今日もまたそのようになりしかな
〜「盟三五大切」
『さあ嘆きをやめて、もうこの上泣き悲しむな。まことに、これらのことはすでにしっかりと定められ、呼び戻すすべもないのだ。』(ソポクレス作・「コロノスのオイディプス」の大詰のコロスの台詞)
1)「世界」の転換
「盟三五大切」大詰において、源五兵衛(実は塩冶浪士・不破数右衛門 の変名であった)を騙った三五郎が実は数右衛門の家来であったことが分かります。しかし、その時はすでに源五兵衛は騙られたことに怒って五人斬りの大罪を犯し、さらに三五郎の女房小万と赤ん坊までを殺した後だったのです。三五郎は幼い時に勘当されて主人の顔を知らなかったのです。顔を知らない主人のために御用金を調達しようと源五兵衛を騙ったつもりがそれが主人であったのです。これを知って三五郎は腹を切ります。その最後の場面に塩 冶浪士の面々が突然登場します。彼らは数右衛門を迎えに来たのです。折りしも雪が降り始めます。まさしくそれは浪士たちが高師直の屋敷に討ち入る当夜のことなのです。
幕切れの割り科白には次のようにあります。( )内は役名です。
(鉄)古主の鬱憤散ざん為、大工左官と様を変え、
(市)或いは商人、日雇取り、皆この辺に徘徊なすも、
(辰)これ皆義士の棟梁たる、大星殿の指図に依り、数右衛門どの迎えの為、
(鉄)塩田、倉橋、前原はじめ、義士の輩参りし上は、大望即ち今日今宵。
(市)門出を祝して、
(皆々)ご用意あれ。
(源五兵衛)然らばこれより同道いたして、
(了心)本望達するめでたき門出。
(三五 郎)我はこのまま、あの世の門出。
(源五兵衛)臨終称念。
(了心)お立ち。
(源五兵衛)まづ今日はこれぎり。』ここで「鉄」・「市」などと記されている役は、芝居のなかで大工左官などの目立たないところでさりげなく動いていた役です。実は彼らもまた数右衛門と同様に、仇討ちの大望を秘めつつ・名を変え市井のなかに潜り込んで・その時期を待っていた連中であったのです。
鶴屋南北の見事な綯い交ぜの手法は、「五大力の世界」から「忠臣蔵の世界」へ大きく転換して大団円を迎えます。この転換のきっかけが源五兵衛の「こりやかうなうては叶うまい」という台詞であることは別稿「こりやかうなうては叶うまい」・「人格の不連続性」 などにおいて触れました。「盟三五大切」では「忠臣蔵」と「五大力」の二つの世界が裏表に設定されているのです。
それではこのような幕切れにおける「世界の転換」が演劇的にどういう意味を持っているのか、そのことを本稿で考えてみたいと思います。
例えば「忠臣蔵」は表の世界・「五大力」は裏の世界という風にふたつの世界を対立関係に見る考え方があり得ます。この場合は、「忠臣蔵」は建前の世界であり、登場人物は 表の世界から主従関係と忠義の論理を押し付けられ、人情を奪われ、非人間的な社会の論理に潰されると読むこともできます。裏の「五大力」の世界は本音の世界で、登場人物は傷付き汚れながらも必死で生きています。そこから表の世界を見ればもはや美しくは見えてきません。源五兵衛(実は数右衛門)はその犯した罪の深さにおののき・絶望の念を抱いたまま・死のうにも死ねず・無理矢理に仇討ちの列に引きずり込まれて、そして「義士」という衣装を着せられます。しかし、その衣装は血に汚れているのです。あの武士のお手本のような塩 冶浪士の討ち入りも、人々の犠牲のもとに成り立っ た建前の行為にしか見えてこないのです。
「世界の転換」は、そのような人間模様も社会の論理のなかに収攬されていくこの世の非情さ・不条理を浮き彫りにしているとも考えられます。現代において「盟三五大切」・あるいは先行作である「東海道四谷怪談」を見る時には、こうした見方が主流です。鶴屋南北は「忠臣蔵」に代表される武士の論理を批判している・そしてこれを笑い飛ばしているのだと見ることができるかも知れません。
確かにそういう見方も大いにあり得ます。これも作品解釈の重要な可能性のひとつだと思います。しかし、多少偏痴気論的ですが、あえて言えばこの見方にはこういう指摘が出来るだろうと思います。まず上述のような解釈は、表と裏の世界を対立的概念に見て、民衆は常に社会に強制され搾取され続ける存在であるという風な・民衆と社会とを対立概念として見ようとする唯物史観的な見方を感じさせます。実際は民衆(被支配階級)も社会の構成員なのでありますから複雑かつ密接に関連していて、そのような一概にステレオタイプ的な見方で社会と民衆の関連を論じるだけではすべてを測れないように思うのです。むしろ社会は民衆の鏡 ・民衆は社会の鏡だと考えた方が自然なのではないでしょうか。
また、上述のような見方は源五兵衛(変名)と数右衛門(本名)の人格の連続性の上に見ています。歌舞伎に存在する断層を無理につなぎ合わせようとしているような不自然さを感じます。歌舞伎に存在する断層というのは、筋の辻褄の合わない部分・あるいは作品中の矛盾とも言えるものです。しかし、これは鶴屋南北の作品に限ったことでもありませんが、私は歌舞伎の「断層」は断層としてその切れ目を味わいたいと考えるのです。いやむしろ、こうした断層を強調することにこそ・歌舞伎の歌舞伎らしさがあるのではないでしょうか。
2)義士の列の意味
「盟三五大切」において大詰で登場する塩冶義士の列は、古代ギリシア悲劇で言うところの「デウス・エクス・マキ−ナ」(機械仕掛けの神)であるということは別稿「こりやかうなうては叶うまい」において触れました。例えばエウリピデスの「メデイア」幕切れで登場する竜の車です。母親が我が子を殺すという・おぞましい惨劇の直後に登場するこの竜の車に乗って、主人公メデイアはどこかへ行ってしまいます。あの車は何の目的で差し向けられたものなのか・それが祝福を意味するのか懲罰なのかさえも分かりません。しかし、大事なことは舞台のうえで起こった悲劇は神の意志で起こったものでどうしようもないことで・それが良いとか悪いとか言っても始まらない・ただ我々はそれを神の業として受け入れるしかないということなのです。「メデイア」の大詰のコロスの台詞を見ています。
『もろもろの事の司よ、オリンポスなるゼウスの神は。神々は、思わぬごとく、事々を成したもう。思われしことは成らずして、神明は、思われぬこと遂げたもう。今日もまた、そのようになりしかな。』
メデイアは竜の車に乗った時点ですでに神的な存在に化していて、いかに夫イアソンが涙ながらに罵ろうがメデイアの相手ではありません。なぜならば、「デウス・エクス・マキーナ」はこの世の摂理・秩序を象徴するものだからです。額縁のなかに納まった時に、すべてのものは・悲劇惨劇でさえも清く美しく見えてくるということです。こうして悲劇は神の意思のなかに収攬されていきます。
これはこんがらかった筋を無理矢理に終結に向かわせるための苦肉の策のように見えるかも知れませんが、そうではありません。そして、こんなことも同時に言えるのです。そして、演劇的に見ればその効果こそが興味深いと言えます。それは 「デウス・エクス・マキーナ」の結末によって観客が神の立場になるということです。観客が神の立場になって舞台を眺めた時にあの悲劇惨劇がより生々しく ・より愚かしく・より人間臭いものに見えてくる・「なんといとおしいものかこの人間どもよ」という気分になってくるということなのです。これが「デウス・エクス・マキーナ」の演劇的効果です。
このような視点から「盟三五大切」の義士の列の意味を読み直せば次のように考えられましょう。
源五兵衛は義士に迎えられ、その列に加えられることで「神」の列に加わえられたことになるのです。そこで、それまでに彼が犯した惨劇の数々は清められるのです。誤解して欲しくありませんが、「清められる」というのは肯定される・許されるという意味とは必ずしもありません。その判断は観客に対して保留されています。「清められる」とはただ「今日もまたそのようになりしかな」ということに過ぎません。降り始める雪がすべてを清めてしまうようにも思われます。
だとすれば表の世界たる「忠臣蔵」は、南北にとって批判され否定されるべき・笑い飛ばされるべき対象なのでありましょうか。このことをよく考えて見なければなりません。
3)逆転の発想・パロディーの発想
「盟三五大切」において南北が 表の世界の「忠臣蔵」を批判し笑い飛ばしているならば、南北は裏の世界の「五大力」を・三五郎の騙りの行為・源五兵衛の殺人行為を肯定しているのでありましょうか、あるいはそれらは生きる為のやむを得ない行為であった・それでも民衆は生きねばならないのだと、その生き様を開き直って主張しているのでありましょうか。
あるいはこうも考えます。南北が「忠臣蔵」を笑い飛ばそうというのならば、裏の世界の「五大力」も笑い飛ばさなければなりません。リアリストである南北が、もし表の世界の「忠臣蔵」を斬ろうというのならば、返す刀で裏の世界も斬らねばなりません。絶対そうでなければならないと思います。しかし、市井の民衆の生態を南北は生き生きと・しかも淡々と活写しています。そこには肯定も否定もありません。
考えて見なければならないことは、南北の見事な仕掛けが成り立つ前提に、「仮名手本忠臣蔵」が提示している完璧な義士像があったということです。塩 冶義士(=赤穂義士)は、忠と義の理念を体現した理想の人間像でありました。江戸時代においては、人がある理念を体現した時に、その人を人として認めたものでした。例えば、武士は「食わねど高楊枝」であり、江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」ものでした。そうした理念に武士は武士の・江戸っ子は江戸っ子のプライドを賭けたものでした。そういう時代において義士は清廉潔白の理想の人間像であったのです。
「理想の人間像」などというと教科書みたいで・堅苦しくなって押し付けがましい存在になってきて、だんだんうとましくなって敬遠したくなったり揶揄してみたくなったりするものでしょう。そこに南北の逆転の発想の付け入る余地があるということでもあります。しかし、その逆転の発想もやはり「理想の人間像」の座標軸がゆるぎなくあるからこそ生きるのです。
南北の作劇術を論議する場合、「逆転の発想」・「パロディーの発想」という言葉がいつもキーワードに使われます。その多くがこの座標軸を見失ったところで逆転・パロディーを論じているように思われます。「鶴屋南北」という名前は、もともとは座付き作者の名前ではなくて・道化方の役者の名前でありました。その通り、南北はその名(四代目)を継ぐことで演劇における道化作者を目指したのでありましょう。「道化」とは、その名の通り面白いことをして人々を笑わせ・その心を和ませるものです。時にはちょっぴり悪意を込めて対象をからかうこともあるかも知れませんが、しかし、結局は道化というのは人々の常識の上に乗っかっているもので、常識はずれのことをして見せて笑いを見せても、やはりそれは常識の上に乗っているのです。舞台では馬鹿なことをやっているお笑い芸人が舞台の外では寡黙で頑固なほどの常識人であることは珍しくありません。というよりは、お笑いが「芸」として成り立つためには常識の上に立たなければ駄目なのです。ホントに常識はずれの馬鹿者は、一時的に笑いを取ってもすぐ消えるしかないのです。
南北の「逆転・パロディー」の発想が常識に立脚したものだということが分かりませんと、「東海道四谷怪談」も「盟三五大切」の構造も正確に見えて来ないように思うのです。もう一度、「盟三五大切」における世界の転換の意味を読み直してみます。
不破数右衛門はふとしたことから「忠臣蔵」から「五大力」という異次元の世界へワープしてしまったのです。そして、迷い込んだ「五大力」の世界のなかで数右衛門は源五兵衛という仮の名前を使って仕方なく生きています。そのなかで源五兵衛は様々な生臭い事件に巻き込まれていきます。そして、源五兵衛があわや最後という時になって、源五兵衛が「五大力」の世界に本来はいるべき人間でないことが周囲の人間に明らかになるのです。その時に源五兵衛は元の人格(数右衛門)に戻ってこう言うのです。「こりやかうなうては叶うまい」、つまり自分は本来この「五大力」の世界の人間ではないのだ・自分は自分の在るべき世界に戻らなければならぬ・その時がやって来たのだ、数右衛門は周囲にそう宣言するのです。そこへ「忠臣蔵」の世界からの迎えの使者がやってくるのです。唖然としている周囲の目をよそに数右衛門は平然として義士の列に加わります。こうしてドラマは落ち着くべきところに落ち着くのです。
ギリシア悲劇の「デウス・エクス・マキーナ」を持ち出さなくても、こういうモティーフは日本の古典にもあるのを思い出すでしょう。例えば「竹取物語」がそうです。かぐや姫をめぐって求婚に群がる貴族たちの愚かしい姿、それをよそにして月の世界に去ってしまうかぐや姫。この結末は周囲の人々を唖然とさせずにはおかないでしょう。これまでの騒ぎは一体何だったのでしょうか、あの愚かしい騒動は、かくも人間的な騒ぎは・・・しかし、そのことはそのこととして事実は受け入れなければなりません。「今日もまたそのようになりしかな」。これこそが「世界の転換」のもたらす劇的効果なのです。
先行作である「東海道四谷怪談」の結末を見てみましょう。お岩の幽霊に追い詰められた伊右衛門に、討ち入りの火事装束姿の与茂七が迫ります。伊右衛門は与茂七を見てこう叫びます。「何で身共を、いらざる事を」
この場面での与茂七の登場は伊右衛門ならずとも観客にとっても意外です。誰もがお岩が伊右衛門を罰するのを心中期待しているのに違いないからです。与茂七にとっての伊右衛門は、女房お袖の姉・お岩の仇であります。だから与茂七がここで登場するのは全然場違いなわけでもないのですが、しかし、完全にしっくりとはきません。また、ここでの与茂七は討入装束であり、舞台では雪が降っています。つまり、これはまさに討ち入り当夜のことであり(すなわち「盟三五大切」大詰とまったく同じ刻限です)、伊右衛門を討ったその足で与茂七は高師直の屋敷に駆けつけるのです。降る雪がすべてを清めてゆきます。
ここでもドロドロに血塗られたお岩の幽霊の物語が、表の「忠臣蔵」の世界に収攬されていくのを感じます。こうしてドラマは落ち着くべきところに落ち着くのです。白い雪がすべてを清めてゆきます。「今日もまたそのようになりしかな」。その瞬間の劇的効果は「盟三五大切」と全く同じです。すなわち、討入装束の与茂七 (塩冶義士という肩書き)はやはり「デウス・エクス・マキーナ」なのです。
だから、「東海道四谷怪談」・「盟三五大切」において鶴屋南北は「忠臣蔵」を批判し否定し笑い飛ばしているとは私は思えないのです。それはお芝居の「納まるべき世界・落ち着くべき世界」を示しているのです。
この世界の転換の妙味は、舞台において廻り舞台がググッと動き出す瞬間の感覚によく似ています。源五兵衛が「こりやかうなうては叶うまい」と言うと、観客の感覚は混乱するでしょう。なぜ 「叶うまい」なのだ・・・何がどうなったら「叶う」というのだ・・・こんな非情で理不尽で身勝手な台詞はないと憤るかも知れません。その憤りは大事です。この憤りを大事にしなければなりません。これこそ世界の転換がもらたすものなのです。
しかし、お芝居のなかでは「叶ってしまう」のです。「叶わなければ終われない」のがお芝居であります。こうして「今日もまたこのようになりしかな」。これがお芝居というものなのです。
(H15・8・3)