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吉之助流「歌舞伎の見方」講座

第26講:見ていない舞台の劇評こそ読むべきこと


芝居を見れば、その時の感動を何かで確かめたくなる、或いは誰かと共有したくなる、そう云うことで、新聞や雑誌で劇評を読む・或いはインターネットで劇評を検索してみることも多いと思います。吉之助は理由あってこれを「観劇随想」と呼んで・「劇評」と位置付けしていませんが、本サイトを訪問くださるお客様もやはり直近の芝居のことが気になられるようで、吉之助の観劇随想 でも直近の記事の閲覧が圧倒的に高いようです。これはごく自然のことで、だから吉之助もサイトのアクセスを高める為に、直近の芝居の記事を書くのを心掛けるようにしています。ただし自分の歌舞伎の見方を深めたいと思っている方には、自分の見た芝居の劇評を読むのも結構ですが、むしろ見てない舞台の劇評・できればずっと昔の劇評を読むことをしていただきたいと思いますねえ。

「見てない舞台の劇評」と云うと、見てない舞台など自分にはイメージが出来ないし、ましてや劇評家が書いていることを信用して良いかも判断出来ないし、そんなもの読んでも仕方がありません」と仰る御方が少なくないようです。しかし、そう仰る御方は、自らの想像力を駆使して 劇評を読む努力をしてないのです。見てない舞台の劇評を読む時には、読み手は想像力をフルに働かせなくてはなりません。読み手は書き手(劇評家)の目(フィルター)を通して、その舞台を見る(読む)のです。これは劇評でなくとも、小説を読む時であっても同じことではないでしょうかね。大事なことは、「この人が素晴らしいと書くのならば、その舞台は、その役者は、どんなに素晴らしかったのだろうか」と想像ながら劇評を読むことです。

明治の芝居を生(なま)で見た遠藤為春は「(九代目)団十郎の助六は良かった・今の役者は誰も団十郎の足元に及ばない・それはもう大変な違いだ」とそれしか言いませんでした。どこが良かったとか、ここが違うとか具体的なことは指摘しないで、ただ「違う、全然違う」だけ。こう云うのをせせら笑っているようでは、歌舞伎の見方が深くなることは絶対ありません。「これは違う」と叫ぶだけで、古老はその役目を十分果たしているのです。「生で団十郎を見た人がそう言うのだから、きっとそうなのだろう、言うことは一応聞いておこう、それにしてもそんなに素晴らしかった団十郎の助六とは一体どんなものだったのかな?]と考える方だけが、芸談や劇評から果実を得ることが出来ます。ましてや少しでも具体的なこと、思索の手掛かりになるヒントをちょっとでも書いてくれている劇評があれば、なおさら有難いことです。

昔の劇評など古い雑誌「演劇界」のバックナンバーなどで古書店で探さないと手に入るものではないですが、面白そうな記事があれば、是非読んでみれば良いと思います。昭和30年〜40年代の「演劇界」は、芸談も豊富であるし、この頃はまだまだ個性的な書き手が揃っていましたから、とても興味深いです。またこれも古書店で探さなければなりませんが、国立劇場が上演の度に発行している上演資料集に収録されている劇評は、関連資料も整理されているので、これはとても効率が良いです。そのなかで「この人なら自分のセンスに近そうだ、この人の書くことなら信じられる」と思える劇評家が見つかれば、その方を自分の師匠とすれば良いと思います。そこから見方を拡げて行けば宜しいでしょう。

このところ吉之助も過去の舞台映像を見直して観劇随想を少しづつ増やすことをしていますので、過去の観劇随想も併せてご覧ください。劇評は、見ていない舞台の劇評こそ読むべきこと。これを読んで想像して楽しめば、見てない舞台も見たようなものです。

(H30・11・29)


 

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