も御一緒に連れてござって下さりませお慈悲、/\」
と手を合はせ、拝み廻るを叩きのけ、
「オヽしつこ、とても及ばぬ恋争ひ。お姫様と張り合ふとは、かなはぬ事ぢゃ、置いてたも、大胆女のしつけをせう」
と耳を引くやら、脇明けより手を指し入れてこそぐるやら。つめりつ、叩いつ、突倒し、
「サア/\これで姫様の悋気の名代納った。いよいよめでたい御祝言、三国一ぢゃ。聟を取り済ました。しゃん/\、/\と済んだ」
と打ち笑ひ、局々ヘ入る跡は、前後正体泣き倒れ、暫し消え入り居たりしが、
「エヽ胴慾ぢゃ/\胴慾ぢゃわいのう。男は取られその上にまたこの様に恥かゝされ、何とこらへて居られうぞ。思へば/\つれない男。憎いはこの家の女めに見かへられたが口惜しい」と袖も袂も喰い裂き/\、乱れ心の乱れ髪。口に喰ひしめ身を震はせ「エヽ妬ましや、腹立ちや、おのれおめ/\寝ささうか」
と姿心もあらあらしく駈け行く向ふに、以前の使者
「オヽそなたも邪魔しに出たのぢゃな,もうかうなったら誰が出ても構はぬ/\。そこ退きゃ」
と袖すり抜けてかき入る裾、しっかと踏まへ、
「コリャ待て女」
「イヤ待たぬ、ここ放しゃ、/\」
と身をもがく。たぶさつかんで氷の刃、脇腹ぐっと差し通せば、『うん』とのっけに倒れ伏す。刀つき捨て辺りを窺ひ、目を配る。奥は豊かに音楽の、調子も秋の哀れなる。お三輪はむっくりと起き返り
「さては姫が言ひ付けぢゃな。エヽむごたらしい、恨みはこちからあるものを却ってそちから殺さする。心は鬼か蛇かいやい。オヽ殺さば殺せ。一念の生きかはり死にかはり、付きまとうてこの恨晴らさいで置かうか。思ひ知れよ」と
奥の方、睨め詰めたる眼尻も、叫ぶこわねもうはがれて、さもいまはしきそのありさま。じろりと見やり、
「女悦べ。それでこそ天晴れ高家の北の方。命捨てたる故により、なんぢが思ふ御方の手柄となり入鹿を亡すてだての一つ。ホヽウ出かしたなァ」
「なんと賤しいこの身を北の方とは」
「ムホヽウそちが語らひ申せし方は忝くも中臣の長男淡海公」
「エヽ、シテまた私が死ぬるのがいとしいお方の手柄になって、入鹿を亡ぼすてだてとはえ」
「ホヽヽその訳語らん。よっく聞け。彼れが父たる蘇我の蝦夷子。齢傾くころまでも一子なきを憂へ、時の博士に占はせ、白き牝鹿の生血を取り母に与へしそのしるし。健かなる男子出生。鹿の生血胎内に入るを以て入鹿と名付く。さるによってきやつが心をとらかすには、爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血、これを混じてこの笛にそゝぎかけて調ぶる時は、実に秋鹿の妻恋う如く、自然と鹿の性質顕はれ、色音を感じて正体なし。その虚を計って宝剱あやまちなく奪ひ返さん鎌足公の御計略。物蔭より窺ひ見るに、疑着の相ある汝なれば、不便ながら手にかけし」
とくだんの笛の六穴に、たばしる血汐受け潅ぎうけそそぎ、
「いまこそ揃ふこの幻術。この笛こそは入鹿をひしぐ火串ならん。ハヽありがたや」
と押戴き、いさみ立ったるその骨柄、げに藤原の御内にて金輪五郎今国と鍛へに鍛へし忠臣なり。
「のう冥加なや。勿体なや。いかなる縁で賤の女がさうしたお方と暫しでも、枕かはした身の果報、あなたのお為になる事なら、死んでも嬉しい、忝い。とはいふものゝいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとへこの世は縁薄くと、未来は添ふて給はれ」
と這ひ廻る手に苧環の
「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様もう目が見えぬ、なつかしい、恋しや/\」
といひ死にゝ、思ひの魂の糸切れし。小田巻塚と今の世まで、鳴り響きたる横笛堂の因縁かくと哀れなり。今国ふびんいや増しに、
「せめて葬り得させん」
と背なにお三輪がなきがらを、追々駈け来る荒しこども、
「曲者やらぬ」
と取り巻いたり。見向きもやらず悠々と、几帳の綾絹引きちざり、死骸とともに我が五体、くる/\しっかと引き結び、「死人を取り置く我れらこそ、まづ出来合ひの坊主役、十念授けてこまさうにも、つど/\には邪魔らしや。一度にかためて授けるがうぬらが為には百年め。いざ来い」『やっ』と力士立ち。「ヤア広言なる骨仏」と前後左右より十文字。鎗先揃へて突き出だす。「手取りにせよ」とどっと寄る。当るを幸ひ、砂石の如くほり飛ばされ、逃げ行く奴ばら余さじと、奥ふかくこそ行く先の。
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