平右衛門:足軽身分の悲哀
〜「仮名手本忠臣蔵・七段目」
「仮名手本忠臣蔵」という芝居はそれ自体は武士の論理で出来ている芝居ですが、そこは庶民の芸能ですから庶民が感情移入できるキャラクターが設定されています。足軽寺岡平右衛門もそのひとりです。平右衛門は由良之助が仇討ちの計画を持っているらしいと睨んでそのお供を願い出ますが、由良之助はその本心をなかなか明かそうとしません。七段目(一力茶屋の場)の最後でついに平右衛門のお供が許されると 、見ているこちらも「良かったなあ、頑張れよ」と応援したい気分にさせられます。
ところで由良之助が平右衛門に本心を明かさないのは、討ち入りの計画を誰にでも軽々しく明かすわけにはいきませんし、平右衛門を仲間に入れる前にその心底を見極める必要もあるから当然のことですし、 吉之助も最初はそう思って芝居を見ていました。しかし、もうひとつ、由良之助が平右衛門を簡単にお供に加えるわけにいかない理由があるらしいのです。それは平右衛門が足軽身分であるということです。このことは芝居ではあからさまに描かれてはいませんが、おそらく当時の人々から見れば説明の必要もない当然のことだったからかも知れません。しかしこれは重要な問題を含んでいると思います。
調べてみるとひとくちに「武士階級」といってもそのなかは様々な階層に分かれているようです。その区分は藩によっても微妙に異なるようですが、一般的には「上士(上級武士)」と「下士(下級武士)」に大別できます。この区分はかなり厳しいもので、ほとんど断絶とも言えるほどの格差があ りました。幕末の倒幕運動でもっとも多く命を落としたのは土佐藩士ですがその大半は下士であって、坂本竜馬らの思想行動もそうした下士の不平不満が背景にあると思わざるを得ません。
実は足軽身分というのは「上士・下士」の区分よりさらに下の「軽輩身分」で帯刀はしていますがいわゆる士分(武士)ではない身分でした。(注:足軽を士分として扱う藩も一部にありましたが、一般的には足軽は士分でないと考えてよい。時代劇によく出てくる同心・与力なども同様です。)ここに由良之助が平右衛門の気持ちを分かってはいても簡単にお供を(あくまでも「お供」であって討ち入りの「同志」ではない)許すわけにはいかない理由があったわけです。
ただし軽輩身分にも救いがあって、その働き次第では士分に取り立てられる可能性はあったということです。たとえば長州藩で言えば、伊藤俊輔(博文)や山県狂介(有朋)なども軽輩出身ですが、その後士分に取り立てられています。やはり明治維新の変革のエネルギーはこうした上昇志向を抜きにしては考えられないようです。
さて平右衛門ですが、彼が仇討ちにお供であっても加わりたいと由良之助に強く願うのも、「手柄を立てて俺もいつかは武士の端くれに」といういじらしいほどの気持ちがあったからに違いありません。この平右衛門の熱い気持ち、その上昇志向とそれがままならない身分の悲哀・いらだち、それらが当時の観客が平右衛門・お軽の兄妹に感情移入しながら「七段目」を見た理由であったと思います。
思えば兄妹の親である百姓与市兵衛の一家は上昇志向の強い家であって、山崎の農家でありながら娘お軽を塩冶家に女中奉公に出し(ということは読み書きや作法も教えたということ でしょう)、そのお軽は見事に早野勘平を恋人に射止め、息子平右衛門も塩冶家へ足軽ながらもご奉公。一家の夢はまさに現実のものになろうとしていたわけでした。それが塩 冶判官の刃傷によってもろくも崩れたのです。「五段目」において与市兵衛が自分の娘を売ってでも資金を作って婿の勘平になんとか仇討ちの仲間に入ってもらいたいと考えたのもそこに理由があったに違いありません。
平右衛門のモデルである寺坂吉右衛門は赤穂義士の討ち入りの後に失踪しました。大石内蔵助の指図によって赤穂へ討ち入り成功の知らせに走ったとも言われていますが、真相は定かではありません。しかしその理由のひとつは士分ではない足軽の吉右衛門をやはり同志として最後まで同道させられなかった、というところにもあるように思えます。身分制度の現実はやはり厳しいものなのです。しかし世間は吉右衛門を加えないと「四十七士」になりませんし、なんとしても彼を赤穂義士のひとりにしたかったのです。吉右衛門は「討ち入りに参加した庶民」であったからです。「仮名手本忠臣蔵」の平右衛門というキャラクターはそうした庶民の期待を背負っているのだと思います。
それにしても「忠臣蔵」の面々は足軽平右衛門に対して暖かく接していると思います。討ち入りに参加したいと願う平右衛門の気持ちに感心して三人侍は由良之助に彼を引き合わせようとして一力茶屋に行くわけですし、由良之助も懇願する平右衛門に「口の軽い足軽殿」などとからかったりしますが平右衛門をはねつけたりしません。本来ならば彼らは「足軽風情が何を言うか」と言って平右衛門を退けてもいいくらいなのです。そこに丸本作者の平右衛門に対する思いを感じないわけにいきません。
また十一段目(討ち入りの場)は現在の上演では実録ものみたいになっていますが、丸本では義士たちが本懐を遂げた後、判官の位牌に焼香します。最初の焼香は一番槍をつけた矢間重太郎、次の焼香はという時に由良之助は六段目で切腹した勘平の財布を懐から取り出します。由良之助は「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。
これは実にいい場面だと思うのですが、どうして歌舞伎ではやらないのでしょうね。ここで勘平の財布が出てくるのにも泣かされますが、二番目に焼香するのが平右衛門であるというのも、丸本初演時の大坂町民にはうれしいものがあったのではないかと吉之助は思うのです。
(H13・2・18)