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吉之助の音楽ノート

ブルックナー:交響曲第9番(SPCM・第4楽章完成版)


1)ブルックナー:交響曲第9番・第4楽章完成版のこと

何だかとりとめのない話になりそうですが、そのうち伝統芸能に関連した話に展開して行くかも知れません。吉之助はクラシック音楽を聴いても、いつもどこかで伝統芸能との関連で聴いております。

先日(6月7日)池袋・東京芸術劇場にて、エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団により、ブルックナー:交響曲第9番・第4楽章完成版(SPCM版)・日本初演を聴いてきました。ご存じの通り、ブルックナーは9曲の交響曲を書きました。しかし、最後の第9番は作曲者の死(1896年・72歳)により完成に至りませんでした。このため現在は作曲者が書き上げた第3楽章アダージョまでを演奏し・これで曲を終えるのがほぼ通例となっています。言い換えれば、我々は無意識のうちに交響曲第9番を「三楽章構成の交響曲」として受け入れてきたのです。もちろん吉之助もそうです。

*SPCM版とは、この版の校訂に関わった4人の研究者(サマーレ、フィリップス、コールス、マッツーカ)の頭文字を取ったもの。

まあこれは仕方ないことであり、我々はシューベルトの第8番「未完成」(新全集では第7番なんだが・吉之助は古い人間なんで・この曲は第8番なのです)でも「この曲は二楽章で途切れる」と思って聴き、この曲が終わらざるが如く・シューベルトの思いも尽きることはないなどと思ったりするわけです。そうすると何だか曲が大いなる余白を伴った古典的な佇まいに思えて来ます。ブルックナーの交響曲第9番にも同じようなところがあって、第3楽章アダージョまでで聴き終えると、ゆったりと大きい静かな旋律で締められるので、何だか老ブルックナーが最後に到達した彼岸の境地を聴かせてもらったような気分になります。そこに深い味わいを感じるわけで、だから本曲は初演(1903年)以来世間にほぼ「(余白を伴った)三楽章構成の交響曲」みたいな感じで聴かれて来て、吉之助もまた同じような聴き方をしてきたわけです。この聴き方で素晴らしい演奏と感じたものはいくつも思い出せます。

しかし、実際にこの曲を聴きながらしばしば感じることですが、ブルックナーの第9番はなかなか奇怪な交響曲で、この曲をこれまでの第7番・第8番の交響曲からの延長で捉えようとすると、「エエッ?」と驚くような瞬間が随所に聴こえるのです。ブルックナーは敬虔なカトリック信徒であり、彼の音楽はほとんど「神への感謝・神への讃美」を告白するものだと言って間違いはないと思いますが、そこへ行くと、第9番の交響曲はちょっと趣きが異なります。これを神への「懐疑」と言い切ってしまうと、語弊がありそうです。ブルックナーに限ってそんなことはあり得ないのだが、それでも「神よ、ホントにこれで宜しかったのでしょうか?」という疑問が作曲者の内面にフツフツ湧いて来て仕方がないと云う感じなのです。第9番では、急に足元がパックリと割れて・そこから暗黒の世界の奥底が見えるみたいな瞬間が聴こえます。このような場面は第7番・第8番には見られないものです。これこそ第9番でのまったく新しいブルックナーの展開と言えます。これが19世紀末の時代の気分から来るものか、死が近いことを意識した老ブルックナーの心境から来るものかについては、これもいろんな議論が出来ると思います。

従来の「(余白を伴った)三楽章構成の交響曲」の聴き方であると、そのような暗黒の・デモーニッシュな瞬間が随所にあったとしても、最後の第3楽章アダージョの最終和音に清められて、「いろいろ迷い・葛藤はあったけれど・最終的には落ち着くべき所に落ち着いたなあ」というところで静かな感動に至るわけなのだが、果たして第9番はこの聴き方で宜しかったのであろうか?それは、決してこれまでの聴き方が間違っていたと云うことではなく、第9番を別の角度から見直した新鮮な驚きがそこにある、かも知れない。そこから新たな発見がある、かも知れない。まあそんなことを思うわけです。今回のSPCM版初演は、そんなことを考えるいいきっかけを与えてくれました。(ここまでの考察は芝居のバランスに関連すると云えますね。)(この稿つづく)

(R6・6・10)


2)アフタートークでのフィリップス氏のお話のこと

ブルックナーが亡くなった時(1896年)交響曲第9番は第3楽章までが完成しており・第4楽章はスケッチのまま未完成で遺された、と我々はずっとそう思っていたわけです。しかし、その後の綿密な調査によれば、かなりの量のメモや草稿が見つかっており、作曲の素材としては十分な量があるようです。作曲者の厳密な音楽理論に基づき・これらの断片を再構成してオーケストレーションを施して行くならば、第4楽章の復元は「想像されるよりもはるかに主観的な作業とはならない」(最終校訂者であるフィリップス氏の言に拠る)のだそうです。(この点は本年2月22日に同じくインバル指揮都響で聴いた・マーラーの未完で終わった最後の交響曲(第10番)の復元完成版の経緯と、事情はほぼ似たような感じに思われます。)とは云え、出来上がった交響曲でさえ作曲者自身が何度も手直しを続けて、幾つも版が存在するブルックナーのことですから、絶対的な正解はあり得ないわけですが、兎にも角にもその研究成果を聴くのは貴重な体験です。

完成された第4楽章は、第3楽章アダージョで作曲者がたどり着いた(結論であると我々が信じていた)境地をぶち壊して(という風に感じましたが、こういう展開になると思いませんでしたねえ)さらに魂が不毛の荒野を彷徨うが、最後の最後に救済されると云う感じでしょうかねえ。もしかしたら第3楽章までとオケの響き(というか感触)に若干の差があるようにも感じました(第4楽章の方が響きが鋭く感じられた)が、それがオーケストレーションから来るのか、今後演奏を繰り返すなかで練れてくるのかは分かりませんが、従来の三楽章観念に染まった聴き手に対して、第4楽章はかなり挑戦的に迫って来るなあと云う印象でありましたねえ。なかなかスリリングな体験であったと思います。

*アフタートークでのインバル氏(左)とフィリップス氏(右)

演奏後にアフタートークがあって、SPCM版の最終校訂者であるフィリップス氏の話も聞けたのですが、ブルックナーが亡くなる2年ほど前であったか・もはや第4楽章完成までの十分な時間が残されていないことを悟ったか・もし交響曲第9番が完成しなかった場合は合唱曲「テ・デウム」を第4楽章として演奏して欲しいと語った逸話を引用して、フィリップス氏が、この逸話は「ブルックナーがこの交響曲の演奏を第3楽章で終えてはならないと考えていたと云うことだと私は思う」と語ったことに強い感銘を受けました。

何と言いますかねえ、ブルックナーさんが「この交響曲を第3楽章で終わらせないでくれ」と言ってるのだから私はその実現のために第4楽章復元作業を続けて来ただけなのですとフィリップス氏が語ったわけではないのだけれど、吉之助にはそのように聞こえたのですがね。SPCM版・復元チームが40年を越えて作業を続けてきた動機はホントに純粋無垢なものだったのですね。ブルックナーのために遺された草稿・メモを徹底的に調べ上げる、ブルックナーならばこのように考えただろうかと・思考プロセスを何度も虚心に試行錯誤する、そのうちにこれがブルックナーだというものが脳裏に浮かびあがってくる、フィリップス氏はそれをスコアに書き留めただけ、まあそう云うことだったのだろうと思いました。そのために40年の作業を続けてきたわけです。

これは先達の型を自分のなかに落とし込み・これを自分のものとして再構成して演じる伝統芸能の作業と、何の違いがありましょうか。

(R6・6・14)


 

 

 

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