吉之助の音楽ノート
ヴェルディ:歌劇「オテロ」
歌劇「オテロ」を作曲中のヴェルディは登場人物のイヤーゴに魅了され、歌劇のタイトルを「イヤーゴ」に変えようかと真剣に思い悩んだそうです。 ヴェルディが作曲をしながらイヤーゴという人物にゾクゾクしていたらしいことがこの曲を聴くとよく実感できます。特に第2幕の「クレド(イヤーゴの信条)」から「カッシオの夢」・そしてオテロとの二重唱に至るまではイヤーゴのギラギラした悪魔的な魅力に満ちています。「クレド」は こんなに無神論的で・虚無的な歌詞がと驚くほどで音楽も実に刺激的です。オテロを一気に追い詰めていく迫力でも歌劇はシェークスピアの原作をはるかに凌駕していると思います。ここでのオテロはイヤーゴの仕掛けに波の上の木の葉のようにただ翻弄されるばかりです。(注:「オテロ」はオセロのイタリア語表記です。)
吉之助がシェークスピアの戯曲「オセロ」の舞台を初めて見たのは昭和52年4月新橋演舞場でのこと(二代目松緑のオセロ・初代辰之助のイヤーゴ・玉三郎のデズデモーナ)でしたが、こ の舞台は辰之助の演技がシャープで見事であったこともあって・圧倒的にイヤーゴの印象が強いものでした。この時もこの芝居の本当の主役はイヤーゴじゃないかと感じましたが、それにしても最終場面でイヤーゴの存在感がまったく消し飛んでしまうのが・これは戯曲の弱点じゃないかと・これがずっと吉之助のなかで引っ掛かっていたことでした。ヴェルディの歌劇の方でもこれは同じで・第4幕でイヤーゴはまるで精彩がなくなってしまいます。
しかし、今では戯曲でも歌劇でも・やはり最終的にオセロが主役であって・イヤーゴではあり得ないと思っています。最終場面のオセロの独白(歌劇では第4幕「オテロの死・私を恐れることはない」)を聞けば、すべて吹っ飛んで・やはりこの芝居は「賢明ではなかったが・深く愛しすぎた男・オテロ 」の悲劇であることが実感されます。しかし、まあ、最初はイヤーゴの虚無的・悪魔的魅力の方にどうしても関心が行くものです。とは言え最後の場面でイヤーゴにオセロに対する「敗北宣言」であれ・あるいは悪態であれ・何か長台詞を聞きたいという誘惑が依然として 吉之助のなかにないわけではないのですが、このドラマを「オテロの愛の悲劇」で終わらせようとするならば・多分それは余計なことなのです。
そういう観点から「オテロ」を愛の悲劇に一貫させようとすると、昔はイヤーゴは悪人風で・いかにも腹に一物ありそうな風貌の人物に仕立てられたものですが、ちょっと見が善人風の優さ男・声質としては明るめのバリトンを持って来て・逆にオテロの方は声質がやや暗めで・容貌もやや地味めの風貌を持っていく方がバランス上よろしいようです。カラヤンが「オテロ」の二回目の録音( 1973年・英EMI録音)で・オテロに声が暗めのヴィッカースを起用し・イヤーゴに声が明るいグロソップを起用したのは、その意味で納得できる配役でした。この録音は第4幕が深く感動的で・ このフィナーレに向かってそれまでの幕があるという位置づけが明確であったと思います。しかし、その分、第2幕・第3幕は意識的に重めに抑えられたという印象がありました 。
ここが難しいところです。吉之助自身は実は「オテロ」は時間ない時は・いけないことですが・第2幕・第3幕だけを抜き出して聞くことが多いからです。それならば同じカラヤン指揮なら・やはり第1回目の録音(1961年・英デッカ録音)のデル・モナコのオテロ(こちらは声が明るい)とプロッティのイヤーゴを聞くということになります。実際、こちらの方が興奮度は高いですから。だから「オテロ」の場合はどの場面に比重を置くかで聞く演奏は変ります。完璧なバランスの演奏は「オテロ」ではなかなか難しいという気がします。
話を元に戻しますと、戯曲でも歌劇でも・このドラマをオテロを主役としてみるのが結局「正しい」のですけれど、イヤーゴという人物があまりに刺激的なので・こっちの方に重点を置いてみたくなる・そういう誘惑がどうしても残るのです。いずれにせよ「オテロ」を古典的な感動に収束させるのがオテロであり、これをバロック的に引き裂こうとするのがイヤーゴなのです。そこが一貫したドラマとして見た場合の「オテロ」の弱みと言うべきか ・矛盾と言うべきか・あるいは多様性と言うべきか。まあ、傑作というものはどんな読み方にも耐えるということなのかも知れません。
(吉之助の好きな演奏)
まず第1に挙げるべきは、上記で触れたカラヤン指揮ウィーン・フィル、デル・モナコのオテロ、プロッティのイヤー ゴ、テバルディのデズデモーナという豪華組み合わせによる英デッカ録音です。
*ヴェルディ:歌劇「オテロ」 (1961年録音)
マリオ・デル・モナコ(オテロ)、アルド・プロッティ(イヤーゴ)
レナータ・テバルディ(デズデモーナ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団カラヤンの「オテロ」の映像では、これは舞台収録ではないですが、ヴィッカーズのオテロとフレー二のデズデモーナによる映像も素晴らしいものです。
*ヴェルディ:歌劇《オテロ》 [DVD] (1973年収録)
ジョン・ヴィッカース(オテロ)、ピーター・グロソップ(イヤーゴ)
ミレルラ・フレーニ(デズデモーナ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
次にスカラ座での「オテロ」初演時にチェロ奏者でこれに参加して作曲者からの直接アドバイスも受けたトスカニーニの指揮によるNBC響のRCA録音が外せません。オテロはデル・モナコ以前の最高のオテロ歌手ヴィナイです。ライヴで聞いたものでは、来日公演でのクライバー指揮ミラノ・スカラ座とドミンゴのオテロも素晴らしかったですね。
それとDVDですが、 最高のオテロ歌手デル・モナコと・これも恐らく最高のイヤーゴ歌手であるゴッビの共演が見られるNHKイタリアオペラ(1959年)の映像は素晴らしいですから是非機会あればご覧いただきたいと思います。こんな映像が残っているとは有難いことです。