吉之助の音楽ノート
ショスタコービッチ:交響曲第7番「レニングラード」
日本では芸術家は俗世から離れた人というイメージがありますが、外国の芸術家は積極的に自らの思想的・政治的立場を表明し・社会と能動的に関わっていこうとする方が少なくありません。個人が集団・社会との係わり合いのなかで生きており ・芸術も生活のなかから生まれてくるものですから、芸術も人々の生活のなかで生きて初めてその価値を発揮することが出来るわけで・それも当然のことです。しかし、それを現実に実践していくとなるとなかなか勇気の要ることです。例えばウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを主催するダニエル・バレンボイムがそうですが、近年目覚しい活躍を見せている北オセチア出身の指揮者ワレリー・ゲルギエフもそうした芸術家のひとりです。
2004年9月1日から3日にかけて・ロシア連邦北オセチア共和国ベスラン市の中学校でチェチェン共和国独立派の武装集団に占拠され・銃撃戦の末386人以上の人質が死亡・負傷者700人以上という大惨事となる不幸な事件があったことは記憶にまだ新しいところです。たまたまそのまさに同じ時にゲルギエフはウィーンでウィーン・フィルと演奏会を行っていました。その時のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」のライヴ録音が残されています。この母国での悲報にゲルギエフの心中が穏やかであろうはずがなく、その演奏は感情のうねりが大き く・悲痛さが聴き手に迫ってくる演奏でした。特に第4楽章は感情ののめりこみが強く、これは数ある「悲愴」の名演奏のなかでも印象的なものです。
本年(2008年)・ちょうど北京オリンピック開会式があった8月8日にロシア軍がグルジア領南オセチア自治州に侵攻した事件についてゲルギエフは早々とロシア支持を表明し、21日に南オセチアの首都ツヒンバリ市の州議会議事堂前の広場でマリインスキー劇場管弦楽団を率いて「グルジア紛争犠牲者追悼コンサート」を行いました。曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番からの第3楽章、ショスタコービッチの交響曲第7番「レニングラード」からの第1楽章抜粋ほかというものでした。爆撃 と火災で破壊されたと思われる議事堂の廃墟の前の広場でグルジアの市民やロシアの兵士を前にした演奏は全ロシアにテレビ中継がされました。吉之助はその映像をインターネットで見ましたが、これもゲルギエフの気迫がビンビンと伝わってくる演奏で圧倒されました。チェチェン紛争やグルジア紛争は複雑な背景があり・日本人にはその事情がよく分からないところがあり・ここではそのことに触れることはしませんが、ゲルギエフが演奏前のスピーチ(ロシア語・英語)で語ったことは「争いはよくない・平和を望む」ということであったのはもちろんですが、その主旨は平和を得るために我々は毅然とした態度で臨むということであり ・そのためにロシア支持の姿勢を明確に打ち出したことです。平和に慣れ切った日本人にはこれほどはっきりと政治的発言をして良いものかとドキッとするところがあったのも事実です。ただ日本人が想像する以上に向こうの状況が切羽詰っているらしいことは・会場に詰め掛けた市民の何かを求めるような不安げな表情からも伺えました。ツヒンバリでの「レニングラード」の演奏は第1楽章だけで ・しかも提示部をカットした簡略版でしたが、ボレロ風に展開する戦争の主題がこれほど醒めた怒りで演奏されたのを聴いたことはありませんでした。ショスタコービッチは「証言」において次のように語っています。
『第7番がレニングラード交響曲と呼ばれるのに私は反対はしないが、それは(ドイツ軍)包囲下のレニングラードではなくて、スターリンが破壊し・ヒトラーが止めの一撃を加えたレニングラードのことを主題にしているのである。私の交響曲の大多数は墓碑銘である。わが国ではあまりにも多くの人々がいずことも知らぬ場所で死に、誰ひとり、その縁者ですら、彼らがどこに埋められたかを知らない。私の多くの友人の場合もそうである。メイエルヒリドやトゥハチェフスキイの墓碑をどこに建てれば良いのか。彼らの墓碑を建てられるのは音楽だけである。犠牲者のひとりひとりのために、私は作品を書きたいと思うのだが、それは不可能なので、それゆえ私は自分の音楽を彼ら全員に捧げるのである。私は絶えずこれらの人々のことを思い出し、ほとんどすべての大きな作品のなかで、彼らのことを他の人々に思い出させようと試みている。』(ヴォルコフ編:「ショスタコービッチの証言」・中公文庫)
ヴォルコフ編の「証言」については未だに真贋論争がありますが、このゲルギエフの演奏を聴くと部分的に編者ヴォルコフの潤色があったとしても・大方においてショスタコービッチの発言はその通り記録されている と感じます。ゲルギエフのツヒンバリでの演奏では戦争の主題のリズムのなかでショスタコービッチの祈りが怒りのように強い調子で鼓動するように感じられました。「私の交響曲は墓碑銘である」というショスタコービッチの言葉が突き刺さるように聴き手に強く伝わってきました。 それは特定の人物や集団をイメージする必要はないことで、純粋に我々の尊厳や・平安を求める気持ちを踏みにじるものに対する強く・そして静かな怒りなのです。
ゲルギエフは2001年9月にマリインスキー劇場管(当時はキーロフ歌劇場管と称していました)とロッテルダム・フィルとの合同オケによりこの交響曲を録音しています。ツヒンバリでの演奏のように聴き手にビンビンと突き刺さってくるような感じ のものではなく、むしろ静かで染み入るような深い叙情性を追及した抑制された感じの演奏でで、特に第3楽章の深い祈りの感情が特に印象的なものでした。同じ頃にキーロフ歌劇場管とNHK交響楽団が合同で東京で演奏した「レニングラード」も負けず劣らず素晴らしいものでした。
もうひとつ「レニングラード」で重要な演奏は、「証言」のなかでは自分の音楽を全然理解していないとショスタコービッチからボロクソに言われていますが・ショスタコービッチの演奏史ではこれを抜きにして語れない 指揮者ムラヴィンスキーがレニングラード・フィルを指揮して録音した演奏です。モノラルですが・締まった響きが素晴らしく・これもこの交響曲の本質を突いた演奏であると思います。