吉之助の音楽ノート
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調・作品15
先日NHK教育テレビで「スーパー・ピアノ・レッスン〜アンドラーシュ・シフと挑戦するベートーヴェンのピアノ協奏曲」の再放送(初回放映は2008年)がありまして、これを見ました。現代を代表するベートーヴェンの解釈者のひとりであるシフのレッスンを体験できる貴重な機会です。シフは巧みな 比喩とユーモアを交えながら指導を展開して、その指導を通じて5人の生徒さんの表現が深みと幅を増していくのがその場ではっきりと 確認できるのはとてもエキサイティングでした。興味深かったのは、ベートーベンと先行作曲家であるモーツアルトとの関係を意識すべきであることをシフが盛んに強調していたことです。
例えばピアノ協奏曲・第1番・ハ長調の第3楽章は軽快なロンド形式ですが、終盤近くに軽やかに駆け上がる短い楽節(パッセージ)が現れます。この箇所を生徒さんが弾いたのを「そこはちょっと変えてみよう」とシフが止めて、「この楽節はどこから来たのかな?」と言いながら自ら弾いて見せたのですが、それは何と歌劇「魔笛」のアリア「私は鳥刺し」でパパゲーノが吹く笛(パンフルート)の旋律でした。会場は爆笑でしたが、吉之助もひっくり返りそうになりました。「そう、ここはパパゲーノみたいに弾いてください」とシフは生徒さんに言いました。このおかげでこの箇所はとっても素敵になりました。吉之助はここでハタッと考えるわけですが、そもそもベートーヴェンはこの箇所でホントにパパゲーノをイメージして作曲したのであろうかということです。それともシフは軽やかでおどけた感じを出したい為に比喩としてパパゲーノを出したまでのことでしょうか。そもそも一小節足らずの・さりげない楽節に、突然モーツアルトが出てくる必然があるのでしょうか。
結論から書きますと、シフが指摘する通り、この箇所を書く時にベートーヴェンの頭脳にパパゲーノの旋律が何かの作用をしたことは確かだろうと吉之助は思います。これは演奏者としてのシフが長年の体験のなかで掴み取ったものです。ただし恐らく文献的には証明できないことで、何の根拠があるのかと問われれば・演奏すれば直感でそう分かるとしか言えないもの かも知れません。しかし、吉之助もシフの指摘するところは確かにその通りだと信じます。このような現象は引用とか・ましてやパクリというレベルのものではなくて、意識の深層において材料が浮かび上がってきて旋律のなかに取り込まれることで起こるものです。これは高次元なレベルの創造の現象なのです。このような現象が 起こることを承知していれば、現代の我々がベートーヴェンの創造の過程を追体験することもできるわけです。
芸術家は自分の体験や生活のなかから作品を捻り出しますから、その材料は常に彼の人生にまつわる過去に負っているわけです。そんななかから作品は生み出されるのですが、その場合過去の素材は引用されるわけではなく・と言って暗喩として使用されるというのでもなく、その作品のなかの固有の要素として再生するわけです。近年は著作権というのがうるさく言われますから、「アイツは俺の作品をパクッた」・「いやこれは俺のオリジナルだ」というトラブルがよく起こります。これは場合によりますが、判断がつかないことがしばしばです。というかそこら辺の境目はとても 曖昧なものです。また多少はそういうことを認め合う度量の大きさがないと、創造活動は枯渇するということがあると思います。ともあれ前述ベートーヴェンのケースは著作権に触れることはないと思いますが、シフが指摘するところはベートーヴェンの頭脳にパパゲーノのイメージが触発して・そのイメージがこの楽節を書かせたということであって、シフはこれを引用であるとか・暗喩であるとか言っているわけではありません。ここが大事な点です。それは楽譜自体が教えるものだという ことです。
ところで現代の芸術作品の基本的な態度は原典主義ということです。つまりそれは音楽であるならば・作品のすべては楽譜に書かれている・だから楽譜を忠実に読み込んでいくことですべてが得られるという考え方です。これが現代の芸術解釈の基本的な態度です。シフの教えるところはとても素直なものです。ベートーヴェンの作品のさりげない楽節のなかに過去の偉大な作曲家たち(バッハ・ハイドン ・モーツアルトなど)の成果が踏まえられており、そこに気をつけて楽譜を見ていけばホラこんなところにモーツアルトが・・バッハが顔を覗かせているじゃないか。しかし、見てごらん、それらはベートーヴェンが しっかりと楽譜に書いていることなんだよということです。だから君たちは謙虚に楽譜に向き合わねばならないのだよとシフは若いピアニストたちに教えるのです。シフはベートーヴェンの楽譜にメスをいれて・その切り口からパパゲーノの旋律を取り出して見せたわけではありません。このふたつの手法の違いをはっきり認識することが非常に大事になりますね。
(吉之助の好きな演奏)
この曲にも優れた演奏は数多いですが、思い浮かんだのをふたつ挙げておきます。ひとつめはエッシェンバッハとカラヤン指揮ベルリン・フィルとの録音(独グラモフォン・1966年)。もうひとつはブレンデルとラトル指揮ウィーン・フィルとの録音(EMI・1997年)。 どちらもみずみずしい若さに溢れた表現が魅力的だと思います。