吉之助の音楽ノート
マーラー:交響曲第9番
芸術家と言うと日本では世間知らずで・芸道だけに精進しているようなイメージがあって、多少不祥事を起こしても「芸阿呆」で許されちゃうみたいなところがありますが、本当の芸術というのは時代・社会・生活の関連のなかで生まれてくるものです。そのようなことから外国の芸術家は積極的に自らの思想的・政治的立場を表明して、社会と能動的に関わっていこうとする方が多いようです。そのなかでも優れた指揮者であり・ピアニストでもあるダニエル・バレンボイムの活動は際立っています。バレンボイムのそうした政治的活動はイスラエルと・パレスチナやその周辺のアラブ諸国の若手音楽家たちを集めて・合宿レッスンを行い、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを組織するなどの活動に象徴されます。それは「音楽は国境を越える」などという甘っちょろいお題目と違って、もっと切実に・現実的に世界と対峙しようとする芸術活動なのです。またパレスチナ出身の哲学者エドワード・サイードとの対論(「音楽と社会」・みすず書房)は音楽論としてだけでなく思想的にも重要なもので、興味ある方には是非お読みいただきたい本です。
バレンボイムは非常にレパートリーの広い指揮者ですが、これまでマーラーへの取り組みは慎重すぎるほど慎重で・まだその作品の多くを取り上げていません。(ピアニストとしてはF=ディースカウとの歌曲全集の素晴らしい録音があります。)ユダヤ系であるバレンボイムにとってマーラーが重要な作曲家でないはずがなく・むしろマーラーが最もユダヤ的な作曲家であるゆえに意識して遠ざけて来た感じがはっきりありました。しかし、ここに来てバレンボイムはいよいよマーラーに本格的に取り組む決意をしたようで、最近は交響曲第7番・第9番を頻繁に指揮しているようです。吉之助は2003年10月24日のシカゴ響との来日公演で・バレンボイムが指揮するマーラー第9番を聴きました。確かにダイナミックで見事な演奏でしたが、まだどことなく曲にのめり切れない迷い・ためらいのようなものが感じられた演奏でした。
しかし、今回、2007年3月20日のベルリン・フェスト・ターゲで、ベルリン・シュターツカペレ(国立歌劇場管弦楽団)を振った第9番の録音を聴きますと、その迷いが完全に吹っ切れたようで・確信を以って歩みを進める素晴らしい演奏に圧倒されました。ここでのマーラーは当然ながらのめり込みの強い表現になっています が、しかし、それはバーンスタインのマーラーのような没我的なのめり込みではなく、むしろ逆にバレンボイムは理性的なのです。バレンボイムは感情の揺れ動きと冷静に対峙して現代にマーラーを演奏することの意味を再確認しているかのように思われま す。例えばリズムに細かく緩急や強弱をつけて・リズムをプッシュするように聴き手を急き立てていく。あるいは響きのブレンドを粗くして 聴き手の耳に刺激的な・ある意味で不快な響きを意識して作って、聴き手に仕掛けていくのです。この表現が特に中間二楽章で生きてきます。(まさにここの部分が2003年のシカゴ響との演奏で物足りなかったところでした。) いろんな発見が随所にあります。これは第9番の数多い名演の演奏のなかでも・傑出した出来だと思います。
(H19・6・8)
○バレンボイムのマーラー第9:その2
サイードはバレンボイムとの対談(「音楽と社会」)のなかで、1999年に開始されたウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの最初のワークショップでの印象的な光景を回想しています。バレンボイムの指揮でベートーヴェンの交響曲第7番のリハーサルをした時のこと。第1楽章の最初の方でオーボエの駆け上がる音階をエジプト出身の奏者が軽やかに奏でるのを聴いて、イスラエルの音楽家たち(ユダヤ系には伝統的に優れた弦楽奏者が多い)が一斉にハッと驚いた表情をして彼の方を 振り返って見たというのです。イスラエルの音楽家たちはパレスチナやカイロに自分たちと同じ音楽を奏でる音楽家がいるなどということを・これまで想像だにしていなかったのです。サイードは「(このことに気付いた以上)この子供たちが、あるものから別のものへと変化してい くことは基本的に止められないことだ」と言っています。これに対しバレンボイムは次のように返事をしています。
『僕を驚かせたのは「他者」についてどれほどの無知が横行していたかと言うことだ。(中略)彼らは同じ音を・同じ強弱で・同じボウイングで・同じ響きで・同じ表現で演奏しようとしていた。一緒に何かをやろうとしていた。ただそれだけのことだった。ふたりが共に関心を持ち、情熱を燃やしているものを、一緒にやろうとしていたのだ。そのたったひとつの音を達成してからは、彼らはもうお互いを前と同じようには見ることができなかった。共通の体験を分け合ったからだ。これこそが出会いの大切さだと思う。』(ダニエル・バレンボイム:「音楽と社会」)
もちろんこの出会いだけですべてが解決したわけではありません。イスラエルとアラブの若い音楽家たちは一緒に生活して・音楽を学びながら、少しづつ緊張を解いて・対話のきっかけを見出していきます。ワークショップでは時に真っ向から政治的な議論をたたかわせる場も設けられています。そうやって、自分たちがどこから来て今まで何を考えていたのか・どうして我々は今ここにいて一緒に音楽をすることに何の意味があるのか・これまで自分たちが感じていた相手との「違い」とは一体何だったのか・この後自分たちはどこへ帰らなければならず何をしなければならないかを彼らはずっと合宿の間中自問自答を続けます。その間にも故国で同胞たちは憎みあい・殺し合いを続けているのです。こうして育まれた彼らの友情は・ピリピリとした痛みと・胸の奥底に重く淀む憤りを伴ったものとなっていくのです。バレンボイムのマーラーを聴くと、そのピリピリした痛みと・やりきれない憤りがそこに反映していることが分かります。バレンボイムのマーラーの感触はザラザラしています。しかし、そこにあるのは決して絶望ではありません。
もうひとつバレンボイムの最近の演奏活動のなかで重要なものに、2004年にベルリン国立歌劇場で新演出されたシェーンベルクの歌劇「モーゼとアロン」が挙げられます。演出家ペーター・ムスバッハは「神と民衆との在り方」を主題とした作品を「信じさせようとすること、信じようとすること」と読み替えて、現代における個人と社会の問題として斬新な舞台を作り上げました。ご興味ある方はこのサイトに動画がありますから・その映像を是非ご覧下さい。舞台は金の子牛の像が巨大な人物像に置き換えられ、その前年(2003年)の湾岸戦争のフセイン政権崩壊の光景を思わせます。登場人物は映画「マトリックス」みたいに背広にネクタイ・髪を撫で付け・サングラスといういでたちで「スターウォーズ」さながらライト・サーベルを振り回すといった具合です。アロンとの論争に負けたモーゼは「おお、言葉だ・言葉、私に欠けているのはお前なのだ・・」と言って崩れ落ちます。シェーンベルクの音楽は耳に優しい音楽では全然ありません。聴き手に突き刺さるような・キリキリとした痛みを伴う音楽です。シェーンベルクの「モーゼとアロン」はユダヤ人たちがナチスに追われてドイツ・オーストリアからの亡命を余儀なくされた時期に作られた音楽なのです。
実は吉之助はシェーンベルクをずっと喰わず嫌いでおりました。吉之助にとってのシェーンベルクは後期ロマン主義の残渣が濃厚な「浄められた夜」までがせいぜいの領分で、十二音音楽は ずっと理解の外でありました。しかし、今回バレンボイムのマーラーを聴いて・マーラーにシェーンベルクの「モーゼとアロン」と同じ響きがあるのにハッとしました。ここにはピリピリとした痛みと・胸の奥底に重く淀む憤りを伴った・しかし 決して絶望ではない何ものかがあるのです。マーラーの延長線上にシェーンベルクの音楽があることを明確に意識させられました。これでやっと「モーゼとアロン」が分かる・・という確信が持てました。本年(2007年)秋のバレンボイムとベルリン国立歌劇場の来日公演が楽しみになってきました。
(H19・6・8)
(吉之助の好きな演奏)
マーラーの音楽はロマン派音楽の到達点(完成ということではなく・行き着くところまで行ってしまったという意味での到達点)と見ることもできるでしょうし、その後の現代音楽(特に新ウィーン音派の12音音楽)の萌芽・出発点と見ることもできると思います。マーラーの交響曲第9番で・シェーンベルクの音楽に通じる要素を感じさせる演奏をもうひとつ挙げておきます。 カラヤン指揮ベルリン・フィルの1982年9月20日のベルリン芸術週間のライヴ録音(独グラモフォン)です。
カラヤンのマーラーの演奏は他の交響曲の場合でもそうですが、端正な流れの音楽のなかに・感性がふっと揺らぐのが感じられる瞬間があります。弦の音色が微妙に揺らぐ瞬間に一瞬音楽が調性を喪失して・無調の方にふっと浮き上がるような感覚があるのです。それは例えば第4番の第3楽章であり、第5番の第4楽章アダージェット、あるいは第6番の第3楽章であったりします。第9番で言えば・そういう瞬間が第1楽章あるいは第4楽章にあります。カラヤンのマーラーを聴くと、その瞬間に吉之助はいつもシェーンベルクの「浄められた夜」を思い出します。(ちなみにカラヤンの指揮する「浄められた夜」はこれも驚異的な名演であります。)その瞬間に調性の枠組みのなかに留まろうとしながらも・否応なしに無調の方に引かれていくような瞬間があるのです。言い換えますと・正常な感性のなかに留まろうとしながらも・狂気に引きずりこまれていくような 崩壊の予感(恐れ)があるのです。これがカラヤンの音色の魔術です。 昨今はマーラーの交響曲は人気ですから誰でも頻繁に演奏をしますけれど、こうした瞬間をマーラーの交響曲で感じさせる指揮者は本当に少ないです。これは音楽の足取りが正確に取れているからこそ起こせる魔術です。カラヤン以外ではアバドかインバルくらいのものというのが吉之助の印象です。上述のバレンボイムの演奏は音色の揺れではなく・むしろリズムの揺れという カラヤンとは別の角度からマーラーの革新性に斬り込んだアプローチであり、吉之助にはとても新鮮に感じられて・教えられるところがとても多い演奏であったと思いました。
(H19・6・10)
(後記)別稿「芸術における善きこと」もご参照ください。
別稿「ハーディングのマーラー・第9番」を追加しました。